今日(3月28日)は京都裏千家「利休忌」
中世末期・安土桃山時代の茶人千利休(せんのりきゅう)の1591(天正19)年2月28日(旧暦)の忌日。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。
千利休は1522(大永2)年堺で生まれる。本姓は田中、幼名は与四郎(與四郎)。のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい).と号した。「抛筌斎」の「筌(魚を採る篭)を抛(なげう」)つということろから、魚屋の業を棄て茶湯者として立つという意があったのではとみる向きもある。
家伝では祖父が足利義政・義尚親子に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の千阿弥で、義尚没後堺に閉居、その子与兵衛が千家を名乗り、今市町で商売をはじめたとするが、祖父の同朋衆説には疑問があるようだ。
はじめ東山流の書院茶をくむ北向道陳(きたむきどうちん)、ついで、武野招鴎(たけのじょうおう)に師事し抛筌斎宗易と名乗る。
上洛を機に信長は、今井宗久(いまい そうきゅう) ・津田宗及(つだそうぎゅう)とともに茶頭(さどう)となり、三宗匠と呼ばれた。千利休は、信長時代には特に目立った働きはない。
信長は茶会で2度まで茶頭を務めていた不住庵梅雪(京都の町人・茶人)ではなく、堺の3人を茶頭へ任用したが、これは、当時の堺の富裕町人・上層町衆間に広まっていた茶の湯の現状をふまえ、茶頭を通して、堺町人の掌握を企図してのもであったろう。
畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じていたが、一方で、武功を立てたものに茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになる。そのため名器は、一国一城にも値するようになる。このような茶の湯を利用した信長の政治は、「御茶湯御政道」ともいわれているが、このようなことが、茶の湯をあおり、秀吉のような茶の湯に終身するものを生んでいった。しかし、茶の湯のもつ効用を最大限に活用したのは秀吉であった。
秀吉時代になって、にわかに独自性を発揮し、「招鴎の法度(はっと)」を破った(「山上宗二記」)、4畳半にかわる2畳、1畳半といった小間の茶室や「宗易型」と呼ばれた筒型の黒楽茶碗に、その美意識が認められる。茶の湯の非日常性・求道性を追及し、侘び茶を大成した。秀吉も彼を天下一の茶人と褒め称え、茶頭として三千石を与えている。そして、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にした。
天正13年、秀吉が関白に任じられた記念に行われた禁中(小御所)茶会で利休は、自ら茶を点じて正親町天皇(おおぎまちてんのう)に献じた秀吉を、隣室に控えて後見している。
広く知られている利休の号も、このとき宮中で秀吉の後見を勤める関係から、とくに正親町天皇から勅賜(ちょくし)されたといわれている。しかし、この点については、疑問もあるが、以後この号を用いるようになる。ただ、大林宗套(だいりん そうとう)からあたえられた居士号ともいわれており、武野招鴎や津田宗及も大林から40代の終りに居士号(一閑・天信)を与えられており、利休も例外ではなかったろう。そして、招鴎らと同様、普段この号を用いることはなかった。それを、多分、秀吉の知恵で勅賜の形をとったものではないかと考えられている。
この頃の利休の権勢を示すものとして、天正14年10月薩摩島津に圧迫されていた豊後の大友宗麟が上京して秀吉に訴えた際、秀吉の弟である大和大納言羽柴秀長から「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(羽柴秀長)存じ候)」といわれて感激し、宗麟は国許への書状にそのことを記した上、さらに、「宗易ならでは関白様へ一言も申しあぐる人これなしと見及び申し候」と述べている(『大友家文書録』)。
ところが、突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次いで26日には京都に呼び出して切腹を命じている。なぜ急にそのようなことになってしまったのか?以来、その理由についてはさまざまな 憶測がなされてきたが、そのことを考える前に、利休が秀吉の時代に何故大き存在になったかを考える必要がある。
個人的な力量はもとよりであるが、利休のとった政治的言動を、茶頭であることと切り離して考えることは出来ない。密室である茶室は、脱俗の空間であるがゆえに最も凝縮された政治的な場となり、そこでの茶事はそのまま高度な政治行為ともなりえた。その意味で茶の湯名人の利休は、秀吉の代弁者であり、時には秀吉自身であったかもしれない。茶の湯=茶室は、茶頭を媒介として政治秩序を生み出す最も有効な装置であった。そして、それは、そのまま、利休の悲劇を生む要因となったといえる。
利休の死は、相前後して、宗及・宗久らが没したことと相俟って、事実上、堺町衆茶頭の時代に終りを告げたといってよい。その後も、利休の子の道安や女婿の万代屋(もずや)宗安、宗久の子の宗燻(そうくん)らが仕えているが、第2世代としての存在感はうすい。
千家はその後、紫野・大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗して家を再興し、その次男の宗守が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となっている。
千家流茶道の開祖とされる千利休は天正19年旧暦2月28日(1591年4月21日)に秀吉の命により切腹したが、千家ではその1ヶ月後を命日としている。しかし、なぜか知らないが、その「1月後」の解釈が表千家と裏千家で異なるため、表千家では3月27日、裏千家では3月28日に利休忌を行い、追善の茶会を催している。
(画像はコレクションの映画チラシ「利休」1989年、松竹。勅使河原宏 監督作品。)
参考:
千利休 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
茶の湯の歴史
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_6.html
茶道の歴史
http://office-yoshida.cool.ne.jp/juho/urasenke_history.html
利休 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18123/index.html?flash=1
【わび】【さび】とはなにか?
http://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/2004-11-20/
中世末期・安土桃山時代の茶人千利休(せんのりきゅう)の1591(天正19)年2月28日(旧暦)の忌日。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。
千利休は1522(大永2)年堺で生まれる。本姓は田中、幼名は与四郎(與四郎)。のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい).と号した。「抛筌斎」の「筌(魚を採る篭)を抛(なげう」)つということろから、魚屋の業を棄て茶湯者として立つという意があったのではとみる向きもある。
家伝では祖父が足利義政・義尚親子に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の千阿弥で、義尚没後堺に閉居、その子与兵衛が千家を名乗り、今市町で商売をはじめたとするが、祖父の同朋衆説には疑問があるようだ。
はじめ東山流の書院茶をくむ北向道陳(きたむきどうちん)、ついで、武野招鴎(たけのじょうおう)に師事し抛筌斎宗易と名乗る。
上洛を機に信長は、今井宗久(いまい そうきゅう) ・津田宗及(つだそうぎゅう)とともに茶頭(さどう)となり、三宗匠と呼ばれた。千利休は、信長時代には特に目立った働きはない。
信長は茶会で2度まで茶頭を務めていた不住庵梅雪(京都の町人・茶人)ではなく、堺の3人を茶頭へ任用したが、これは、当時の堺の富裕町人・上層町衆間に広まっていた茶の湯の現状をふまえ、茶頭を通して、堺町人の掌握を企図してのもであったろう。
畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じていたが、一方で、武功を立てたものに茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになる。そのため名器は、一国一城にも値するようになる。このような茶の湯を利用した信長の政治は、「御茶湯御政道」ともいわれているが、このようなことが、茶の湯をあおり、秀吉のような茶の湯に終身するものを生んでいった。しかし、茶の湯のもつ効用を最大限に活用したのは秀吉であった。
秀吉時代になって、にわかに独自性を発揮し、「招鴎の法度(はっと)」を破った(「山上宗二記」)、4畳半にかわる2畳、1畳半といった小間の茶室や「宗易型」と呼ばれた筒型の黒楽茶碗に、その美意識が認められる。茶の湯の非日常性・求道性を追及し、侘び茶を大成した。秀吉も彼を天下一の茶人と褒め称え、茶頭として三千石を与えている。そして、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にした。
天正13年、秀吉が関白に任じられた記念に行われた禁中(小御所)茶会で利休は、自ら茶を点じて正親町天皇(おおぎまちてんのう)に献じた秀吉を、隣室に控えて後見している。
広く知られている利休の号も、このとき宮中で秀吉の後見を勤める関係から、とくに正親町天皇から勅賜(ちょくし)されたといわれている。しかし、この点については、疑問もあるが、以後この号を用いるようになる。ただ、大林宗套(だいりん そうとう)からあたえられた居士号ともいわれており、武野招鴎や津田宗及も大林から40代の終りに居士号(一閑・天信)を与えられており、利休も例外ではなかったろう。そして、招鴎らと同様、普段この号を用いることはなかった。それを、多分、秀吉の知恵で勅賜の形をとったものではないかと考えられている。
この頃の利休の権勢を示すものとして、天正14年10月薩摩島津に圧迫されていた豊後の大友宗麟が上京して秀吉に訴えた際、秀吉の弟である大和大納言羽柴秀長から「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(羽柴秀長)存じ候)」といわれて感激し、宗麟は国許への書状にそのことを記した上、さらに、「宗易ならでは関白様へ一言も申しあぐる人これなしと見及び申し候」と述べている(『大友家文書録』)。
ところが、突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次いで26日には京都に呼び出して切腹を命じている。なぜ急にそのようなことになってしまったのか?以来、その理由についてはさまざまな 憶測がなされてきたが、そのことを考える前に、利休が秀吉の時代に何故大き存在になったかを考える必要がある。
個人的な力量はもとよりであるが、利休のとった政治的言動を、茶頭であることと切り離して考えることは出来ない。密室である茶室は、脱俗の空間であるがゆえに最も凝縮された政治的な場となり、そこでの茶事はそのまま高度な政治行為ともなりえた。その意味で茶の湯名人の利休は、秀吉の代弁者であり、時には秀吉自身であったかもしれない。茶の湯=茶室は、茶頭を媒介として政治秩序を生み出す最も有効な装置であった。そして、それは、そのまま、利休の悲劇を生む要因となったといえる。
利休の死は、相前後して、宗及・宗久らが没したことと相俟って、事実上、堺町衆茶頭の時代に終りを告げたといってよい。その後も、利休の子の道安や女婿の万代屋(もずや)宗安、宗久の子の宗燻(そうくん)らが仕えているが、第2世代としての存在感はうすい。
千家はその後、紫野・大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗して家を再興し、その次男の宗守が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となっている。
千家流茶道の開祖とされる千利休は天正19年旧暦2月28日(1591年4月21日)に秀吉の命により切腹したが、千家ではその1ヶ月後を命日としている。しかし、なぜか知らないが、その「1月後」の解釈が表千家と裏千家で異なるため、表千家では3月27日、裏千家では3月28日に利休忌を行い、追善の茶会を催している。
(画像はコレクションの映画チラシ「利休」1989年、松竹。勅使河原宏 監督作品。)
参考:
千利休 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
茶の湯の歴史
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_6.html
茶道の歴史
http://office-yoshida.cool.ne.jp/juho/urasenke_history.html
利休 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18123/index.html?flash=1
【わび】【さび】とはなにか?
http://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/2004-11-20/