今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「東京大空襲記念日」=「陸軍記念日」?

2006-03-10 | 記念日
今日(3月10日)は「東京大空襲記念日」であるとともにかっての「陸軍記念日」でもあった。
1905(明治38)年の今日、日露戦争の陸の決戦・奉天会戦で日本軍が勝利し、奉天(現現中国遼寧省の瀋陽)を占領した。
1905年3月1日から3月10日にかけて行われた「奉天(ほうてん)大会戦」と称されるこの戦いは、日露戦争中で最高の死傷者を出したほどに熾烈な戦闘で、戦死1万6408人、負傷者5万3657人であった。俘虜総数は2万732人。日露戦争最後の会戦であった。参加兵力は日本軍25万人、ロシア軍37万人。満州軍(総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎)は鴨緑軍(司令官川村景明)、第1軍、第2軍、第3軍、第4軍の総兵力約19個師団を持ち、3月、解氷期に先立って奉天を包囲、32個師団からなるロシア軍を左右両翼から攻撃した。戦争中の晴天は概ね晴天が続き、空気、土地は乾燥して黄砂が舞い「天下為に昏く、数十歩の外、物色を弁じ難く、敵は之を利用して退却」する。しかし、追撃は思うに任せなかった。・・・当時、ロシア国内は血の日曜日事件のように革命前夜の状況であった。そのため、ニコライ2世への国民の忠誠心は後退していた。この闘いは、奉天を占拠しロシア軍を敗走させた日本軍の勝利と認識されているが、十分な追撃を行えなかったために、日本側の優勢的な引き分けに近いと評する者も多いというが・・・、兎に角、この奉天の勝利は、ロシア軍の退却によりその後の陸の戦局に画期をもたらすのであった。しかし、講和条約成立後、国粋・排外の思想が高まり、新聞は講和条約破棄を叫び、民衆は屈辱外交を非難、その後の太平洋戦争へと結びついていくのである。奉天開戦の翌年からこの戦いを記念して「陸軍記念日」とした。
1945(昭和20)年3月10日深夜0時8分、東京でアメリカ軍B9爆撃機344機による焼夷弾爆撃があった。一夜にして多くの尊い命が失われ、いたるところ焼け野原と化し、死者約10万人、焼失家屋約27万戸という、第二次大戦で最大級の被害を出した。東京都は、1990(平成2)年、平和国家日本の首都として、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓い、「東京都平和の日条例」を制定した。条例の第一条では、3月10日を「東京都平和の日」と定め、第二条で、平和の意義を確認し、平和意識の高揚を図るため、記念行事を実施することをうたっている。
1945(昭和20)年、真珠湾奇襲攻撃(日本時間:1941年12月8日)で始めた対英米戦争が4年目に入った。満州事変から数えれば、15年にわたる戦争である。前年、生命線とした「絶対国防圏」を突破され、制海権・制空権ともに失った日本軍は、フィリピン、硫黄島、沖縄とアメリカ軍の蛙飛び作戦(日本軍の強い拠点は避けて通りながら補給線を切断していく)にことごとく敗退。既に米軍は、日本周辺の制海権はもちろん、本土上空の制空権も完全に握っていた。米軍にとって、その後の戦闘目的は、いかに早く戦争を終結させるかに絞られていた。しかし、時の政権は小磯国昭内閣。東條英機内閣は前年七月に崩壊したとはいえ、後継の小磯首相も陸軍大将だった。そこで、米軍は、「陸軍記念日」に、首都を焦土と化すことによって陸軍に屈辱を浴びせる意図で、3月10日の日を選んで、東京空爆を行ったのだろうと推測されている。そうなると、せめて小磯内閣の退陣ぐらいは実現するだろうと期待していたももかかわらず、東京大空襲によっては何ごとも起こらなかった。そこで、米軍は4月1日、上陸により沖縄地上戦が開始されたたが、この沖縄戦は酸鼻を極めた。ようやく小磯内閣が退陣、鈴木貫太郎内閣が成立し、4月30日同盟国ドイツのヒットラーが自殺、ドイツは5月7日無条件降したが、そのの日、鈴木内閣は「日本の戦争遂行決意は変わらない」とする声明を発表した。ここから、米軍の本格的な本土空襲が始まるが、日本は、本土決戦を主張する陸軍主導の中でポツダム宣言を拒否、広島、長崎への原爆投下といった悲劇的なことによって、やっと終戦を決意したのである。1945(昭和20)年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い「陸軍記念日」は廃止された。
「ここは御国を何百里  離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて  友は野末の石の下 」
戦前はよく軍歌が歌われた。この歌も当時流行っていた歌「戦友」(作詞:真下飛泉、作曲:三善和気)である。戦中、戦後、酒を飲んでいる時父がよく歌っていたので、私も一緒に歌っていた。日露戦争の最中、1905(明治38)年生まれの歌であるが、この歌は、詩にも曲にも日本的感傷の世界があって、それが受けたのであろう。終戦後の昭和30年代でも、酒の席などでよくこの歌が歌われた。作詞者の真下飛泉は明治37年~39年に全部で12編の「言文一致叙事唱歌」を 発表。「戦友」はこのうち第3編目のもの。しかし、この歌は他の戦意高揚の軍歌とは程遠く、言ってみれば、戦死者への鎮魂歌である。
この歌は14番まで続く長い歌であるが、8番「虚しく冷えて魂は 故郷(くに)に帰ったポケットに 時計ばかりがコチコチと 動いているも情けなや 」など、は故郷への慕情である。魂は、大日本帝国へ帰るのではなく、故郷(くに)へ帰るのである。「戦友」は望郷の歌でもあった。「言文一致叙事唱歌」のその他もいい歌だ。これらの歌詞は以下参考の「真下飛泉「戦友」歌碑」に掲載されているので興味のある方は見てみると良い。
もう、こんな歌を知っている人も少ないだろう。普通に知られている「軍歌」ではなく 、戦争の非人間性に対する憤りの歌といえる歌を一度聴いてみますか。
「戦友」       
(画像は空襲を受けた東京。「アサヒグラフ」1945年10月15日号)
参考:
東京都平和の日記念行事
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/heiwa.html
東京大空襲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
東京大空襲
http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html
陸軍記念日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
満州事変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
奉天会戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BC%9A%E6%88%A6
絶対国防圏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%9C%8F
真珠湾奇襲攻撃- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
血の日曜日事件 (1905年) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1905%E5%B9%B4)
真下飛泉「戦友」歌碑
http://www.ceres.dti.ne.jp/~id-ooe/kankou2.htm
戦友(日本の歌・世界の歌)
http://www.geocities.jp/machi0822jp/senyuu