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長髄彦・ナガスネヒコ

2020-10-31 14:10:18 | わかってみたいな、日本古代史

長髄彦

「安日長髄二祖再葬事     仁徳帝御宇30年5月 立里の長髄彦の墳、洪水にて盛土割流して・・・於瀬洞塚に再葬せり。

安日彦 七尺七寸 肩二尺五寸
長髄彦 七尺九寸 肩二尺七寸

『東日流外三郡誌』1古代編(上)p334 八幡書店 1998 新装版

七尺は212センチ、九寸は27センチで、2メートル40センチ、肩は鎖骨? まぁ、巨人遺伝子持ってたんでしょうかねぇぇ。

母方先祖に、中世の秋田県は仙北戦国大名小野寺氏の支城領主大井氏に仕えてた家臣がいたらしく、ある書にその領主も七尺で、太閤関白に謁見したと。領主の母方は小野寺氏、小野寺氏には数代、秋田物部氏と縁組されてて(『秋田物部文書伝承』進藤孝一 無明舎出版 2016)、その秋田物部氏にもしかすればアラハバキ系統の津軽安藤一族の血筋が入ってきてて、そのDNAが発現したのかも?!


父方先祖では、中世会津の地域で一土豪であった富田一族が・・・その系図で、代々通り字が長・・・富は登美、長が長髄からだったりしてな?? 一族分かれて、伊達氏、葦名氏、相馬氏に各々配下となった。

富田氏 会津
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%B0%8F%20%E4%BC%9A%E6%B4%A5&ei=UTF-8
通字
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%80%9A%E5%AD%97&ei=UTF-8


「小野田寛郎インタビュー ・・・

小野田  最後には、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬って、それで(名草)も降伏したんです。ニギハヤヒは、(当時の大きな勢力の)行政顧問をして、ヤマトに入る前は藤白(海南市藤白)にいた。ナガスネヒコの娘と結婚して、子供が何人もいた。そのうちの二人が残っている。ひとりは藤白神社の宮司さん。もう一人は大字鳥居の資産家Kさん。二人がナガスネヒコとニギハヤヒの子孫と伝わっている・・・

(ナガスネヒコは)紀の川下流にいた土着の種族ですからね。だから、ナガスネヒコはそこから出て、勢力が拡大したからヤマトへ入ったわけですから、名草郡か、あるいは南海のどちらかの出身だったんだと思います・・・

小野田寛郎氏に取材した際、いろいろと面白い話を聞いたが、本に収まらなかった話がいくつかある。そのひとつが❝名草戸畔は長身だった❞という説だ。‘小野田口伝’は小野田寛郎が戦争に行く前にお父様から聞いた話で、外部の誰かによって手が加えられた話ではない・・・あれはつい先日のことだった。ふらっと入った近くの古書店で、興味深い本を見つけた。タイトルは『神武移住団と結んだポリネシアンの秘史 --大和王朝の水軍』(双葉社)。著者は中島洋氏。目次を読むと、第一章のタイトルが‘ポリネシアン、熊野に来たる’だ。わたしはこの本を目にしたときに、小野田氏が語ってくれた‘ナグサトベ長身説’だった・・・

紀北のナグサトベに対して、紀南熊野を治めていたと伝わる女王・丹敷戸畔(ニシキトベ)にまつわる、興味深い話がある・・・古文書によると、ニシキトベの墓といわれている塔の下に、長身の成人の朽ちた骨が瓶に収められていたという。ニシキトベは、紀北のナグサトベ同様、神武にはむかって殺されたと伝わる伝説の女王だ。長身の骨が本当にあったかどうか確かめようがないが、長身の女王と聞くと、鉄の農具をもって攻めてきた軍勢と戦った与那国島のサンアイ・イソバを連想してしまう・・・

」『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』p105‐6、213-4、239-40 なかひらまい著 2013 増補改訂 スタジオ・エム・オー・ジー


名草戸畔・ナグサトベ  「日本書紀や和歌山市の伝承に登場する、神武東征と戦った人物である。伝承によると女性。 名草戸畔は日本書紀での名で、地元では名草姫(なぐさひめ)とも。
」 https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E8%8D%89%E6%88%B8%E7%95%94&ei=UTF-8 

「二〇十四年一月一七日の朝、小野田寛郎氏が逝去されたとの報せを受けた。 追悼の思いを込めて小野田さんの想い出を振り返ってみたい。 2013年5月5日、テレビ和歌山・和歌山放送主催により和歌山市で行われた講演会「なかひら まい 小野田寛郎 名草戸畔を語る」の様子。小野田寛郎氏が名草戸畔について語る最初で最後の講演となった。

小野田寛郎(おのだひろお)私が小野田さんと初めてお会いしたのは、二〇〇六年十一月のことだ。「名草戸畔(なぐさとべ)伝承」についてお話を伺うためだった。名草戸畔とは、はるか縄文の昔、名草地方(現:和歌山市海南市)を治めていたとされる女性首長のことだ。 小野田さんの実家は海南市小野田の「宇賀部神社」の宮司家だ。宇賀部神社は昔から「名草戸畔」の頭を祀ると言われている。宮司家の小野田家には名草戸畔の伝承が代々口伝で残されてきた。小野田さんは父や祖父からその口伝を聞いて育った最後の伝承保持者であった。 ・・・
https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/000200/nagomi/web/nagomi23/special_essay/index.html

名草戸畔 小野田
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E8%8D%89%E6%88%B8%E7%95%94%20%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0&ei=UTF-8


「長髄彦は兄なる安日彦とともに日向一族を侵領より防ぎ戦ふ。然るに、名草丹敷の一族は日向に降り、莵田の国主なる兄猾、弟猾の兄弟は弟耳、日向一族に味方せるに、兄は亦、長髄彦のみに忠誓にして若御毛沼命を謀りて殺さんとせるに、道臣命に露見されて、一族は皆誅されたり。・・・長髄彦とて、肩に矢をうけて勢いを東国に加えんとて・・・長髄彦、安日彦は奥州に降り、東日流に荒吐一族の祖となりて安東浦に邑造りて国君の祖となる。

『東日流外三郡誌』1古代編(下)p395-6 八幡書店 1998 新装版


・「長髄彦    『記・紀』において、神武天皇の大和平定に抵抗したと記載される人物。『紀』では登美(とみの)那賀須泥毘古(ながすねびこ)あるいは登美毘古(とみびこ)という。「トミ」とは、一般的には地名をあらわすと解釈され、『和名抄』にある「大和国添下郡鳥見郷」(奈良市富雄付近)であるとする説が多い。一方、吉田大洋氏は、大国主命の直系と伝えられる富(とみ)氏の系譜に、トミノナガスネヒコの名前があることから、「トミ」を富氏という出雲神族につながる名であると述べている。長髄彦とは、長いすねを持つ男性をあらわすが、先住民を土蜘蛛、八束脛(やつかはぎ)と表現するのと同様に、蔑視の意識があると言われている。これに対し吉田氏は、長髄彦の「ナガ」をインドの蛇神「ナーガ」に結びつくものであるとし、インドには現在でも蛇をトーテムとするナーガ族がいることを指摘している。

長髄彦の妹の登美夜毘売(とみやびめ)(紀・三炊屋媛(みかしきやひめ))は、神武東征以前に大和に天降っていた天津神(あまつかみ)の子・饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻となり、物部氏の祖となる宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を産んでいる。

『紀』では、長髄彦自ら饒速日命を主君としていることを語るが、『記』ではその記述はない。

『日本書紀』によれば、長髄彦は生駒山を越えて大和に入ろうとした神武軍を孔舎衛坂(くさえのさか)で撃退し、神武の兄・五瀬命を戦死させる。そのため神武軍は南に迂回して熊野に至り、吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に入る。長髄彦は再度神武軍と戦い、幾たびもこれを破るが、突然降り出した雹の中を金色の鵄(とび)が飛翔し、神武の弓の先に止まって稲妻のように光り輝くと、長髄彦の軍兵は目がくらみ、混乱して戦うことができなくなった。それでも長髄彦は戦闘を放棄しようとしなかったが、主君であった饒速日命に殺害されてしまう。饒速日命は長髄彦の軍勢を率いて神武軍に帰順する。

一方『古事記』では、二度目の戦いにの際に「長髄彦を撃とうとした時の歌」を記するだけで、饒速日命が長髄彦を殺害したという記述はなく、長髄彦の生死についても不明である。

『東日流外三郡誌』によれば、長髄彦は、兄の安日彦とともに、大和にある邪馬台国の国王であった。しかし、神武天皇率いる日向軍に敗れて、二人は津軽に落ち延び、まもなく津軽を制圧して、新たにアラハバキ族をなのった。「秋田系図」「藤崎系図」によると、安倍氏は安日彦の子孫である。

http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/ryuh/ryuh_dic_n.htm

・「東北王朝論
http://www.proto-s.net/info/column/historya/post-515.html

・「長髄彦    登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)は、日本神話に登場する人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。 ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6

長髄彦
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6&ei=UTF-8

長脛彦
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%95%B7%E8%84%9B%E5%BD%A6&ei=UTF-8

たまWEB的には、義経ジンギスカン説、信じれるほうで御座候・・・渤海使節(698年 - 926年)は、たいてい出羽に到着・漂着というこっちゃな。

ニギハヤヒは徐福の系統で、ナガスネヒコや女王他がポリネシア系統としたらニーファイ人のハゴス一行が西へ船出の推定年が紀元前55年前後(推定年はモルモン経や英文モルモン書に。アルマ書63章)で、それ以降に列島にやってきたんでしょうかね・・


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