
321人はなぜ亡くなった 安心して暮らせるはずの場所で何が NHK 2025年7月1日 17時16分
カメラに向かって、ほほえむ女性。
子どものことをいつも気にかけてくれた家族思いの母親でした。
能登半島地震のあと、入所していた介護施設で体調を崩し、その後、災害関連死で亡くなりました。
「手を尽くしてくれた施設には感謝しかありませんが、地震さえなければ…」
遺族は、1年半たった今も行き場のない悲しみを抱えています。
”救えるはずの命”が、なぜ失われたのか。詳しい経緯を分析しました。
遺族の悲痛「施設にいれば大丈夫だと」
石川県輪島市の國田欽也さん(63)は、母親の國田斉(ひとし)さん(当時87)を亡くしました。
市内の特別養護老人ホームで生活していた斉さんは、6年前に脳梗塞を患い、要介護3の認定を受けていました。
認知症もありましたが、地震が起きる前の月に家族が面会した時には、会話をしたり自分で食事したりするなど元気な様子だったといいます。
國田欽也さん
「施設では、いろんなイベントを開催するたびに写真を撮ってくれていて、会いに行けない時でも『元気でやっているな』『笑顔でちゃんとやっているな』と思って、安心して母のことをお願いしていました」
しかし、去年の元日に起きた能登半島地震のあと体調を崩し、10日後に意識を失いました。このため、斉さんは、金沢市内の病院に移り治療を受けていましたが、去年5月に亡くなりました。
國田さんが施設から取り寄せた当時の介護記録には、地震のあと、斉さんの変化が記されていました。
2024年1月
・ 2日 独り言あり テンションが高い(※独り言はその後も続く)
・ 3日 落ち着きなくソワソワしている
・ 6日 床に座り込んで「頭とおしりが痛い」と訴える
・ 8日~9日 水分や食事がとれなくなる
・11日 「どこもかしこも痛い」と話し、その約2時間後急激に体調悪化
斉さんは、施設が被災したことで介護が限定され、過酷な生活で心身に相当な負荷がかかったなどとして、災害関連死に認定されました。
國田さんは、施設が母親にできる限りの対応をしてくれたと感じていますが、24時間介護が受けられる施設で体調を崩し亡くなったことにショックを受けています。
母親を災害関連死で亡くした國田欽也さん
「自分も被災し混乱している中で、母は施設にいれば大丈夫だという感覚はありました。施設には感謝しかありませんが、地域全体でもっと備えがあれば守られた命もあったと思います。地震がなければ母はまだ生きていたと思うので、この憤りをどこにもっていけばいいのか、わかりません」
”極限の状態”の施設で
当時、施設で何が起きていたのか。斉さんが入所していた特別養護老人ホーム「みやび」に話を聞きました。
当時入所していた高齢者は50人。地震の影響で、断水や停電の被害を受けました。電気がつかない中、午後4時に日が落ちると施設の中は真っ暗になりました。このため、日没から日が昇るまでの15時間ほどは入所者を寝かせておくことしかできませんでした。暗さに不安を訴える入所者も多く、職員が夜通し見回りをしたということです。
当時のことを語る施設長
暖房器具のエアコンは、停電で使えず、入所者たちは持っていた服を何枚も重ね着して、備蓄していた毛布をかぶってしのぐしかなく、体温が下がっていた入所者には職員が一緒に布団に入って温める極限の状態だったといいます。
また、施設があった地区は地震で孤立し、支援物資の見通しも立たなかったことから、備蓄していた3日分の食料でつなぐため、栄養士の指導で1日3食から2食に減らしました。支援物資は1週間ほどで届きましたが、調理に必要な燃料が不足していたことから、その後も1日2食の状態が続きました。
介護に当たる職員も被災し、出勤できる人が限られていたため、入所者が避難するまでのおよそ3週間、同じ職員が昼夜を問わず対応する状況が続きました。
「みやび」 尻田武 施設長
「発災直後の極限の状態の中で命を守るためにできることは職員みんながやってくれました。高齢者は災害などアクシデントがあればすぐに弱ってしまいます。災害が起きても通常のケアができる体制が必要ですが、施設の努力だけでは限界があるため行政にはインフラや備蓄を強化する対策を進めてほしいです。介護施設で対策が進めば地域住民の避難所としても活用できると思います」
321人の死亡経緯で見えたこと
地震や津波などから逃れて助かったものの、その後の避難生活による体調の悪化などが原因で亡くなる災害関連死。
能登半島地震が起きてから増加の一途をたどり、ことし7月1日の時点で石川と富山、新潟の3県で災害関連死に認定された人は390人と、直接死の228人の1.7倍にのぼっています。
なぜ、救えるはずの命が失われたのか。NHKは災害関連死で亡くなった人の経緯などを独自に取材。県などが公表した資料に加え、遺族や関係者への取材で把握できた321人について分析しました。
その結果です。
年齢別では、最も多かったのが、90代以上で136人(42%)でした。70代以上で見れば299人(93%)にのぼり、高齢者がほとんどを占めていることがわかります。
死因で最も多かったのが、心不全などの循環器系疾患が105人(33%)で、次いで肺炎などの呼吸器系疾患が92人(29%)と、この2つで全体の6割余りにのぼりました。
介護施設で体調悪化が最多
さらに1人1人の死亡までの経緯を取材し、体調をどこで悪化させたのかを分析しました。
その結果、▽介護施設が121人(38%)と最も多かったことがわかりました。特別養護老人ホームで体調を崩した國田斉さんも、その1人です。
次いで▽最初に身を寄せた避難所が97人(30%)▽自宅が71人(22%)などとなりました。これらの中には、複数の場所で段階的に体調を悪化させていったケースもあります。
去年12月に201人を分析したときは、▽避難所が34%▽介護施設が33%でしたが、今回の分析で介護施設が最多となり、避難所を上回りました。
なぜ、体調を崩したのか。
取材で、さまざまな原因があったことがわかりました。
▽停電のため、たんの吸引器を使うことができなかった。
▽暖房器具が停電によって使用できない状況になった。
▽職員も被災したことで介護が十分に受けられる体制がとられなかった。
▽スプリンクラーの誤作動で水がかかり、着替えもできずに発熱した入所者がいた。
▽十分な介護ができず、別の施設へ移動。道路状況が悪い中、長時間移動したことで衰弱した。
介護施設では、多くの人が別の施設や病院などへの移動を余儀なくされました。
その回数を調べたところ、▽2回が40人、▽3回が15人、▽4回が9人、▽5回が3人で、▽6回にのぼった人も4人いました。
生活環境を改善するための移動にもリスクが潜んでいました。
今回の分析結果について、介護施設の防災に詳しい跡見女子学園大学の鍵屋一教授は、主にライフラインの途絶が長引いたことに加え、職員不足に対する支援体制の遅れが、影響したのではないかと指摘しています。
跡見女子学園大学 鍵屋一教授
「介護施設にはプロの人材もいるし、それなりに物資もそろっているだろうと思っていましたが、実際には介護施設で多くの方が体調を崩されてしまったことは本当に残念でなりません。
要因は大きく2つあると思います。まず停電や断水といったライフラインの長期間にわたる停止によって、食事や風呂などに影響が出てしまったこと。もう1つは支援の遅れが影響したのではないかと思われます。道路が寸断されて直接的に支援に入るのが難しかったほか、支援体制も十分ではありませんでした。介護施設は場所と物資よりも人手がなければ支援ができません。そのため人手不足も大きく影響したのではないかと考えられます。
高齢者は、慣れ親しんだ所で、慣れ親しんだ人と一緒に過ごすことで穏やかに過ごせるんですが、移動で知らない場所に行くと知らない人もいて、不安になったり不安定になったりして、だんだん体調が悪くなることが東日本大震災でもよくありました。移動はできれば避けたほうがいいと考えています」
過去の災害受け対策進むも…
介護施設では、過去の災害でも多くの命が失われ、国は介護施設に対して、▽災害の後も継続的に介護サービスが提供できるようBCP=業務継続計画の策定を義務づけたり、▽ライフラインの停止に備えて非常用自家発電設備や給水設備の整備に交付金を出したりするなど、防災対策を強化してきました。
その結果、地震が起きる前のおととし7月の時点で、BCPを策定した、または策定中の訪問介護事業者や介護施設は8割から9割にのぼっていたことが、国の委託で行われた調査でわかっています。
しかし、能登半島地震では、災害関連死を防ぐことができず、直接死を大きく上回りました。
跡見女子学園大学 鍵屋一教授
「まだ備蓄品や停電・断水対策も不十分で、対策として厳しいところが多いようですので、しっかりとした事業継続を1週間、あるいはその後も1か月頑張れる体制にはまだ至っていないなという感じはします。なかなか完璧な防災対策ができるという状況にはまだなっていません」
ライフライン途絶に備えて
こうした中、能登半島地震の経験や教訓を踏まえ、介護施設の中には対策を強化する動きもみられます。
石川県珠洲市にあるグループホーム「とうほうの里」は、地震で建物に大きな被害はなかったものの、停電が1週間ほど続いたほか、断水は解消するまで4か月余りかかりました。
当時、施設には17人が入所していましたが、停電の影響でエアコンが使えず、日中は1か所に集まってもらい職員などが持ち寄った灯油ストーブで寒さをしのいだということです。
また、断水で入浴や洗濯ができず、衛生環境の悪化に苦労しました。
こうした中、80代の男性が体調を崩して亡くなり、生活環境の激変による負荷が影響したなどとして、災害関連死に認定されました。
そこで地震のあと、施設は対策を始めました。
このうち、断水への備えについては、施設にもともとあった井戸に着目し、風呂やトイレ、洗濯といった生活用水を確保することにしています。
井戸水が活用できないことも想定し、保存用の水や携帯トイレを新たに用意するとともに、水やお湯を使わずに髪を洗うことができるシャンプーの備蓄を追加したということです。
停電に備え、ライトやカイロを新たに購入したほか、カセットコンロの備蓄を増やしました。
「とうほうの里」 作田佳代 施設長
「地震の影響で停電や断水が長期間発生することを想定できておらず、備えが足りていませんでした。災害が起きた時でも、できるかぎりふだんの生活を維持して入所者の命を守れるよう今後の災害に備えていきたいと思います」
人手確保の工夫
また、介護にあたる職員を確保するため複数の施設が連携する取り組みも始まっています。
石川県宝達志水町の特別養護老人ホーム「ちどり園」には、当時、およそ100人が入所していましたが、介護にあたることができた職員は自宅が被災したことなどもあり、通常の2割ほどにとどまりました。
さらに、地震発生の8日後からは避難所などから新たに10人余りを受け入れることになり、人手不足が一層深刻になりました。
被災直後の「ちどり園」の様子
こうした教訓から6月、東京と愛知、熊本の介護施設と協定を結び、被災した施設に対して職員の派遣や物資の調達、入所者の受け入れを行うことになりました。
同時に被災するリスクを避けるため、あえて遠くの施設と連携したということで、今後、他の地域の施設にも参加を呼びかけネットワークを広げていくことにしています。
協定を結んだ「ちどり園」の勘田施設長(右)
「ちどり園」勘田秀昭 施設長
「災害時は、公的な支援が届くまで時間がかかるのが現状です。近隣の施設であれば皆が被災してしまいますが、全国各地で協定を結べば、よりよい結びつきができるのではないかなと思っています。より迅速に支援を行うために職員どうしが交流を深めるなどして連携を強化したいと考えています」
「人や物の支援 国が司令塔に」
国も対策に乗り出しています。
能登半島地震の対応を検証した国のワーキンググループの報告書では、ライフラインの途絶や職員の不足を想定した介護施設の対策が不十分だったと指摘しています。
また、介護福祉士などの専門職が被災地に駆けつけて支援にあたる災害派遣福祉チーム=DWATの対応など人的な支援が遅れたことも課題に挙げられ、災害時に福祉支援を行うための制度がぜい弱で是正が必要だといった議論が高まりました。
これを受けて、ことし5月に国は災害救助法を改正し、福祉サービスを提供することも「救助」に該当するとして国が費用を負担することになり、DWATを介護施設などに速やかに派遣できる基盤が整えられるなど改善が図られました。
鍵屋教授は、こうした法改正の動きも踏まえ、国が司令塔として人や物資を届ける体制を構築していく必要があると訴えています。
跡見女子学園大学 鍵屋一教授
「高齢社会の今、災害時でも高齢者が安心して過ごせるような対策を取ることは最も重要なことで、介護施設はその“最後の守り手”とも言えるべき存在です。介護には人の手が欠かせないので、国には必要な物資だけでなく人的支援をしっかり行える仕組みづくりが求められます」
カメラに向かって、ほほえむ女性。
子どものことをいつも気にかけてくれた家族思いの母親でした。
能登半島地震のあと、入所していた介護施設で体調を崩し、その後、災害関連死で亡くなりました。
「手を尽くしてくれた施設には感謝しかありませんが、地震さえなければ…」
遺族は、1年半たった今も行き場のない悲しみを抱えています。
”救えるはずの命”が、なぜ失われたのか。詳しい経緯を分析しました。
遺族の悲痛「施設にいれば大丈夫だと」
石川県輪島市の國田欽也さん(63)は、母親の國田斉(ひとし)さん(当時87)を亡くしました。
市内の特別養護老人ホームで生活していた斉さんは、6年前に脳梗塞を患い、要介護3の認定を受けていました。
認知症もありましたが、地震が起きる前の月に家族が面会した時には、会話をしたり自分で食事したりするなど元気な様子だったといいます。
國田欽也さん
「施設では、いろんなイベントを開催するたびに写真を撮ってくれていて、会いに行けない時でも『元気でやっているな』『笑顔でちゃんとやっているな』と思って、安心して母のことをお願いしていました」
しかし、去年の元日に起きた能登半島地震のあと体調を崩し、10日後に意識を失いました。このため、斉さんは、金沢市内の病院に移り治療を受けていましたが、去年5月に亡くなりました。
國田さんが施設から取り寄せた当時の介護記録には、地震のあと、斉さんの変化が記されていました。
2024年1月
・ 2日 独り言あり テンションが高い(※独り言はその後も続く)
・ 3日 落ち着きなくソワソワしている
・ 6日 床に座り込んで「頭とおしりが痛い」と訴える
・ 8日~9日 水分や食事がとれなくなる
・11日 「どこもかしこも痛い」と話し、その約2時間後急激に体調悪化
斉さんは、施設が被災したことで介護が限定され、過酷な生活で心身に相当な負荷がかかったなどとして、災害関連死に認定されました。
國田さんは、施設が母親にできる限りの対応をしてくれたと感じていますが、24時間介護が受けられる施設で体調を崩し亡くなったことにショックを受けています。
母親を災害関連死で亡くした國田欽也さん
「自分も被災し混乱している中で、母は施設にいれば大丈夫だという感覚はありました。施設には感謝しかありませんが、地域全体でもっと備えがあれば守られた命もあったと思います。地震がなければ母はまだ生きていたと思うので、この憤りをどこにもっていけばいいのか、わかりません」
”極限の状態”の施設で
当時、施設で何が起きていたのか。斉さんが入所していた特別養護老人ホーム「みやび」に話を聞きました。
当時入所していた高齢者は50人。地震の影響で、断水や停電の被害を受けました。電気がつかない中、午後4時に日が落ちると施設の中は真っ暗になりました。このため、日没から日が昇るまでの15時間ほどは入所者を寝かせておくことしかできませんでした。暗さに不安を訴える入所者も多く、職員が夜通し見回りをしたということです。
当時のことを語る施設長
暖房器具のエアコンは、停電で使えず、入所者たちは持っていた服を何枚も重ね着して、備蓄していた毛布をかぶってしのぐしかなく、体温が下がっていた入所者には職員が一緒に布団に入って温める極限の状態だったといいます。
また、施設があった地区は地震で孤立し、支援物資の見通しも立たなかったことから、備蓄していた3日分の食料でつなぐため、栄養士の指導で1日3食から2食に減らしました。支援物資は1週間ほどで届きましたが、調理に必要な燃料が不足していたことから、その後も1日2食の状態が続きました。
介護に当たる職員も被災し、出勤できる人が限られていたため、入所者が避難するまでのおよそ3週間、同じ職員が昼夜を問わず対応する状況が続きました。
「みやび」 尻田武 施設長
「発災直後の極限の状態の中で命を守るためにできることは職員みんながやってくれました。高齢者は災害などアクシデントがあればすぐに弱ってしまいます。災害が起きても通常のケアができる体制が必要ですが、施設の努力だけでは限界があるため行政にはインフラや備蓄を強化する対策を進めてほしいです。介護施設で対策が進めば地域住民の避難所としても活用できると思います」
321人の死亡経緯で見えたこと
地震や津波などから逃れて助かったものの、その後の避難生活による体調の悪化などが原因で亡くなる災害関連死。
能登半島地震が起きてから増加の一途をたどり、ことし7月1日の時点で石川と富山、新潟の3県で災害関連死に認定された人は390人と、直接死の228人の1.7倍にのぼっています。
なぜ、救えるはずの命が失われたのか。NHKは災害関連死で亡くなった人の経緯などを独自に取材。県などが公表した資料に加え、遺族や関係者への取材で把握できた321人について分析しました。
その結果です。
年齢別では、最も多かったのが、90代以上で136人(42%)でした。70代以上で見れば299人(93%)にのぼり、高齢者がほとんどを占めていることがわかります。
死因で最も多かったのが、心不全などの循環器系疾患が105人(33%)で、次いで肺炎などの呼吸器系疾患が92人(29%)と、この2つで全体の6割余りにのぼりました。
介護施設で体調悪化が最多
さらに1人1人の死亡までの経緯を取材し、体調をどこで悪化させたのかを分析しました。
その結果、▽介護施設が121人(38%)と最も多かったことがわかりました。特別養護老人ホームで体調を崩した國田斉さんも、その1人です。
次いで▽最初に身を寄せた避難所が97人(30%)▽自宅が71人(22%)などとなりました。これらの中には、複数の場所で段階的に体調を悪化させていったケースもあります。
去年12月に201人を分析したときは、▽避難所が34%▽介護施設が33%でしたが、今回の分析で介護施設が最多となり、避難所を上回りました。
なぜ、体調を崩したのか。
取材で、さまざまな原因があったことがわかりました。
▽停電のため、たんの吸引器を使うことができなかった。
▽暖房器具が停電によって使用できない状況になった。
▽職員も被災したことで介護が十分に受けられる体制がとられなかった。
▽スプリンクラーの誤作動で水がかかり、着替えもできずに発熱した入所者がいた。
▽十分な介護ができず、別の施設へ移動。道路状況が悪い中、長時間移動したことで衰弱した。
介護施設では、多くの人が別の施設や病院などへの移動を余儀なくされました。
その回数を調べたところ、▽2回が40人、▽3回が15人、▽4回が9人、▽5回が3人で、▽6回にのぼった人も4人いました。
生活環境を改善するための移動にもリスクが潜んでいました。
今回の分析結果について、介護施設の防災に詳しい跡見女子学園大学の鍵屋一教授は、主にライフラインの途絶が長引いたことに加え、職員不足に対する支援体制の遅れが、影響したのではないかと指摘しています。
跡見女子学園大学 鍵屋一教授
「介護施設にはプロの人材もいるし、それなりに物資もそろっているだろうと思っていましたが、実際には介護施設で多くの方が体調を崩されてしまったことは本当に残念でなりません。
要因は大きく2つあると思います。まず停電や断水といったライフラインの長期間にわたる停止によって、食事や風呂などに影響が出てしまったこと。もう1つは支援の遅れが影響したのではないかと思われます。道路が寸断されて直接的に支援に入るのが難しかったほか、支援体制も十分ではありませんでした。介護施設は場所と物資よりも人手がなければ支援ができません。そのため人手不足も大きく影響したのではないかと考えられます。
高齢者は、慣れ親しんだ所で、慣れ親しんだ人と一緒に過ごすことで穏やかに過ごせるんですが、移動で知らない場所に行くと知らない人もいて、不安になったり不安定になったりして、だんだん体調が悪くなることが東日本大震災でもよくありました。移動はできれば避けたほうがいいと考えています」
過去の災害受け対策進むも…
介護施設では、過去の災害でも多くの命が失われ、国は介護施設に対して、▽災害の後も継続的に介護サービスが提供できるようBCP=業務継続計画の策定を義務づけたり、▽ライフラインの停止に備えて非常用自家発電設備や給水設備の整備に交付金を出したりするなど、防災対策を強化してきました。
その結果、地震が起きる前のおととし7月の時点で、BCPを策定した、または策定中の訪問介護事業者や介護施設は8割から9割にのぼっていたことが、国の委託で行われた調査でわかっています。
しかし、能登半島地震では、災害関連死を防ぐことができず、直接死を大きく上回りました。
跡見女子学園大学 鍵屋一教授
「まだ備蓄品や停電・断水対策も不十分で、対策として厳しいところが多いようですので、しっかりとした事業継続を1週間、あるいはその後も1か月頑張れる体制にはまだ至っていないなという感じはします。なかなか完璧な防災対策ができるという状況にはまだなっていません」
ライフライン途絶に備えて
こうした中、能登半島地震の経験や教訓を踏まえ、介護施設の中には対策を強化する動きもみられます。
石川県珠洲市にあるグループホーム「とうほうの里」は、地震で建物に大きな被害はなかったものの、停電が1週間ほど続いたほか、断水は解消するまで4か月余りかかりました。
当時、施設には17人が入所していましたが、停電の影響でエアコンが使えず、日中は1か所に集まってもらい職員などが持ち寄った灯油ストーブで寒さをしのいだということです。
また、断水で入浴や洗濯ができず、衛生環境の悪化に苦労しました。
こうした中、80代の男性が体調を崩して亡くなり、生活環境の激変による負荷が影響したなどとして、災害関連死に認定されました。
そこで地震のあと、施設は対策を始めました。
このうち、断水への備えについては、施設にもともとあった井戸に着目し、風呂やトイレ、洗濯といった生活用水を確保することにしています。
井戸水が活用できないことも想定し、保存用の水や携帯トイレを新たに用意するとともに、水やお湯を使わずに髪を洗うことができるシャンプーの備蓄を追加したということです。
停電に備え、ライトやカイロを新たに購入したほか、カセットコンロの備蓄を増やしました。
「とうほうの里」 作田佳代 施設長
「地震の影響で停電や断水が長期間発生することを想定できておらず、備えが足りていませんでした。災害が起きた時でも、できるかぎりふだんの生活を維持して入所者の命を守れるよう今後の災害に備えていきたいと思います」
人手確保の工夫
また、介護にあたる職員を確保するため複数の施設が連携する取り組みも始まっています。
石川県宝達志水町の特別養護老人ホーム「ちどり園」には、当時、およそ100人が入所していましたが、介護にあたることができた職員は自宅が被災したことなどもあり、通常の2割ほどにとどまりました。
さらに、地震発生の8日後からは避難所などから新たに10人余りを受け入れることになり、人手不足が一層深刻になりました。
被災直後の「ちどり園」の様子
こうした教訓から6月、東京と愛知、熊本の介護施設と協定を結び、被災した施設に対して職員の派遣や物資の調達、入所者の受け入れを行うことになりました。
同時に被災するリスクを避けるため、あえて遠くの施設と連携したということで、今後、他の地域の施設にも参加を呼びかけネットワークを広げていくことにしています。
協定を結んだ「ちどり園」の勘田施設長(右)
「ちどり園」勘田秀昭 施設長
「災害時は、公的な支援が届くまで時間がかかるのが現状です。近隣の施設であれば皆が被災してしまいますが、全国各地で協定を結べば、よりよい結びつきができるのではないかなと思っています。より迅速に支援を行うために職員どうしが交流を深めるなどして連携を強化したいと考えています」
「人や物の支援 国が司令塔に」
国も対策に乗り出しています。
能登半島地震の対応を検証した国のワーキンググループの報告書では、ライフラインの途絶や職員の不足を想定した介護施設の対策が不十分だったと指摘しています。
また、介護福祉士などの専門職が被災地に駆けつけて支援にあたる災害派遣福祉チーム=DWATの対応など人的な支援が遅れたことも課題に挙げられ、災害時に福祉支援を行うための制度がぜい弱で是正が必要だといった議論が高まりました。
これを受けて、ことし5月に国は災害救助法を改正し、福祉サービスを提供することも「救助」に該当するとして国が費用を負担することになり、DWATを介護施設などに速やかに派遣できる基盤が整えられるなど改善が図られました。
鍵屋教授は、こうした法改正の動きも踏まえ、国が司令塔として人や物資を届ける体制を構築していく必要があると訴えています。
跡見女子学園大学 鍵屋一教授
「高齢社会の今、災害時でも高齢者が安心して過ごせるような対策を取ることは最も重要なことで、介護施設はその“最後の守り手”とも言えるべき存在です。介護には人の手が欠かせないので、国には必要な物資だけでなく人的支援をしっかり行える仕組みづくりが求められます」