漫画家アシスタント物語 1~3章 22年改訂版 

ブログ「漫画家アシスタント物語」の第1章から第3章までをまとめました。 初めての方は、どうぞこちらから!

漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 前半

2022年12月01日 16時30分28秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、私が初めてアシスタントをした頃、生活していた調布市の千川駅前の風景です。《2005年1月撮影》)  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】




              その1........................'05年 2月06日 05時30分


漫画家志望の多くの若者がそうである様に、私もまた10代の頃に同人誌に入っ
ていました。( 1970年代 )

その同人誌は、10数人の会員全員にやる気が無く、会長一人が同人誌用作品を
せっせと描いていました。 それでいて、会員のレベルはとても高かったので
す。( 皆さん、現在ではプロのイラストレーターや漫画家として活躍されて
います )

会員のほとんどの方々が、平凡で古いタイプの漫画を一人せっせと描く会長を
冷ややかな目で見ていました。 会長の漫画は確かに退屈ですが、人柄はバツ
グンに好い人でした。

             
    漫画家アシスタント物語、血の教訓 

     『 人格的完成度は、漫画の完成度にまったく比例しない。』


その会長がフリーターの私にアシスタントの仕事を紹介してくれました。

怪奇漫画を描く女流漫画家さがみゆき先生( 東京、駒込在住、当時30歳位 )。 
京都出身の氏が喋る言葉は、綿菓子の様にやさしい・・・・・ 

 「 小池君~ン( 私の本名 )、もっとォ、しっかりせなァ~アかん
  ヤ~ン 」

しっかり出来ない。 グニャグニャになってゆく・・・・・。
 
 
 

          
( この写真は、私が初めてアシスタントをした頃、生活していた調布市の千川駅前[1974年昭和49年頃]の風景です。  )

              その2........................'05年 2月14日 04時38分
 
  
漫画家アシスタントをはじめてやったのは、1974年( 19歳 )で、住んでいたのは
調布市千川の小さな下宿( 木造モルタル、3畳間、月1万5千円 )でした。
 
夏は息も出来ないドボン式共同便所。共同水道1個。ガスなし。3畳一間に裸電
球・・・。 唯一の窓は、廊下に面しているので、部屋にはまったく陽がささない。
 
1ヶ月の生活費は、3万円。 暗くジメジメした万年床、長髪に顔も洗わぬ無精
ひげ。 冬の暖房はコタツだけ、灰皿代わりのどんぶりには、てんこ盛りにな
った吸がらの山。 読んでた本が、太宰治の「 人間失格 」、カフカの「 変身 」、
マルクス「 共産党宣言 」・・・・・・
 
下宿2階は、3世帯。 私がいた1階も3世帯。 共同便所隣りが、明治大学1
年のサカモト君。 共同便所真向かいが、私で、私の部屋の奥隣りが、明治大学
3年生。 

この明大の3年生は、ねずみ講にはまっていて、新しく入ってきたド貧乏の私に、
しつこく20万円(!)の自動車排ガス清浄装置(?)を売ろうとするのである・・・・・

 「 20万なんて安い安い、3人の人間に3台の排ガス清浄装置を売れば、すぐ
  元が取れるよ! 」

なんで車も金もない私が排ガス清浄装置を買わねばならないのか・・・・・話を聞い
ているだけムカムカしたものでした。
 
この下宿に入った頃は、新宿のデパート食堂の皿洗いや、中野のビル清掃などの
バイトで生活していました。 

「 第2章 その1 」に書いたように、この頃入っていた同人誌の会長さんの紹
介で、女流怪奇漫画家さがみゆき先生のアシスタントになったわけです。
 
仕事は、怪奇漫画の書き下ろし単行本( 雑誌の連載ではないので、稿料は印税
のみ )で、背景1ページの手数料、500円!

まあ、1日3ページ仕上げれば月4万5千円にはなるので、悪い仕事ではありません
でした。( 家賃を払っても3万円残れば食べていけます ) 

でも・・・・仕事は、全て一人自宅でやる事になっていたので、コタツの上で、カリ
カリとペンを走らせていたんですが・・・・・・・・・

一人・・・・・・ コタツ・・・・・・ 眠気・・・・・・ 集中力ダウン・・・・・・
 
1ヶ月もしない内にダレてしまい、「 まあ、明日やりゃあいいさ・・・・ 」などとい
う恐ろしい誘惑にとらわれ、1週間で、5~6枚しか原稿が仕上がらないというてい
たらく・・・・・・・。 

万年床の上にコタツを置き、本を読み、漫画を読み、不善をなし、延々と惰眠を
むさぼる・・・・・・。
 
20枚、30枚と原稿を届けなくてはならないのに・・・・・・・・異変に気がついたさがみ
ゆき先生が、電話をくれるが、あくまでやさしい・・・。
 
 「 どーしたのォン・・・ 具合でも悪いのォ? 」
 
そう心配してくれる、やさしさにつけ込むように・・・・・・
 
 「 カ・・・カゼ・・・ひいちゃったみたいで・・・・・ 」
 
さが先生は、励ますように・・・・・・
 
 「 気ィつけてなァ~ 体大事にせなァあかんやァ~ン 」
 
 
当時の多くの漫画家志望者は、どうも「 貧乏 」をファッションのように楽しんで
いたふしが見られる。わずかなお金にあくせくせず、ダラダラ生きる事を選ぶ・・・・。
( 四畳半フォーク、ゲタにジーンズが流行した時代 )

当時は、そうした生き方に「 反体制 」とか、「 自由 」とか意味づけをしていた
けれど、今から考えると・・・・・・
 
沈滞する左翼とノンポリの1970年代は、飽食の時代、80年代のバブル景気、そう
いった時代への無気力な前兆だったのかも知れません・・・・・・。
 
 
   漫画家アシスタント物語、血の教訓
 
  『 自分の夢実現を邪魔する者は、親でも社会でもない。自分の怠惰である。』
 
 
 

          
( この写真は、私が初めてアシスタントをした頃、生活していた調布市、千川駅近くの下宿入り口です。[1974年昭和49年頃] )

               その3......................'05年 2月22日 03時41分 (公開)
  
  
何度も励まされ、催促されつつ自宅で漫画背景をコツコツ描いていた1974年、19歳
の冬・・・・・・。
 
毎日のたのしみといえば食事。 朝、昼兼用でパン食。 夜は即席ラーメンを電熱
器で調理。 毎日ラーメンの種類を変えニンジンやもやし、ねぎ等を加えれば、け
っこう安くて色どりも良く美味しく食べられました。

しかし、他の人から「 お前 、いいなァ・・・ラーメンうまそォ 」などと言われると
「 あ・・・そう・・・ 」と答えつつ「 毎日毎日即席ラーメン食ってる人間の気持ち分る
? 」などと、歪んだ心理状態だった・・・・・・「 貧乏 」は人を鍛えるけど、歪めもす
る。


ところで・・・・・・突然、不浄な話で申し訳ありませんが・・・・・( 食事中の方は注意! )

この下宿の2階のトイレ( 汲み取り式 )は、そのまま1階トイレの便槽に直結してい
ました。 2階トイレでの排便が加速度をつけて、1階下の便槽に落下する音がけっ
こうよく聞こえるのです。

トイレ隣りのサカモト君とトイレ正面の私は、食事中にこの音を聞かされる事があり
ました。通常の便なら・・・・・・

 「 ペッタ~ッ 」

便がパイプにぶつかりながら落下すると・・・・・・

 「 ペペペペト~~ッ 」

重量級になるとすごい・・・・・・

 「 ズッポオォ~ン 」

・・・・と聞こえる。

半年もすると2階の住人が今どの位排便をしたか分るようになる・・・・・

 『 昨日はずいぶん食ったんだなァ・・・ 』

・・・・とか

 『 今日は腹下してンのかよォ・・・ 』

そのため、サカモト君と私は食事中は必ず(!)音楽を聴くようにしていました( T
Vでもラジオでもいい )。

・・・・もうクセになっていました。( ガンガン音楽を聴く! )

今でも静かに食事をしていると、なぜか言い知れぬ不安が襲ってくるのです・・・・・。
 
 
 

          
( この写真は、1973年当時住んでいた三畳一間の下宿です。コタツに3人入ると、部屋がいっぱいになりました。)

 
              その4.............................'05年 2月28日 20時50分 (公開)
 
 
単行本の書き下ろしの場合、原稿の大きさが通常( タテ27㎝×ヨコ18㎝ )の約半分です
みます。 つまり単純に漫画背景の手間が半分になるわけです。 

その気になれば一日で7~8ページ仕上げる事もできる計算ですが・・・・・なかなか進み
ませんでした。

毎日5ページやらなければならない・・・・・でも今日は3ページしか仕上がらなかった・・・
・・・・・

 『 明日+2ページで計7ページやればいいさ・・・ 』

だが、次の日は4ページしか仕上がらない・・・ 

 『 明日ガンバって計8ページやればいいさ・・・ 』だが・・・・・・・・ 

予定をかなりオーバーして仕事を終えた時には精神的にヘトヘトになっていました。

そして、いよいよ本格的にさがみゆき先生のアシスタントを・・・・・という時に、すっ
かりやる気を無くしてしまっていました。

今から考えると、自宅で漫画背景の仕事を自分のペースで自由にやるには、チョット
若すぎたのかもしれません。

はじめのうちは、仕事場の雰囲気を理解したり作業の段取りを勉強したり・・・・先生や
先輩アシスタントの指導を受けながら仕事をした方が良かったのかもしれません。

単行本の仕上がりの遅れにハラハラさせられたさが先生は、まったくいい迷惑だった
と思います。 

ただの一度も怒られませんでした・・・・・・20枚、30枚と仕上がった原稿を届ける時も、
いつも笑顔で向かえてくださり、その上、手料理をご馳走してくださった。 

そのあげく…・・・突然仕事を辞めると言い出す始末・・・・・。

まったくデキの悪いアシスタントでホント申し訳なかったと思います。
 
19歳・・・・・・

全てに不満だった・・・・・・社会に、他人に、友人にも・・・・・

朝もお昼も・・・・・日のささない暗い3畳間で、黒いナマズのようにのたくっている・・・・
・・・・・・

万年床の中で2時間、3時間と寝付けずに・・・・・・頭の中で他者と議論しつづける・・・・・
・・・・

夜明け頃になって・・・・・やっと眠り、午後になって汗びっしょりかいて目覚める。

結局、初めてのアシスタントを中途半端に放り出して・・・・・ダラリダラリと・・・・・楽し
て稼げる仕事を探し始める・・・・・・

そんな仕事あるわけないのに・・・・・


  漫画家アシスタント物語、血の教訓

  『 今日中に必ず描かねばならない原稿は、机にかじりついてでも絶対今日中
    に描く事・・・それが出来るか、出来ないかで、自分の「 まんが道 」が大きく
    変わる・・・ たった一日の、その瞬間の選択が将来を決定するだろう・・・・ 』
  
  
  

          
( この写真は、1975年当時の下宿の三畳間です。万年布団の上にコタツと座椅子を置くエレガンスなインテリアです。)

 
               その5.........................'05年 3月08日 20時41分 (公開)
 

楽して稼げるバイトを探す・・・・ まずビル掃除。 一つのビルを一人でまかされるの
で、4時間かかる仕事を2時間でかたずければ、けっこう率のいいバイトになる。

この掃除会社の管理部長は、すっごい女好きで( 昨日性交した相手女性の事をよだれ
を垂らしそうになりながら話してくれる )、私がこの会社でバイトする女の子をなん
とか口説こうとしているのを知ると、すっかり私を気に入ってくれて、仕事のヒマな
ビルに私を配置してくれたりしました。
  
しかし、この女好きの管理部長が横領でクビになると、仲の良かった私はキツイ仕事
へ飛ばされ、結局、他のバイトを探す事になります。

ちなみに、このビル清掃会社で私が口説いたバイトの女の子とはその後お付き合いが
でき、成人式の夜に彼女の部屋で・・・・・。

・・・・・・と、ここから先をつづけるとアダルトサイトになってしまうので省略・・・・・・。

実は、性生活についてですが・・・・・

漫画家志望と個人の性なんて関係ないだろう・・・・・と思われる方がおられるかも知れ
ませんが・・・・・

実は大いに関係があるのです。

私が見てきたところでは・・・・・・・性的経験が豊富な人の作品には艶があり、異性のキ
ャラクターがセクシーです。

その逆の方の作品には・・・・・・・やはり、色気やキャラクターの妖艶さが乏しいのです。

多くの性体験が作家の感性を磨くのではないでしょうか・・・?

振ったり振られたり、傷ついたり傷つけられたり・・・・・・・そうした体験の少ない人の
作品は、退屈なものが多いようです・・・・・・・。
 

   漫画家アシスタント物語、血の教訓

    『 立つうちが人生、濡れるうちが華 』

        ( 「 血の教訓 」というより「 チンの教訓 」か・・・? )


バイトの話に戻りますが・・・ 次に選んだのがバス添乗員。 バスに乗り運転手の隣
に座っているだけでお金がもらえるいいバイト・・・・・・ってな事はありません。

吐く息も白い早朝の6時、氷のように冷たい水でバスを洗車! 運転席回りをクロス
で水拭き・・・・・・ 

仕事中には、命がけの事もありました・・・・・

東京四谷の「 O観光バス会社 」・・・・・添乗員は最初に笛の吹き方から教わります。

バックオーライとストップです。 

バックオーライは「 ピッピッ 」で、ストップは「ピ~~ッ」です。

 「 ピッピッ・・・・ピッピッ・・・・ピッピッ・・・・ 」

バスの後方で誘導する私・・・・・・・バスが停止位置まで来ます。

そこで緊張した私は、息を強く長く吐く事が出来ず・・・・・・・

 「 ピ~ピ~ 」

・・・・と吹いてしまい、バスが停止しません!

 「 ピッピ~~ッ、ピ~~~~~ッ 」(汗)

危うくバス後部のウインカーにぶつかるところでバスは停止。

運転手は、窓から軽蔑する様に私を見下ろしながら・・・・・・

 「 あれ、まだ死んでね~じゃん 」(笑)

しかし、本当に怖かったのは、この運転手ではなく・・・・別の・・・・・酔っ払いです。
( 注、30年も前の話です )
 
 
 

          
( この写真は、1973年から75年頃まで住んでいた調布市千川の下宿2階の廊下です。)


               その6..........................'05年 3月15日 03時18分 (公開)
 
 
添乗員のバイトは75年( 19歳 )の冬から翌年の春まで続けました。当時流行って
いた「 なごり雪 」を今聞くと、バスのフロントガラスに浮かぶ小雪混じりの雨の
東京を思い出します。

それは新年会の団体さんの送迎をやった時です・・・・・・

問題の運転手Aさん( 30代半ば )がユニークな人で、月給は全部ギャンブルに使
ってしまい生活費はスナックママをやっている奥さんが出すという、本人曰く「 た
のしいヒモ暮らし 」をする人でした。

この日彼は異常な精神状態にありました。それは一週間前に( 給料が安いから )転
職したかったのに会社が、年末年始の忙しさを理由にそれを許さなかったからです。

お客さんの送迎を終え( つまりお客さんは乗っていません )、バスを会社に向かわ
せる時・・・添乗員用の補助席から見上げると、運転中のAさんの顔色が、異様に赤い・・
・・・・・。

 運転手 「 俺はよぉ、有給( 休暇 )が2週間あるんだぜぇ。この1週間ぐらい
      は休んだまま辞めても、金が貰えるはずなんだぜ! 」

 私  「 ・・・・・・・・・ 」返事の仕様もない

 運転手 「 頭下げて頼むんならまだしもよぉ・・・エラそうに命令しやがって! 」

私は、茫然と運転手の赤い顔を見つめる・・・・ ハンドルを玩具の様に回しながら、
フフッ・・・・・と鼻で私を笑う・・・・・・

 運転手 「 ああ、飲んでますよォオオ! 客が新年会で酒飲んでんのに、なんで
      俺が飲んじゃいけないのよォ~? 」

バスは、市ヶ谷を走っている。自衛隊駐屯地の近く・・・・・・長い一直線の道だ・・・・・・・

アクセルが踏み込まれる!

観光バスの急加速!

 私  「 ・・・・・・・! 」

電車やバスに乗るお客さんが、のんびり居眠りできるのは、運転手が乗客に「 不安 」
を感じさせないように細心の注意をはらって運転しているからです。( 加速や停止に
は細心の注意を払います )

もし「 安全運転 」を信じていたバスが暴走しだしたら・・・・!

この時、何キロ出していたのかは分りません。しかし、「 法定速度 」をはるかに越
えたスピードで突っ走っていく。 ものすごいエンジン音!

観光バスのこんなエンジン音聞いた事ない!

先の信号が「 赤 」になった! このスピードじゃ止まれっこない! 私は添乗員席
で足を突っ張る!

大型観光バスのヘッドライトの先に横断歩道が見えた瞬間!

 ギキキキィーーーーッ!!

全身の毛穴から汗が噴出す! 

 プッシュゥーーーッ ( 油圧ブレーキ解除音 )

バスは停止線でピタリと止まっている!

 運転手 「 ビビッた? 止まれるとは思わなかったろぉ? 」

子供の様なカワイイ笑顔で・・・・・・

 運転手 「 こん位のテクニックは持ってんだぜぇ! 」

観光バス旅行から結婚式にお葬式、果ては火葬場への送迎バスなど、色々な体験をさ
せていただきましたが、半年ほどで辞めさせていただきました。
 
 
 

          
( この写真は、1976年から78年頃まで住んでいた高円寺のボロアパートです。よく見ると、ドアのベニヤがはがれています。
  注:人物は本編となんら関係ありません。)

              その7...........................'05年 3月22日 21時49分 (公開)


漫画家アシスタントになる方法は・・・・・・

メディアの求人広告などと、編集員や知人の紹介、そして、好きな漫画家のところへ
直接出かける「 押しかけ弟子 」など、いくつかのパターンがあると思います。

私は、1976年( 20歳 )、同人誌仲間がやっていたアシスタントの引継ぎとして、初めて
の本格的な専属アシスタントになりました。

その人の名はかわぐちかいじ先生( 当時27歳・・・若い! )今なら誰一人として知らぬ人の
ない大御所ですが、29年前はその名を知る人はほとんどいませんでした。

それでも一部の漫画マニアから愛されていたかわぐち先生の所では、ある程度の技術を
持っていないと仕事は出来ません。

私の場合、ペンを使った斜線処理や陰影バランス、そして、スクリーントーン処理が出
来るレベルでしたので・・・・・

少しは自信があったのですが・・・・・


面接の日・・・・・

中央線の武蔵小金井駅から線路沿いを東に進むとかわぐち先生の仕事場アパートがあり
ました。

モルタルの小さなアパートの1階のドアを開けると台所、その奥の4畳半で私は背景サン
プルを見てもうわけです・・・・・・

かわぐち先生の背後からアシスタントたちが覗き込みながら・・・・・・

 アシスタントO「 一応トーンは使えるんだァ・・・ これなら、即戦力で使える! 
    ( 23歳 )  ウォップ! ウォップ!・・・ 」( 彼独特の満足表現 )
  
 アシスタントH「 フンッ、処理が雑だな。まァ、使ってるうちになれるかもしれ
    ( 23歳 )  ませんけど・・・ 」
  
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながらアシスタントHさんが小バカにしたように私を見る。

かわぐち先生はさすがに雇う立場にいるので、ニコリともしない。

このアシスタントHさんとは、1年後にトラブルを起こしてかわぐち先生の所を辞める
ことになります・・・・・。 初めて会ったその日からイヤミな先輩でした。

この後、毎日この人のイヤミに耐える事が大きな修行になるわけです。 今から考える
と、この人がいなければ今でもかわぐち先生の所で仕事をしていたかもしれません・・・・。
  
かわぐち先生、私のサンプルを見つめながら・・・・・・

 先生 「 ・・・・・明日から・・・・・・・ 」


    漫画家アシスタント物語、血の教訓

    『 吐き気のする先輩はどんな世界にも一人や二人はいるもの。 本人の前
      ではニコニコ我慢しましょう。( ハングリー精神で! ) きっと追い抜
      ける! 今は、こちらをバカだと思わせておけば楽勝です! 』
 
 
 

         
( この絵は、78年頃、同人誌用に描いた小品の一部です。かなり暗いです。秋山プロに入るまでの私は本当に暗かったです。)

             その8...................................'05年 3月29日 3時21分 (公開)
 
 
仕事の初日。( 1976年、昭和51年 春 )

寝つきの悪い私は、夜明け頃まで寝る事が出来なかった・・・。

 『 くそ・・・・・・もう、朝だ・・・・・・ヤバ! 』

このままでは明日( と言うより、今日からの仕事! )昼前に仕事場へ行く自信がない・・
・・・・・( 私はすこぶる寝覚めが悪い )。

そこで、早朝6時、電車に乗り早めに仕事場に向かいました。

かわぐち先生の仕事場は、JR中央線の武蔵小金井駅から10分ほどの所にある古いモルタ
ルアパートの1階で、4畳半と6畳の2DK。 日当たりはとても良い部屋でした。( た
だ、夏は地獄のような暑さでした )

アパートの鍵の隠し場所は教えてもらっていたので、すぐにドアを開けて台所を通り誰
もいない4畳半へ。 

そして、畳の上に横になってグッスリ!

・・・・・もう遅刻する心配はいらない。


だが、出勤して来たスタッフ( ‘75年当時、4人 )は、みんな驚いた!

新入りが仕事場で寝ている! 「 何考えてんだこいつ・・・ 」

私は爆睡中! そして、ついに・・・ サンダルをつっかけて、ネーム( 漫画のセリフを
書いた紙 )を小脇にはさんだかわぐち先生が仕事場へやって来る。

声をかけてもなかなか起きなかったようで・・・・・・・初日の仕事はじめは、スタッフの皆さ
んに起こしてもらう事から始まりました。
 
 
 

          
( この写真は、76年頃住んでいた高円寺のアパートで四畳半一間の座卓です。)

             その9..................................'05年 4月05日 5時37分 (公開)


かわぐち先生の漫画は当時( '75~ '76年 )、ややマイナー系の週刊雑誌や月刊雑誌に載っ
ていました。 

「 漫画 」というより「 劇画 」。 キャラクターの鋭いタッチは当時も今も変わらず見
事です。 

 ( ある有名な漫画家が「 俺にはあんなキャラクターは描けん。どうして、かわぐち
  かいじはあんなクールなキャラクターが描けるんだ?」などと言っておられたの
  を思い出します。〉

ただ、ストーリーは原作付きが多く、オリジナルは1~2ヶ月に1本ぐらいしか発表されま
せんでした。

キャラクター、背景共に当時の劇画界の中では高いレベルにあったと思います。 ただ、
残念ながらヒット作に恵まれるまでには、さらに10年近い歳月が必要だったようです。


お昼頃から仕事が始まり、3時にコーヒータイム。 全員で近くの喫茶店などで漫画談義。
その中で、意外と記憶に残っている会話のひとつ・・・・・・

 アシスタントH 「 うちのデビュー率ってどれ位かなぁ・・・? 」

 かわぐち先生( 当時27歳位 ) 「 デビュー率? 」

 アシスタントO 「 辞めた人( アシスタント )の内、何人デビューしてるかっていう・・・ 」

 かわぐち先生 「 ほぉ・・・ 」 興味深そうに。

 アシスタントN 「 A君、・・・それにBさん・・・ 」

 かわぐち先生 「 Cさんもいれると・・・ 」

 アシスタントH 「 結構いますよぉ、すごい! 」

 アシスタントN 「 それから、デビューしてない人が・・・1、2・・・3・・・ 」

 アシスタントO 「 ウォップ、ウォップ、デビュー率 3割、4割? 」

 アシスタントH 「 すごいですよぉ、打率3割以上! 」

 かわぐち先生 「 おい、おい 」( これは、当時のかわぐち先生の口癖の感嘆符 )

かわぐち先生、まんざらでもない様子でニッコリ。 アシスタントたちも嬉しそう( 媚び
たように? ) に笑う。


私は、「 3割、4割 」がそんなにすごい事なのかさっぱり分りませんでした。しかし今で
は、それが分る気がします。

デビュー出来るのは、アシスタント経験者の1割か2割・・・・・「 3割、4割 」というのは、確
かに高率です。

ただし、デビューして10年プロとして生きていけるのは、さらにその中の1割か2割・・・・・・

いわんやヒット作が出せるのは、さらにその中の・・・・・・・・・


   漫画家アシスタント物語、血の教訓

   『 アシスタントの中には、漫画を描かない空想家、資料ばかり集める収集家、や
     たらクールな達観者、背景職人気質、ひょうきん族、批評家、なまけ者、粗大
     ゴミ・・・・ いろいろいますが、どのタイプも( 残念ながら )大成できません。 
     大成できるのは、熱病のごとく漫画制作に没頭している人間だけである。 』 
 
 
 

         
( この絵は、1975年に出版されたさがみゆき先生の単行本「あとがき」に載った私のイラストです。)

             その10..............................'05年 4月13日 2時39分 (公開) 


かわぐち先生のところでの仕事( 1975年頃 )は、比較的規則正しいものでした。

1本( 20p位 )の制作にかかる日数は、だいたい3日+徹夜1回。

第1日目、かわぐち先生がネーム( 漫画のシナリオ )、アシスタントは大ゴマ用の漫画背
景制作。

第2日目、かわぐち先生がキャラクター、アシスタントが各ページの背景を制作。

第3日目、第2日目と同じ。そして、この日は徹夜で( 翌日昼までに )仕上げる・・・・・


1日の作業パターンは、正午より始業。 3時にティータイム。 午後6時~7時に夕食。 
11時に終業。

3日目は徹夜と決まっていたので、深夜も仕事をつづけ、だいたい深夜3時頃に近所のサッ
ポロラーメン店で夜食。 その後、2,3時間仮眠。 そして、朝から正午までに仕上げる。

1本の作品がこの様に3日+徹夜1晩で規則正しく制作されていました。

アシスタントは5人。交代で一人休むので、仕事はいつも4人でやっていました。 

しかし・・・・・

すごいと思うのは、かわぐち先生が7日に一度休むのですが、その日は必ずロックバンド
のリードギタリストとしての練習と草野球の練習に汗を流す事を習慣としていた事です。

かわぐち先生の当時の口ぐせ・・・

 『 俺の取柄は、体が頑丈な事だけなんだよ・・・・ 』

作家特有の尊大な態度がまるで無い・・・・・誰に対しても誠実で謙虚な方でした。


毎週、一度か二度、徹夜仕事があったのですが・・・・・これは、その時のエピソード。

その日の仕事が深夜に及び、夜明け前の3時頃に夜食のラーメンを食べ、その後で仮眠を
とります・・・・・

朝まで4,5時間寝てから最後の仕上げをするわけです。( お昼前に編集員が原稿を受け
取りに来ます )

全員がまだ寝ている時間・・・・・・・・

かわぐち先生は、ふと目を覚まします・・・・・・・カリカリカリ・・・・という音が聞
こえます。

 『 誰か仕事を始めてるなぁ・・・・・起きる時間にはまだ1時間早いのに・・・・・
   小池君かなぁ、まじめな奴だなぁ・・・・・ 』

仕方なく先生は起き出して、仕事部屋へ入って行くのですが・・・・・・誰も仕事をして
いません!

 「 ・・・・・? 」

先生は自分の気のせいだったのか・・・・と思って机に向かうわけです。

この話を、ノロノロと起き出して仕事を始めるスタッフたちに話します・・・・・・・

私がそれに答えます・・・・・

 「 風呂へ入ってないんでェ・・・頭痒くってぇ・・・・・ 」

 「 ・・・・・・・ 」

 「 朝方、寝ながら頭かきまくってェ・・・・ 」

かわぐち先生は、私がフケだらけの頭をかいていたのを、真面目に原稿を描いていたのと
勘違いしたわけです。
 
 「 ・・・・小池君は真面目だなぁ・・・って思ったんだけど・・・・ 」


 
 

          
( この写真は、JR線、武蔵小金井駅から徒歩10分にある30年前にKさんが仕事場にしていたアパート・・・? 
  最近写した写真ですが場所の記憶が不鮮明で・・・すいません。)

            その11...........................'.05年04月20日 04時39分 ( 公開 )


仕事は、午後の休憩時にコーヒーなどで一服するのが習慣になっていました。

確か、武蔵小金井駅の近くにあった喫茶店だったかと思います・・・・・・

例のごとく媚びる様にアシスタントHさんが・・・・・・

 「 アシスタントなんて気楽ですよ! それに比べたら漫画家は大変ですよねェ。 」

かわぐち先生は、苦笑いしながら、しかしハッキリと・・・

 「 アシスタントの方が大変だよ。俺はアシスタントの方が大変だと思うよ、きっと。 」

かわぐち先生は、アシスタントの経験がありません。 でも、とてもアシスタントに気を
配っておられました。


こんな、先生を私は裏切る事になります・・・・。 

その話は、まだ少し先に・・・・・。


かわぐち先生のアシスタントの月給はだいたい6~7万円、当時( 1976年頃 )の私の生活費
( 家賃、食費 )が4万円位ですから、十分生活は出来ました。

 注) 当時の物価を参考までに・・・・・
          
    ラーメン 200円   ギョーザ 180円   サッポロみそラーメン 350円

この給料プラス年末の一時金と、かわぐち先生の単行本が発行された時の印税の分配金
( アシスタントにも分けてくれる! )があったそうですが、後に仕事場を逃げ出す私は
もらっていません。


仕事中のBGMは、ほとんどロック( かわぐち先生はブルースロックが大好き! )とフォー
クでした。 そして、ラジオの野球中継。

一応、好きな音楽を聴ける事になっていたのですが・・・・・私がクラシック( バッハが好き! )
のテープをかけると・・・・・

 アシスタントH 「 ダメだぁ、こんなの聞きながら仕事できん! 」

 アシスタントO 「 ウォップ、ウォップ! 」( 同意の意味と思われる )

・・・・と、躊躇なくテープをロックに変えられました。

この時が、後にも先にもクラシックが聞けた唯一の瞬間( 5,6分 )でした。


まだ、ソニーのウォークマンが無かった時代で、各人自由に好きなBGMを聞けませんで
した。


   漫画家アシスタント物語、血の教訓

  『 TVにチャンネル権があるなら、音楽にもBGM権がある。 このBGM権を奪
    われると、そこでの仕事は苦痛を伴う。 少なくともその位、音楽や食事にこだ
    わりが無い様では、その( クリエイターとしての )感性を疑わざるを得ない。 』
 
 
 

          
( この写真は、JR線、武蔵小金井駅近く、かわぐち先生の元仕事場のご近所風景《2005年4月》)

             その12...........................'05年04月27日 03時10分 (公開) 
 
 
「 99パーセントの努力と1パーセントの才能 」この言葉は少なくとも漫画界には、通用し
ない。

1の努力で10結果を出す奴と10努力しても1しか結果を出せない奴もいる。 レスリ
ングや柔道の様にクラス別けがない。才能が有ろうが無かろうが、中卒も東大卒も・・・何千
何万という新人がごちゃ混ぜでガチンコ勝負の世界・・・。

自分がどの位才能があるのか、どの位根性があるのか、どの位のレベルにあるのか・・・・・・
・・・・誰にもわからない・・・・・・・・。

原稿を編集部に持ち込む・・・・・

そして、10分後、編集部を出る・・・・・後ろ手にドアを閉め、神保町界隈の喧騒の中へ・・・・・・

その時、打ちのめされて「 現実 」の重量を理解する。


入ったばかりの私は、かわぐち先生の仕事場で簡単なコマの背景を指示されなが処理して
いました。( 1976年 春 ) 

劇画の背景で大事な事は、「 資料写真そっくりに描く 」ことでした。 その辺のコツを少
しずつ理解し出したのは、季節が変わった頃でした・・・・・ ( 1976年 夏 )


我ながらしっかり背景が描けたかな・・・・などと思いつつ原稿の処理していると・・・・・

 アシスタントN 「 小池君(私)、いいねェ。 上手くなったねェ!」

 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ!」( 『 まあまあだな 』の意 )

サッと先輩Hさんが割り込んでくる。

 アシスタントH 「 こんなの、たいした事ねェな・・・・ 」

 アシスタントN 「 でも、電車に反射する光がリアルでいいねェ・・・・ 」

 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ・・・・ 」( 『 言われてみればそうかも・・・ 』の意 )

先輩Hさん、小ばかにした様な薄笑いを浮かべながら・・・

 アシスタントH 「 トーン使い過ぎ。暗いよ 。 」
 
 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ・・・ 」( 『 言われてみればそうかも・・・ 』の意 )


毎日、こんな調子でした。

仕事もかなり慣れてきた頃、この先輩Hさんとは生涯理解し合えないと思う出来事が起き
ました・・・・・・


出版されたかわぐち先生の雑誌をみんなで見ている時です・・・・・

 かわぐち先生 「 この背景いいよなァ! 小池君(私)だろ、これ? 」

絵を見ると私の絵ではない。

 私      「 その絵は・・・・・・ 」

横からナイフでも突き刺すように・・・

 アシスタントH「 これは、Oですよ! 小池じゃありませんよ! 小池にこんな絵描
          けませんよ! 」

 かわぐち先生 「 え・・・? 小池君かと思ったよ・・・・O君か・・・・・ 」

 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ 」( 『 私の絵です 』の意 )

 アシスタントH 「 Oのペンタッチはすごいですよねェ! ハハッ、小池の絵とは全然
           違いますよ! 」
          

最年少で、一番下っ端の私には、じっと我慢するしかなかった。

 「 遅っいなァ~! 」

 「 こんな絵に何時間かけてるんだよ! 」

 「 写真そっくりに描けって言ってんだろ! 」

 「 下手糞! 」

毎日、毎日、不愉快な事が10回位あった・・・・・・

この頃の屈辱は今でも忘れる事が出来ない・・・・・・。


   漫画家アシスタント物語、血の教訓

    『 漫画家に成りたい人間は沢山いる。そして、漫画家に成ってほしくない
      人間も・・・・・・ 』
  
  
 
        「 漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 後半 」 へつづく・・・・


            【 「漫画家アシスタント第1章 22年改訂版」へ戻る 】




       * 参考 *   
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  .............. 私(yes)のアシスタント履歴
  
  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
           4,5ヶ月のお手伝いでした。 (19歳)
     
  1976年昭和51年 かわぐちかいじ先生 この当時、氏は今ほど有名ではなか
           ったのですが、背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1977年昭和52年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と言われ、エピソードには
           事欠きません。たった1週間しか勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリ
           ジナルに連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの
           主演でTVドラマ化されていました。(23歳) 

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、タイ・チェンマイにて隠居中。(62歳)

                    
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~                   
  


【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )





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