( この写真は、1970年頃に撮影されたものです。当時「引退宣言」を発表して話題になった事がある
のですが、実は「引退」は話題作りで実際にはスタッフたちと熱海へ遊びに行っていたわけです。写
真手前がジョージ先生で、後ろに立っているのはまだ10代のスタッフです。当時のスタッフは全員20
歳前後だし、先生もまだ20歳代後半の若者です・・・・・皆、子供の様に若いです・・・・・《 1970年、某月、
撮影 》 )
( ↑写真、先生が写っている写真は以上の2枚しかありません。40年もアシスタントをやっていたのに、
まったく写真を撮る事がありませんでした。この写真は、1979年の忘年会の写真です。中央が先生で、
右側には少年キングで連載を持っていた元アシスタント、周りに写っている人物もほとんどがアシス
タントたちですが、右下の人物だけはアシスタントの友人で氏名不詳です・・・・・《 1979年、12月、撮
影 》 )
( ↑写真、仕事場のスナップ写真です。87年の夏、クーラーはボロボロで室内が夕方になると最高で
38度になった事もあります。熱帯夜の夜なのにマンションのドアを開けて外気に触れると、外の方
がクーラーが効いている様に涼しかったものです・・・・・《 1987年、7月、撮影 》 )
( ↑写真、仕事場の奥、正面は新宿の夜景が美しいガラス窓、左側に先生の個室がある。手前は小さ
なリビングになっていて、ソファやテーブルが置いてあるのですが、ゴミがかなり散乱している・・・・・
《 2006年、某月、撮影 》 )
( ↑写真、前上の写真と同じ場所の同じソファ。かなりゴミでうずまっています。たまに私がかたず
けるのですが、書籍やボロ布、クッションなどをどけると、そこには敗れたソファーから出て来る
大量のチリ屑があふれ出るので、なるべく本やクッションで隠しているのです・・・・・《 2010年、某
月、撮影 》 )
( ↑写真、夜の仕事場の風景です。ちょうど仕事が終わって帰る時に撮影しました。私が秋山プ
ロを辞める3年ほど前にはスタッフも二人だけ、8つあるスタッフの空デスクの上には雑誌やゴ
ミが山の様に積まれています。とても寂しい風景なのです・・・・・《 2013年、某月、撮影 》 )
( ↑写真、『弁―、急仕上げ、コピーないよ』という先生からの指示メモです。時々、仕事が始ま
る前にスタッフデスクの上に置いてあったりします。この意味は、『編集さんの弁当を一つ注文
すること、今日の仕事は締め切りが迫っているので急いで仕上げること、昨日描いた分の原稿
のコピーはない。』ってな意味です・・・・・《 2013年、某月、撮影 》 )
( ↑写真、仕事場の奥、先生が仕事をする椅子とは別の応接用の椅子です。ゴミだらけで分かりに
くいのですが、茶色のレザーの椅子です。背もたれ部分にはジャケットなどがかけられ、腰があ
たる部分のレザーが敗れてボロボロになり、黄色いクッションがはみ出しています。椅子という
よりもゴミのかたまりにしか見えません・・・・・《 2015年、某月、撮影 》 )
( ↑写真、窓辺に置かれた先生のデスクです。説明しないと、どれが椅子でどれがデスクかまったく
分からないほどゴミに埋まっています。画面の中央がゴミだらけのデスク、右の方に少しだけ筆記
具が見られます。その横にはビールの空き缶やお茶などの空きボトル、その下には白いゴミ袋、画
面の左右には木製のキャビネットがあります。先生は、ここで毎日『浮浪雲』を描いていたわけで
す。ちなみに先生が留守にする朝のわずかな時間に私が掃除していました・・・・・《 2015年、某月、
撮影 》 )
( ↑写真、先生が朝、編集員が来る前に逃げた後。担当編集員○原氏への走り書きです。『そんな
わけで、どうもすいませんです。さようなら』こうした事は、1970年代から2010年頃まではまったく
なかったのですが、この10年ほどは『浮浪雲』のネーム制作にかなり苦しんでいました・・・・・本当に
命がけでデスクに向かっていました・・・・・《 2016年、某月、撮影 》 )
( ↑写真、応接間にあるテーブルです。これも説明しないと何が写っているんだか分かりません。
画面の下半分が木製のテーブルです。書籍類がテーブルの半分以上を占領しています。テー
ブルの右端に鉄の灰皿がありますが、これは40年位使っている代物で、毎日私が綺麗に洗って
います。基本的にはこのテーブルと灰皿は毎日片づけているのですが、それ以外の先生の私物
には一切手を付けません。そのため、どんどんゴミが溜まっていくのですが・・・・・《 2016年、
某月、撮影 》 )
【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】
先生は死んでしまった
こうした追悼文の様なものを書く事になるとは思っていませんでした。
先生( ジョージ秋山、1966年デビュー『 銭ゲバ 』『 アシュラ 』『 浮浪雲 』、私は1978
年に師事、2017年退社 )には怒られてばかりだったし、このブログ自体も嫌っていたその
先生を追悼するブログを書くなんて・・・・・・・・・・・なんだか申し訳ない・・・・・・・・・・・・・・
そこで、今回は最近( 2週間ほど前 )見た「 夢 」について書いてみたいと思います。
久しぶりに見た先生の夢です・・・・・・これは、追悼文というより酔狂文に近いかも・・・・・・・・・
先生が亡くなったのが5月12日・・・・・・・・・・それを私たち元アシスタントが知ったのは、だい
たい半月ほど過ぎてからでした。
そして、私が見た先生の夢というのは、それからさらに3週間ほど経った某日という事にな
ります。
先生の夢は、今までに何度か( 何十回か )見ていますが、この夢もいつもと同じ様に仕事
場が舞台になっています・・・・・・・・・・・・
夢の中では、私は先生の死を知りません。
まだ、仕事場で先生と仕事をしているつもりなのです。
仕事場は、他のスタッフが帰宅した後で、私と先生しかいません。
ただ、仕事場の雰囲気がいつもとかなり違います・・・・・・・・・机も椅子もなく、ただ書籍やフ
ァイル、雑多なゴミや空き瓶、空き缶が床に散らばっているのです。
まるで、引っ越しの後かたずけでもしている様な・・・・・・・・・・・・
私は、仕事場の中央に立ち、先生がいる個室に向かって歩いていきます・・・・・・・・・・・・・
『 今日でいよいよ最後なんだなァ・・・・・・ 』
・・・・・・漠然とそんな事を考えながら・・・・・・・・・・
「 最後 」といっても、私がアシスタントの仕事を辞めるという意味なのか、先生が引退して
仕事を辞めるという意味なのか・・・・・・・・・どちらなのかは分かりません。
窓から差し込む光で床に紙くずや空き缶が散らばっているのが分かります・・・・・・・・・・やけ
に殺風景なのです・・・・・・・・・
『 最後なんだなァ・・・・・・ 』
外は、曇り空なのか雨でも降っているのか、昼間なのに薄暗い室内・・・・・・・・・・・
私は先生のその薄暗い個室に入ります・・・・・・・・・・・
いつもと同じ様に先生は、こちらに背を向けて机に向かっている・・・・・・・・・
いつもと同じ様に私は先生に声をかける・・・・・・・・・・・・
いつもと同じ様に「 センセ・・・・ 」と小さな声で・・・・・・・・・・・
しかし・・・・・・・・・・・
「 センセ 」と声をかけようとした時に、先生のデスクには、見た事のない漫画のキャラクタ
ーが描かれているのに気づきます。
『 まだ仕事をしているのだろうか 』と思って声をかけ損ねていると・・・・・・・・・・
「 これは、新しいやつだぜィ 」
先生は新作のキャラクターデザイン( なんだか『 銭ゲバ 』っぽいけど )を描いていたので
す。( 髪の毛に少し薄墨を入れている )
「 ここに付けるんだよ 」
先生はそう言って、わきに置いてあったA4ほどの大きさの「 厚紙模型 」出して私に見せるの
です。
その模型は、紙で作ったもみの木に雪が積もっている様な、クリスマスのパッケージみたいな
模型で、「 ZENIGEBA 」というロゴが入っていました。
新作なのに、「 ZENIGEBA 」というのは変だなぁ・・・・・・と思いつつも・・・・・・・・・・・・
この模型にキャラクターの絵を重ねてプロモーション用の写真でも撮るのかと・・・・・・私は勝手
に納得するわけです。
『 きっと、後で編集員がカメラ機材を持って何人もやって来るな・・・・・ 』
先生の部屋を出て仕事場へ・・・・・・
『 新連載かなぁ・・・・こりゃ、仕事が忙しくなるなァ・・・・・・! 』
私はスタッフを呼ばなくてはならないし、仕事の準備に入らなくてはならないと焦るわけです。
ところが・・・・・・・・・・・・
誰もいないはずの雑然とした仕事場には、もうスタッフが何人も集まっています。
それも、40年も前に辞めたスタッフも一緒にいるのです。
ヌイちゃん、50年以上も前の最初のアシスタント。1年間、風呂にも入らず、パンツも代えな
い伝説の人。今はフリーのアニメーター。
ガーさん、先生よりも女にモテる東京下町育ちのイケメン。少年キングでデビュー。
シンさん、優しく美しい童謡の世界を志向したのに、現実は多重債務で眠れぬ夜。
ケンちゃん、秋山プロ一の背景プロ。他の有名漫画家からもスカウトされていた。( 故人 )
ヨシちゃん、竜馬と維新史に詳しい「 歩く幕末 」と言われた堅物。
ノリちゃん、ユニークで個性的、毎日の様にスナックで朝まで飲んでた最後に一人残ったア
シスタント
先生は、そのスタッフたちに囲まれる様にして立っている。
スタッフの後ろには、担当だった「 ビックコミックオリジナル 」の編集員も来ている。
先生は、いつもの様に冗談( だか何だか分からない )を飛ばして皆を笑わせる。
「 やってるか? 」
仕事の話かと思うと・・・・・・・・・
「 女とやんなきゃダメなんだよ! 」
先生・・・・・・
先生の話がもっと聞きたい・・・・・・・・・
皆が笑っている・・・・・・・・・・・
面白そうだなァ・・・・・・
先生・・・・・・・!
「 おめィはいつもよォ~・・・・・・ 」
先生の話が・・・・・・・・
でも、もう夢が覚めている・・・・・・・・・・・
私は、目を閉じたまま先生やスタッフたちを追う・・・・・・・・・・・
しかし、もう誰もいない。
先生はいない・・・・・・・・・・
閉じた目には雑然とした仕事場が浮かぶだけだ・・・・・・・・・
紙くずとビールの空き缶・・・・・・・・・
「 おめィはよォ・・・・・ 」
もう聞けない先生の声・・・・・・・・・
ごめんなさい先生・・・・・・・・・・
ホントに・・・・・・
馬鹿な弟子でした。
その馬鹿弟子の思い出話は・・・・・・次回に・・・・・・・・・・
「 漫画家アシスタント移住物語 こりゃタイ編 先生との思い出1 」 へつづく・・・・
( 月一連載を目指していますが、無理だと思います )
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【 各章案内 】 「第1章 改訂版」 「第2章 改訂版」 「第3章 改訂版」
「第4章 その1」 「第5章 その1」 「第6章 その1」
「第7章 その1」 「第8章 その1」 「第9章 その1」
「諦めま章 その1」 「古い話で章 その1」
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」
今となっては誰かの"弟子"になることも、また"師匠"と呼べる存在を持つことも殆どなくなり、私自身も誰の弟子になることもなく、また当然誰の師匠になることもなく消えていくのだと思いますが、師弟関係というのはやはり特別なものなんですね。
J先生は浮浪雲では最後の10年はネーム制作にかなり苦しんでおられたということですが、浮浪雲の連載を終えられたら新連載を始めたいというお気持ちはあったんでしょうか?
最近ですと終わった作品の続きを描かれる漫画家の方も多いですが、J先生もそのようなアイデアはお持ちだったんでしょうか。
「弟子」というのは確かに独特なものがあります・・・・・
ただし・・・・・・誰でも漫画家の所で仕事をすれば「弟子」になるかと
いうと・・・・・そうでもありません。
私が初めてアシスタントをした女流漫画家は「弟子」というよりも「助
っ人」という感じでしたし、その次にアシスタントをしたかわぐちかい
じ氏の所で求められたのは、「対等」の関係でした。
「対等」というのはつまり・・・・・「先生」とは呼ばせずに「かわぐちさ
ん」などと呼ばせていたからです。
上下関係やら敬語やらを嫌う世代的(全共闘世代)な気質があるの
かも知れませんが・・・・・・・・漫画家といってもかなり個性があります。
「師匠と弟子」という古典的な関係でいえば、村野守美氏やジョージ
先生はその典型的な例かも知れません。
当然、その感性や思考に弟子は重大な影響を受ける事になります。
村野先生の所での(たった)1週間さえスゴイ経験だったのですから、
ジョージ先生との40年間は私の血肉、骨髄になっているわけです。
>新連載を始めたいというお気持ちはあったんでしょうか?
いつもあったと思います。
つまり、新しい作品の原案をいくつも持っていたはずなのです。(事
実、それらの原案を見せられた事があります)
ここ10年ほどは、「雲さん」一本しか仕事がありませんでしたが、仕
事をしないのではなく、新しい作品を買ってくれる所がなかったので
す。
原案を多くの出版社にファックスで送って反応を待つ・・・・・・・・それ
がジョージ先生の営業スタイルでした。
しかし、こんなやり方で上手くいくほど世の中甘くはないですよね・・
・・・・・・
ただ、幻冬舎など、社風に個性のある会社から若干のオファーがあ
ったようですが・・・・・・・・どうなったんだかよく分かりません。
>終わった作品の続きを描かれる漫画家の方も多いですが・・・・・・
「銭ゲバ」にしろ「アシュラ」にしろ、その続編的な作品をいくつか描い
ているはずですが・・・・・・・・実は、あまり評判はよくありません。(ヒッ
トしてません)
たぶん、「雲さん」も関連した企画があったかも知れません・・・・・・・・
ただ、作家というのは一度終わった作品をリメイクしたり、続編を書い
たりする事を好みませんね・・・・・・
出版社から「どうしても」と依頼されて描くケースがほとんどだと思い
ます。
物書きにとっては一度作品として完成させると、それは「排泄物」みた
いなもので、もう一度それを咀嚼して出す事は気分が悪いんですね。
また、新作で勝負できない負い目にもなったりします。
名作を生み出す「天才」といわれる有名な作家や監督が自殺するの
は、過去の自分の傑作を越えられない「新作」しか作れない・・・・・・
その限界(断崖絶壁)に追い詰められるからだと私は考えています。
後は、過去の名作のコピーの様な作品を多作して金を稼ぐだけ・・・・
・・・・・・普通ならそうして生きていけるのですが。
ただ寂しく・・・・・そして悔しい・・・・・・・・・
お酒とタバコ・・・・・・・毎日、元気そうで「まだまだやる気満
々だな・・・・」と、甘く見ていたのが間違いでした。
ホントに先生の死は予想もしない突然の出来事でした。
実は、先生や弟子たちの物語や、先生の言葉を集めた本
など・・・・・・・いくつか企画があったのですが・・・・・・・・
これで、全て終わってしまった感じです。
最終電車に乗り遅れてしまった・・・・・・・・もう、何処へ行っ
たらよいのか分からない・・・・・・・・・・
名前のない駅のホームで立ちつくしている気分なのです・・
・・・・・・・。
思わず「ウソ!」と声をあげてしまった。
でもあの日は突然すぎてむしろ実感がなく、日がたつにつれてさみしさがこみあげてきます。
もう先生の新作を読めない。魅力的な発言に触れることもできない。
数十年間、先生の作品を読みまくってきました。
今は「超人晴子」を読み返しています。80年代前半頃の先生の作品は絵の線が太くてパワフル。気力がみなぎっていて特に好きです。
「シャカの息子」や「ギャラ」とか。
イエスさんのブログも最高です。
お弟子さんでなければ書くことのできないリアルなお話、とても興味深く、また夢の話も感慨深いものがありました。
イエスさんのコメント、画像、ひとつひとつが昭和から平成にかけての漫画史の貴重な資料のひとつになっていると思います。
普通に生きていて巨匠と呼ばれるような人と出会うことはまずありません。
巨匠とともに長い年月を過ごされた現実は、イエスさんにとってかけがえのない財産になっていらっしゃるのではないでしょうか?
ふじもんさんが紹介していらっしゃった「ビッグコミックオリジナル」も買いました。
実は、「超人晴子」の「晴子」とは師匠の奥さんの名前なのです。
当然、奥さんの明るく(気さくでおおらか)個性的なキャラクターが
作品に影響しています。
「浮浪雲」に出てくる「カメさん」も奥さんがモデルです。
あの明るいキャラは、そのまま奥さんの性格を表していると思い
ます。
ただ、元々はそうじゃなかったみたいです。
これは、奥さん自身の言葉ですが・・・・・・・
「私は元々暗いタイプだったの、でもあの人と出会って変わった
の・・・・」
・・・・・・みたいな話を聞いたことがあります。
>80年代前半頃の先生の作品は絵の線が太くてパワフル。気
>力がみなぎっていて・・・・・
確かにそうですね・・・・・・
バブルの頃が一番脂がのっていた時期だと思います。
しかし、バブル崩壊・・・・・・さらに1995年の奥さんの病死から徐々
に作品に輝きや活劇が消えていきます・・・・・・
枯淡というか・・・・・・ギラギラした色彩ではなく、山水画の様な穏
やかな作風に変わっていきます・・・・・・・・
それに並行する様に漫画界も発行部数がどんどん減っていく時代
の流れでしょうか・・・・・・・
>巨匠とともに長い年月を過ごされた現実は、イエスさんにとっ
>てかけがえのない財産になって・・・・・・
師匠と過ごした40年は、私にとってはまさに自分自身の血肉にな
っていると思います。
不思議なもので、若い頃には「悪い影響」(適当、非常識、スケベ
遊び)を一杯受けてしまい、ど~なるのかとも思いましたが、歳を
取るに従って「良い影響」だけが後に残っていく感じで・・・・・・・・
60過ぎてから、その辺のところが分かる様になってきました。
濁った泥々の水たまりでも、長い年月をかけて地中にしみ込んで
澄んだ地下水に変わる様なものなんでしょうか・・・・・・・
「泥水なんて、所詮泥水だ」
・・・・・と誰でも考えるものですが・・・・・・・・・
「年月」というものは理屈ではないのですね・・・・・・・・
https://bigcomicbros.net/33071/
ビッグコミックオリジナルのジョージ秋山先生追悼号に掲載された、漫画家達の追悼イラストが期間限定で小学館サイトにて公開されております。
掲載されたページが小さいため、老眼ですと文字がかなり読みにくいですが、こちらですと原寸大に近いサイズで掲載されていますので読みやすいと思います。
私もずっと目が良かったのですが、数年前からついに老眼が始まり、近くの小さい文字が読めなくなってしまいました…。
興味深い裏話をありがとうございます!
年々良い影響だけが残っていく・・・いい話ですね。
ところで、イエスさんは先生のご家族とお会いになる機会は多かったのですか?
先生のご家族は仕事場にはよく来られていたのですか?
ふじもんさんご紹介のサイト、画像が大きくてとてもいいです。
私もがつては視力が自慢だったのですが、近年は老眼がひどくて・・・
>ふじもんさん へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「哀悼・ジョージ秋山に捧ぐ」のURL、ありがとうござい
ました。
パソコンの画面で見ると実物大か、それ以上に大きな絵で見られる
のでホントに見やすいです!
また、各漫画家さんたちのペンタッチや筆使いなども感じれ(雑誌
のグラビアとは)全然違う印象を受けました。
それにしても、掲載された雑誌の絵が詰め込み過ぎで小さいですよね!
まるで・・・・・・・・
日本の漫画界がしぼんでいく様で、ちょっと心配です。
ps; 老眼は60歳位まで度が進んでいきますので、目は大事に
して下さい。特にパソコンの画面はヤバいですので、目を時
々休ませてあげて下さい。私はアシスタント時代に2年ご
とに新しい老眼を作り直していました。
>おっさんさん へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作家というのは、普通の人の些細な話から作品のヒントを得るものです。
特に「浮浪雲」では、奥さん(リアルな)が話す隣近所の噂話などもネ
タにしていたそうです。
「誰々が喧嘩した」とか、「子供の学校でこんな事があった」とか・・・・・・
そうした、小さな話を10倍に広げて(大風呂敷)1本作るわけです。
ちなみに、雲さんの家族構成(妻と子供二人)はリアルでも同じですし、
渋沢老人は担当税理士さんがモデルだったし、夢屋の若い衆はアシス
タントだったりします。
ついでに書かせてもらうと、この税理士さん漫画と同じ様にお年寄り
なんですが、後年認知症にかかってしまい、そのまま師匠の会計やス
タッフの雇用事務をやっていたので大混乱しました。(笑)
>先生のご家族とお会いになる機会は多かったのですか?
ほとんどありませんでした。
年に1回あるかないか・・・・・・・・でした。
師匠の自宅へ訪ねていく事もほとんどありませんでした。
勤め始めた70年代には「忘年会」やらで奥さんや子供さんと会う機会
もありましたが・・・・・・・・・・
90年代以降は、よほどの用事がない限り奥さんとも会いませんでした。
当然、師匠の家族が仕事場を訪ねて来ることもありませんでした。
ファンの人やいたずらなどを避けるためか、プライベートな部分につ
いてはどんどん壁を作っていた印象があります。
私が若い頃に仕事をした漫画家の話ですが・・・・・・・
村野守美先生なんかは、スタッフが先生の自宅で寝泊まりして炊事、洗
濯、掃除、犬の世話までやらされたりしてました。
また、かわぐちかいじ先生の所では、先生がよく自宅へ招いてくださ
り、食事をご馳走してくれたものです。(自宅はスゴイ書籍の量で、
マンションの壁や窓には全部本立てが並んでいました。)
また、かわぐち先生の郷里である広島尾道の実家へ連れて行ってくれ
た事もあります。
ホント、先生、先生といっても皆さんまるでタイプが違います。
おっさんさんも老眼で大変みたいですが・・・・・・・・・・
パソコンの画面には注意して下さい・・・・・・・・・・私はゲームのやり過ぎ
で滅茶苦茶悪くしました。
ビックコミックオリジナルの追悼号に掲載された「風のせい」のp200
の背景は私が描いたのですが、目が悪いので線が荒れています。(酷い!)
目の調子(当時は極度の遠視)が悪くなると・・・・・・・描いていて泣きた
くなります!
亡くなられた後のタイミングで、歴代のスタッフさんたちが一堂に夢に現れるというのは、もしかしたら夢の中で送別会を開いたのかなと想像してしまいます。
それこそ、漫画の最終回の様な夢と言いますか...不思議な夢だなと感じます。