「1:9 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。
1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。」 (ヤコブの手紙)
まぁ、11節はともかく、この聖句と教義と聖約104章の
「15 万物はわたしのものであるから、わたしが意図しているのは、聖徒たちに必要なものを与えることである。
16 しかしそれは、わたし自身の方法で行われなければならない。見よ、富んでいる者を低くすることによって貧しい者を高くすること、これこそ、主なるわたしが聖徒たちに必要なものを与えるために定めた方法である。
17 地は満ちており、十分にあり余っているからである。まことに、わたしはすべてのものを備え、人の子らが自ら選択し行動する者となるようにした。
18 それゆえ、わたしの造った豊かなものの中から取りながら、わたしの福音の律法に従って貧しい者や乏しい者に物を分け与えることをしない者は、悪人とともに、地獄で苦しみながら見上げるであろう。 」 (教義と聖約104)
16節は、同じことを指しているんだと、つまりは、主イエスの方法ですよねぇぇ、と思えたんだが・・・
ヤコブがそう言えたのは、おそらくは、使徒行伝2章でのすべての物を共有したという初期のクリスチャンたちの成功例を踏まえてですよねぇぇ・・・
ところが、あら不思議、英文聖典でも、どちらももう一方を参照聖句として挙げてないんですよねぇぇ・・・・うぅぅんん、関連してない?? ・・・・互いの参照聖句とすることで、少なくとも‘主の方法’に注意が向けられるよう、良い機会・材料を提供していたであろうにと。
LDS英文聖典が出版されて40年近くが(1979~)、まぁ、それ以前もでしょうけど・・・・無視??
富める社会にあって、11節があまりに激し過ぎというか、現実にはそうではないことのほうがということか??
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