goo blog サービス終了のお知らせ 

「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

鎌倉長谷寺@鎌倉市長谷 3-11-2。

2018年09月13日 18時18分39秒 | 
鎌倉長谷寺@鎌倉市長谷 3-11-2。




大和の長谷寺とどのような関係なのか分からないが、十一面観音菩薩像(長谷観音)を祀る鎌倉・長谷寺を始めて訪ねた。



観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内に分かれている。



高山樗牛住居碑 - 山門を入って左手に立つ。
明治期の思想家高山樗牛は病没する直前の1901年(明治34年)頃、長谷寺境内に住んだことがあり、1959年にこれを記念する碑が建てられた。



久米正雄胸像
1891年(明治24) - 1952年(昭和27)
鎌倉ペンクラブ初代会長、久米の3回忌にペンクラブによって設置された。



十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂。



「見晴台」からは鎌倉の海と街並みが一望できる。



鐘楼。
梵鐘(重要文化財)は観音ミュージアム内。

鐘楼には複製品が下げられている。



弁天堂の近くに、弁天窟がある。



シュウメイギクが咲いていた。



木造十一面観音立像(本尊)
像高9.18メートルの巨像で、木造の仏像としては日本有数。
造立年代は定かでないが、室町時代頃の作と推定されている。
左手に水瓶、右手に数珠と地蔵菩薩の持つ錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ。いわゆる「長谷寺式十一面観音」様式。

森永博志さんの藍染@代官山・蔦屋書店

2018年09月05日 20時15分11秒 | 
森永博志さんの藍染@代官山・蔦屋書店



代官山の蔦屋書店で森永博志さんの藍染のワークショップが開かれると知り訪ねた。



代官山の蔦屋書店は水戸の徳川邸屋敷跡地に在る、とはこの記事を書こうとしてHP を検索して知った。
基礎工事中に巨石がいくつも掘り出され、屋敷の庭にあったものではないかと言われているが、出自は謎だ。
土地の記憶としていくつかの石を、敷地内に置いてあるらしい。
次回の訪問時に確認する必要がある。

蔦屋書店の一角に、日光江戸村の中のミュージアム「江戸生活文化伝承館」の紹介コーナーが在る。








江戸切子のグラス・花火・日本刀の匠が作った「爪切り」・櫛・刷毛・帚・団扇など、日本の伝統的な優れものが展示販売されているのだ。




其の一つに「大和藍の染色キット」
浅草の藍・染料の専門店・藍熊染料の染料と解説書。




『ハウ ダイド オブ藍染』:製作「江戸生活文化伝承館」







染料に付属した読み物と染の技法書。
藍玉から作るややこしい藍染を、粉末状の染料を水で溶くだけ。
という、いとも簡単な方法で染める技。

カレーを作るのに、複雑なスパイスを組み合わせて、臼ですりつぶす。
手間を省いた「カレー粉」の発明がカレーが普及した。
この例えを引いて、粉末の藍染染料で本藍と同じように染められる方法を伝授してある。

●この小冊子は見ても読んでも楽しい。
編集・製作には森永博志さんが大幅に関わっているのは一目瞭然だ。








蔦屋の中庭に張られたテントでのワークショップに大勢の人達が。

誰でも参加出来る、とのことで僕もやってみた。



いとも簡単に染め上がったが、これにプラスしてオリジナルと言えるモノにしたい。

その点で森永さんの創造力は抜群。
今まで沢山の作品を拝見してきたが、コラージュ作品としてアートだ。



参考までに一つの作品を紹介。

那智の滝「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の7

2018年09月04日 07時20分11秒 | 
那智の滝「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の7




串本の橋杭岩を後に、那智の滝を目指す。



「那智の滝」は熊野那智大社の別宮、飛瀧(ひろう)神社のご神体として古くから人々の畏敬を集めてきた。



落差133m・銚子口の幅13m・滝壺の深さは10mの落差日本一の名瀑。

滝壺の淵から見ると、その大きさと勢いに圧倒されるだけでなく、心まで洗い流されるような清々しさを感じる。



駐車場から飛瀧神社までの石段もかなりある。
自然石だから、雨が降ればかなり注意が必要。





この先の那智山青岸渡、を詣でるのが本来だが、足に自信がなく、何度も参拝しているTさんが、登るのを見合わせということもあり、滝のみの参拝。

2015年の参拝の折、大門坂・那智大社・青岸渡寺、などを参拝しておいたのは結果として良かった。



本体に適うものはないが、根津美術館が所蔵する・国宝『那智瀧図』一幅 
絹本着色 160.3×58.5㎝ 鎌倉時代(13~14世紀)が思い浮かぶ。

仏さまが神さまの姿を借りて人々の前に姿を現すという、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)に基づいて描かれた垂迹画。
だれがなぜ描いたのかは不明だが、この地を詣でた亀山上皇が御幸から戻り、京の御所にいながらにして那智瀧を拝するために描かせたのではないかと推測されている。
日本に古くから伝わるやまと絵の手法を用いながら、中国・宋時代の水墨画の影響も見られる。



一遍上人絵伝・那智の滝(1299年)

トルコ記念館@串本町「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の6

2018年09月03日 18時15分27秒 | 
トルコ記念館@串本町「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の6





南紀白浜の「千畳敷」
太平洋に向けて突きだしたスロープ状の広い岩畳。
白く柔らかい岩は第3紀層の砂岩。
台風の影響で打ち寄せる荒波で全ては見えなかった。

海岸線に沿って、この日のお宿の串本を目指す。

港を隔てて、紀伊大島が目の前の宿。
大島を眺めて温泉に入り、飲んで食べて。
お互いに年を重ね、食事も酒も適量に。



宿からの朝焼け。
《ここは串本 向かいは大島 中をとりもつ 巡航船》の民謡「串本節」の故里。
今は紀伊大島とは巡航船ではなく、橋でつながっている。

台風が迫っているが、大島が防波堤になって、誠に穏やか。
左端が、樫野埼。



朝食を終えて、本州最南端の潮岬に。
台風情報で潮岬の・・・



潮岬観光タワーの屋上からの眺めは抜群。

「くしもと大橋」を渡って紀伊大島に。

トルコ記念館(大島の東端、樫野埼)。






1890年(明治23年)9月16日に紀伊大島沖で遭難したオスマン帝国(現在のトルコ)エルトゥールル号が遭難。
乗組員650余名のうち地元住人の献身的な救助活動で69名が救出された。
艦の模型や乗員の遺品のほか、トルコ政府から寄贈された品々を展示してある。

この救助のエピソードがトルコの教科書に記述があるらしい。

2008年にトルコに旅した際、小学生の団体から「コンイチハ」と声を掛けられたことがしばしば.

親日的な雰囲気はこの救助に基づくようだ。



トルコ軍艦遭難慰霊碑
記念館よりさらに先端寄りに建立。
訪日のトルコ人の団体さんが参拝に訪れていた。



アタテュルク像・トルコ共和国初代大統領。
トルコのどこでも、多様なアタテュルク像が在る。



樫野埼灯台
大島の東端、樫野の断崖に日本最古の石造り灯台。





樫野埼灯台旧官舎 ▽国登録有形文化財
灯台と旧官舎は、イギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年(1870年)に建設された。



橋杭岩
串本から大島に向かい約850m、列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っ。
規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付いた。
海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭。
40余りの岩柱がそそり立つ「橋杭岩」。

南方熊楠記念館(白浜町・番所山)「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の5

2018年09月02日 18時43分55秒 | 
南方熊楠記念館(白浜町・番所山)「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の5



南方熊楠記念館・昭和天皇御製の歌碑。
「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
昭和天皇御製・を刻んだ碑は神島を望む,南方熊楠記念館の前に建立。



南紀白浜は関西を代表する観光地で、海の色や光は正に南国。
観光客も沢山でリゾート気分満載。
Tさん曰く「熱海と同様、戦後まもなくは新婚旅行のメッカだった」。
熱海よりは活気を感じる。



白浜の海岸線を含め、地層が露出しているところが沢山ある。
最近、地層に目が行くようになったが、年代や種類など全く分からないのが残念。



海に浮かぶ「円月島」は絶景だ。

「円月島」の対岸の半島先端が「番所山」。
紀州藩の与力36人が一か月交代で異国船の監視に当たった遠見番所。



「ウバメガシ」は紀州・備長炭の原材料、この辺りに自生してるようだ。



番所跡地に「南方熊楠記念館」が在る。










博物学者・植物学・菌類学者としてのみならず、民俗学の創始者、南方熊楠(1867~1941年)
の研究資料・遺品や熊楠が作製した標本など約800点が年代順に展示されてある。

19才から14年間アメリカ、イギリスなどへ海外遊学。
数ヶ国語を自由に使いこなし、国内外に多くの論文を発表し、日本に「ミナカタ」ありと言われた。
天文学、鉱物学、宗教学などにも多くの足跡をのこし「知の巨人」と称される。

●上野の国立科学博物館で2017年12月~2018年3月まで開催された「南方熊楠生誕150周年記念企画展-100年早かった智の人-」展を見た。
「博覧強記」が過多、今回も同様で「凄い人なんだ」と感じたが何なのかは分からずじまい。





屋上から四方が見渡せる。
台風が接近で白波もたっていたが、この頃までは穏やか。



熊野三山も望める。
一般的な松とは樹形や葉が異なる松の木。

●熊楠が晩年の25年を過ごした邸宅や顕彰館が田辺市に在る。
今回、田辺市はパスしたが、機会が有ったら訪ねたい。


和歌山城「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の4

2018年08月31日 23時16分00秒 | 
和歌山城「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の4



Tさん宅前、この車で紀伊半島2泊3日の旅に出発。
いよいよ旅が始まります。

20日の17:00にJR茨木駅集合した3人はTさんの車で万博公園の周辺をドライブした。
Fさんが勤めて山の上のテレビ局、跡地やTさん勤務の研究所など、懐かしい場所をドライブし、Tさん宅に。

Tさんおもてなしの料理を肴に飲み会。
お互い、酒量も減りました。
明日に備えて早めに就寝。



全行程をFさんとTさんが交互に運転してくれた。
大阪近辺の混雑や紀州の山や海岸線など、僕では無理だ。
お二方、お疲れ様、そして、有難う御座いました。

紀伊半島は紀州(和歌山)と伊勢(三重)。
地図上で確認すると半島の首根は西側が堺市、東は松坂市辺りだ。

紀伊半島の殆どは、旧紀州藩で紀州徳川家は徳川家康の十男徳川頼宣を家祖。
水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房は家康の十一男で、正に兄弟だ。
水戸人としては敬意を表し、和歌山城を訪ねなければならない。

阪和自動車道路は間もなく和歌山辺りの右側の海中に関西空港が見えてくる。
空港は大阪よりも和歌山に近いと知った。

和歌山城
和歌山北ICを降り、紀の川沿いの道を進むと、山の上に城の姿が遠望できる。
紀州徳川家の居城は虎伏山(とらふすやま・標高48.9m)に立っている。



カーナビが案内した「不明門脇駐車場」は石垣に囲まれた枡形の中。
いかにも城郭の中、見事さに圧倒された。



案内板に添って、石垣の脇の階段を登る。



切り立った石垣があちこちに。
暑さの中、やっとの思いで、天守閣の下に。





天守閣などは1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートにより再建された。
写真を撮り忘れた、或いはうまく撮れそうにないからあきらめたが、川に囲まれた平地に聳えたつ山上からの眺望は城を構えた理由がよく分かる。



二の丸御殿
江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。



御橋廊下
藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋。
江戸時代の図面をもとに復元され、実際に通ることができる。



西之丸庭園
紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であった。
城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられている。
江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として、国の名勝に指定。



豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石。
模様は約170種類、2100個以上、その大半が和泉砂石である。



石垣の前のお二人。

京都・祇園辺り「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の3

2018年08月30日 19時14分55秒 | 
京都・祇園辺り「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の3



八坂神社:全国祇園社の総本社。
四条通りの突き当たりに建つ朱塗りの楼門は、八坂神社のシンボル。
ここに立つと、京都に来たと実感する。

骨董の世界に入門して10年位、京都と奈良を繁く訪れた。
神社や仏閣が次々と立て替えられ、修復が進んでかっての趣が失われる前に見て置きたいとの念が強かった。
勿論、博物館や美術館で名品を拝観するのも楽しみだった。

奈良の各地を訪ね、京都に宿をとった。
定宿としたのが八坂神社裏の辺りの小さな旅館。
今回は訪ねなかったが、錦の市場で食料を仕入れ、部屋で食べたりの愉しみもあった。
おっさん一人がやっている居酒屋なども旅の旅情。



新橋通り、町並みが保存されて、いかにも古都の佇まいだ。

新門前から縄手通りには骨董・古美術商が軒を連ねていた。
この日は、月曜日ということもあってか、休業の店も多く、閉店してしまったところもある感じで、古美術の世界は幾分寂しい感じもする。



縄手通りの古美術「柳孝」
伝説的な古美術商ゆえ敷居が高く、外からウインドを眺めるだけ。



器、花、掛物が素晴らしい。

以前に、先輩に連れられ何度が店内に入ったことが有る。
客の要望に従い、番頭さんの手で、次々を品物が運び込まれた。
在庫の多さに驚いた。



四条通りの古美術「近藤」

信楽の大壺の魅力を世に広めた店だ。



今でも見事な信楽の壺が。



須田剋太の書作品。
絵も書も、素晴らしい。



「赤井南明堂・京都店」
奈良の赤井南明堂の弟さんの店で、仏教美術関連が多い。



祇園切通の「おいと」

カウンタ―席だけの小さな店だが、一見さんお断り。
京都風なシステムだが、合理的な面もある。
最初は紹介者が責任を持つ、と言うことで後は自己責任。

骨董商の案内で行き、カウンターの奥の掛物と器に生けられた花に魅了された。



偶々、雑誌に紹介されたものを切り抜きで保存して有ったのを写した。
その良さの一部でも伝われば、

外と店内にある「おいと」の看板の灯具。
魯山人作と聞いたようにも思いが、真偽は不明。

今も使われている、であろう器は荒川豊蔵の息子さんの「水月窯」。
料理に合わせ、使いこまれた美しさも魅力だった。

入り口傍の椅子に坐った「おいと」さん、と思われる着物姿のご婦人が客をあしらっていたが、

ここ何十年と行ってないが、再訪したいとの念は強い。
京都に数泊した際でもないと、難しい。



高瀬川沿いには、昔ながらの落ち着いた店も多い。

何れにしても日中だから、夜の風情はない。

京都駅から大和大路~東大路。
東山・祇園辺りの懐かしい処を貸自転車で巡った。



東本願寺の本堂は流石に巨大。



貸自転車を返却し、待ち合わせのJR茨木駅を目指し、JR京都駅。
京都駅を降りれば、市内電車が走っていた時代から大変わり。

東山散策「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の2

2018年08月29日 15時59分07秒 | 
東山散策「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の2



念願だった東本願寺の別邸・渉成園の書院式回遊庭園は一部は改修工事であったが、豊臣秀吉が築造した、京都を取り囲む「御土居」の遺構が園内に存在しているのを知り、京都の街歩きの楽しさを再確認した。

京都国立博物館・門及び旧本館。

片山東熊の設計になる煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式の建物。
1897年(明治30年)に開館した。
この歴史的な建物は文化財として保存されている。
何時まで使用されていたのか?内部に入った経験はない。

それに代わる、常設館が耐震化の必方から取り壊され、平成知新館(谷口吉生設計、着工2009年1月31日・竣工2013年8月)が開館。
約5年経過したが、未だ入館の機会がないままだ。
この日(㏳)は月曜日で残念ながら、休館日。



豊国神社から国立博物館西側の巨大な自然石などを積んだ石垣。
かつての大仏殿の石垣の遺構だが、とてつもなくでかい。



豊国神社(とよくにじんじゃ)
神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。
豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。



国宝・唐門
元は南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築される。

方広寺(ほうこうじ)
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建。
現在は狭く堂宇もわずかだが、当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。



方広寺梵鐘、廃絶につながる逸話の多い梵鐘らしい。
大和大路通りを北上し、五条通りを横切る。





踊り念仏で知られる空也ゆかりの、六波羅蜜寺。
空也は、平安時代中期の僧で阿弥陀聖、市聖、市上人と称される。



六波羅蜜寺の空也像。

首から鉦を下げ、鉦を叩くための撞木と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで歩く姿。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。
この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。

この姿の像が沢山あるが、それらの中のオリジナルともいわれるのでぜひとも拝観したいと思っていた。
確かに、鎌倉時代の肖像彫刻として秀でている姿だ。



建仁寺(けんにんじ)は臨済宗建仁寺派大本山の寺院で、臨済宗を伝えた栄西を開山とする。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。

渉成園「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の1

2018年08月26日 21時35分55秒 | 
渉成園「爺3人・紀伊半島1周の旅」其の1



中・高時代の同窓生三人で、年に1度は旅をするようになった。
Fさんの快気祝として大阪の法善寺横丁の「正弁丹吾」で食事会を開いた。
「これから先どれだけの命か分からないから、元気なうちに旅をしよう」.

との話がきっかけとし、東京湾1周・琵琶湖1周・伊豆半島1周と旅を重ねた。
今年は「紀伊半島」を一周することに。
集合はTさんの宅の最寄り駅「JR茨木駅」に夕方5時集合。
自宅を6時に出発し茨城空港発に。



スカイマークの神戸便・茨城空港7:35~神戸空港8:50着。

ポートライナーで三宮へ。



神戸市内や摩耶山・六甲山。

神戸空港やポートアイランドは全て埋め立て地。
ポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)が開催される数年前(76年ころか)子供達を連れた夏季旅行で立ち寄った際は建物をほとんど見かけなかった。
その頃を思えば、想像もつかない大発展だ。

スカイマークの就航で、札幌・博多・神戸を経由する旅が便利になったのは有難いことだ。
他の航空会社を含め、便数が増えるようであれば嬉しい。




三宮からJR京都駅に。



浄土真宗・大谷派「東本願寺」



道路の反対側の「京都みやびや」で貸自転車を借りる。
大体の旅で貸自転車を利用する。
時間が大幅に短縮され、目的地に到達する道中も楽しい。

東本願寺の別邸・渉成園(しょうせいえん)



9世紀末に嵯峨天皇の第12子・源融が奥州・塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地とされる。
付近に今ものこる塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りという。

寛永18年(1641年)、徳川家光から東本願寺に寄進される。
承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される。

これらの歴史を有する庭園、念願が叶った。



西門の正面にドーンと目に入る「高石垣」
切り石・礎石・石臼・山石・瓦など、多様な素材をくみ上げた石垣。



周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。



この築山を含め、園の北東から南西につながる島などは豊臣秀吉が築いた「御土居」の跡と言われる。

「御土居」に関してはブラタモリの放送で知ったが、高低差や自然の構造を上手く利用し短期間で作り上げた豊臣秀吉の計画は見事なものだ。]





池と数棟の茶室、書院などが巧みに配置されている。



「塩竃の手水鉢」
全国の同様の手水鉢の本歌(オリジナル)と言われる。



「塩竃」
横穴の底に「井筒」(いづつ・井戸枠)、その形が塩を製造する塩竃とそれの屋に似ているとして呼ばれたが、現在は水は枯れてしまった。





「縮遠亭」
北大島の高台に建つ、眺めの良い茶室。



「傍花閣」
楼門作りの個性的な建物。



南大島を望む「印月池」には睡蓮の花が。

旧東海道品川宿・其のⅠ@東京都品川区

2018年06月24日 07時10分55秒 | 
旧東海道品川宿・其のⅠ@東京都品川区







旧水戸街道を含め、旧街道の街を途切れ途切れでもいいから散策したいと思っている。

東海道五十三次の宿場の第一宿の「品川宿」は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。
目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿と呼ばれた。








JR品川駅周辺、当時は海が埋め立てられ、高層ビルが林立。



徒歩10分の「八山橋」辺りが品川宿の入り口。


品川宿は中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。



「品川 日乃出」
歌川広重 『東海道五十三次』 より
御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。

北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。






「鯨塚」当時の海岸線、時にはクジラの姿も見られたのだろう。






沿道には大小のお寺さんも多い。



品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿。
西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多かった。

古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台。
他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わい「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄した。
昭和30年代までその痕跡があったようだが、今や全く感じられない。

現状からは往時の賑わいを想像しようもないほどに静かな町並みだ。



目黒川に架かる「品川橋」

宿場の中央に位置し橋の左右が北品川宿、南品川宿と呼ばれた。



川の上流が目黒方面。



夜は小料理、昼は定食の店で「穴子膳」.
古い塗碗や器を使用した趣味の良い、こじんまりした店だった。

東海道の松並木@大磯町

2018年04月10日 22時31分54秒 | 
東海道の松並木@大磯町







「鴫立庵」の前を通る国道1号線を左に折れ、小田原方面へ向かう上り坂。
上りきった大磯中学校の辺りから東海道の松並木が残され、遊歩道が整備されてある。

さらに2キロ行けば、吉田茂の旧邸があるようだ。



歌川広重の「東海道五十三次・大磯宿」

江戸時代の旧街道の絵図には、必ず松並木の風景が描かれてある。
日本の風土には松がよく似合うと思う。
茨城県内各地や水戸近辺にも松並木や松林が沢山あったが、松くい虫などの被害でかなり少なくなってしまった。

松は手入れが難しく、虫害を受けるからなのか?
新たに植えられないのは残念だ。



樹齢数百年、直径1メートルも有りそうな巨木が何本もある。
日光や箱根の見事な杉並木は見ているが、これほどの松並木を見たのは初めて。



街道の1本裏通りを散策すれば、石垣もあったりする落ち着いた路地。 
住宅なのか、別荘か?



瀟洒な庭と家々、如何なる人たちの棲み処なのだろう。

お伊勢参りの帰途、伊勢を早朝に発って名古屋を経由し豊橋で下車し朝食をとった。
浜松・島田と下車を重ね駅前を散策した。
わずかの時間とはいえ、通過するのと降り立つのはかなり異なる。

途中下車が可能なのが「青春18切符」の大きな特徴。

大磯では念願の「鴫立庵」を訪れ、旧東海道の松並木も体験できた。

  花の下は花の風吹き西行忌   村山古郷
  三夕の一夕の浦西行忌     阿波野青畝
  大磯に一庵のあり西行忌    草間時彦

  

大磯駅に向かう国道沿いに、古い商家を改築した「CHAIRO Curry」

古民家カフェなのだろうが、カレーがウリのようだ。



ギネスを飲みながら遅めの昼食というより夕食。



スパイシーで好みの味のカレーだった。
雑穀入りのご飯も美味しかった。

●慶長5年(1600)の関が原の合戦に勝利をおさめた徳川家康は、慶長6年には東海道に宿駅の制度を設け整備を行った。
慶長9年には36町を1里(約3.9キロメートル)として一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどが植えられた。
●従って、東海道本線の車窓からはあちこちの松並木が遠望できる。
どこの松並木とは特定できないが、機会が有れば最寄りの駅から歩いてみたいと思っていたのが、今回実現した。
広重の「東海道五十三次」の版画に登場する場所を訪ね、現代の街道と対比する旅を、こまめに続けたい。

旧水戸街道・土浦宿

2018年04月07日 14時31分50秒 | 
旧水戸街道・土浦宿





青春18切符は、普通切符ではできなくなってしまった、途中下車できる利点がある。
東京からの帰途、土浦で途中下車した。

土浦は城下町であったほか、霞ヶ浦水運の拠点地でもあり物資集積地としても栄えたので、中城通り(旧水戸街道)にかつての豪商の建物や蔵・寺社仏閣などが。



天ぷら ほたて。
中城通り(旧水戸街道)に面した角店で、100年以上の歴史を有するてんぷら屋。
寄棟造りの木造2階建て、明治の町家という風情が漂っている。
一度は入ってみたいと思っている。



まちかど蔵「野村」。



「野村」脇の路地、この先に不動院・琴平神社。





中城通り。
この通りの奥に「そば処・吾妻庵本店」が在る。
水戸の「吾妻庵」の本店にあたるらしいので、この店も一度は訪ねたい。



土浦城(現在は亀城公園)



古地図を見れば、城を中心に掘割が巡り、水に浮かぶ亀の姿に見えるので「亀城」と呼ばれたことを彷彿させる。



亀城公園の濠を挟んで「城藤茶店」の暖簾。



上がり框からの店内、古民家カフェだった。







あちこちに書棚や本が沢山、ブックカフェでもあるようだ。

朝8時からの営業で食事メニューもある。

東京からの朝帰り。



朝食を兼ねて地元産のレンコンも入った、ヒヨコマメのカレーセットを注文した。

とても感じの良い店で、亀城公園を眺めながら、ゆったりと寛げた。
水戸でも弘道館や偕楽園の近くに、このような店が在れば、と思った。

●水戸街道は千住宿を基点に、松戸宿、取手宿、土浦宿…と経て、水戸に至る約116㎞の行程。
水戸徳川家と江戸を直結する幹線道路として、五街道に次ぐ重要な存在だった。
しかしながら、往時の面影を遺す場所は少ない。

土浦には、土浦城(現在は亀城公園)をはじめ、中城通り(旧水戸街道)に商家や蔵、神社仏閣などが残る。

鴫立庵@神奈川県大磯町

2018年04月04日 07時54分04秒 | 
鴫立庵@神奈川県大磯町



「鴫立庵」は京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」と並び日本三大俳諧道場の一つとされる。

かねがね、訪ねたいと思っていたが実現しなかった。
伊勢神宮参拝の帰途、大磯駅で途中下車。
青春18切符の利点は、何度でも途中下車が可能なところだ。

大磯駅から徒歩で約10分、国道1号(旧、東海道)沿いの瀟洒な茅葺屋根の「鴫立庵」。



門前を流れる谷川を渡る石橋。
落差のある流れの沢音が響く。

元禄8年江戸の俳人、大淀三千風が俳諧道場として「鴫立庵」を再建1世とし、現在は22世の鍵和田柚子が庵主を務めている。
歴代の庵主はここに住んだようだが、現・庵主は東京にお住まいとのこと。

何も知らずに閉庵時刻の16時間近に訪ねたが、管理の係員さんが親切に案内して下さった。
民間所有ではあるが、管理面においては大磯町が援助されているように感じた。

一旦、仕舞われたにも関わらず「水戸から訪ねた」と伝えたところ開扉されて説明下さり、写真も撮って下さった。
ご親切な対応に心から感謝いたします。

管理員さんの説明と頂いたパンフレットを元にした訪問記。

江戸時代初期(寛文4年)小田原の崇雪が敷地内に建てた「鴫立沢」碑。
石碑の銘文「著盡湘南清絶地」により「湘南発祥の地」とされることもあるとか。

西行の「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(『新古今和歌集』)の比定地とされている。



「鴫立庵室」歴代庵主の住まいとして使われた。
21世の草間時彦は在庵15年で平成15年に没するまで住まわれたようだ。





「法虎堂」



堂内には有髪僧体の虎御前19歳の木像。

「法虎堂」



「円位堂」
庭園の奥、海を背に北面して建つ。
大淀三千風が創建した当時の遺物と伝えられる。



文覚上人作の西行木像。



庭内には多くの石碑などが建っている。



「俳諧道場」は句会などにも貸し出し可能。
使用料も安く、句会開催の場所として最適だが大磯では遠すぎ。
地元の人にとっては絶好の場だろう。

二見興玉神社「お伊勢参り」其の8

2018年04月03日 03時22分42秒 | 
二見興玉神社「お伊勢参り」其の8



二見興玉神社の夫婦岩。

河崎地区から二見浦までは約4キロ、田園地帯を走るが早くも初夏の感じだ。
かつて伊勢神宮を参拝する人たちが身を清める場所として、また、神宮参詣者たちの宿泊場所としても栄えた名勝二見浦。
二見興玉神社まで続く夫婦岩表参道(旅館街)には、木造三階建ての純和風旅館が軒を連ねるが、盛況には感じられず静寂に思えた。



参道の松林は風情がある。





二見興玉神社の御神体は海底にあり、その御神体を遥拝するかたちで夫婦岩が鳥居となっている、とのこと。



二見浦随一の観光名所として有名な夫婦岩。
海辺はそこの砂まで見えるほどに清らか、岸辺から海底の御神体に心からの感謝を。





遥拝がすんで、神社に近いお休みどころに「伊勢漁港・穴子丼」の看板。



穴子と伊勢うどんのセットを注文。
伊勢はうどんも名物らしく、あちこちで看板を見かけた。



ウニも付いている。
観光地の食堂にしては丁寧な作りで、十分に満足。

エネルギーを補給したので、鳥羽まで足を延ばすことに。

鳥羽までは約9キロの道のりだ。



「伊勢志摩国立公園」の海岸線は風光明媚。



見え隠れする湾は誠に穏やか、真珠貝養殖の筏か?



鳥羽駅に到着。



ミキモト真珠島への橋。
時間もないので見学しないで伊勢に戻ることに。

朝の7時頃に旅館を発って、日没頃に無事帰還。
貸自転車のお陰で一通りの伊勢神宮参拝が叶った。

明治天皇巡幸の碑「お伊勢参り」其の7

2018年04月02日 18時49分02秒 | 
明治天皇巡幸の碑「お伊勢参り」其の7



明治天皇巡幸の碑;明治5年、明治天皇が海路で神宮参拝をした時の記念碑。

内宮二参拝し、社前の「おはらい町・おかげ横丁」を散策したが大賑わい。
寺社仏閣の「聖なる参拝と俗なる門前の遊興」はいつの世も変わらない。

昼食はボンヴィヴァンの河瀬シェフお勧めの蕎麦きり「才屋」を訪ねたが、あいにく定休日だった。
観光地の伊勢は水曜定休が多いようだ。

国道23号線を辿って二見浦を目指すが、その途中に地ビール醸造元が経営するビアレストランの話も聞いたので、訪ねることに。



沿道に「野口みずき金メダルロード」の標識。



アテネオリンピックの女子マラソンで優勝した、野口みずき選手が三重県立宇治山田商業高等学校時代に実際にトレーニングで走ったコースだった。



「伊勢角屋麦酒」醸造所・2階のレストランは残念ながら、休業中。




付近を散策すると、明治天皇の神宮参拝の記念碑が在った。

明治5年、伊勢湾に停泊した軍艦から小舟で勢田川を上り、舟参宮の着場であった神久地区に上陸、伊勢神宮の外宮・内宮を参拝。

歴代の天皇は熊野には度々詣でたが、伊勢に参拝したことはない。
明治天皇から解禁になったのは、何故なのか?



神久地区は船参宮の要所。
外宮線・内宮線・二見線などの電車軌道が開通した。
その後、新たな交通体系となり廃線となってしまったが、



勢田川の岸辺には今でも船着き場が、

当時、茶屋が二軒あったことから地名を二軒茶屋と名付けられた。





現在もその内の1軒が営業中で茶屋餅が名物。