角聖・常陸山に学ぶ

小岩・亀戸・錦糸町など総武線を各駅停車の旅。
730円也のJR都区内自由切符を有効に使った。
夕暮れの両国駅で下車、近辺を散策した。

国技館の道路面には、関取衆の幟がはためいていた。
本場所が開催されていなくとも、立てておくようだ。
それから数日後、八百長問題が発覚し、春場所も中止となった。
相撲協会は「国技剥奪」の危機に瀕している。
今回の問題で思い出したのは水戸出身の第19代横綱、常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん・1874年- 1922年)。
旧水戸藩士の子として生まれた(明治7年)ことから、相撲の世界に武士道の考えを導入。それまで天皇・政府の庇護はありながらも、興行に過ぎなかった大相撲を国技と呼ばれるほどに押し上げ、かつスポーツのカテゴリに加える端緒を切り開いた最大の存在。
明治40年 8月に門弟 3人を連れて渡米し、第26代アメリカ合衆国大統領ルーズベルトとの会見を始めとして41年 3月まで米国各地で相撲の紹介に努めた功労者でもある。
ウィキペディアには
武家に生まれた影響か〈力士は侍である〉との思想の持ち主で、現役時代から力士の品位を向上させる努力を怠らなかった。また弟子への指導の厳しさは有名で、稽古場では常に愛用する青竹のステッキを持っていた。後の横綱たちをしても、彼が稽古場にこのステッキを持って現れれば、震え上がったという。悪い相撲をとったり稽古をしなかったりすると容赦なくこのステッキで殴っていたが、逆によい相撲をとれば賞金を出し、時にその金額は10円にも達したという。土俵外の生活においても厳格で、力士には絣の着物と袴の着用を徹底させ、門限に1分でも遅れたものには大関といえども容赦なくステッキを飛ばした。
等の逸話が書かれている。
相撲協会は何年かかろうとも、品格ある大相撲を再建してほしいと願う。

小岩・亀戸・錦糸町など総武線を各駅停車の旅。
730円也のJR都区内自由切符を有効に使った。
夕暮れの両国駅で下車、近辺を散策した。

国技館の道路面には、関取衆の幟がはためいていた。
本場所が開催されていなくとも、立てておくようだ。
それから数日後、八百長問題が発覚し、春場所も中止となった。
相撲協会は「国技剥奪」の危機に瀕している。
今回の問題で思い出したのは水戸出身の第19代横綱、常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん・1874年- 1922年)。
旧水戸藩士の子として生まれた(明治7年)ことから、相撲の世界に武士道の考えを導入。それまで天皇・政府の庇護はありながらも、興行に過ぎなかった大相撲を国技と呼ばれるほどに押し上げ、かつスポーツのカテゴリに加える端緒を切り開いた最大の存在。
明治40年 8月に門弟 3人を連れて渡米し、第26代アメリカ合衆国大統領ルーズベルトとの会見を始めとして41年 3月まで米国各地で相撲の紹介に努めた功労者でもある。
ウィキペディアには
武家に生まれた影響か〈力士は侍である〉との思想の持ち主で、現役時代から力士の品位を向上させる努力を怠らなかった。また弟子への指導の厳しさは有名で、稽古場では常に愛用する青竹のステッキを持っていた。後の横綱たちをしても、彼が稽古場にこのステッキを持って現れれば、震え上がったという。悪い相撲をとったり稽古をしなかったりすると容赦なくこのステッキで殴っていたが、逆によい相撲をとれば賞金を出し、時にその金額は10円にも達したという。土俵外の生活においても厳格で、力士には絣の着物と袴の着用を徹底させ、門限に1分でも遅れたものには大関といえども容赦なくステッキを飛ばした。
等の逸話が書かれている。
相撲協会は何年かかろうとも、品格ある大相撲を再建してほしいと願う。