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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「成人式」

2020年01月13日 | 思い出話

              
                   平成の成人式            昭和の成人式

旗日、成人の日。
今年は成人式会場における、あの聞きたくもないアホの集団がバカ騒ぎするニュースが、聞こえてこなかったのをホッとしている。
と、57年前に成人式を迎えた大先輩が云っている。

昭和38年。戦後のどん底を抜け出し、自らの将来に少しの希望と光を感じ始めた頃に成人式を迎えた。
初めて自分で買ったスーツの上下。靴はおふくろが、当時のお隣さんだった靴屋さんで誂えてくれた足にぴったりのピッカピカ革靴。
気持ちは、何が何だかわからないまま「兎に角、男の大人として、行動に責任を持つ。働き、稼ぐ。」という単純な決意に燃えていた。のかな?

青年団の中心的年令にさしかかり、戦没者慰霊盆踊りだの、素人演芸会だのと、必死に駆けずり回る新成人だった、のかな?
酒の力を借りて人に迷惑をかけるなど、全く考えられもしない。ある意味、余り面白くない二十歳の出発だったような。
どっちにしても、「働かざる者食うべからず」。どうかすると「貧乏人は麦を食え」に、負けてたまるかであったような。

成人式に臨んで、大人にもなりきれてない輩が、単に酒を呑んで、人の迷惑顧みず大声張り上げたり、式そのものをぶっ壊すなどというお粗末は、その当時はなかった。
そんなことが許されるほど世間は甘くなかった。そんな輩が当時いたら、爪弾きにされ、厄介者扱いの汚名を着せられたものだ。
要するに、警察や官庁が大目に見てくれても、世間は許してくれなかった。だからどうだ!それがよかったのか?ウーンどうじゃったんじゃろう。

少なくとも、数年前の、荒れる成人式が当たり前のような『世間への甘え』はなかった。生きることへの必死さと、ひもじかった子供時代を覚えていたから。
その一方で、18歳から成人扱いとされる世の中。大丈夫なの?逆に22歳から成人と認める、という方が、今時の子供には会っているような気がするけどな~。
いずれにしても、少子高齢化は進むばかり。少数精鋭の時代を生き残れる成人になってくれることを願いたい。
他人のためじゃないよ。自分のためだよ。

 

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「24年の歳月」

2019年01月17日 | 思い出話

           

1.17。今日1月17日は、あの忌まわしい阪神淡路大震災の恐怖を思い起こさせる日である。
あれから24年の歳月が流れた。何年の月日が流れようとも、忘れられない深い悲しみに沈む人は数知れない。
街全体が倒壊したかに思えるあちらこちらから、無情にも燃え盛る炎がこの目に映る。体験したことのない恐怖に、箸を持つ手が震えるのを止められなかった。

単身赴任の東京本社勤務で、三軒茶屋の寮生活を送っていた。いつもと変わらぬ朝を迎え同僚と朝食のテーブルに着いた。朝のニュースを確認するのも毎日のスタイルと変わりない。ただ大きく異なるのはテレビ画面いっぱいに映し出された光景である。どこかの国の政府と反政府勢力が際限のない内戦を続けているような、異様な雰囲気と立ち上る炎と真っ黒い煙。とても日本国内の出来事とは予測もつかない異様な画面が。

しばらくして、阪神地方で大きな地震が発生したことが分かった。そして地震による火災発生の炎であることもわかって来た。そして東西を結ぶ交通網の遮断。新幹線も高速道路も途中からの折り返し運転となった。
本社から岩国工場への移動も全て、羽田空港から広島空港という普段の数倍の時間と労力の要る作業となった。

そんなこんな忌まわしい災害から24年。避難活動の大切さやお互いを助け合う「ボランティア活動」の大切さが一気にクローズアップされた。被災者同士のつながり、被災者と一般人との交流、住み慣れた地域を追われる苦しさ、等々知識としては解っていても、現実として目の前に突き付けられると意外に理解していないことが多くあることに気付かされた。

そして耐震化工事の普及や、地震・カミナリ・火事・オヤジと言われる怖いものの順位が、やはり地震が一番であることも改めて認識させられた。さらには、自分の命は自分で守る意識の徹底も叫ばれ始めた。

24年という歳月が、我々の日常生活における防災対策に大きな進化をもたらしたと思う。その一方で、多くの生命財産を一瞬にして失った募る悲しみや悔恨は尽きることを知らない。何年が過ぎようと忘れることのない災害を、地震列島に住む我々自身が一つの教訓として受け止め、前に向かうしかないのである。

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「思い出がまた一つ・・・」

2018年08月23日 | 思い出話

       
           伐採が決まった、岩国市立愛宕小学校、尾津明神社のエノキの大木

今から70年前の昭和23年(1948年)、岩国市立愛宕小学校に入学した。校長先生の名前は青山宗一だったと記憶している。
1年生担任は彦本(女)、2年古川(女)、3年福坂(女)、4年~6年高木(男)というそれぞれ個性ある先生方のお世話になった。
我ながら不思議なほど、校長や担任の名前をはっきり覚えているのに驚く。その割に勉強の出来はからっきし。

戦後間もない日本は貧乏というか、物不足、食糧不足は当たり前の日常であった。
小学生の服装はもちろん自由。家にあるものをを着て行くのが普通で、女子は着物で通学する子も多かった。
履物はさらに多岐にわたった。お金持ちの子はズックやゴム靴。普通の家庭は下駄にワラ草履など。さすがに裸足はいなかったと思う。
兎に角、貧富の差丸出しの小学校生活であり、お金持ちの子は当然のように先生の受けがよかった。まるで逆の私などは惨憺たるものだった。

そんな私の通った小学校には、校庭の一画に「尾津明神社」が祀られていた。秋と冬の例祭にはお神楽や相撲祭りを楽しんだ。
神社を囲むように、エノキの大木やセンダンの大木が6~7本生い茂り、小さいながら鎮守の森をなしていた。夏には優しい木陰を作り涼風を提供してくれた。その涼しさだけは、貧富に関係なく、あふれるほどに群れを成す子どもたちに一様に与えられた自然からの贈り物であった。そしてセンダンもエノキも小さな実を付けて、子どもたちを慰めてくれた。
おやつなどありはしない私たち子どもに貴重な甘味を提供してくれた。これは秋の大きな楽しみでもあった。

それほどに多くあった大木が、学校の変遷に伴い、伐られたり枯れたりしてその数は激減。ついに1本だけ残っていたエノキも安全上の危惧から伐採されることになった。と報じられた。最後のエノキは、樹齢200年を超えるであろう、高さ約20m、幹回り最大3mに及ぶ。
何とか残したい一本ではあるが、老朽化には勝てずついにその時を迎えた。
我が人生に彩を添えた歴史の証が、また一つ消え去ることになった。これぞ時代の流れ、歴史の移り変わりであり、抗うことも叶わない。

せめてもの慰みとしてここに記録として残しておこうと思い立って、伐採工事が始まる前の尾津明神社とエノキをカメラに収めた。
なんせ70年前に入学したした小学校で、記憶があいまいな部分も多いが、鮮明に残っている記憶もいくつかある。
木造の講堂で小学3年生のとき、当時最新鋭の録音機導入の実演説明会で「朧月夜」をアカペラで歌った初舞台。5年生の時、いたずらをして担任から、分厚い本の背中で頭を叩かれた痛みも覚えている。叩かれるほどのいたずらだったかな~と思うのと、本の背中ではなく平たい方で叩かれたのならちゃんと反省をしただろうが、背中で叩かれた痛みは、反省より先に男先生に対する恨みが残った記憶もある。

それもこれもひっくるめて、また思い出の一つである小学校の大木が姿を消す。
遠い記憶と歴史を、ここに拙いブログとして記録しておきたい。

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「三人の祝賀会」

2018年01月25日 | 思い出話

                                     

むかしむかし、我が子二人が通った小学校があったげな。
そこに、とってもやり手で、ハンサムな粋な校長先生が赴任してこられたげな。
その校長先生が、今年目出度く八十八歳の米寿を迎えられたげな。
その上に、長年の教職員としての業績が認められ、天皇陛下より「瑞宝双光章」という名誉ある叙勲を受けられたげな。

そのお人柄を象徴するように、このようなダブルお目出度も「皆さんに迷惑になってはいけない」と、ごく限られたお身内だけで祝賀の宴をもたれたのじゃげな。
そんな一連を後で知った小生としては、黙っているわけにはいかない。ということで改めて、知人友人を集めて祝賀パーティを計画しようとご当人と相談したところ「な~に、こんな賞は、校長を経験して元気に八十八歳を迎えた人間には誰でも与えられるもの」だから、他人を集めてお祝いするほどの中味じゃない。お祝いパーティなど要らんよ。と、強く固辞されたのじゃった。

長いお付き合いでその人格をよーく知っているだけに、無理を押してもいいことにはならない、と判断。最低限の別な提案をして、なんとかその気になって頂いたのが「たった三人の祝賀会」となった次第。観光ホテルで昼食を囲むことにした。
それさえも、どうしても段取りは自分でして、お二人に出席をお願いするのが「私の主義」ということで、何のことはない、会費は包むものの、会場の設定、交渉などは全て主賓にお任せ。私たち二人は参加する形となった。悠然というわけにもいかず、やや肩をすぼめて。

長年の教職生活の最後の勤務先となったのが、私どもの子どもが通う小学校であった。そのときのPTA会長2代の二人がお呼ばれに預かった。昔ながらの元気ハツラツとした笑顔で、遠い昔話に花が咲く。昔と大きく異なるのは「アルコールアレルギー」になってから、ほとんどお酒をたしなまなくなったということ。私たちもホンの少々のお酒。言うなればアルコール抜き。それなのになんと昼食だけで3時間半をしゃべったことになる。但し、「女三人寄れば……」などと言うかしましさではなく、静かにゆったり流れる時間の中でのゆるやかなおしゃべりである。

遠い昔の一時期このとはいえ、叙勲を受けられるようなお方とご一緒できたこと。それを大切に胸にしまっておいて頂いていたこと。この事実にはなんとも感動を覚える。超豪華な食事を、観光ホテル一番の部屋でゆったりと。これもまた遠い思い出話と共に「命の洗濯」の効果大なるものを味わった。ガラス越しに見る目の前の錦帯橋。華やかに舞う粉雪。だがその部屋にだけは春が先乗りしていたような。

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『コスモス一輪」

2016年11月10日 | 思い出話

           

2008年11月10日。人生の中で忘れることのできない日の1日である。
時折一気に寒さが押し寄せたり、またポカポカ陽気が戻ったり。行きつ戻りつしながら、秋から冬へ移り行く季節。
徐々に色濃さを増す紅葉も、黄金色を誇るツワブキの花も、人目を引くには十分な値打ちを持っている。

今を盛りと咲き誇るコスモスも色とりどりで見事である。但しそれは、大きな集団となり寄り添って咲くところにその魅力がある。
そこへいくと、群生から離れてヒョロヒョロっと伸びた一輪のコスモスには、なんかしらものの哀れを感じさせるひ弱さがある。
8年前の11月10日、101歳7か月を一期に永遠の眠りについた母の姿がそこに重なるからであろうか。

「大至急お越しください」という電話で、何はともあれ一目散に駆けつけた母が入院中の介護施設。
静かに横たわる母の額に手を当てると、まだ温もりがあった。それでも「大変お気の毒ですが……」
看護士の言葉を受け入れるしかなかった。そのとき部屋の外に、頼りなさそうに揺れる一輪のコスモスが見えた。
夕闇迫るガラス越しの向こうで、右に左に頼りなく揺れるコスモスは、駆けつける私を待ち望んでいた母の気持ちを見る思いがした。

100歳を過ぎて黄泉路を渡る人に贈られる「天寿を全うした」という言葉にふさわしい大往生である。と思いたいのだが。
あのヒョロヒョロっとした一輪のコスモスが、今も目の奥に焼き付いていて、この季節を迎えると、もっと何かをしてあげられたのではなかろうか……という悔悟の念が湧いてくる。
8回目を迎えた母の祥月命日。姉や妹が訪れた。賑やかな昼食は進むものの、母の回顧話は意外に少ないのに驚いた。

それもそのはず、母が亡くなった後に生まれた二人目の孫が、倅の長女希さん。七五三の宮参りで里帰りしていた。
女の子で、おしゃまでおしゃべり。華やかに着飾った彼女の存在が、祥月命日の食事を一気に明るくしてくれた。
母から生まれた子どもが6人。孫が12人、曾孫が14人。母一人の存在がこれほどの人口増に貢献しているということ。

今一度仏壇に向かって感謝の言葉を述べよう。「あんたはやはりすごかった」と。

 

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「祥月命日」

2016年08月14日 | 思い出話

                            
            暑さを避けてツバメが9羽、軒下で羽を休める

8月14日は父の祥月命日。
43年前の1973年は、今年と同じように、夕立を待って待っても一粒の雨の恵みもない、暑い暑い夏だった。
「ちょっと風邪を引いたような」と、勝手な自己診断を下し、頑として病院に行かなかった父。
わずか1週間の煩いで一気に衰弱し、往診の点滴注射も手遅れで、足の親指の先から冷たくなっていった。

大げんかをしてでも無理やり病院に担ぎ込めば、快復という道はあったかもしれない。
ただその当時は、今のように救急車を利用する習慣もなければ、救急車そのものもいない時代。
どうかすると、リヤカーに乗せて近くの開業医へ家族の手で担ぎ込む、というのが当たり前のお粗末な救急態勢。
本人が積極的にならなければ、病院搬送も実現はしない。

そんなことで一気に逝ってしまった父は、享年74歳であった。まさに今を生きている小生の歳と同じである。
なんやら尻がくすぐったいような、オレもいつお迎えが来てもおかしくない歳なのか……などとふと思う。
特にこの夏のように、逃げ場のない暑さはもうたくさん、などと思ってしまう。

『明治32年に生まれ、昭和48年8月14日を一期に74歳の生涯を閉じた父。
その時31歳だった私が今、父の享年に並ぶ74歳の夏を迎えている。
同じ74年の生涯でも、生きて来た世界や世の中のありようが大きく異なるので、
同じ土俵での比較はできないと思いながらも、あの旺盛な生活力や波乱に富んだ父の生き様には遠く及ばない気がする。
今のところ病気もないので、生きた長さだけは父を超えるのは間違いなくなった。
今日は祥月命日。こんな倅の生き方の評価を、墓石に尋ねてみるか。それとも自分の胸に手を当ててみるのがいいかな。』

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「あれから21年」

2016年01月17日 | 思い出話

                     
                              阪神淡路大震災  写真はネット拝借

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分。阪神淡路大震災は起きた。
大都会を襲った大地震は、多くの尊い命と、築き上げてきた多くの財産を、一瞬にして容赦なく奪い去った。
あの日から21年という歳月が流れた。
何年が過ぎようと、私の脳裏に焼き付いている震災直後の、あの忌まわしい光景は忘れ去ることなど決してない。風化などと言う言葉は死語に等しい。

21年前のあの日午前7時半。当時単身赴任の本社勤務を命ぜられていた私は、東京都世田谷区三軒茶屋の社員寮食堂で朝食をとっていた。
取り急ぎ前日のニュースや情報を得るのは、もっぱらNHKテレビのニュース番組である。
その画面には、高速道路の高架は完全に横倒し。町中至る所家屋やビルの損壊の山。
カメラの移動に合わせてモクモクと上がる黒煙は、壊れた街を舐めるように「悪魔のような炎」が広がって行く。

息をのむ、とはこの状態を目にしたときの気持ちを言うのだ、と後で気が付くほど、頭の中は真っ白。
神戸や大阪が大被害ということで、我が家の安否に思いが行ったのはそれからしばらく時間がたってからであった。
相変わらずの満員電車に揺られ、会社に着いてから家に電話を入れたのであったような。
そうして時間の経過とともに入ってくる、被害拡大の悲惨な状況。その時点では何もできない自分にイライラを憶えたような。

今年の成人式参加者は、この阪神淡路大震災は体験の無い人たちである。
それほど「過去のこと」となってしまった感はあるが、これほどの自然災害が身近に起きた事実を忘れてはならない。
もっとも、今年の成人者には、発生からまだ5年という記憶に新しい「東日本大震災」の惨状や哀しみが、胸に刻まれていることだろう。

このように、いつなんどき、とてつもない自然災害が襲ってくるか予測のつかない現実を生きている今、過去の惨状を風化させてなどいられようか。ましてや世はまさに高齢化社会。互いに助け合い、命を守る大切さを改めて考える契機にしたい、と考えてしまう。
「お前に何ができるのか」と問いかけられた時、なんと答えようか。その答えに近いものがあるようなないような・・・。
ただただ、大災害の教訓を忘れないことだけは出来そうである。

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「むつまじく」

2013年08月31日 | 思い出話

             

先日、少し場違いなところで、思いがけない出会いがあり、思わずお互いが手を握り合った。
近くにある介護施設で、毎年の恒例行事となっている夏祭りが行われた。
主催者から、是非顔を出してと誘われ、断るすべもなくお義理の見物とあいなった。

場所が場所だけに高齢者が主役。それに付き添いの保護者がたくさん。その中には同級生や後輩もいて、母親が世話になっているとか、親父がね・・・と、少し声をひそめて話す。

そんな中のお一人 が、かつてPTA活動華やかりしころの小学校の校長先生である。
「学校とPTA、また校長と会長はクルマの両輪」と、なかばおだてられながら、華々しいお付き合いとご指導を仰いだ方である。
もともと頭髪は白が基調でオールバック。かっこいいんだこれが。今も若さにあふれている。先ずは固い握手。
そんなお方がなんで介護施設の夏祭りに??と。ここからが長い立話になる。

「自分はまだまだこの通り元気なのだが、家内の状態が思わしくなくて施設に入れてもらうことになった。今日はその付き添い。」ということだった。かくしゃくたる姿勢も笑顔も、勢いも、やんちゃだったあのころと大きく変わらないのに驚く。
御年は確かひと回りくらい先輩だったと分かってはいたが、改めておそるおそる訊いてみた。
間もなく84歳になるとのこと。市内の某製作所で専務取締役という現役バリバリだとおっしゃる。

確かな教育論をお持ちの校長先生で、生半可な保護者では太刀打ちできない情熱家であった。
小生も若い時にこういった方と巡り合えたことを幸運に思っていた。
「昔の仲間が集まっていつか思い出話をしましょう」ということでその場は終わったが、ひょっとしたら20数年ぶりのPTA同窓会が持ち上がるかもしれない。

いくら頑張っても13年先に、元校長先生ほどの元気は維持できないだろうと思うが、これもやってみなきゃ分からない。
おふくろは100歳を超えた。叔母は目下100歳で足こそ弱っているものの、文庫本の愛読者である。
何かを胸に秘めて、何か続けてやれることを持っていれば、案外不可能ではないかも・・・などと思い始めている。
歳をとる・・・ 当たり前のことだが、自らの気持ちの中では年寄りにならない心構えで過ごしたいと思う夏の終わりである。

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「青春のかけらが・・・」

2013年08月13日 | 思い出話

                                 
                                 次から次に建設される高層マンション

半世紀以上前に、地元岩国にも百貨店という大型店舗が、市の中心部近くに出現した。
記憶が正しければ「寿屋百貨店」と言う名前だったと思う。地上5階建てエレベーター付き。最新鋭高層店舗。
昭和33年ごろの戦後復興の形が目に見え始めたころにやってきた。若い女性にとって玉の輿にも似た就職先であった。

同級生の中で一番の美人と評判だった彼女が、厳しい就職戦線の先陣を切って、誰よりも早く就職内定を得たのがその百貨店であった。彼女は2年生のころから美人だ美人だと言われていた。
ただ個人的には「そうなん?」「ああいうのが美人なの?」という程度の思いだったし、別に意識もせず男友達と同じ感覚でワイワイ騒ぐ仲間だった。
卒業してしばらくして会って見ると「きれいな人じゃ」と思えるほど変わっていた。百貨店と言う職場で磨かれたのであろう。みんなが言っていた通り、同級生の中で最も美人だと思うようになった。ただそれだけのことだった。

その当時としては鳴り物入りで岩国進出を果たした百貨店ではあったが、所詮田舎の小さな町。
購買力も低い上に、世の中の流行やセンスに付いていきにくい部分もあったようで、開店から20数年で幕を下ろしたと記憶する。
一つには、急速に進んだクルマ社会への対応が遅れたことである。駐車場の整備されていない店舗など、いくら頑張っても集客力は知れたもの。
街中から遠く離れた郊外でも、広大な駐車場を有する大型商業施設が成り立っているのをみても分かる。

経営者も変わり、商売内容も変えて再開したものの、結局は長続きしなかった。
そんな紆余曲折を経て、華々しかったかつての百貨店は今、建物からして完全に消えた。
重機が音を立てて取り壊し、更地にもどした。
線路を挟んで立っている真新しい高層マンションに対抗して、新たなマンションに生まれ変わろうとしている。

映画館も消えた。若き日の面影を残していた建物が今また消えた。
私の青春のかけらが、一つひとつつぶされていくような街の変わりように、付いていきにくい。
古い町から近代都市に生まれ変わろうとしている流れに合わせ、こちらの気持ちを切り替えなければいけないのかな~

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「ツルハシの響き」

2012年10月14日 | 思い出話

                    テッピーをよろしく!

『明治5年(1872年)10月14日に新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通したことを記念して、平成6年、10月14日を「鉄道の日」と定めました。
この日を中心として、JR、民鉄等鉄道関係者が一堂に会し、鉄道の発展を祝うとともに多彩な行事を実施することにより、鉄道に対する理解と関心を深めることを目的としています。』

このように定義づけられた鉄道記念日。
我々の生活と切っても切り離せない鉄道。と言われて来たが、これは「日本国有鉄道」時代の話。この頃では営業利益の低い路線は容赦なく廃止される株式会社となった。
それ以降は、鉄道に頼らない生活様式の導入。つまり、クルマ社会への移行。
その上長距離移動は航空会社が、かつて栄光を誇った鉄路の牙城を揺るがせている。

幼いころの我が家は、山陽本線のすぐそばにあった。時計は無くても、電車・・・オットットット汽車が時刻を教えてくれていた。それほどにダイヤは正確であった
長い貨物列車などは、通り過ぎるまで話声が聞き取れなくて会話を中止したこともある。

すぐ近くに保線区という線路管理者の事務所が置かれていた。
周辺には当然のように、鉄道官舎という建物が、肩をいからせているように見えた。
保線区のおじさんやお兄さんたちは、「線路工夫」と呼ばれていたと記憶する。
いずれ劣らぬ力持ち。隊列を組んで、調子のいい掛け声を発しながら、ツルハシを振るってレールを支える枕木の下へ、あのゴツゴツした石を埋め込む作業を連日繰り返していた。暑さ寒さお構いなし。見事な手作業で線路を守っていた。

筋骨隆々、お腹の筋肉はボディビルダー顔負けの締まり具合。この腕一本で、鉄路を守り、旅客の安全を守っている。かっこいいじゃーと子ども心に憧れたな~。
今は遠い遠い昔話となった。てっぴー君を目にし、鉄道の日と言われると、隔世の感がある鉄道事情と、あのツルハシの響きをつい思い出してしまった。

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