goo blog サービス終了のお知らせ 

「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「身だしなみ!」

2022年02月13日 | 思い出話

           

大きなお世話だよ!と口に出してこそ言わないが、大きなお世話をしたがる御仁がいるものだ。
私にとってのお世話人は、4つ年上の姉様である。最近こそあまり言わなくなったが、服装・キャップ・履き物まで。特にラフなセーターなど着ていると、下着との色合い、ズボンとの形の兼ね合い、これならこんな突っかけが似合うよ。と勝手にコーディネイトしてくれる。

スーツなど着ようものなら、先ずネクタイとカッターシャツの色バランス、スーツに合わせてネクタイの結び方まで。「もうええよ、勝手にさせて」となるときもある。人世の先輩面したいのも分かる。都会生活が長かった実績も認める。しかし、こんな田舎で、男の身だしなみなど誰が見てくれると言うのだ。というのがこっちの言い分。そうじゃない。身だしなみなんというものは人が見て決めるもんじゃなく、自分自身が「スッキリしてる?」と思えるかどうか、そこが分かれ目である。と気付いてはいる。

なんと、今日の新聞に『身だしなみ きっちり』のタイトルで、県別ベスト5が発表されていた。
驚くなかれ(強調するところではないが)全国の見目麗しさNo1、それは秋田県だという。次いで山形県、徳島県、岩手県、高知県だという。なんで秋田・山形なの?と言う質問は野暮というもの。
「理容所・美容室」の数が人口10万人あたり555.3カ所なのだ。次に山縣は510.7カ所。徳島、岩手、高知と続く。秋田県の調査統計課では「男女を問わずおしゃれの人が多いため、来店の頻度が高い。そのため、理容・美容の業界が元気なのだ」と喜んでいる。

そっか~やはり、丸刈りでも理容室に行くべきかねー。オッとここは山口県だ。バリカン買ってお家散髪がお似合いだ。
若いとき、デートのために散髪に行って眠ったら、オーナーが気持ちよく寝させてくれて、デートに大きく遅れて悲惨な目に遭ったなどと言う話は、また今度にしよう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「寂聴さんの思い出」

2021年11月12日 | 思い出話

                    
                     在りし日の瀬戸内寂聴さん

あの独特のしゃべり方、歯に衣着せぬ放言など、強く耳に残っている作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなられた。
我が町出身の作家宇野千代さんを姉のように慕ったというご縁もあって、何度か岩国を訪れ宇野千代のお墓にも詣でたと聞いている。
あれは何年前だったろうか、女性がほとんどの宇野千代さんを顕彰する会で、数少ない男性会員としてわずかに活躍していたころの話だから、10年以上前になるだろうか。

宇野千代顕彰会主催で「瀬戸内寂聴講演会」を開くことになった。顕彰会の中から司会を出すことになり、白羽の矢が立ったのがこの私である。
臆面もなく素直に引き受けはしなかった。「少し荷がはりますね~」くらいのことは言ったと思うが、兎に角お願いされて引き受けたのを覚えている。
会場は1500人が収容できる市民会館。その会場が膨れ上がるほどの聴衆が詰めかけている。狭い町なので知り人もいっぱい。
喉がカラッカラに乾く思いで第一声を発した。過去に積み重ねた婚礼の司会で仕込んだ「マイクの前に立ったらマイペース」の度胸がよみがえった。

講師の簡単な紹介も任されていたのをなんとかこなして、「それでは寂聴先生のご登壇です」の言葉でにこやかに寂聴先生がステージに。
中央に据えられた講演テーブルをスタスタと通り過ぎて、ステージの袖に立つ私のもとへお越しになった。こりゃ困ったどうしよう。講師に恥をかかせたら司会者失格である。やおら小声で「先生のお席はこちらですよ」とお腰に手を添えて指定席へご案内。あとはもう寂聴話に大笑いの客席。

ホッと一息。講演が終わった控室で「お疲れ様でした」と声を掛けたら「まあ私ったら、いい男が好きなもので舞台を横切っちゃったわね」と大笑いをされたのには、驚いたり喜んだりの、生涯忘れることのない寂聴講演会の一幕であった。気さくで飾りっ気もなく、誰でもファンにさせてしまう引力があった、と覚えている。

99才の人世。色んなことがあった全てを背負って、生涯現役を全うされた99年。涙の見送りよりも、拍手に笑顔を添えて「ご苦労さま!」の見送りがお似合いの人である。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「その前夜!」

2021年10月15日 | 思い出話

                                                    

1971年10月15日は、我が生涯大切な記念すべき日の前の日であった。
明日の祝い事を控えて、東京から兄・姉が帰省し、近くの親戚も宵の口まで飲んだり食ったりしゃべったりして賑やかであった。
当の私は、遠来の客のもてなしやら、明日の本番に備えて心落ち着かない時間を過ごしていた。

おおよそ近くの親戚が引き揚げ、帰省の兄たちも風呂支度かなとなったところで、明日に備えて早めに休もうと二階の自室に戻った。
しばらくすると、兄・姉。義兄が揃って私の部屋にやってきた。「今からマージャンをやろう」という。「冗談じゃろう、オレは明日があるから寝る」というのを無理やりに「これからやるマージャンに勝ったらお前の人生は明るくなる!」とか、「せっかく遠くから帰ったのにこの時間から寝るのはつれないんいじゃないか」などと、笑いながらではあるが、有無を言わせぬ勢いで迫ってくる。

最後の決め台詞は「明日からこの家にはお前の嫁さんが入ることになる。そうしたら今夜のような水入らずではなくなる。その意味では最後の記念の夜だから気兼ねなく遊んでおけよ」などと、さすが理屈でなりわいをする兄貴だけに、通ったような通らない理屈を並べる。

ろくな兄弟じゃないよねーと思いながらも、議論して時間を取るほどなら早めに始めて早く終わろう、とこっちも計算して始めた。
酒飲み兄弟なら酒を提供しておけば、そのうち眠くなろうというものだが、酒は飲めない下戸兄弟。真面目にマージャンに興じる始末。
おふくろまで「早うやめんさいよ」とか言わずに、お茶や菓子などを持ってくる。その当時は室内禁煙も当たり前。濛々たるたばこの煙に巻かれて何時間たったろう。やっとこさ「しっかり眠って明日は、新郎として粗相がないように」などと立派げなことをのたまう。

マージャンという遊びを一度でも経験されたご同輩には、その気持ちの諸々がご理解頂けるとお思うが、これは一種の麻薬であり、中毒みたいな怪しい要素があって、人数さえそろえばどうしてもちょっとパイを触りたくなる不思議な遊びである。

そんなこんなで大切な日の前夜を悶々と過ごしたあの日から、丸50年がたった。
こんな逞しい兄弟を持った私はともかく、その後長く付き合わされたカミさんは何かと苦労も多かったであろう。が、あまり愚痴などは聞かされなかったと思っている。6人いた姉弟が、今では3人になってしまった。やはり50年の歴史は重いものがある。チャンチャン!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「思い出 秋の味覚」

2021年10月06日 | 思い出話

                   

正直な話、近年なかなかお口に入らなくなったマッタケ。今年は8月の異常な雨続きによって、地域的に豊作なところもあると聞く。
しかし、表玄関からも勝手口からも、秋の味覚のおすそ分けが届かない。不義理のないよう上手にお隣さんとは付き合っているのにやはり届かない。最近は松枯れの影響でこの近辺でもアカマツが極端に少なくなっている。そのせいでマッタケも生えにくいのだろう。ということにしておこう。

クルマで1時間ほど走った山間にある小さな集落がカミさんの里である。山山山に囲まれて山のめぐみは豊富な土地柄である。
議父母が健在の頃には、マッタケ狩りにクリ拾い。イノシシや野ウサギ、ヤマドリを追う狩猟にも同行したものだ。とくにマッタケ山は、手入れをして集団的に生える位置はちゃんと決めて守られ、山の素人にも、見つけやすくして待ってくれていた。クリ拾いも同様に、落ちて転がったクリがすぐに見つけられるように、広い栗林を完全に下刈りをして歩きやすいようにしてくれていた。

人間にとって美味しいモノはサルにとってもご馳走である。サルの軍団は地上高いところから襲ってきて、木になっている青いイガのクリでも見事に剥いて食べる。サルとの闘いは鉄砲に似た音を出すこと。プロパンガスによる爆音機を2・3カ所に据えてパンッパンッと弾ける音でサルを追うのである。そんなこんな、季節の味覚、山の恵みを守り通すには、私たちも年を取り過ぎた。ならば若かったら出来るのか。
これも、実収入・実生活など考え合わせると、年令に関係なく不可能としか言いようがない。

義父母はとうに亡くなり、跡を継いだ義兄夫婦も今は実家を離れた施設で生活。誰もいない親元に家だけが残されている。かつてのマッタケ山は栗林は、今やイノシシ・サルの餌場と化して久しい。
取れ立てで香り豊かなマッタケ。光り輝くクリの皮。そんな季節の味覚は、遠い思い出の世界だけになってしまった。
こんな思い出に更けるのも秋という季節なのかな~。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ちっちゃなトラウマ」

2021年09月18日 | 思い出話

              
                 気軽に見ていられる、地元小学校の運動会

福岡県に直接上陸する初めての台風。ということで、これまでにない珍しい進路をとった台風14号。大いに心配して、サッシ雨戸も完全に閉めて、宵のうちしばらくはガタゴト・ギシギシに加えてビュ~~という音に少し怯えた。

それがなんと、夜半にはピタッとやみ、雨も上がった様子だった。
朝起きたらもうギンギラ太陽が眩しく、予定されていた地元小学校の運動会も実施となった。そうなると役目柄、運動会スナップを撮りにいく作業が待っている。但し、私のような、児童の保護者でもない、単なる地元広報紙の写真取材などは、コロナ感染対策で来場お断りの筆頭である。それでも一応会場に赴き、校長先生に事情を述べたら「どうぞどうぞ、是非よろしく」ということでやっとこさ、あちこちにカメラを向けられる。

昨年に続いて、コロナ対策縮小バージョンで、約2時間の淋しい淋しい運動会である。そんな中でも「よーい、ドン」の駆けっこだけは全学年行われる。
この「よーい、ドン」が私にとっては生涯頭から離れない、ちっちゃなトラウマとなっている。
瞬発力もない、持久力もない小学生の私はいつもみんなの背中を見てゴールに入った。どん尻である。
一方で、勉強は出来る、足は速い兄貴と比べられて、いつも親父を嘆かせたものである。「今日は生卵を飲んで元気出してガンバレ」と、70年前には貴重品だった生卵を飲まされて背中を押された。それでも効果なくどん尻はいつもの通りだった。

敗戦国の悲哀がまだ色濃く残る時代では、たとえ運動会のかけっこであっても、勝つ子が偉くて、どん尻は評価が下がったのかもしれない。どん尻は淋しいものだという思いが強くなり、運動会はきらいになった。どうかすると当日お腹が痛くなったこともあったのかな、なかったのかな。

そんな遠い過去がふとよみがえるのか、よその子の駆けっこにカメラを向けるのは、一緒に走る子が固まって走るシーンにシャッターを押す。1位と最後尾が離れすぎているシーンはシャッターを押す指に力が入らない。そして「遅くてもいいんだよ、最後まで精一杯の力で走って」と応援している。
こんなのをトラウマというのどうか判断に迷うところであるが、70年前が今も頭をよぎる運動会シーズンである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「色あせぬ珠」

2021年08月22日 | 思い出話

            

1982年、昭和56年の今日、憧れを抱いた作家向田邦子さんの、突然の訃報を耳にした日である。
正直「遅かったか」と嘆いた思い出が、今も少しだけ気持ちの片隅にある。
あれから40年を経て尚、作品の多くが色あせぬまま、輝きを失わず人々から愛されている。存命なら御年92才。返す返すも惜しい早世の人ではある。

そこにもいるここにもいる、そんな普通に生活する人々の日々の営みや哀感、迷ったりあがいたりする家族の絆や大人の恋を、限りなく明るく描いた数々の名作を世に送り出した。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅の如く」。どれも名作で、彼女独特の視線と鋭い洞察力、温かなまなざしは、いまも多くのファンを引きつけてやまない。テレビドラマ全盛期の陰の主役であったような。視聴率も高かった。何を隠そう小生もそ大ファンの一人である。

その経歴たるや蒼々たるもので、1970年代には「倉本聰」「山田太一」と並んでシナリオライター御三家と呼ばれていた。彼女の作品が最初にNHKで放映されたドラマが「桃から生まれた桃太郎」だったという。こればかりはあまり印象に残っていないので、彼女の手によって小説出版されたようだから、なんとか手に入れて読んでみたいものだ。

遠く及ばない思い出話なので少し小さい声で言うが、何かのコラム欄に載っていた彼女のエッセイやテレビドラの面白さに魅せられて「オラTOKYOさ出て彼女に弟子入りするだ。カバン持ちでもいい。」という儚い夢を持ったことがあった。が、行動も何も起こさないまま消えた単なる夢だから話にもならないが、「すごいな」と思った作家が、没後40年の今も皆さんに愛されているのは、なんかしら嬉しい気がするもんだね~。おそまつさま。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『恩師は92歳」

2021年05月09日 | 思い出話

                                              

季節の味を味わって頂こうと、久しぶりに恩師の家を訪ねた。
ここでいう恩師とは、学生時代に教えを請うた、教師と生徒という関係とは少し違う。
完全に大人になって、父親となり、我が子の保護者としてPTAのTとして学校に出入りするようになってからの、言うなれば社会人としての恩師である。

出会いはかれこれ36年前になる。当時の年令は56歳で、それはそれは元気のいい、ハンサムでかっこいい校長先生であった。こちらは、他になり手がなくて渋々引き受けたPTA会長さん。
学校の経営者であり教職員の面倒を見ながら、児童・生徒の教育の充実。そんな多くの矢面に立つ校長という立場と、児童・生徒と保護者を代表するという立場で、時に口角泡を飛ばす場面もあったのか、なかったのか。

全体的には、年の離れた兄貴みたいな感覚で、可愛がって頂く中で色々奥の深い人世勉強をさせて頂いた恩師ということになる。
授業中に居眠りする児童が増えた時は、スポーツ少年団などの指導者を集めて「練習時間の制約」「帰宅時間の厳守」という大義で、丁々発止。間に入ったPTA会長は慎重な判断を迫られる。八方走り回って校長の意図するところを繰り返し説明して、双方納得のもとに放課後の練習を「勝つために」ではなく、「児童の体力増強」「運動神経の発達」という目標転換をさせたこともあった。

その陰には、1年間かけて日没の時刻を調査した克明なグラフが出来上がっていた。このグラフに合わせて練習の開始と終了を指導者自身に決めさせる。そんな芸当もさら~っと出来る経営手腕と説得力を併せ持つ、師と仰ぐにふさわしい社会人の中での先輩であった。

久しぶりの訪問でも元気の良さと、確かな記憶力は衰えを知らず、昔話に花が咲く。
御年92歳。愛妻は施設に。目下一人の生活。そんな不遇を一切感じさせない、どうかすると青春のかけらがどこか身についているようなスマートさと、屈託のなさが、訪れる者を安心させるようだ。

そうだ、年令に関係なく生きている限り、こざっぱり、清潔感を漂わせ、周囲に安心感を与える生き方を。と、幾つになっても良き恩師であり、佳き先輩であることには間違いない。今日も素敵な時間を持てた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「やがて実りを」

2021年05月01日 | 思い出話

                                                         

皐月は鯉の吹き流し。いよいよ今日から風薫る五月、いい季節である。好きな季節である。
ただゴールデンウイークを挟むこの時期は、薫る爽やかさとは裏腹なモーレツな風が吹き荒れることがある。まさに今日がそんな突風の日であった。

昭和50年、1975年に長男が生まれた。ちょっと厳しい事情を乗り越えて無事に生まれてくれた長男であっただけに、若い父親は張り切ったのを覚えている。以前住んでいた家は今より少し小ぶりで、前庭も狭かった。どう考えても「少し無理だろうね」と思案している目の前に「長男初節句おめでとう」のメッセージとともに届けられたのは、高さ5mの勇壮な「祝い幟旗」であった。
前庭の狭さも何のその、ヒノキの旗竿を調達し、自分でしっかり穴を掘り立てた。

勇壮にはためく風を喜んだ。それもつかの間、風は強くなる一方。あの丈夫なヒノキの旗竿が柳の如くしなるほどの皐月の風。どうか折れないで!大切な長男君のお祝いなのだ!!と天に向かって叫んだ。幸い天は若い父親の切なる願いを聞いてくれた。穏やかな風に戻って、勇壮な武者絵をゆったり見せてくれた。そんな遠い昔を思い出す、すさまじい風の一日であった。

そんな心配もした長男君も、二人の姫孫をプレゼントしてくれて、先ず先ずの日々である。
玄関わきの小さな植え込みにある鉢植えのピラカンサが、小粒の白い花に包まれている。今日の厳しい突風にも散らされることなく、やがて実を付け赤く黄色く熟れていく。願わくば残された日々をそんな風に生きられるといいね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「祥月命日」

2020年11月10日 | 思い出話

           

思わず、着ているものの襟を立てさせる晩秋の冷たい風が、緩やかに頬を打つ夕暮れどき。
「至急来て下さい」と掛かって来た介護施設の電話の向こうで、静かに臨終を迎えた母。
クルマをすっ飛ばして25分。施設に着いたときにはすでにこときれていた。
あの日から12年。13回忌祥月命日を迎えた。明治41年4月1日生れ。享年100才7ヶ月。

ここ数年で100才を越える人が一気に増えてきた感じがあるが、12年前の100才超はまだ珍しさが残っていて「長生きじゃったね~」と周囲の人から、羨ましがられたのか、慰められたのか、真意は分からないままではある。が、何はともあれ母の生涯を同居できたことに、「少しは親孝行できたかな」などと自己満足したあの瞬間を思い出す。

その後でジワ~っと胸の奥に湧き上がる思いがある。倅としてもう少し何かをしてやれたのではないか。介護施設にお世話になる前の、認知が段々色濃くなる変わり目は、こちらも認知介護のど素人。オロオロするのが先ですぐに感情が抑えきれなくなったこともあったね~。今ならもう少し優しく、おふくろの思いに沿ってやれたのに、などと自らの介護不足を今さら悔悟してもあとの祭りでしかない。

母にとっては孫である近くに住む私の娘が、孫・ひ孫一同と札のついた豪華な花束をお供えしてくれた。そのお花に引きずられるように、仏壇に手を合わせる。何かしら湿っぽい気持ちの一日であった。それでいいのだ。1年に1日訪れる祥月命日。それも今日は13回忌である。

亡くなる半年前あたりから、言葉もなくなり意思の疎通が難しくなった。それでも週に2・3回は見舞い、そのたびに蒸しタオルで顔をきれいに拭いて「べっぴんになったよ」と耳元で声を掛けると、うっすら笑みを浮かべて、私の手を握ろうとする。その暖かな、間違いなく命が通っている手を握るとすぐに眠りに落ちた。
そんな遠い日の母の姿をたまにでも思い起こすことが、仏壇を、お墓を守る者の幸せと言えるのであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「沈丁花の季節」

2020年02月25日 | 思い出話

             

庭の一角に佇む沈丁花。時季を得て見事に花開いた。
あの、たおやかな女性の白粉を思わせるほのかな香り。幾つになっても、この季節ならではの芳醇な香りはハナの奥をくすぐる。

この沈丁花の香りに乗って、不特定多数の人の目にさらす随筆なるものに手を染めたのはいつだったろう。
誰の目にもさらさない、自分だけの日記や、随想、随筆といったものは、中学時代から勝手に書き殴ってきた。
それが、ひょんなことから、勤務先の工場ニュース編集担当者の勧めに乗っかって、怖いもの知らずの若者が、臆面も無く書き始めたのが、ちょうど沈丁花真っ盛りのころだった。

思い起こせばあれから43年の歳月が流れたことになる。
沈丁花にことよせて、大学受験合格発表の校庭に見せる、受験生の悲喜こもごもを「春の断面」と題して書いたのを覚えている。
どれほど回数を重ねても、何年たっても、元々の素養がない悲しさはどうしようもなくつきまとう。

書き始めたころに必死になって読んだ、司馬遼太郎「竜馬が行く」の一節。
「世の中の人がなんとも言わば言え、我がなす道は我のみぞ知る」。坂本竜馬の座右の銘とも言うべき言葉を、畏れ多くも勝手に自分の都合のいいように解釈して、今もボチボチ書き続けている。
愚かしくもあり、ホンの少しの生真面目さもあり、同情すべき点多々ある我がエッセイ人生ではある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横幅を広げる

一行の文字数を増やしたい