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オートレーサー・遠藤誠の弟で、東大 → 日本ハムファイターズに進んだ遠藤良平の今

2018-12-04 02:51:42 | スポーツ
東大出身のプロ野球選手というと、燃えよドラゴンズで、「♪井出も西田も控えてる」というフレーズに出てくる井出峻と、大洋にいた新治伸治あたりが思い起こされる。


ちなみに、兄貴の誠は、2001年に船橋オート祭(GI)を制している現役のオートレース選手。




12/3(月) 8:00配信 東洋経済オンライン

アマチュア球界でどれだけいい成績を残しても、プロではイチからのスタートになる。将来を嘱望されたスターの多くが、夢破れてプロ野球界を去った。これまで東京大学のエース6人がプロ入りしたが、現役の宮台康平(北海道日本ハムファイターズ)以外は成果を残すことなくユニホームを脱いでいる。
プロ野球を選ばなかった怪物たち』の番外編で、東大エースが自身の野球人生を振り返った。あの決断に後悔はないか? 

 90年以上の歴史を誇る東京六大学リーグのなかで、東京大学だけは優勝したことがない。チームとしてはBクラス、最下位が定位置ではあるが、これまで6人のピッチャーがプロ野球に飛び込んでいる。2017年秋のドラフト会議では宮台康平が北海道日本ハムファイターズから7位指名を受け、話題を集めた。

 しかし、宮台以前にプロになった選手は、数年後にひっそりとユニホームを脱いでいる。

 1999年ドラフト会議でファイターズから7位指名を受けた遠藤良平もそのひとりだ。進学校として知られる筑波大学附属高校を卒業後、一浪の末、1996年に東大に入学した遠藤は、4年間で 57 試合に登板し、8勝32敗、防御率3.63という成績を残した。東大歴代5位の勝利数(平成では最多)を記録したサウスポーだ。

 しかし、現役時代はわずか2年で、一軍登板は一度だけ。ひとりのバッターに2球投げて、ヒットを打たれ降板している。プロでは実力を発揮することができず、2シーズン目が終わるころに戦力外通告を受け、ユニホームを脱いだ。

■神宮球場で投げるために東大を選んだ

 遠藤の子どものころの目標は「早実のユニホームを着て甲子園に出る」ことだったが、進学先として選んだのは早稲田実業ではなく筑波大学附属高校だった。

 「中学時代は野球がうまくいっていなくて、野球だけで勝負する自信がありませんでした。それで、野球は強くなくても学力の高い高校を選びました。もちろん、野球が好きだし、甲子園に出たいと思ってはいたんですが……」

 しかし、野球オンリーの日々を選択しなかったことで、新しい自信を得た。


 「弱いチームだったんですが、中心選手として試合に出て、改めて野球の楽しさ、チームを背負って投げる喜びを感じました。試合に負けたとしても、マウンドの上で勝負したいと思えました。

 でも、三年の最後の夏が近づくにつれ、高校野球の終わりが見えてくるわけです。ドラフト会議で指名されるような選手、大学、社会人のチームから誘われるくらいの選手でなければ、卒業後にどこで野球を続ければいいのかよくわからない。僕もそうでした」

 自分が通う高校のレベルを冷静に考えると、甲子園出場は現実的な目標にはなりえなかった。遠藤が近い将来の目標として掲げたのは、東京六大学でプレイすることだった。神宮球場で投げるための現実的な選択肢として、東大が目の前にあった。

 「高校時代は弱小チームながら、野球に青春をかけているという自負はありました。でも、バリバリの進学校なので、卒業してからも野球を続ける人は多くない。みんな、高校で終わり。でも、僕はもうひとつ上のステージで野球を続けたかった。東京六大学は知名度があって、週末に試合を見ることもできました。

 先のステージを考えたときに、『神宮球場で投げたい』と強く意識するようになりました。自分の野球のレベルを考えれば、神宮球場のマウンドに上がるためには東大に入るしかない。そういう結論になって、東大を第一志望にしました」

■ひとりのピッチャーとして戦って敗れた

 高校時代に完全燃焼できなかった球児にとって、東京六大学は最高の環境だった。甲子園で活躍したスターと同じ条件で勝負できるからだ。

 「東大野球部は、浪人して入ってくる人が半分以上。東京六大学で野球ができる、神宮でプレイできるというのが、みんなのモチベーションでしたね。野球がうまいかどうかは別にして、東大の選手は自分の意志で大学を選び、野球部に入る。『大学で野球なんかやるべきじゃない』と反対されても、それを突き破って野球をする。誰にも『野球をやれ』と言われないのに(笑)。『やりたいからやる』というのが、東大野球部のひとつのアイデンティティですね」


遠藤が神宮のマウンドを踏んだとき、東京六大学で活躍していたのが、慶應大学の高橋由伸(元読売ジャイアンツ)と明治大学の川上憲伸(元中日ドラゴンズなど)だった。

 「『こんなすごい選手と対戦できるのか』と、楽しみなような、怖いような感情を覚えました。自分が同じマウンドで投げ合えるとは、到底思えなかった。でも、入学して登板のチャンスをもらったら、自分でも驚くほどすんなりプレイできました。1年の春にデビューして、秋には2戦目の先発をさせてもらいました」

 遠藤はその後、卒業するまでの4年間、東大のマウンドを守り続けた。そのうち、プロ野球に進むことを目標として考えるようになった。

 遠藤は東大の練習を離れ、社会人野球のチームに泊まり込みで出稽古に行くようになった。日本石油(現・JX ENEOS)、東芝、東京ガス、三菱自動車川崎……東大よりもはるかに高いレベルのなかでもまれることで、たくましさが増した。

 3年の春に1勝、秋に2勝を挙げた。4年生の春に2勝、通算8勝をマークして、ドラフト会議を待った(3、4年の4シーズンで、34試合に登板)。1999年ドラフト会議で7位指名を受け、晴れてプロ野球選手になった。

 しかし、遠藤がプロ野球で日の目を見ることは一度もなかった。一軍登板は2年目のシーズン終盤の1回だけ。二軍でも登板機会は少なかった。

 「プロ野球で壁にぶつかりました。高いレベルに入っても順応できると思っていたのに、初めて限界を感じました。僕はプロでたった2年しかプレイできなかった。もう少し時間があれば……自分では成長しているという実感もあって、ここでならもっと成長できると思っていました。

 でも、プロ野球はそんな理由で続けられるところではない。一軍でチームを勝たせられるかどうかのところまでいかないと価値がありません。もしあと3年やったとしても、そこまで到達できるかどうか……難しいだろうと自分でも感じていました」


■25歳で受けた非情通告

 戦力外通告を受けたとき、まだ 25 歳だった。

 入団したときから、引退後には球団に残ることが決まっているのではないかという声が、遠藤にも聞こえていた。選手としてではなく、東大卒のキャリアを評価されたのだと。

 だが、入団時に引退後の身分を保障する「約束」などなかった。

 「僕はその年のドラフトの最下位指名だったし、実力的に劣っていることは認識していたので、そう言われることも覚悟していました。でも、実際にそういうことはありません。あくまで選手としての実力を評価されて入団したと思っているし、選手以外の立場で球団と関わるつもりはまったくありませんでした。純粋にプレイヤーとして、ひとりのピッチャーとして勝負をして、それに敗れただけです」

 戦力外通告を受けたあと、ファイターズから職員として球団に残らないかと要請があった。しかし、受けるつもりはなかった。

 「プロの2年間は自分にとって大きな挫折でした。まだ若かったし、少し前まで一緒にプレイしていた仲間がユニホームを着ているのに、彼らとどんな気持ちで接すればいいのかわからなかった。挫折感を抱えたままで、いい仕事ができるはずがない。

 それまで野球のことだけを考えて、野球だけを見て生きてきたので、視野を広げるためにも自分のお金と時間を使って海外に行こうと考えました」

 野球選手ではなくなった自分が、新たに情熱を注げるものを見つけたかった。しかし、具体的な計画があったわけではない。

 「そんな僕の気持ちを察してくれたのかどうかわかりませんが、ファイターズから『メジャーリーグの球団で勉強してはどうか』という話をもらいました。そんなチャンスは自分の力だけでは手に入れることはできないと思って、ありがたくお受けすることにしました」

 プロでの2年間、地道に努力する姿が認められたからこそ、球団から職員として残ってほしいと要請されたのだろう。どこかで誰かが遠藤のことを見ていた。


「野球に一生懸命に取り組む姿勢が認められて、その後の仕事につながったのかもしれません。ヘタはヘタなりに頑張ったことが。プレイヤーとしては報われなかったけど、長い目で見たらそんなことはなかったということかな。努力は“必ず”報われるわけではなくても」

 遠藤がユニホームを脱いでから20年近くが経った。チーム強化部編成企画、ベースボールオペレーション・ディレクターを経て、現在はファイターズのGM補佐を務めている。

 「強いチームをつくるうえで、一軍のチーム、二軍の現場、アマチュア選手のスカウティングという3つが大切。僕はGM補佐として、それぞれがうまく機能するように現場に足を運んでコミュニケーションをとっています」

 ファイターズは、ダルビッシュ有、中田翔、大谷翔平など、高卒の新人選手の育成に定評がある。育成プランをつくり、それに沿って成長の度合いをチェックするのも遠藤の仕事だ。

 自身が完全燃焼できなかったからこそ、才能を伸ばすための環境づくりに遠藤は心を砕いている。

 「僕たちの仕事は、選手たちのためにきちんとした環境を整えてあげること。ファイターズに入ったからには、『やれることをやり切った』『才能もすべて出し切った』と思ってほしい。その環境づくりを意識しています」

■「自分がやりたいかどうか」が指針

 できるかどうか、ではなく、やりたいかどうか。

 人生の岐路に立ったとき、遠藤はそれで判断してきた。遠藤がプロ入りを表明したときには、反対する人がたくさんいた。「プロで成功するはずがないじゃないか」と。

 「東大OBには、『本当にそれでいいのか?   世の中にはおまえの知らない、もっと大きな世界があるんだぞ』と言われました。 『成功すると本気で思っているのか』とも。でも、僕が人生の選択をするときに、『できるかどうか』という判断基準はなかった。

 できるとわかっていたら、面白くないじゃないですか。そういう声を聞いて、逆に『プロ野球の世界に挑戦してやろう』と思いましたし、しっかりとした覚悟を持てました」


成功するかどうかで考えれば、明らかに分が悪い。成功確率というものがあるとすれば、かなり低かったはずだ。だが、遠藤はそこを見なかった。そもそも、成功するかどうかなど、誰にもわからない。

 腕に覚えのあるアスリートなら、当然、少しでも高いレベルで戦いたいと思う。東大でエースになり、通算8勝を挙げた遠藤が、プロ野球を目指したのは自然の流れだ。

 「結果的にいま、GM補佐という仕事についているので、引退後の規定路線のように思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。

 僕は選手以外の立場でプロ野球の世界で働こうとは少しも思っていなかった。現役選手のとき、そこに魅力は感じませんでした」

 好きな野球で、高いレベルで勝負したいという思いがあった。全力を注いだ結果、いまにつながる道ができたのだ。

 「スポーツをやっている人間なら、もっとレベルの高いフィールドが目の前にあって、それにチャレンジする権利があったら、当然やるでしょう。僕はほかの職業と比較することはなかった」

■プロ野球を選んだ人生がもたらしたモノ

 遠藤は42歳になった。同じ1976年生まれのプロ野球選手はみな、ユニホームを脱いだ。

 「東大の同期は40歳を過ぎ、会社のなかで差が出始めるころです。一流企業で着実に階段を上がっている人もいれば、そうじゃない人もいる。仲間からは『遠藤はいいよな。おまえの人生のなかで、出世とか収入とか関係ないんだろう?』と言われます。

 全然関係ないわけじゃないんだけど、そういうことに縛られていないように見えることは、ありがたいことかもしれません。プロ野球を選んだ時点でそう思われたようですね(笑)」

 (文中敬称略)

元永 知宏 :スポーツライター


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