1185(文治元)年の今日(3月24日)は、「壇ノ浦の戦いの日」。
1180(治承4)年に、源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげて以来5年目。1185(文治元)年3月24日、関門海峡一帯で源平両軍の最後の決戦が行われた。壇ノ浦の戦いである。この戦いによって、兵氏一族は殆ど滅亡し、5年間に及ぶ内戦は一応の幕を閉じた。日本史上、最大規模の海戦の一つである。
平家物語などでこの戦いを振り返ってみると、この戦いの一ヶ月前、讃岐の国屋島を奇襲して平家本隊を敗走させた源義経は、熊野水軍200余艘や四国の河野氏の兵船150艘など合わせて3000余艘の船団で(『吾妻鏡』ではとしており、こちらの方が正確かも)東から接近する。瀬戸内海の西への出入り口、関門海峡の西を押さえる彦島を根拠地としていた平氏は、四国・瀬戸内の西半部、北九州一帯の兵力を集結して1000余艘(『吾妻鏡』『源平盛衰記』では500余艘で、こちらの方が事実に近いだろう)これを迎撃した。
戦闘は早朝卯刻(うのこく)(午前6時頃)から始まった。そして、平氏軍は、平氏の大将軍知盛の「軍(いくさ)は今日限り、者ども少しも退く心あるべからず。東国の者どもに弱気をみせるな。何時の為に命を惜しむべき。」と叱咤激励し、源氏軍に一斉に矢を射掛けて襲いかかった。
源氏軍は舟数こそ多かったが寄り合い所帯。緒戦は、平氏が優勢で、源氏軍は劣勢であった。しかし、300余艘をひきいる阿波国の豪族民部太夫成良(しげよし)が源氏側に寝返ったために、形勢は逆転する。平氏は中国貿易のための大型の唐船をかなり動員し、これにはわざと雑兵ばかり乗せ、指揮官や幹部、精兵は他の小船に配し、唐船を囮に源氏軍を引き寄せ、殲滅しようと計画していたが、成良の口からこの秘密を知った義経は、唐船には目もくれずに首脳部のいる兵船を狙い打ちし、しかも、漕ぎ手・揖(かん)取りを射殺し、あるいは切り殺すという非常手段に出た。そのことで、大勢は決し、平氏側だった九州の武士達の多くは投降した。そして、清盛未亡人二位尼は、8歳の安徳天皇を抱き、三種の神器の宝剣を腰にさして入水、建礼門院も続いて投身したが、女院だけは源氏の兵の熊手にかけて引きあげられた。ここに「見るべき程のことは見つ、今は自害せん」と、知盛をはじめ平氏一門の公達は次々と海中に身を投じた。
この合戦では、潮流が勝敗に影響したといわれ、その様子を、『平家物語』では、「門司、赤間、壇ノ浦は、たぎりて落つる潮なれば、源氏の船は塩に向かふて、心ならず押し落とさる。平家の船は、塩に向かふてぞ出来たる」と緒戦は、潮流にのった平氏が有利としているが、これには同時代の貴族の日記『玉葉』に合戦の開始は正午としているものや潮流について諸説あり、実際には、潮流の勝負への影響はさほどなかったようである。そもそも、前の屋島の戦いで、既に戦の大勢は決しており、平家はこの地で起死回生を図ったものの、総兵力において源氏軍に劣り、安徳天皇を戴く宮廷の人たちや女官など相当多くの非戦闘員をかかえていた平氏軍には大きな弱点があった上、四国勢の裏切りがあったのではとても勝ち目はなかっただろう。この戦いにおいて、義経は、平能登守教経の攻撃を逃れるようにかわした、いわゆる「八丁跳び」を見せたといわれている。
源平の戦いにおいて、源義経の活躍は目覚しいものであるが、当時の合戦には、英国の騎士道と同じ様に常識化された合戦のパターンがあったが、源平の合戦では、これらのルールや軍法が決して守られていない。義経の得意とする奇襲攻撃などそうであるが、壇ノ浦の戦いでも海上ゆえに馬ではなく船に乗るという差はあれ、矢合わせー射撃戦ー白兵戦といった合戦の展開は陸戦と一致している。これは、古典的な陸戦のパターンと同じである。しかし、壇ノ浦合戦で、義経は平氏の軍船の漕ぎ手・揖取りを射殺し・惨殺し、軍船の自由を奪う戦法をとっている。これは、陸戦の一騎打ちで敵の馬を射るのと同じことであり、義経は、海戦においても古典的なルールを踏みにじることによって、勝利を獲得したといえる。今、人によっては、戦いにルールなどない。勝つ為に戦うのだから、ルール破りのどこが悪いといった論も見られる。その論の是非についてここでは述べない。
捕らえられた平宗盛は後に鎌倉へ護送されて源頼朝と対面し、京へ戻る途中に斬首された。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、西国支配を確立し、鎌倉に鎌倉幕府を開くことになる。わずか二十年の間に栄光栄華を極めた平家は滅んだ。
「 祇園精舎の鐘の声、諸業無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」
ものがなしい琵琶の音色と、感情あるれる巧妙な語り口。平家物語は、琵琶法師の「語り」を媒体とする特殊文学として伝承されてきた。
室町初期の京都には、数百人の琵琶法師がいて多くの民衆に諸行無常の物語を語り聞かせていたという。しかし、その作者や成立年代については、諸説があって、現在も確定していない。 吉田兼好は、「徒然草」の中で、後鳥羽院の頃に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が創作して音楽的な節をつけ、盲目の法師に語らせたと書かれている。
小泉八雲の『怪談』の巻頭に「耳なし芳一の話」がある。 『平家物語』を語る琵琶法師芳一が壇の浦に没した平家の怨霊にさそわれて、赤間が関の墓所で、毎夜壇の浦合戦の悲劇を物語る。平家一門、まだ幼い安徳天皇を含む男女が入水する最も悲しい場面に達した時、一人の女がすすり泣きを始めると次から次へとすすり泣きが広がり、部屋中、すすり泣きと泣き叫ぶ声でいっぱいになる。悲しい物語の演奏は、多くの人の涙をさそうが、平家物語の中でも最終合戦であった壇ノ浦の合戦は平氏滅亡のシーンで圧巻である。
(画像は、下関市・みもすそ川公園にある船形の 「壇の浦古戦場址の碑」)
参考:
壇ノ浦の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6
壇ノ浦の戦い だんのうらのたたかい
http://db.gakken.co.jp/jiten/ta/306480.htm
壇ノ浦の合戦、平家の最期
http://www.globetown.net/~hara_1962/GENPEI/genpei_11.html
源平合戦(壇ノ浦の戦い)ーー平氏滅亡
http://www.kamakura-burabura.com/rekisiyositunedannourakassen.htm
平家物語 敦盛の最期─『現代の国語』基本情報-三省堂 ことばと学びの宇宙
http://tb.sanseido.co.jp/kokugo/kokugo/j-kokugo/baseinfo/2nd-honpen/heike.html
徒然草
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/tsuredure/turedure4.htm
解説「耳なし芳一」
http://www.so-net.ne.jp/storygate/story/yakumo/hoichi/index.html
1180(治承4)年に、源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげて以来5年目。1185(文治元)年3月24日、関門海峡一帯で源平両軍の最後の決戦が行われた。壇ノ浦の戦いである。この戦いによって、兵氏一族は殆ど滅亡し、5年間に及ぶ内戦は一応の幕を閉じた。日本史上、最大規模の海戦の一つである。
平家物語などでこの戦いを振り返ってみると、この戦いの一ヶ月前、讃岐の国屋島を奇襲して平家本隊を敗走させた源義経は、熊野水軍200余艘や四国の河野氏の兵船150艘など合わせて3000余艘の船団で(『吾妻鏡』ではとしており、こちらの方が正確かも)東から接近する。瀬戸内海の西への出入り口、関門海峡の西を押さえる彦島を根拠地としていた平氏は、四国・瀬戸内の西半部、北九州一帯の兵力を集結して1000余艘(『吾妻鏡』『源平盛衰記』では500余艘で、こちらの方が事実に近いだろう)これを迎撃した。
戦闘は早朝卯刻(うのこく)(午前6時頃)から始まった。そして、平氏軍は、平氏の大将軍知盛の「軍(いくさ)は今日限り、者ども少しも退く心あるべからず。東国の者どもに弱気をみせるな。何時の為に命を惜しむべき。」と叱咤激励し、源氏軍に一斉に矢を射掛けて襲いかかった。
源氏軍は舟数こそ多かったが寄り合い所帯。緒戦は、平氏が優勢で、源氏軍は劣勢であった。しかし、300余艘をひきいる阿波国の豪族民部太夫成良(しげよし)が源氏側に寝返ったために、形勢は逆転する。平氏は中国貿易のための大型の唐船をかなり動員し、これにはわざと雑兵ばかり乗せ、指揮官や幹部、精兵は他の小船に配し、唐船を囮に源氏軍を引き寄せ、殲滅しようと計画していたが、成良の口からこの秘密を知った義経は、唐船には目もくれずに首脳部のいる兵船を狙い打ちし、しかも、漕ぎ手・揖(かん)取りを射殺し、あるいは切り殺すという非常手段に出た。そのことで、大勢は決し、平氏側だった九州の武士達の多くは投降した。そして、清盛未亡人二位尼は、8歳の安徳天皇を抱き、三種の神器の宝剣を腰にさして入水、建礼門院も続いて投身したが、女院だけは源氏の兵の熊手にかけて引きあげられた。ここに「見るべき程のことは見つ、今は自害せん」と、知盛をはじめ平氏一門の公達は次々と海中に身を投じた。
この合戦では、潮流が勝敗に影響したといわれ、その様子を、『平家物語』では、「門司、赤間、壇ノ浦は、たぎりて落つる潮なれば、源氏の船は塩に向かふて、心ならず押し落とさる。平家の船は、塩に向かふてぞ出来たる」と緒戦は、潮流にのった平氏が有利としているが、これには同時代の貴族の日記『玉葉』に合戦の開始は正午としているものや潮流について諸説あり、実際には、潮流の勝負への影響はさほどなかったようである。そもそも、前の屋島の戦いで、既に戦の大勢は決しており、平家はこの地で起死回生を図ったものの、総兵力において源氏軍に劣り、安徳天皇を戴く宮廷の人たちや女官など相当多くの非戦闘員をかかえていた平氏軍には大きな弱点があった上、四国勢の裏切りがあったのではとても勝ち目はなかっただろう。この戦いにおいて、義経は、平能登守教経の攻撃を逃れるようにかわした、いわゆる「八丁跳び」を見せたといわれている。
源平の戦いにおいて、源義経の活躍は目覚しいものであるが、当時の合戦には、英国の騎士道と同じ様に常識化された合戦のパターンがあったが、源平の合戦では、これらのルールや軍法が決して守られていない。義経の得意とする奇襲攻撃などそうであるが、壇ノ浦の戦いでも海上ゆえに馬ではなく船に乗るという差はあれ、矢合わせー射撃戦ー白兵戦といった合戦の展開は陸戦と一致している。これは、古典的な陸戦のパターンと同じである。しかし、壇ノ浦合戦で、義経は平氏の軍船の漕ぎ手・揖取りを射殺し・惨殺し、軍船の自由を奪う戦法をとっている。これは、陸戦の一騎打ちで敵の馬を射るのと同じことであり、義経は、海戦においても古典的なルールを踏みにじることによって、勝利を獲得したといえる。今、人によっては、戦いにルールなどない。勝つ為に戦うのだから、ルール破りのどこが悪いといった論も見られる。その論の是非についてここでは述べない。
捕らえられた平宗盛は後に鎌倉へ護送されて源頼朝と対面し、京へ戻る途中に斬首された。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、西国支配を確立し、鎌倉に鎌倉幕府を開くことになる。わずか二十年の間に栄光栄華を極めた平家は滅んだ。
「 祇園精舎の鐘の声、諸業無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」
ものがなしい琵琶の音色と、感情あるれる巧妙な語り口。平家物語は、琵琶法師の「語り」を媒体とする特殊文学として伝承されてきた。
室町初期の京都には、数百人の琵琶法師がいて多くの民衆に諸行無常の物語を語り聞かせていたという。しかし、その作者や成立年代については、諸説があって、現在も確定していない。 吉田兼好は、「徒然草」の中で、後鳥羽院の頃に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が創作して音楽的な節をつけ、盲目の法師に語らせたと書かれている。
小泉八雲の『怪談』の巻頭に「耳なし芳一の話」がある。 『平家物語』を語る琵琶法師芳一が壇の浦に没した平家の怨霊にさそわれて、赤間が関の墓所で、毎夜壇の浦合戦の悲劇を物語る。平家一門、まだ幼い安徳天皇を含む男女が入水する最も悲しい場面に達した時、一人の女がすすり泣きを始めると次から次へとすすり泣きが広がり、部屋中、すすり泣きと泣き叫ぶ声でいっぱいになる。悲しい物語の演奏は、多くの人の涙をさそうが、平家物語の中でも最終合戦であった壇ノ浦の合戦は平氏滅亡のシーンで圧巻である。
(画像は、下関市・みもすそ川公園にある船形の 「壇の浦古戦場址の碑」)
参考:
壇ノ浦の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6
壇ノ浦の戦い だんのうらのたたかい
http://db.gakken.co.jp/jiten/ta/306480.htm
壇ノ浦の合戦、平家の最期
http://www.globetown.net/~hara_1962/GENPEI/genpei_11.html
源平合戦(壇ノ浦の戦い)ーー平氏滅亡
http://www.kamakura-burabura.com/rekisiyositunedannourakassen.htm
平家物語 敦盛の最期─『現代の国語』基本情報-三省堂 ことばと学びの宇宙
http://tb.sanseido.co.jp/kokugo/kokugo/j-kokugo/baseinfo/2nd-honpen/heike.html
徒然草
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/tsuredure/turedure4.htm
解説「耳なし芳一」
http://www.so-net.ne.jp/storygate/story/yakumo/hoichi/index.html