より一層の知識と光を求めて・・・・

時に末日聖徒/モルモン教への私見含むメモ帳にて御座候 ほな毎度どんもにて 御きげんよろしゅうで御座候

聖餐の祈りは英文の字義通りを強く望む の意見にて御座候

2018-05-26 09:17:23 | 聖文から・・・・

この日曜、先月の総大会アイリング副管長の説教(日曜午前の部)からレッスンでした。 タイトルは、

『御子の御霊を受けられるように』  https://www.lds.org/general-conference/2018/04/his-spirit-to-be-with-you?lang=jpn

『His Spirit to Be with You』  https://www.lds.org/general-conference/2018/04/his-spirit-to-be-with-you?lang=eng

で、これ、もとは聖餐の祈りから来ていまして、訳せば、‘主の御霊があなたがたと共にありますように’、とでもなりましょうかぁぁ。

でですねぇ、パンと水それぞれの祝福での ‘(いつも)御子の御霊を受けられるように’の部分は、たまWEBとしては、‘(いつも)御子の御霊が私たちと共にありますように’といった訳に断じて変更すべきと実は思ったりするわけです。

1996年末の末日聖典の改訂以前の佐藤龍猪訳(モルモン経・教義と聖約)では、御子の御霊が(常に)一同と共にましますよう といったふうですかぁぁ。この‘一同と共に’というのは、第2コリント13:13を参考にしたんでしょうか。流石ぁぁ、ネットの無い時代にしっかり分かってたんですね、きっと。

「13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」

「14 The grace of the Lord Jesus Christ, and the love of God, and the communion of the Holy Ghost, be with you all. Amen.」 (欽定訳では14節に。 日本語12節は、二つに分かれている)

英文の聖餐のその部分は、

「that they may (always) have his Spirit to be with them」(主の御霊が彼らと共に(いつも)ありますように といった訳になろうかと)でして、his は‘主の’、そして、they, them の3人称複数の彼らになってるのは、‘私たち’が主語で始まるんですが、その私たちのうちで、パンや水を取る人たちを指しているわけです。私たちはパンや水を取るすべての人たちであるsoulsを祝福されるよう願いますの一文が最初にあって、文法的には、このsoulsを指すことに。このsoul(s)というのは、身と霊とからなる人(々)という感じかな。

たまWEBが、思ったのは、

聖餐は更新の時ということで、車の免許でも、更新時、取得時の実地とかのと同じ試験をするわけではなくてぇぇ。‘聖霊を受けなさい’というのは、聖句にはないんですが、バプテスマの後の確認の儀式で言われる言葉で、毎回、毎回それを繰り返しては、ゼロからのスタートみたいで、どうなのかなって??

改宗した時に、ワードや支部の皆さんと一緒になるわけで、彼らと共に聖霊があるということは、原則、賜物は誰か彼かを益するように働きつつ、全体が益されていくみたいにして、個々の会員が互いに成長していくといった含みがあるんでしょうしねぇ。聖文には、

「19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。

20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。」  (マタイ伝18)

「 32 まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。一つのことについて2人または3人がわたしの名によって集まっている所には、見よ、わたしもその中にいる、とわたしが弟子たちに言ったように、まさにそのようにわたしはあなたがたの中にいるのである。
33 息子たちよ、善を行うのを恐れてはならない・・・」 (教義と聖約6)

ともありますけれど、さらに敷衍すれば、集会やワードや支部の一員であるところの有り難味みたいなのも感じさせたり、一人一人が貴重な存在で、会員たちの中に互いに愛し合うという雰囲気を醸し出させるといった効果が、その一同と共にあるように(あなたたちと共に・彼らと共にあるように)という文言からは察せられるというものでしょう。

ところが、現行の‘御子の御霊をうけられますように’では、個々人に分断されてしまってる感じで、本来の文言の持つ重みや賜物の働きへの理解、また他者への感謝の気持ち等々を汲み取れる余裕はなく、それらを消えさせてしまってるんでは至極残念(これってちょっと恐ろしいことなんでは??)・・・言霊とも言いますがな。

まぁ、何よりもかによりも、聖餐という儀式への尊重がねぇぇ、大胆不敵にも文言変えちゃってるわけですからねぇぇ。よっぽどの何かが・・・どういった観点からだったんでしょうねぇ?? 興味のあるところではあります。(変更一覧表とかって??) 

普通はぁ、儀式文である英文にそって、その通りにというような、常識というか心構えが働くんでしょうけどねぇぇ・・・

そのへんがさぁ、はてまた、

1990年代後半以降、教会の伸び悩みと連動してるんでは??・・・まぁ、ネットによる影響大でしょうけど。この聖餐の祈りの言葉も、かなり影響してるんではと、教会員同士の持つ相乗的な力を弱めてしまった??ワードや支部の会員たちに顕れる霊的な何かが見えてこなくなる??・・・・はたしてその変更・改訳文は御旨にはそってはなかったんでは??と・・・

たまWEBが、教会の上のほうの人だったら、失われた20年弱を取り戻すべく今日明日にでも、その部分は、‘(いつも)御子の御霊が一同と共にありますように’とするよう、全日本語圏に徹底指示したいところですがなぁぁ・・・ま、そういうの、思い込みだらけかつ思い上がりの世間知らずっていうんでしょうけど。しかしぃ、誰もこれまで何も言ってなかったんですかねぇ・・・即、変わってほしい気はするんですけどねぇぇ・・・

たまWEB、間違えてますかねぇぇ??

正しいとしたら、こういった肝心要みたいなのが欠けてたってことでしょうかぁぁ、気付いていた人はいたんでしょうけど、意見して聞かれる仕組みが教会にないからなんでしょうねぇぇ・・・

まぁ、信仰の程度は人それぞれとはいうけれど、聖餐の祈りの言葉が本来のとは違ってるというんでは、そこはしっかり直したいもんですよねぇぇ・・・・

  統計グラフは 

日本の教会員数  その7   2017-03-07


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