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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「白熱の選挙戦」

2018年10月10日 | ニュース・世相

                                    

10月7日告示。1週間の選挙活動をがんばり、14日投票で決着をみる、岩国市議会議員選挙が熱を帯びている。
4年に1度、市政全般や市民生活態様の是非を、市民自ら判定を下す、行政選挙の中でも最も身近に感じる選挙である。
定員30人。候補者33人。当選率90%。残りの10%の仲間にならないよう、声を枯らし、連呼連呼で駆け抜ける。

中には顔なじみの候補者もいて、選挙カーから降りて走り寄り、白い手袋を外して丁重な握手を交わす。かと思えば姫孫と散歩している私に向かって「可愛いお子様連れのおじいちゃま、手を振っての応援ありがとうございます」ときたもんだ。
こちらは別にその気はなくても、すぐそばで一生懸命お願いをされるものだから、社交辞令的に手を振る。孫も喜んで手を振る。そんな他愛もない一幕もある。

それぞれの立場で主張はある。特にイデオロギーを鮮明に示す政党候補は、徹頭徹尾現状を否定し、市民感情に不安を投げ込む話術にたけているように聞こえる。頷く部分も無いわけではなく、少しだけ耳を傾けてはみるが、所詮「絵に描いた餅」的な発言が多くて、ちょっとねーと首をかしげる部分も少なくない。

これまで数十年間、私の勤めた岩国工場からも、企業を代表する形で1人あるいは2人、議員を市政に送り込んで来た。それが今回選挙から企業選出を廃止した。つまり、企業代表を市政に送り込むことを辞めた、ということ。
人員削減による地元雇用の従業員が減ったこと。それに伴う工場パワーの衰退。市政と企業の連携の希薄さ。等々、元従業員として勝手に想像する事情は様々あるようだが、ここにも地域社会における大企業の存在価値が見直されている気がしてくる。

沖縄に次ぐ規模と言われる米軍基地を抱える岩国市の将来を思う時。国家を護ること、いわゆる国防の意識を、基地を持つ地域にだけ押し付けるのではなく、全国各地、各都市に基地負担を分散させる方法論の拠点としての役割を果たせないだろうか。などと思う。
あるいは、国防という一大事を米軍に委ねておいて、基地負担の重さばかりを吹聴するのでは解決にはならない。
それより、米軍の庇護から脱却して、日本独自の国坊策を講じた上で、米軍にお引き取りを願う、といった構想もあるのかな~。などと思いは広がる市会議員選挙ではある。

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「憂いの秋、3大悲劇」

2018年10月07日 | スポーツ・観戦

                  
       8回を投げ終え、同点で降板       丸の最終打席、凡打

あれほど華やかに、追随を許さないどころか、全く危なげない独走でセ・リーグ三連覇を果たした、我らが愛する広島カープ。
クライマックスシリーズ、CSを10日後に控え、さあこれから仕上げの調整に入ろうという時期にきて、あきれるほどの弱小集団を思わせるトーンダウンはいったいなんなのか。

昨年の屈辱。リーグ制覇しながら3位の横浜にCSで1勝の後4連敗で幕。日本シリーズに出場さえ出来なかったことで、世間から浴びた静かな嘲笑や同情などを、本当の悔しさとして肝に銘じてきたのか。今年も再びその愚を繰り返すのではないか。空恐ろしくなる。
最終盤を迎えた今の戦いぶりや、個人の技量の落ち込みを見ると、まさしく昨年と同じ轍を踏みそうである。

丸々半年間戦い続ける長丁場のペナントレース。好調な時もあれば不調な時もある。相手がより深く研究してくればスランプに陥れられることもある。そんなことはごく当たり前のことで、そんな好不調をとやかく言うつもりはない。
しかし、事ここに至って、個人の大切な記録や個人タイトルを争う大事な時期にあることを忘れたような、ダラシない戦いをしてはならない。

今年のレギュラーシーズン最終戦の今日。横浜を迎え撃つマツダスタジアムには、試合前から3つの大切なキーポイントがあった。
1つ目は、丸選手のホームランキング争い。何が何でも1本打って、頭一つ抜け出してほしかった。それが、こともあろうに同じ39本で並んでいる横浜の選手に40号ホームランを打たれる始末。丸選手の方はバットにようやく当たった1本が浅いセンターフライ。

2つ目は、大瀬良投手の今季最多勝利がかかっていた。今日勝てば間違いなしタイトルを手中にできたのに。これまた、先に点を取られ、逆転したらまた点を取られる不甲斐なさ。敗戦投手こそ抑えの中崎となったが、最多勝は危うくなった。
そして3つ目は、今日カープが横浜に勝てば、横浜のCS出場権は消滅するという大事な試合であったのだ。
今日、広島に逆転勝ちしてCS権利を死守した横浜が、再び息を吹き返して、3位ながらCSに出てくる可能性がある。
そうなるとまたまた、昨年の再来となりかねない。何が何でも横浜を叩く必要があった。

それなのにああそれなのに、3つのキーポイント全てがこちらの思い通りにならなかった。憂いの秋、3大悲劇の一日となった。
とても大切な、ここ一番、という時に完全に勝ち切れない、若さ故のお人好し集団。
早く、もう一皮剥けて、憎らしささえ漂う本当の強さを持つ、嫌み集団に成長して欲しいものだ。

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「大相撲の秋」

2018年10月04日 | ニュース・世相

               

またまた大相撲の世界が揺れている。
見方によっては、相撲協会の根底を揺るがしかねない大きな問題と捉えることも出来そうである。
一方でこれまで同様、透明性の高い協会運営と言葉では語りつつ、なんかしら内幕がぼやけて見えにくい、事なかれ主義に終始するのか。
相撲界のことに深い知識があるわけでもない者が、多くを語らない方が無難とということかもしれないが、少しだけしゃべりたい。

平成の大横綱と持てはやされた元横綱「貴乃花」が相撲協会を退職し、人気を誇った貴乃花一門も貴乃花部屋も名実ともに消滅した。
伯父さんは「土俵の鬼」と謳われ、映画や物語の主人公となった初代若乃花。栃錦と並んで栃若時代を築いた立役者の一人である。
父親は言うに及ばず、小兵ながらしぶとい相撲と端正な顔立ちで一世を風靡したあの「大関貴ノ花」である。まさしく相撲界の血統証つきスター関取であったというのに。

兄三代目若乃花とともに兄弟横綱として、相撲界を牽引するのは理の当然と思われたかに見えた。
だが、兄弟横綱という同じ地位が災いしたのか、兄弟でありながら袂を分かった。兄は早くから相撲界を脱出した。ここらあたりから弟貴乃花の人気の陰りが見え始めたような気がする。
そして今回の退職劇の引き金となった、横綱日馬富士による貴乃花部屋の看板力士「貴ノ岩」への暴行傷害事件。

と、ここまでは皆さんご存知の通りである。問題はその後の相撲部屋親方としての貴乃花の分かりにくい行動である。相撲協会巡業部長・協会理事と言う責任ある役職を持つ人の言動とは思いにくかった。単なる現理事長の八角親方との個人的確執、言わば個人のケンカみたいにこの目には映った。そこには貴乃花親方自信が「自分の意見」を公表しないまま後ろ姿を見せたから、負け犬の退場劇に映ってしまう。

言いたいことがあれば言えばいい、という意見と、黙って退く事が男の美学とする、という意見と、さてどちらに軍配が上がるのだろう。
今の段階では明らかに現職方の勝ち。退いた側の負けは明らかだ。でも本当にそれだけのことなのか、という疑問は大いに残る。

天皇陛下から賜る賜杯が、いつもかつも外国人の出稼ぎ関取にたらいまわしされていいのか。なんでモンゴル人関取の会があって懇親会なるものが開かれるのか。勝負師の世界としてはあってはならないことではないのか。などといった疑問が今後露呈されるようなことになったら、今の季節と重なるように、相撲界に秋風が吹くことにならなければいいが・・・・・・。少し心配するのも深まりゆく秋のせいだろうか。

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「色づく秋」

2018年10月02日 | 季節の移ろいの中で

              

今年のカレンダーも残り3枚となった。
ふと目を遣ると、庭の鉢植えピラカンサが黄色く色づいてきた。我が家を縄張りに収めるヒヨドリのつがいが、間もなく秋の味覚を求めてやって来るのだろう。めぐりゆく季節をピラカンサの実が教えてくれる。

今年は台風の当たり年とでも言うのだろうか、またぞろ猛烈なという表現の台風25号が発生、先島諸島を目指して北上しているという。今週末あたり、日本列島は再び恐怖に見舞われそうである。こんな物騒な秋と言う季節は足早に去って欲しいものだ。と言いつつも、見事に色づく紅葉は、日本の秋の象徴ともいうべき観光資源の一つでもある。穏やかな推移をお願いしたいものだ。

日本の四季を歌った歌は数多くある。特に童謡、唱歌、わらべ歌など、季節をテーマに色々な表現で詩になっている。一つの季節の中でも、初め、半ば、終わり、という具合に季節を分けて詠まれた詩や歌われた歌も少なくない。季節柄、秋を例にすると、初秋の代表作は「小さい秋みつけた」ということになろう。初秋から中秋にかかるころは「赤とんぼ」「夕焼け小焼け」がお似合いのようだ。続いて秋盛りの中秋になると、あれマツムシが鳴いているでお馴染みの「虫の声」「大きな栗の木の下で」「故郷の空」。さらに秋が更けて晩秋になると、山裾の紅葉を歌った「もみじ」「里の秋」と移り行くのである。

このように振り返ってみると、日本の四季とは、色んな美しい日本語を生み、情緒をかき立てる素材が散りばめられている。季節の便りを載せて手紙のひとつも書いてみようという向きには、ときにこういった童謡や唱歌、わらべ歌をひもといてみるのもいいのかも。などと柄にもなく、色づくピラカンサに背中を押されて、その昔口ずさんだ歌を思い出している。

そして今は、幼い孫との散歩道で、お手々つないで歌っている。ときどき当てずっぽうの歌詞を並べながら。

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