ネットには(日本語圏)、マタイ伝にある神の国と義を求めよの意味を解説してるのは、多々様々ありますが、ペテロの勧告であるところの召しと選び(召されて選ばれること)を確かなものとすることと同義であると結びつけてるふうなのは、目下、皆無の模様。これが本邦初お目見えか??!!
「神の王国 義 求めよ 召し 選び」の検索結果 - Yahoo!検索
“まず神の国と神の義とを求めなさい”は、“まず、あなたの召しと選びを確かなものとしなさい、それらを確かなものすることを求めなさい。そうする過程で神の義をあなたは身に受けることになるでしょう・・”みたいな??!!
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「6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
」 マタイ伝
“まず神の国と神の義とを求めなさい”・・欽定訳を見ると “33 But seek ye first the kingdom of God, and his righteousness; and all these things shall be added unto you”
「1:10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。
」 第2ペテロ
まずは、ですねぇ、“教会“の定義から、
「10:67 見よ、これはわたしの教義である。すなわち、だれでも悔い改めてわたしのもとに来る者は、わたしの教会である。
68 だれでもこれ以上のこと、あるいはこれに及ばないことを告げる者は、わたしにつく者ではなく、わたしに反対する者である。それゆえ、その人はわたしの教会に属する者ではない。
」 教義と聖約
解するに、人は基本独立した存在なわけで、組織上のどの教会に属したとしても、各自は、一人々固有の、主イエスからみて“わたしの教会”となります。
で、主から見て、尊い価値ある存在である、その一個人という“わたしの教会”、すなわち“主の教会”が、いわば高められた状態になるべく、勧め命じられているところの、“神の王国”を求めよ!!は、主の教会から神の教会、神の王国、神の選民と呼ばれるようになりなさい!!、神の教会、神の王国、神の選民へと発展していくように!!、と言い換え得る、解釈し得るということに着眼でしょう!!
“神の王国”の同義語には、“神の教会”、“神の選民”があります。【--- 参照 教義と聖約84:34、英文で(".. become .. the church and kingdom, and the elect of God")とあり、‘神の教会、王国そして選民となる’とありますように並列に置かれ、同義となりましょう。“主の教会”から“神の教会”へは、神の御子の教会から父なる神の教会へと解すことに ---】、
どのようにして高められ進歩発展していくのか、その栄光への道の過程は??!!
「3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
」
から、教会員となる時に受ける、罪の赦しの水に沈められるバプテスマと‛聖霊を受けなさい’と言われ聖霊が伴侶となって賜物を受ける資格を授けられる確認という二つの儀式が、“私の教会”であることのスタート地点なのでしょう。
より狭義では、教義と聖約84章から、二つの神権の召しを受けることが出発時点に。召しと選びを確かなものにするとは、召されることでスタートするわけです。
そして、神の王国という最終地点への到達は、神の王国すなわち神の選民になった、選ばれたということと同等の意味合いなのでしょう。
自身の召しと選びを確かなものとするは、英語、“having one’s calling and election made sure”
で、モルモンウイキから
「自分の召しと選びを確かにすることは、ジョセフ・スミスの教えからきています。新約聖書にあるペテロの書物にも教えられています。末日聖徒イエス・キリスト教会の現代の指導者たちの教えでは、あまり言及されていません。
聖句ガイド(英文)によると、「キリストの正しい信者は、昇栄の保証を得る選民の一人に数えられることができます。この召しと選びは、悔い改めとバプテスマによって始まります。そして、「キリストの言葉を糧として前進し、最後まで耐え抜く」(2ニーファイ31:19-20)ときに完成します。聖書はこのプロセスを,わたしたちの召しと選びを確かにすることと呼んでいます(2ペテロ1:3-11;教義と聖約131:5-6)[1]。
ペテロの書簡には「召しと選びを確かにする」という勧めがあり(2ペテロ1:3-10)、「より確かな預言の言葉」(2ペテロ1:16-19)と関連付けられています。預言者ジョセフ・スミスは「より確かな預言の言葉とは、人が聖なる神権の力によって、啓示と預言の御霊によって、永遠の命に向けて結び固められていることを知ることを意味する」(教義と聖約131:5)と説明しています。
ペテロは、信仰、徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、慈善を身に付け、それを行使することが、「召しと選びを確かにし」、神の祝福を十分に受けるために必要だと述べています(2ペテロ1:5-7;TPJS『預言者ジョセフ・スミスの教え』ジョセフ・フィールデイング・スミス著 1938, p.305参照)。
これらの人格的資質を身につけることに加えて、召しと選びを確かなものにしたい人は、神殿の儀式を含む福音の儀式を受けなければなりません(教義と聖約131:2-3;132:19-20)[2]。
『預言者ジョセフ・スミスの教え』に記されているように、預言者は「主が(ある人を)完全に試して、(その人が)どんな危険・損得も顧みず主に仕える者と判定したとき、(その人は)召しと選びを確かなものにする」と教えています(TPJS、150ページ)。イザヤ、エゼキエル、ヨハネ、パウロなど、古代の預言者たちがそうであったことを示している(TPJS、151頁)[3]。
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」Calling and Election Made Sure - Mormonism, The Mormon Church, Beliefs, & Religion - MormonWiki
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