(2018-09-29) 「 移築元は「難波天王寺」か
・・・『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号とその細注は九州王朝の事績を記した貴重な史料であるが、その中に見える寺院創建記事は、先に紹介した白鳳の観世音寺と倭京二年に創建された難波天王寺の二つである。
「倭京 二年難波天王寺聖徳造」
『二中歴』「年代歴」
九州年号の倭京二年は六一九年に当たり、先の三条件の内の創建年代は該当する。もちろん、上宮法皇の多利思北孤の治世期間に相当する。問題はこの難波が大阪の難波なのか九州の難波なのかという点である。『日本書紀』によれば崇峻天皇即位前紀(五八七)に、「摂津の国に四天王寺を造る。」とあり、『二中歴』の記事とは創建年次が異なるのだ(推古元年条にも創建記事が見える)。しかも、名称も四天王寺であり、天王寺ではない。こうした点から、『二中歴』に見える「難波天王寺」は大阪の四天王寺のことではない可能性が高いと思われる。また、『二中歴』「年代歴」の細注は九州王朝の事績を記していることから、この難波天王寺だけ唐突に近畿天皇家の事績が記されているとするのは不自然である(注7)。
次に難波という地名であるが、福岡市に難波池という地名が残っており、そこが難波の候補地として有力視されている(注8)。この難波であれば筑前中域であり、九州王朝中枢領域内だ。また、観世音寺と共に『二中歴』に記されるほどの寺院であることから、その寺格の高いことは十分予想できよう。また、造った聖徳という人物も、後に大和の聖徳太子の事として盗用された、日出ずる処の天子の多利思北孤、あるいはその息子の利歌弥多弗利のことではあるまいか。
」 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou49/koga49.html
法隆寺 移築 https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%20%E7%A7%BB%E7%AF%89
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支配しておったんでしょうけど、物部氏のパワーでしょうか、が、しかし、いつの頃からでしょうか、朝鮮半島から新羅王家とかって、北九州経由じゃなくて、若狭湾ルートで、直接、近畿エリアに侵入してきて、並列王朝みたくなったんではあるまいかと・・・
源平藤橘とはいうけれど、長屋王は九州、阿毎王朝の直系だったのか・・・
いっぱいありすぎ、消化しきれないな・・・
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/index.html
多元王朝説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-4074.html
たまWEBの脳みそは単純、天智天皇==金春秋 なんです・・・あらゆる学者さん・研究者さんが、そこから出発してくれたらね・・・
日本が誕生できたのは、統一新羅が唐と同盟、その後、反発したんでしたね、その深慮遠謀があったればこそ、だったりな・・・