「聖なる森」は、モルモンでは、予言者ジョセフが、どの教会に加わったらよいか祈り尋ねた時に、神と主イエスにまみえ、答えを受けた所なわけですが、この「聖なる森」という言葉使いに(その語を持ってきたことに)なんでやねん??とばかりに、たまWEB風いちゃもん、異議ありみたいな・・・・
単に、‘林’(woods, woodland)だけでよかったのにぃ、ジョセフの時代にだぁぁれも“聖なる森”/“sacred grove”なんていう言葉、その雑木林を指して、使ってなかったんだと。・・・・その林、スミス・シニア家がパルマイラに住んでた間、所有してた土地で、開墾されて畑になってた可能性も。まぁ、後に記念のためそれら土地を教会が購入していったことは、良い事ですが、この呼び名だよね、それには別の意味が昔からあったわけで・・・・
“聖なる森”は、英語で“sacred grove”で、この“grove”は、goo辞書では
(1 ((文))木立ち,林,小さな森. ▼forestより小さい a picnic grove/ピクニック向きの木立ち、a bamboo grove [=a grove of bamboo]/竹やぶ. 2 小さな果樹園,果樹の木立ち an orange grove/ミカン畑. 3 ((G-))…通り. ▼並木のある通りの名.)
となりますかぁぁ。
んぎゃ、旧約聖書欽定訳で、“grove”といえば(新約には、なし)、日本語聖書での‘アシラ像’(新共同訳では‘アシェラ像’)になってるんだわさぁぁ。複数形を含め、47箇所の節に出てきて、創世記21:33(‘ぎょりゅうの木’とある)を除き、あとはみんなアシラ/アシラ像。
例
出エジプト記・34:13 むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像(groves)を切り倒さなければならない。
士師記 3:7 こうしてイスラエルの人々は主の前に悪を行い、自分たちの神、主を忘れて、バアルおよびアシラ(groves)に仕えた。
士師記・6:25 その夜、主はギデオンに言われた、・・・・バアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像(grove)を切り倒し
列王紀下・23:7 また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像(grove)のために掛け幕を織る所であった。
イザヤ書・17:8 おのれの手のわざである祭壇を仰ぎのぞまず、おのれの指が造ったアシラ像(groves)
と香の祭壇とに目をとめない。
ミカ書・5:14 またあなたのうちからアシラ像(groves)を抜き倒し、あなたの町々を滅ぼす。
「アシラ(Asherah) アシラは、西セム系太女神アシェラトのヘブル読みである。古代イラン語asha(宇宙の法則)に由来するものと思われる。この法則は家母長の法則であって、古代ローマの自然法と同じようなものである。 旧約聖書の欽定英訳ではアシラは「木立」groveとなっている。しかし聖なる木立が女神の生殖器の中心、つまり万物生誕の場であるという説明はなされていない。母権制時代、ヘブライ人は木立の下で女神を崇拝した(『列王紀上』第14章 23節)。しかし父権制時代になると、改革者たちは女神像を切り倒し、アシラに仕える聖職者たちの骨を彼らの祭壇の上で焼いた(『歴代志下』第34章 4-5節)。女神の木立-女陰は「聖なる場所」Athra qaddisa(文字どおりの意味では「聖娼」)であった。アシラは、ときには、単に「神聖」と呼ばれた。・・・・
」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/asherah.html
「Grove, Sacred(聖なる森) 森は、古代の宗教では、洞穴の次に一般的によく知られていた子宮のシンボルだった。聖書に登場する古代セム族の場合も例外ではなく、彼らにとってアシュラは「森の母神」だった。森の中の巨木、柱、オベリスクなどは、多くの場合、この母神の胎内に宿っている男神(女神の子どもであると同時に愛人でもあった)を表していた。
「聖なる森」をさす共通の印欧語は、ネミNemi(ラテン語ではnemus)だった。このことは、「聖なる森」がネメシス、ディアーナ・ネモレンシス、ディアーナ・ネメトナといった「森の女神」に捧げられていたことを示している。ドルイド教のオークの森は、ネメトンといった。ストラボンStrabon〔64/3B.C.-21以後A.D.〕によると、小アジアにあったガラテヤ人(ゴール人)の最高の聖所は、ドルネメトン(ドルイドの森)だったという。スコットランド南部には、メディオネメトンという名の聖所があった。 フランス北西部のブルターニュ地方には、11世紀になっても、ネメトと呼ばれるドルイド教の聖なる森が残っていた。
」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/grove.html
娼婦 アシラ
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A8%BC%E5%A9%A6++%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A9&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
「カナン人が行っていた多産信仰とは多産の女神であるアシラとその相手であるバアル神を崇拝する信仰のことである。バアル神とアシラ女神の性交によって肥沃、豊饒、多産をもたらす力が与えられるというもので、多産の活動は神殿における売春という一つの儀式によっていっそう刺激されるものと信じられていた。申命記23/17,18をみると神殿娼婦、男娼たちは売春を行ってお金を稼ぐことにより、神々への献身ぶりを示した。エジプトで出土した飾り板に両手に蛇を持っているアシラ女神が描かれているものがあり、蛇とアシラ女神とは深い関連がある。
」
http://www.ijournal.org/IsraelTimes/history/katsurei.htm
「愚者の侃々諤々 (´▽`)ノ ◆ バアルと偶像崇拝 2008年11月27日
バアルは天候を司り、植物を育てる神として祭られ、アシェラという女神を妻として伴い、「平原の豊穣神」として一緒に拝まれることが多かったようです。これらの乾燥地域では嵐は豊饒の兆しですから、バアルは乾期・雨期の自然のサイクルに従い恵みの雨をもたらす豊饒の神だったのです。バアル神は雨や風や雲を支配する力を有しており、バアルだけが人間や家畜や作物を不妊や不作から,さらには死からさえ救い出せると考えられていました。そして、バアル神による保護がなければ、カナン人の執念深い神であるモトが必ず災いをもたらすとされていました。バアルを崇拝する人々は,安息日や様々な道徳上の制限といった律法の規定を守る必要は無く、イスラエル人に与えられた律法生活とは違い、自分たちにほとんど何も要求しない宗教でした。アシェラ神は元々フェニキア・カナン系宗教の豊穣女神で至高神エルの妻ですが、パレスチナに入って、土地の豊穣神バアルの妻として、一緒に祭られるようになったものです。このバアル(男神)とアシェラ(女神)が交わることによって、子供や家畜、作物の高収穫がもたらされると信じられていました。
また、カナンではアシュタロテという神も拝まれていました。これはバビロニアのイシュタルに相当する西セム人の豊穣女神ですが、イシュタルの戦争女神的な面は後退して、豊穣女神としての性格が強くなっています。旧約聖書では「天の女王」とか「天后」とも呼ばれています(エレミヤ:44章17節以下)。アシュタロテは、多くの異なった名前を持つ神でもあり、アスタルテ、アシェラー、アタルガティスとも呼ばれます。バビロニアでは「イシュタル」、ギリシアでは「アフロディテ(ビーナス)」と同一視されています。この女神は士師の時代にイスラエルに持ち込まれており(士師記:2章13節、サムエル第一:7章4節)、ソロモン王自身がこれを賞賛して背教に走り(列王記第一:11章5節)、ようやくヨシヤ王によって退けられました(列王記第二:23章13節)。この女神は、しばしば「バアル」と並んで対等の位置を占める女神として挙げられています(士師記:2章13節)。また、列王記第二23章4節には、「・・・バアルとアシラと天の万象とのために・・・」の、「天の万象」という言葉がアシュタロテを指しているとされることから、この女神が彗星やその他の天体の1つであったとも考えられています。
カナン、シリヤ地方の祭祀では、男性神のそばに一女性神を置くのが慣習でした。バアルのそばに「女性の主(Herrin)、バアラト(Baalath)」が置かれます。これは命を授ける自然の力を宿した偉大な女神「アシタルテ」ですが、この祭祀形態自体はローカルなものです。ただ、別の女神が特に有名になったり、男性神がより広い地域で崇拝されるようになっても、バアラトとしての女神は、ローカルの崇拝者の意識の中に特別な意味を持っています。この女神を祭って豊穣を祈る祭儀は性的なもので、その祭儀が行われる場所は「聖なる高台」と呼ばれ、神殿娼婦が置かれていました。また、彼等(カナン人)は神殿男娼や娼婦を「神聖な男女」として考えていました。生殖と豊穣が結びついて、豊穣を祈る祭儀に性的な象徴が用いられるのは、現在でも世界共通の現象のようです。これらの事からも、礼拝で売春や魔術が行われていたと容易に考えることが出来るでしょう。その他、モアブ人の神ケモシ、アンモン人の神ミルコムなどの神々のために聖なる高台が築かれ、祭儀が行われました(列王記第二:23章13節)。このような土地の神々は一括して「バアル」の名で呼ばれることもあったようです。このバアルの聖なる高台で、イスラエルの人々は豊穣繁栄を求めて、神話が語る神々の像を造り、その前で香を焚き、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸に耽り、神殿売春をし、時には息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのです(エレミヤ:19章5節)。
」
http://blog.goo.ne.jp/watapi_1968/e/ecba7c27c5360012599fc4f921a6b2d9
娼婦 アシュラ
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A8%BC%E5%A9%A6++%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
「Prostitution(売春) ヒンズー教のデヴァダシスdevadasis(寺院娼婦)のように、古代の中東の神殿では、娼婦-巫女が女神の恵みを分け与えた。彼女たちは美と善意の比類ない結びつき( カリス charis、ラテン語のcaritas)に関わっていたため、しばしばカリスたち、あるいは美の女神たちとして知られていた。charisはのちに「慈善」charityと訳されるようになる。実際にはカリスは、母の愛、優しさ、慰め、神秘的啓示、そして性交、がすべて一体となったヒンズー教の慈悲karunaと同様のものであった。
ヘシオドスは聖なる娼婦たち、すなわちホーラたちの官能的な魔術は「男性の行動を熟させる」と言っている[1]。バビロンの偉大なる娼婦イシュタルは告げた。「思いやり深き娼婦、それが私である」[2]。マグダラのマリアは、売春をしている彼女の姉妹について言った。「私たちは姉妹たちに思いやり深いばかりでなく、全人類に対して思いやり深いのです」[3]。
「娼婦たちの母」として、イシュタルは「太母神ハルHAR」と呼ばれた。彼女に仕える女大祭司ハリーヌHarineは、「イシュタルの都市」の霊的支配者であった[4]。HARはペルシア語のhouriとギリシア語のHoraと同語源である。また以前は「女性の神殿」あるいは聖所を意味したharemの語源でもある[5]。聖所の意味は、かつてはseraglio(後宮)にも付せられていた。seraglioはセム語のserai(王妃の神殿)から派生した語である。
古代の娼婦はしばしば高い社会的地位を占め、彼女たちの持つ学識は尊敬を受けていた[6]。パレスティナにおいてカデシェト(偉大なる娼婦)と呼ばれた天界の女王の化身のように、娼婦はギリシアと小アジアのミノア島の学問の中心地において、女王のように崇敬された[7]。実際に女王になった者さえあった。ユスティニアヌス帝の妻であるテオドラ皇后は、最初は神殿娼婦であり[8]、コンスタンティヌス帝の母である聖ヘレナは、皇后-聖人になる前は娼婦であった[9]。
アモリ人の聖なる法律によると、「結婚しようとする女性は、情交を行うために、(神殿の)門のそばに7日間座っていなければならなかった」[19]。このような法律は女神を宥めるためのものと考えられた。正式の結婚が行われず、子どもが自分の父親を知らなかった時代には、女神は一夫一妻制を喜ばなかったからである[20]。ギリシア神話では、太女神は、天界の父ゼウスに一夫一妻制を禁じ、自らが行った古代の集団婚が唯一正しい方法であるとした[21]。
踊る娼婦たちは「時間」Hoursと呼ばれるようになった。ペルシア語ではhouri(天女)、ギリシア語ではhorai(ホーラたち)である。エジプトの神殿娼婦もまた「時間を司る女性たち」であった。それぞれが夜の一定の時間を支配し、ラーが冥界で彼女たちの支配する時間内を通過する間、ラーの乗る太陽の舟を保護した[24]。「時間の踊り」は、ホーラたち(聖なる「娼婦」たち)の異教の儀式として始まった。ホーラたちは、キリスト教の修道士が後に昼間の時刻を祈祷によって保持したように、夜の時刻を踊りによって保持した。ヘブライ人の最も古い伝統的なフォーク・ダンスは、今でもなお、神殿娼婦の輪踊りに由来してhoraと呼ばれている。ホーラたちはまた天界の門を守護し、祝福された者の霊魂の世話をし、天界の球層を回転させた[25]。
セム族の1氏族である『創世記』第36章の「ホリびと」は、その家系をたどれば「ホーラ」としての太女神から出ていた[32]。ユダヤの民にはヨシュア王(紀元前640?-609?)の時代に祭祀娼婦がいて、彼女たちは神殿の隣に住み、聖なる木立のために掛け幕を織った(『列王紀下』第23章 7節)。聖書の現代訳は「神殿男娼」sodomitesと呼んでいるが、本来の言い回しは神殿娼婦を意味していた[33]。このような神殿娼婦はしばしば、「神の息子」すなわち予言者や、時には生贄の犠牲として捧げられる者を生むために、隔離されていた[34]。
中世にしばしば語られた話によると、修道女が修道院から抜け出して、数日間売春婦として生活しようと決心したとき、聖母マリアは迷える修道女の姿となって修道院で代わりを勤め、そのために彼女は失踪を発見されず、追跡されなかったという[57]。この話のドイツ版では、修道女のベアトリクスは修道院を出て、異教徒の恋人と15年間暮らした。再び修道院にもどったときに、彼女は、聖母マリアがその間じゅう彼女の代役としてお勤めを行っていたのを知ったという[58]。
中世の売春宿は、必ずしも女子修道院と明確に区別されてはいなかった。異教の巫女たちの集団であるcollegiaの痕跡が両方の組織にまつわりついていた。ひとつの共同体の中で男性と女性がともに住む初期の「共同修道院」は、ときには神聖な売春婦の宿となった。数人の教皇はローマに「聖なる売春宿」を持っていた。ナポリ王妃ジョアンナは、ローマ教皇庁があった(1307-99)アヴィニヨンの町に、「大修道院長」という名の娼婦たちの宗教的な家を建てた。ヴィクトリア朝時代には、歴史的な先例は忘れ去られたが、娼婦の女主人を、「尼僧院長」と呼ぶ習慣は、一般的なものとしてまだ残っていた[59]。
」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/prostitution.html#11
ドルイド いけにえ
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%89++%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AB%E3%81%88&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
聖なる森 ジョセフ
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%A3%AE+%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt