うぅぅんとね、この10:67ですが、まぁ、68でも補強、再度強調されてるわけだけど、全然、教会で引用されてない、教えられてない、強調されてないんですよねぇぇ。日曜学校教師用手引きやインスティチュート・テキストには、全然触れられてないですし、また、ざっとネットで検索ですが、総大会での説教が出てこないですねぇぇ・・・・
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=repenteth%20cometh%20%20%22the%20same%20is%20my%20church%22
総大会のお話で、この67節が引用されたのは、かつて3回ほどで、一番最近は1966年、ハロルド・B・リー長老の説教でということじゃんすな。
http://www.lds-general-conference.org/x.asp
内容とかってはわからないです。
たまWEB的には、67節は、
「そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、・・・・
」(ルカ伝 15:3~)
にも通じ、主イエスの人の子らへの大いなる愛、特には、主イエスを信じ、悔い改め、バプテスマを受けて、主イエスとの個人的関係を持った教会員を含めての、大いなる愛を感じさせるところではありますな。これまで、教師や指導者の目にとまらなかった?無視されてきたということに・・・・
教会運営者サイドからすれば、いやな聖句、管理上支障が出やすいとか、つまりは、まぁ、主イエスと一教会員との間にいる、教会指導者、幹部にとってみれば、直接主イエスと一教会員が結びつかれては困るみたいなぁぁ??
そういったことを強調されては、団体としてまとまりがつかない、ばらばらになってしまうみたいな??
しかし、それこそ、主の御旨に自信がないというか、御心から離れてしまっている可能性は??
霊感を受けて、この聖句を引用し、説き教え、主の御旨を知らしめる、聡明かつ勇気ある幹部や教師がおらんのかの??
うぅぅんん、まぁね、人間の組織だから、組織としての教会を発展させていくためには統制の必要がという力が働くんだろうなぁぁ・・・・使徒や予言者を土台とした、原始キリスト教会を回復してるという流れ・理解・名目があるわけで・・・・しかし、全く、この聖句を完全に無視ってどういうことなんすの??ヤバイんでは?!
上記、検索で66件しかない、アメリカ・英語圏教会員で、ネットにブログ等で書いてもらってありがたいもんです。
たまWEB、極最近、ディスカッション・英語のとか読んでて知ったんでしたぁぁ・・・・
教会員、云十年もやって、髪に霜が降りてだいぶなって、気づかされたかぁぁ・・・・全然、のんきにくらしておったたまWEB・・・・ネット参加機会、分かち合いの場、ありがたいもんです・・・・
まぁね、教会員個々人が、主イエスに近づくように、個人的に霊的な導きを得てといったことは、極々、基本的な教えで、教会員であれば誰もが聞いていることではあるんだけれどもね・・・・
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いやぁぁ、お恥ずかしい、‘教会’の定義があったんでしたね、
「67 見よ、これはわたしの教義である。すなわち、だれでも悔い改めてわたしのもとに来る者は、わたしの教会である。
68 だれでもこれ以上のこと、あるいはこれに及ばないことを告げる者は、わたしにつく者ではなく、わたしに反対する者である。それゆえ、その人はわたしの教会に属する者ではない。
」 (教義と聖約10)
悔い改めてわたしの下に来るもの、悔い改めの最初の実がバプテスマといいますから、水と霊とによって生まれ変わらなくてはということで、水のバプテスマと火のバプテスマ、すなわち聖霊を受けるべくの按手礼との二つの儀式を受けた人は、教会であると理解できましょう。
たった一人でも教会である呼べるんだと。英語でみますと、単数形(動詞など)になってますから、個々人の教会員・改宗者を指していることに。
組織としての教会、会衆の意での教会ばかりにとらわれてしまってましたかぁぁ・・・・
ひとりひとり、独立した存在であって、大いなる価値があるんだと・・・・
「10 人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。
11 見よ、主なるあなたがたの贖い主は、肉体において死を受けた。それによって、すべての人が悔い改めて自分のもとに来ることができるように、主はすべての人の苦を引き受けた。
12 そして、悔い改めを条件として、すべての人を自分のもとに導くことができるように、主は再び死者の中からよみがえったのである。
13 人が悔い改めるとき、主の喜びはいかに大きいことか。
14 あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶために召されている。
15 あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし、1人でもわたしのもとに くならば、わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。
16 さて、あなたがたがわたしのもとに導いてわたしの父の王国に入れるようにした、1人の人とともに受けるあなたがたの喜びが大きいならば、もし多くの人をわたしのもとに導くとすればその喜びはいかに大きいことか。
17 見よ、わたしの福音はあなたがたの前にある。わたしの岩、またわたしの救いがある。
18 与えられると信じて、信仰をもって、わたしの名によって父に求めなさい。そうすれば、あなたがたは人の子らに必要なすべてのことを示す聖霊を受けるであろう。
19 もしもあなたがたに信仰と希望と慈愛がなければ、あなたがたは何も行うことができない。
」 (教義と聖約18)