まぁ、はたして、マウントフォード女史は、大英帝国からの間諜・くのいち・女スパイであったのかどうか???
「ぱrt 18 。WEB・・・・ - 2009/04/10 15:48
公式の宣言(1890)後に、約250くらいの、多妻結婚式が、洋上やメキシコなどで執行されたといわれてるようだ・・・
”マウントフォード夫人は、1897年の冬、ソルトレークを訪れた。ジェームズ・E・タルメージ博士が、以前ニューヨーク・シティで聞き及んでいて、彼女をタバナクルでの講演者として招待。講演のある晩は、3週間にわたって、ほぼ満員。聴衆はどこでも、彼女の豊かな弁舌に魅了されたという。殊にモルモンの間で評判がよかった、というのは、彼女の故人となった父親が、1840年代、パレスチナの地をユダヤ人帰還の地として奉献しにやってきた、まだ若きオルソン・ハイド使徒をもてなし懇意になったと話したためでもあった、他には、聖徒たちに会えることを楽しみにしていたこと、自身は18歳のとき、クリスチャンではあったが、再度浸礼を受けたこと、父方先祖はエフライムにつながり、母方はメルケゼデクまでさかのぼれる等と語った。
ウッドラフ管長は、彼女の講演に何度か出席、彼女の受けのよいカリスマ的な性格に印象付けられた。二人はまもなく、人を通して紹介し合うに至り、彼女は殊のほか、管長に関心を寄せるふうだった。97年2月初めに会って以来、会う回数は倍加し、二人だけのとなっていった。3月、タバナクルで開かれたウッドラフの誕生会では、話者の一人としてマウントフォード夫人は招待され、超満員となった聴衆に向かい、ウッドラフ管長は、自分の特別な管長で、西半球のシオンに居れることを光栄ですと話した。ほどなくしてバプテスマを受け教会員となった。ウッドラフの日記には、7月、彼女が家を訪問してきて、’マッサージ療法のいくつかを施してもらった’とある。
彼女が講演のため、ソルトレークから離れていた時は何度も手紙のやり取りがあった。この時、金髪碧眼のマウントフォードは49歳、ウッドラフ、90歳だった。ウッドラフは慢性病を抱え、特に痛みの激しかったのは、前立腺肥大症であった。97年の春遅くに、懸かりつけの医者は、仕事を休んで海抜ゼロメートル地帯の海岸付近とかで静養することをアドバイスした、彼は西海岸を訪れることを思い巡らした、既に春、夏を講演や休養のため、西海岸にいた彼女に手紙でそちらに旅行することを手紙で伝えた、さらに秘書ジョン・ナトールを同伴する旅行計画をナトール秘書とたてた、その旅行は新聞記者らを避けた、内々のものとしてだった。妻エマと娘アリスに彼の計画を話したとき、二人は一緒に行きたいと言ったが、ノーと言われ不愉快であった・・・” 『Solemn Covenant』Carmon Hardy著 より、続きは 次回に
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&num=100&q=madame++talmage++woodruff++%22solemn+covenant%22&lr=
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自分的想像たくましくすれば、彼女は、大英帝国諜報部お墨付きの、使命を与えられた・・・
」
「ぱrt 18- 。WEB・・・・ 2009/04/10 15:48
ウッドラフ管長が、妻娘に旅行計画を話したのは、出発の前日でした・・
”9月9日、汽車でウッドラフは出立した・・・ナトール秘書の長大な日記は、残念ながら1894-99の間が欠けてしまっている。ウッドラフの日記のみがこのエピソードの資料なのだ。 オレゴン州ポートランドに着いた二人は、ホテルに仮名(偽名)で、登録した。9月16日、鉄道で南下、18日土曜にサンフランシスコに到着。そして翌月曜の20日、たった2日だけの滞在で、ポートランドへ、今度の行程は汽船で戻っている。おそらくは、乗船中の9月20日から22日の間、ナトール秘書が、ウッドラフ管長とマウントフォード夫人の結婚を執行したと思われる。
ウッドラフは9月23日ポートランドを出発、2日後、ソルト・レークに着いた。表向きは静養だが、ほとんどが移動に費やされていたことになる。この後、翌年ウッドラフが亡くなるまで二人の間で50通ほどの手紙のやり取りがあった。日記にはマウントフォード夫人ではなく’M’とだけしか書かれていない。マウントフォード夫人は西海岸にとどまり、10月はサンフランシスコ湾岸地域で、11月はロサンジェルス地区で講演をした。12月下旬にソルトレークに戻り、ウッドラフ家を数度訪問、翌1月には、生まれ故郷のパレスチナへ向かうことになり、それが二人が会った最後となった。タバナクルでの講演は、モルモンの間で、多妻婚擁護のためしばしば用いられるタラントのたとえ話についてであった・・・
・・彼女は、1890年2月3日に、英国人の公務員、チャールズ・エドウィン・マウントフォードと、インドのニューデリーで結婚、夫妻の間の一人子は、夫妻が、シカゴ万博(1893)時に、アメリカに移民した折に亡くなっている・・・”
マウントフォード夫人が亡くなった3年後の1920年、ウドラフ管長の息子たちは、二人の身代わりの結婚の儀式をソルトレーク神殿で行っている・・・
『Solemn Covenant』Carmon Hardy著 より・・
」
まぁ・・・・サンフランシスコくんだりまで出かけ、はてまた、ボヘミアン・グローブの会のことと何か関連は、ないのかどうか・・・・管長、客死となるわけで。毒殺の疑いも・・・・