今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「犀星忌」室生犀星の忌日。

2006-03-26 | 人物
今日(3月26日)は、「犀星忌」。室生犀星(むろうさいせい)の1962(昭和37)年の忌日。
高村光太郎とともに口語自由詩を完成させたと言われており、現代詩人にも多大な影響を与えた小説家・詩人。
1889(明治22)年9月1日、石川県金沢市にて、加賀藩の足軽組頭を勤めた父と、同家の女中との間に不義の子として生まれ、生後まもなく、犀川大橋詰の雨宝院・住職、室生真乗の内縁の妻赤井ハツにもらい子にだされ、照道(てるみち)と名付けられる。 尋常小学校に入学後の7歳の時に、室生真乗の養嗣子となり、室生姓となる。
13歳 の時、義母に高等小学校を退学させられて地方裁判所の給仕として働き始める。ここで上司から俳句の手ほどきを受け、新聞への投句を始め15歳 の時に「北國新聞」に俳句が掲載され、その後、詩・短歌などにも手を染める。1910(明治43)年21歳の時文学で生きる道を志して初めて上京するが翌年生活に困窮して帰郷すぐまた再上京するなど上京、帰郷を繰り返しており、よほど、生活に困っていたようである。1913(大正2)年 北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』で詩壇に登場する。また、同じく無名時代の萩原朔太郎とも親交をもつようになり、抒情詩人として活躍をはじめた。そして、翌年、萩原朔太郎・山村暮鳥と雑誌を創刊。そして、1918(大正7)年、『愛の詩集』『抒情小曲集』を自費出版し、絶賛される。翌1919年(大正8)年 、初めての本格的小説「幼年時代」が「中央公論」に掲載され、作家の道へ。1934(昭和9)年 「あにいもうと」の連載開始を期に「詩よ君とお別れする」を発表するなど詩と決別しようとし、その後、 「戦死」(第3回菊池寛賞受賞)、 「性に目覚める頃」「杏っ子」など小説を多作する。1962(昭和37)年3月26日 肺癌の為に死去。<72>従四位に叙せられ、勲三等瑞宝章を贈られる。
「ふるさとに身もと洗はる寒さかな」(室生犀星)
私生児として出生し、生まれてすぐに犀川べりの雨宝院という寺の住職のところへ、もらい子にだされ、高等小学校も3年で中退させら、13歳で金沢区裁判所に給仕として勤めた犀星。恵まれない運命と貧しい生活の中にも、金沢という城下町は犀星に、不遇な境遇をのり越えて、俳句を学ばせ、文学への道を示し、詩、小説、随筆など多彩な文学を書かせた。筆名の犀星の「犀」は、犀川の「犀」。その川から不屈の精神を汲み上げ、「星」の字に象徴されるように偉くなりたいという上昇の願望から付けられたものという。
「美しき川は流れたりその畔りに我は住みぬ」の「犀川」の詩と、犀川中流の犀星碑にも刻まれた「杏よ花着け地ぞ早やに輝け」の詩にみられるように、犀川はまさに、彼の文学の源泉であった。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
室生犀星の初期抒情詩を集めた『抒情小曲集』の中の作品「小景異情(その二)」。
この有名なふるさとの詩からは、21歳のときに、文人を志し、故郷を捨てて東京に出たものの生活に困窮しては帰郷していた当時の心情が、痛いほどに感じ取れる。そして、又、そこには、犀星の故郷の山河に対する深い思いとともにそこに生活する小さな弱い生き物に対する慈しみの心が感じられる。
貧しくとも、不運に見舞われようとも、けなげに、真っ正直に、あるいは、しぶとく、たくましく生きてきた日本人。喜びがあり、悲しみがあり、希望があり、絶望があった。
かって、生まれ故郷を後にした多くの人にとって、故郷は記憶の中に生きる懐かしい山河であり、生活をした町の風景であった。世紀末の今、血縁の故郷は荒れ果て、山河は荒れ果て、かっての面影も消え行くばかりである。故郷は、いつか辿り着きたいと願いながら、決して、辿り着けない幻の世界になろうとしている。
以下では、室生犀星:作詞、磯部 俶(とし):作曲「ふるさと」の素敵な曲が解説付きで聴けますよ。是非、聞いてみると良い。
室生犀星:作詞、磯部 俶:作曲「ふるさと」
(画像は、愛の詩集―室生犀星詩集。角川文庫)
参考:
室生犀星記念館ホームページ
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/saisei/index.htm
室生犀星 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%9F%E7%8A%80%E6%98%9F
室生犀星
http://www.kanazawa-city.ed.jp/nomachi-e/saisei/saisei.htm
松岡正剛の千夜千冊『杏っ子』室生犀星
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0870.html
雨宝院(金沢) : 楽天トラベル
http://kanko.tabimado.net/resource/SHIS010087/
ふるさと
室生犀星(むろおさいせい):作詞  磯部 俶(とし):作曲
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/6654/hurusatomuroosaisei.htm

電気記念日

2006-03-25 | 記念日
今日(3月25日)は、「電気記念日」
日本電気協会が1927(昭和2)年9月に制定。
日本に電気のあかりが灯ったのは、1878(明治11)年3月25日の中央電信局の開業日であった。東京虎ノ門の工部大学校の学生たちが、イギリス人エアトンの指導のもとに、グローブ電池を使ってアーク灯を点じた。これは1808(文化5)年に、イギリスのデービーが、最初の電灯であるアーク灯を作ってから70年後のことであった。
日本電気協会HPによると、1878(明治11)年、工部省電信局が東京・銀座木挽町に電信中央局を開設した。中央電信局の開局祝賀会が虎ノ門の工部大学校(現在の東京大学工学部)で開かれ、開局祝賀会には、当時の大臣参議をはじめとする高官、各国公使などが次々と馬車で到着、2階の講堂に集まった。
そして、この日の会場に電気灯を用いるよう、伊藤博文工部卿から命ぜられていた英国人エアトンは、夕方6時、グローブ電池50個を使い、講堂の天井に備えられたアーク灯を点灯。
目もくらむような青白い光が、講堂をくまなく照らしだし、その夜の150余名の来賓たちに“不夜城に遊ぶ思い”と驚嘆の声をあげさせた。 これが、わが国ではじめて電灯が公の場所で点灯された一瞬だそうである。 この翌1879(明治12)年11月21日、エジソンが白熱電球を発明し、わが国にも輸入され、同19年には東京に電灯会社が生まれ、電灯に、動力にと、電気の時代が開かれた。
日本では江戸時代の灯りとして一般的であった菜種油による行灯から、明治になってより明るい石油のランプに代わり、1887(明治20)年頃にはランプが全国に普及していた。その後、ガス灯や電灯にとって代わられて行く。しかし、このような灯火の発展は、火災ともいろいろな面で関係し、業界間の熾烈な生存競争があったようである,。
1881(明治14)年10月、「国会開設の詔」が発せられたものの、議事堂建設は難航したが、財政難を理由に仮議事堂で急場をしのぐとされ、日比谷の内幸町に第1次仮議事堂が建設された。この木造洋風2階建ての仮議事堂は第1回帝国議会召集の前日、1890(明治23)年11月24日に完成を見た。ところが、第1回帝国議会開期中の翌1891(明治24)年1月20日未明、衆議院政府委員室から出火して貴族院にも延焼し、議事堂を全焼してしまった。
東京消防庁のHPによると、その時の出火原因について、時の衆議院書記官長は、「衆議院政府委員室の電灯管の熱度暴騰し、為めに発火し他の電管に移って竟に防火の手段なきに及べり」と、漏電による旨を議会に報告するとともに、官報号外をもって公示した。時あたかも、電灯が文明開化の波に乗って、華々しくデビューした時期であったから、直流方式の東京電燈会社と交流方式の大阪電燈会社が優劣論争を戦わせながら、市場獲得に躍起になっていた矢先のこと。電灯に対する一般人の理解も、ガラス球の中に火を閉じこめた程度のものであったことから、議事堂が漏電から全焼したと聞くと、たちまち点灯休止の申し入れが殺到した。
その時、待っていましたとばかりに、電灯の罪業を宣伝したのは石油販売会社で、当時の新聞に「流行物たる電気灯は、実に恐るべき功能を世人に識らしめたり、昨年は大阪に於ては人命を奪い、東京にては、当市の飾物たる鹿鳴館を焼かんとし遂には、今回は我神聖なる帝国議事堂を烏有に帰せしめしのみならず、緊急欠くべからざる議事をも妨げたり、嗚呼悲しむべし」と痛烈な広告を出したという。
そして、せっかく軌道に乗りかけた需要が、一時にドッと減った東京電燈会社は、漏電にあらずと主張して公示の訂正方を求めて、衆議院書記官長を告訴したが、敗訴するに至り、矢島作郎社長以下の全役員が引責辞職。窮地に追い込まれた電灯会社は、東京、大阪が共同防衛体制を整えねばならず、、事業の順調な発達を期するため、日本電燈協会を1892(明治25)年5月に設立させた。(明治28年5月、電燈協会は、「日本電気協会」と改称)
その後、1909(明治42)年には、石油ランプが出火原因となった、大阪北区の大火(大阪公設消防誕生のきっかけとなった火災)があった。そのため大阪府は「公衆の集合所はもちろん、燃えやすい物を取り扱う所では、ガラス壺のランプの使用を厳禁し、金属製のランプに替えるように」と命令を出したりした。そして、電灯会社は、このときとばかり「電灯は風が吹いても消えません。火事の危険もありません。また、ホヤの掃除がいりません」と宣伝につとめたそうだ。
明治の灯りをめぐっての広告戦争。今も昔も商売人は商魂たくましく、行動が早いね~。今の政治も機敏に行動して欲しいよ。
(画像は「電気記念日ポスター」日本電気協会 HPより)
参考:
日本電気協会
http://www.denki.or.jp/
ハンフリー・デービー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
[PDF] 波乱万丈ランプ変遷記
http://www.nelt.co.jp/information/pdf/LA/04P-09P.pdf
明治期の電気工学機器について
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/03/31300.html
国会議事堂の火災原因をめぐり宣伝合戦(東京消防庁<消防雑学事典>)
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_37.htm
電灯夜話
http://www.roukyou.net/dokkoisyo/uthumi/osakakonjyaku/066.html
ガス資料館ホームページ(東京ガス)
http://www.tokyo-gas.co.jp/gas_museum/index.html
国会議事堂案内:議事堂の歴史
http://www.sangiin.go.jp/japanese/taiken/gijidou/11.htm
講座技術の社会史:安全性と第三者検査
http://kjs.nagaokaut.ac.jp/mikami/STS/safety/note.htm


壇ノ浦の戦いの日

2006-03-24 | 歴史
1185(文治元)年の今日(3月24日)は、「壇ノ浦の戦いの日」。
1180(治承4)年に、源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげて以来5年目。1185(文治元)年3月24日、関門海峡一帯で源平両軍の最後の決戦が行われた。壇ノ浦の戦いである。この戦いによって、兵氏一族は殆ど滅亡し、5年間に及ぶ内戦は一応の幕を閉じた。日本史上、最大規模の海戦の一つである。
平家物語などでこの戦いを振り返ってみると、この戦いの一ヶ月前、讃岐の国屋島を奇襲して平家本隊を敗走させた源義経は、熊野水軍200余艘や四国の河野氏の兵船150艘など合わせて3000余艘の船団で(『吾妻鏡』ではとしており、こちらの方が正確かも)東から接近する。瀬戸内海の西への出入り口、関門海峡の西を押さえる彦島を根拠地としていた平氏は、四国・瀬戸内の西半部、北九州一帯の兵力を集結して1000余艘(『吾妻鏡』『源平盛衰記』では500余艘で、こちらの方が事実に近いだろう)これを迎撃した。
戦闘は早朝卯刻(うのこく)(午前6時頃)から始まった。そして、平氏軍は、平氏の大将軍知盛の「軍(いくさ)は今日限り、者ども少しも退く心あるべからず。東国の者どもに弱気をみせるな。何時の為に命を惜しむべき。」と叱咤激励し、源氏軍に一斉に矢を射掛けて襲いかかった。
源氏軍は舟数こそ多かったが寄り合い所帯。緒戦は、平氏が優勢で、源氏軍は劣勢であった。しかし、300余艘をひきいる阿波国の豪族民部太夫成良(しげよし)が源氏側に寝返ったために、形勢は逆転する。平氏は中国貿易のための大型の唐船をかなり動員し、これにはわざと雑兵ばかり乗せ、指揮官や幹部、精兵は他の小船に配し、唐船を囮に源氏軍を引き寄せ、殲滅しようと計画していたが、成良の口からこの秘密を知った義経は、唐船には目もくれずに首脳部のいる兵船を狙い打ちし、しかも、漕ぎ手・揖(かん)取りを射殺し、あるいは切り殺すという非常手段に出た。そのことで、大勢は決し、平氏側だった九州の武士達の多くは投降した。そして、清盛未亡人二位尼は、8歳の安徳天皇を抱き、三種の神器の宝剣を腰にさして入水、建礼門院も続いて投身したが、女院だけは源氏の兵の熊手にかけて引きあげられた。ここに「見るべき程のことは見つ、今は自害せん」と、知盛をはじめ平氏一門の公達は次々と海中に身を投じた。
この合戦では、潮流が勝敗に影響したといわれ、その様子を、『平家物語』では、「門司、赤間、壇ノ浦は、たぎりて落つる潮なれば、源氏の船は塩に向かふて、心ならず押し落とさる。平家の船は、塩に向かふてぞ出来たる」と緒戦は、潮流にのった平氏が有利としているが、これには同時代の貴族の日記『玉葉』に合戦の開始は正午としているものや潮流について諸説あり、実際には、潮流の勝負への影響はさほどなかったようである。そもそも、前の屋島の戦いで、既に戦の大勢は決しており、平家はこの地で起死回生を図ったものの、総兵力において源氏軍に劣り、安徳天皇を戴く宮廷の人たちや女官など相当多くの非戦闘員をかかえていた平氏軍には大きな弱点があった上、四国勢の裏切りがあったのではとても勝ち目はなかっただろう。この戦いにおいて、義経は、平能登守教経の攻撃を逃れるようにかわした、いわゆる「八丁跳び」を見せたといわれている。 
源平の戦いにおいて、源義経の活躍は目覚しいものであるが、当時の合戦には、英国の騎士道と同じ様に常識化された合戦のパターンがあったが、源平の合戦では、これらのルールや軍法が決して守られていない。義経の得意とする奇襲攻撃などそうであるが、壇ノ浦の戦いでも海上ゆえに馬ではなく船に乗るという差はあれ、矢合わせー射撃戦ー白兵戦といった合戦の展開は陸戦と一致している。これは、古典的な陸戦のパターンと同じである。しかし、壇ノ浦合戦で、義経は平氏の軍船の漕ぎ手・揖取りを射殺し・惨殺し、軍船の自由を奪う戦法をとっている。これは、陸戦の一騎打ちで敵の馬を射るのと同じことであり、義経は、海戦においても古典的なルールを踏みにじることによって、勝利を獲得したといえる。今、人によっては、戦いにルールなどない。勝つ為に戦うのだから、ルール破りのどこが悪いといった論も見られる。その論の是非についてここでは述べない。
捕らえられた平宗盛は後に鎌倉へ護送されて源頼朝と対面し、京へ戻る途中に斬首された。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、西国支配を確立し、鎌倉に鎌倉幕府を開くことになる。わずか二十年の間に栄光栄華を極めた平家は滅んだ。
「 祇園精舎の鐘の声、諸業無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」
ものがなしい琵琶の音色と、感情あるれる巧妙な語り口。平家物語は、琵琶法師の「語り」を媒体とする特殊文学として伝承されてきた。
室町初期の京都には、数百人の琵琶法師がいて多くの民衆に諸行無常の物語を語り聞かせていたという。しかし、その作者や成立年代については、諸説があって、現在も確定していない。 吉田兼好は、「徒然草」の中で、後鳥羽院の頃に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が創作して音楽的な節をつけ、盲目の法師に語らせたと書かれている。
小泉八雲の『怪談』の巻頭に「耳なし芳一の話」がある。 『平家物語』を語る琵琶法師芳一が壇の浦に没した平家の怨霊にさそわれて、赤間が関の墓所で、毎夜壇の浦合戦の悲劇を物語る。平家一門、まだ幼い安徳天皇を含む男女が入水する最も悲しい場面に達した時、一人の女がすすり泣きを始めると次から次へとすすり泣きが広がり、部屋中、すすり泣きと泣き叫ぶ声でいっぱいになる。悲しい物語の演奏は、多くの人の涙をさそうが、平家物語の中でも最終合戦であった壇ノ浦の合戦は平氏滅亡のシーンで圧巻である。
(画像は、下関市・みもすそ川公園にある船形の 「壇の浦古戦場址の碑」)
参考:
壇ノ浦の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6
壇ノ浦の戦い だんのうらのたたかい
http://db.gakken.co.jp/jiten/ta/306480.htm
壇ノ浦の合戦、平家の最期
http://www.globetown.net/~hara_1962/GENPEI/genpei_11.html
源平合戦(壇ノ浦の戦い)ーー平氏滅亡
http://www.kamakura-burabura.com/rekisiyositunedannourakassen.htm
平家物語 敦盛の最期─『現代の国語』基本情報-三省堂 ことばと学びの宇宙
http://tb.sanseido.co.jp/kokugo/kokugo/j-kokugo/baseinfo/2nd-honpen/heike.html
徒然草
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/tsuredure/turedure4.htm
解説「耳なし芳一」
http://www.so-net.ne.jp/storygate/story/yakumo/hoichi/index.html

『さとうきび畑』の作詞・作曲をした寺島尚彦の忌日

2006-03-23 | 人物
2004年の今日(3月23日)は、沖縄戦の悲劇を歌った『さとうきび畑』の作詞・作曲をした寺島尚彦の忌日。<73歳>
寺島 尚彦(てらしま なおひこ)は、1930(昭和5)年6月4日生まれ、東京都出身の作詞家、作曲家。洗足学園音楽大学教授。二女に、ソプラノ歌手の寺島夕紗子さん。
「ざわわ、ざわわ、ざわわ……」のフレーズで知られている『さとうきび畑』の歌は、最近、森山良子さんの歌でとみに有名になったが、この歌が作られたのは1967(昭和42)年のことだと言うから随分と前だったのですね~。この曲は、森山良子、上条恒彦、ちあきなおみ、沖縄が生んだ盲目の天才テナー新垣勉、他、寺島さんの娘・寺島夕紗子さんなどなど多くの幅広い年代、分野の幾多の音楽家によって歌い継がれてきたことで知られているようだが、正直言って、私は、森山良子さんの歌以外余りきいたことがない。私がこの曲を耳にしたのもそう古くはなく、森山良子さんの歌を聴いたのは、8~9年前だったっと思うが、仕事の都合で、九州にしばらく単身赴任していたときのことである。その時、夕方の NHK の「みんなのうた」でだったと思うが・・・、長い歌詞の歌であるがいい歌だったので、夕食の頃、テレビを見ながら一人でく口ずさんでいた。寺島さんは、初めて沖縄を訪れた1964(昭和39)年6月、緑に波打つさとうきび畑で戦跡案内をしてくれた人に聞いた「土の下にまだ戦没者が埋まっています」の言葉に衝撃を受け「ごうぜんと吹き抜ける風の音だけが耳を打ち、戦没者たちの怒号とおえつを確かに聴いた気がした」という。
「ざわわ」というのは通り過ぎていく風の音だけど、重い言葉では音楽的ではない。それなら、たくさん繰り返すことで広さとか意味の深さを表そう」・・・と、「ざわわ」を66回も繰り返し、10分を超える曲になったという。
「ざわわ ざわわ ざわわ」・・・はじめて聞いたときから、この“音”が印象的であったが、実は最初にこの歌を聴いたときには、この歌が、反戦の歌だということはよくわからなかった。しかし、何度も聞いているうちに次第に歌詞の意味を理解するようになり感動した。悲惨な戦争体験を直接的な表現をせずに、聴き手に深くイメージさせる歌詞と森山良子さんの歌唱力が素晴らしいと思う。
沖縄戦の悲しみを歌った反戦歌も、平和な時代の今になってやっと見直されたといった感じだよね~。その後、2003(平成15)年9月28日には、この曲をモチーフにしたドラマ『さとうきび畑の唄』(TBS系、出演:明石家さんま、黒木瞳、上戸彩ら)が放映され、注目を集めた。番組の最後で「戦争はすべてを不幸にする。世界中から戦争をなくしたい」の文字が流れた。”悲しい話だからこそ普通の役者が演じると重いドラマになる。さんまさんのキャラクターと「さとうきび畑」の歌が、戦争の悲惨さを上手く中和させて和らげ、いいドラマに仕上がった”・・と、八木康夫プロデデューサーが言っている。このドラマは、文化庁芸術祭大賞を受賞した。
以下に『さとうきび畑』のMIDIがある。歌詞も付きなので、寺島尚彦さんを偲びながら、平和な今の時代がこれからも長く続くことを祈りたいと思う。
二木紘三のWEBサイト「さとうきび畑』
上記サイトは以下に変更されているので、リンクを変更(2012・04・18)
さとうきび畑: 二木紘三のうた物語

(画像は、新垣勉の『さとうきび畑』)
参考:
TBS「さとうきび畑の唄」
http://www.tbs.co.jp/zawawa/
寺島尚彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%B0%9A%E5%BD%A6


「さっちゃん」の作詞家阪田寛夫 の忌日

2006-03-22 | 人物
2005(平成17)年の今日(3月22日)は、作詞家阪田寛夫 (さかたひらお)の忌日。
阪田 寛夫氏は、1925(大正14)年10月18日 、大阪府大阪市生まれ。熱心なキリスト教徒の家庭に育つ。東京大学文学部卒。朝日放送(大阪)編成局ラジオ製作部長を務めた後、文筆業に専念。童謡、合唱曲の作詞、放送劇、小説、童謡論などの作品を手がける。「土の器」で第72回芥川賞受賞、「海道東征」で川端康成文学賞受賞。児童文学では歌曲集「うたえバンバン」、詩集「サッちゃん」でそれぞれ第4回、第6回日本童謡賞を受けている。サッチャンはね サチコっていうんだほんとはね
   だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッチャンて よぶんだよ
  おかしいな サッチャン・・・
作詞:阪田 寛夫、作曲:大中 恩の童謡 『サッちゃん』 
歌詞に内在する一種独特のリズムと抑揚のある新鮮なメロディーに乗せ、子供の世界を生き生きと描いた『サッちゃん』 は、1959(昭和34)年に、NHK「うたのおばさん」でラジオ放送され大評判となり、多くの人に愛唱されるようになった。作曲の大中 恩氏とは従兄弟同士である。コンビで多くの童謡を作っている。
作詞を依頼され、何にしようか悩んでいた阪田氏は、幼稚園の一年上にいた、足が速くて爽やかな風を連想させるサッちゃんという名の女の子のことを思い出し、響きも気に入って題にしたという。簡単に一番が出来上がった割に次が続かず、苦し紛れに、なかなかバナナを食べられなかった幼い日の体験を思い起こし二番にし、更にまとめなければならない三番にいたっては、歌詞の締切りが迫り妥協もあって「たしか現実のサッちゃんは、引越したのか、いつのまにかいなくなっていたので、勢いにまかせ〈とおくへいっちゃう〉ことにした」そうだ。
ねこ ふんじゃった~ ねこ ふんじゃった~ ねこ ふんづけちゃったら ひっかいた~
中間略
ねこ よっといで~ ねこ よっといで~ ねこ かつぶしやるから よっといで~
誰もが知ってる 『ねこふんじゃった』・・この詩の作詞者も阪田寛夫氏 。 
これは、ピアノ教室などで、ピアノ入門の初級教本として使われている「バイエル」のメロディーにつけた俗謡で、非常に有名だから、ピアノを弾かない人でも、よく知っているよね~。
作詞者は他にもいるが、この阪田氏の作詞したものが有名。ただ、詩の内容がネコ虐待の曲だといって嫌う人もいる。特に、2番の「ねこお空へとんじゃった」の意味は「昇天」ともとれるからね~。この『ねこふんじゃった』には、阪田寛夫氏が作詞したものと丘灯至夫氏が作詞したものの2種類を紹介したものがある。
その両氏の歌詞が紹介されているURLは以下の通り。
『ねこふんじゃった』阪田寛夫作詞(1)/丘灯至夫作詞(2)・作曲不詳(注)/吉川和夫編曲。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/nekofunjatta.html
確かに、比較してみると、丘灯氏の作詞したものの方が最初に踏んづけられたのは可哀想だが、驚いたネコが走り回って大騒動を起こし、最後にたんすの上で寝てしまうなどというオチは微笑ましい。しかし、曲へののりは、阪田氏のものの方が良く、歌も歌いやすのじゃ~ないかな・・・。
曲については、前に紹介したHPのものより以下の「阪田寛夫童謡」の曲の方が綺麗だし歌い良いよ。ここには、阪田氏の作詞した童謡が沢山掲載されている。興味のある人は、是非御覧あれ。
阪田氏は、小学生時代、周囲に宝塚ファンが多かったそうで、宝塚にも興味があったらしい。「わが小林一三 清く正しく美しく」で毎日出版文化賞受賞を受けている。因みに、阪田氏の次女は元宝塚歌劇団花組トップスターでダンスの名手としてならした大浦みずきさんだよ。
(画像は、「サッちゃん 」阪田寛夫詩・和田誠絵、出版社 国土社 。)
参考:
阪田寛夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%94%B0%E5%AF%9B%E5%A4%AB
シリーズ 日本のうた『サッちゃん』 
http://www.mmjp.or.jp/MIYAJI/mts/nihonnnouta/sacchan.htm
阪田寛夫童謡(MIDI)
http://www.interq.or.jp/japan/k3j/sakusisya/sakata%20hiroo.htm
日本群読教育の会 会報 01号教材「ねこふんじゃった」
http://www.try-net.or.jp/~seico/gundoku-kaihou1.htm