九月博多座の写真や劇評が掲載されているとのことで
演劇界11月号にチラッと♪目を通してきました。
(笑也さんの義経はモノクロ写真の方が素敵だなぁ。)
博多座と歌舞伎座の勧進帳、亀治郎の会の劇評は読みましたが、
火樹会忘れた~(~_~;)。。。また、あらためて行こう・・・
(どこへ?>自分)(立ち読…でなく、図書館!!)
面白かったのが、【歌舞伎の新展開と劇評の現在】と
題された劇評家による座談会。
厳密には串田さんは劇評家ではないですが。
(っていうか厳密に言わなくても劇評家ではなく、クリエイター)
※出席者:串田和美・松岡和子・上村以和於・長谷部 浩・児玉竜一
司会・構成:伊達なつめ
主旨としては
>世代交代を経て、いまを生きる歌舞伎の姿をどう捉えるか……
>多様化した演劇としての歌舞伎の可能性をさぐり、
>それとともに変化する批評の在り方を考察する座談会です。
だそう。
これを読むまで、勘三郎さんが、自身の舞台の劇評の件で
演劇界側と揉めて取材や写真掲載拒否されていた事
知りませんでした(現在は和解)
猿之助さんも過去言われ放題だった時期があったような
(演劇界という意味でなく劇評全般的に)
以前はよく、猿之助さんの舞台に対して批判的な記事を見かけると
プリプリしていたけど、ここのところ
劇評家にも言論と思想の自由(笑)はある、ということで、また、
どの個人も芝居に対して「好悪」は凌駕出来ないんだな~
ということで赦してあげてます(恩赦)←をい
(ま、自分が観て良ければそれでよいじゃん、で終われず、
劇評家の言質が気になるということは、ある意味自分も権威?
に弱い、ってことなのかも、とも思ったり・・・)
ただ、批評というより、揶揄的な文言や誤謬などは、
文筆のプロであるなら、そのあたり矜持を持って頂きたいなぁ~とは思う。
(それは、ある意味、彼らの影響力を認めているから。)
座談会の中で、今、劇評家の舞台評なんかより
個人のブログやHPで、リアルタイムで舞台の様子知れるから
劇評家の評論は以前ほど重用されていないのでは?みたいな話が出た際、
すぐ消え行くもの(ブログなど)と異なり、演劇界の記事のように
百年単位で残っていくであろうものを署ことは、劇評家の仕事である
というような(手許に本がないので、実際の言葉と異なりますが)
お話があったので、では、後世のためにも、歪のない筆致でお願いします~と。
単純に、文章の組み立て方の問題で、読者に誤解を与えるものから
ちょっと恣意的な批評・批判等々、劇評の検証を翔6号で
しているけれど、これは、ホント、幻の名著!!
今、読んでも斬新です。この演劇界の座談会より十数年も前に
企画されているけれど、視点もデータも鋭い。
―と話が逸れましたが、
座談会中、串田さんが、ず~っと拘泥されていたモノが
常々、猿之助さんが仰っている
「何をもって歌舞伎・古典(スタンダード)とするか」に
通底する部分を感じ(全面的にということでもないですが)
猿之助修羅舞台 をお貸ししたくなりました。
玉三郎さんの記事はstraightという雑誌の方で、より興味深く拝見致しました~。
(この記事タイトル、ウルルン~を想い出してしまった)
いや~玉三郎さんもホント、なで肩ですね~!!
グッチページのジャケット&パンツは、微妙~。
表紙は素敵なのですが、全身映っているページを拝見し、このページのものより、
ダンヒルページ(鞄の紹介メインですが)で着用されているジャケット類の方が
断然お似合いだと思いました~。
歌舞伎の拵えもされているのですが、それらの写真からは
「世界の一流品」に囲まれる以上の、輝きが見えるような気がします。
【追記】
翔と言えば、以前はバックナンバーを貸し出して下さっていましたが、
現在は、管理人さんがご多忙のようなので、どうでしょうか。
私は、8号を1冊は回覧用ということで、2部手許に持っているので
ご希望の方がいらしたら貸与可能です。メールにてご連絡下さい。
(返却必須・紛失厳禁をご理解の上お願いします~
二度と手に入らない貴重な手作りの本なので・・・)
演劇界11月号にチラッと♪目を通してきました。
(笑也さんの義経はモノクロ写真の方が素敵だなぁ。)
博多座と歌舞伎座の勧進帳、亀治郎の会の劇評は読みましたが、
火樹会忘れた~(~_~;)。。。また、あらためて行こう・・・
(どこへ?>自分)(立ち読…でなく、図書館!!)
面白かったのが、【歌舞伎の新展開と劇評の現在】と
題された劇評家による座談会。
厳密には串田さんは劇評家ではないですが。
(っていうか厳密に言わなくても劇評家ではなく、クリエイター)
※出席者:串田和美・松岡和子・上村以和於・長谷部 浩・児玉竜一
司会・構成:伊達なつめ
主旨としては
>世代交代を経て、いまを生きる歌舞伎の姿をどう捉えるか……
>多様化した演劇としての歌舞伎の可能性をさぐり、
>それとともに変化する批評の在り方を考察する座談会です。
だそう。
これを読むまで、勘三郎さんが、自身の舞台の劇評の件で
演劇界側と揉めて取材や写真掲載拒否されていた事
知りませんでした(現在は和解)
猿之助さんも過去言われ放題だった時期があったような
(演劇界という意味でなく劇評全般的に)
以前はよく、猿之助さんの舞台に対して批判的な記事を見かけると
プリプリしていたけど、ここのところ
劇評家にも言論と思想の自由(笑)はある、ということで、また、
どの個人も芝居に対して「好悪」は凌駕出来ないんだな~
ということで赦してあげてます(恩赦)←をい
(ま、自分が観て良ければそれでよいじゃん、で終われず、
劇評家の言質が気になるということは、ある意味自分も権威?
に弱い、ってことなのかも、とも思ったり・・・)
ただ、批評というより、揶揄的な文言や誤謬などは、
文筆のプロであるなら、そのあたり矜持を持って頂きたいなぁ~とは思う。
(それは、ある意味、彼らの影響力を認めているから。)
座談会の中で、今、劇評家の舞台評なんかより
個人のブログやHPで、リアルタイムで舞台の様子知れるから
劇評家の評論は以前ほど重用されていないのでは?みたいな話が出た際、
すぐ消え行くもの(ブログなど)と異なり、演劇界の記事のように
百年単位で残っていくであろうものを署ことは、劇評家の仕事である
というような(手許に本がないので、実際の言葉と異なりますが)
お話があったので、では、後世のためにも、歪のない筆致でお願いします~と。
単純に、文章の組み立て方の問題で、読者に誤解を与えるものから
ちょっと恣意的な批評・批判等々、劇評の検証を翔6号で
しているけれど、これは、ホント、幻の名著!!
今、読んでも斬新です。この演劇界の座談会より十数年も前に
企画されているけれど、視点もデータも鋭い。
―と話が逸れましたが、
座談会中、串田さんが、ず~っと拘泥されていたモノが
常々、猿之助さんが仰っている
「何をもって歌舞伎・古典(スタンダード)とするか」に
通底する部分を感じ(全面的にということでもないですが)
猿之助修羅舞台 をお貸ししたくなりました。
玉三郎さんの記事はstraightという雑誌の方で、より興味深く拝見致しました~。
(この記事タイトル、ウルルン~を想い出してしまった)
いや~玉三郎さんもホント、なで肩ですね~!!
グッチページのジャケット&パンツは、微妙~。
表紙は素敵なのですが、全身映っているページを拝見し、このページのものより、
ダンヒルページ(鞄の紹介メインですが)で着用されているジャケット類の方が
断然お似合いだと思いました~。
歌舞伎の拵えもされているのですが、それらの写真からは
「世界の一流品」に囲まれる以上の、輝きが見えるような気がします。
【追記】
翔と言えば、以前はバックナンバーを貸し出して下さっていましたが、
現在は、管理人さんがご多忙のようなので、どうでしょうか。
私は、8号を1冊は回覧用ということで、2部手許に持っているので
ご希望の方がいらしたら貸与可能です。メールにてご連絡下さい。
(返却必須・紛失厳禁をご理解の上お願いします~
二度と手に入らない貴重な手作りの本なので・・・)
見てびっくり!!
舞台写真は脇正面から撮影されたものが
使用されていたのですが、これが、
私が2日間とも座った中正面から観たのとは
同じ舞台とは思えないほど、印象が違うんです!
ということは、正面から観るのとも
かなり異なると想像できます・・・
まあ、見え方違うだろうな~くらいは
漠然と思っていましたが、まさかこれ程とは…
メチャクチャ、ビックリしましたっ
国立能楽堂の座席↓↓
http://www.ntj.jac.go.jp/gekijo/nou/sheet.html
この評論をされた方は、
脇正面からの観劇だったため
後見にひと工夫欲しいような旨記述されており
(あの角度だと後見の姿も主の役者さんと同等
の割合で視覚に入ったと思う。
私の見た席からは、上手く役者の陰に入り
控えている、と見えた。)
>紅娘さん、ども!!
ちょうど、中国がご専門の紅娘さんちに
質問に行こうと思っていたのですよ~。
役者さんにつける敬称の「丈」は
中国から入ってきた言葉だと聞いたことがありますが
もともとの語源というか起源はどんな意味を含むもの
だったのかな~と思って。
あなた「丈~たけ=だけ~」の意味もある、
と、以前どこかで見聞きしたような気もするので
私は、「丈」の文字は、複数の役者さんには用いず
猿之助さんの名前の後だけに、
つけるようにしているのですが
手元にある『漢語大詞典』を見てみたら、「丈」という漢字の意味は主に二つで、一つは長さの単位「一丈」の「丈」、二つは「長(おさ)」の意味で、そこから派生して「家長」→「夫」の意味に変化します。(現代中国語の「丈夫」は「夫」の意味ですが、最近は「老公」の方がよく用いられます)
この辞書を見る限りでは、「誰々の旦那さん」という意味で「丈」を使う例はあったようですが、けっして役者に使ったりはしません。
なぜかというと、中国では昔から俳優は社会的に蔑視されており(日本も昔はそうでしたね)、いわゆる扱いだったわけですが、共産党が政権を握ってからは、首脳部が梅蘭芳など大物俳優達を優遇し、彼らは大変感激して共産党政府を応援したというエピソードが残っています。
俳優が社会的に大きな地位を占めるようになった現在でもまだ、特に伝統劇の俳優に対してはそうしたイメージが残っています。ですから彼らが日本に来て、伝統劇の俳優だからと丁重にもてなされると、とても感激する俳優さんもいるようです。
日本の京劇研究者として最近有名な某氏が大学院生時代、公費で中国に留学する時に、最初中国側が演劇系の大学(私が留学していた)に行くように決定したところ、某氏はT大のコネを使ったのかどうかしりませんが、決定を覆してむりやり北京大学に留学したという裏話を聞いたことがあります。某氏の北大へのこだわりなのか、演劇系への偏見なのか、知りませんが、日本人的には「演劇研究者がそれでどうするんだ?」となりますが、中国人的には某氏の選択は極めて正しい選択なのです。
とても悲しくなりますが、それも一つの現実だとうけ止める必要はあると思います。
日本人はわからない漢字の由来は何でも「中国が起源だ」と言ってすましてしまう傾向がありますが、特に演劇に関しては、中国の伝統劇は日本の伝統芸能との直接的な影響関係はほとんどないと言っていいと思います。
京劇はたかだか150年の歴史しかないのです。基本的に20世紀の演劇です。
日本の伝統芸能は歌舞伎ですら400年ですよね?
歌舞伎役者さんの中には、中国人に対して「歌舞伎は京劇の影響を受けている」と言う人もいるようですが(中国側の記事ですが)、もし本当にそう思っているのであれば、「社交儀礼」としてもあまりに無知すぎます。もっと自分達の文化に対して誇りを持っていただきたいものです。
もっと古い昆曲でも、今残っている代表的な演目は古くて明代のもの(前に笑也さんが踊った演目)ぐらいで、それがちょうどシェークスピアと同時代の作家の作品です。昆曲の方が歌舞伎に近いと思います。
gooの辞書で簡単に調べても
【1】(名詞)
>(1)尺貫法の長さの単位。一〇尺。1891年(明治24)
>100メートルを三三丈と定めた。
>(2)長さ。たけ。丈尺。
>(3)「杖(じよう)(2)」に同じ。
【2】(接尾)
>(1)芸人の名前に付けて、敬意を表す。
>「尾上菊五郎―」
>(2)近世、男性の名前に付けて、敬意を表す。
>「武兵衛―/浄瑠璃・潤色江戸紫」
というような例しかなく、どうだったかな~
と思って…他力本願してしまいました。
本棚をざざっと探ってみましたら、
歌舞伎観始めの頃、購入した本
『なるほど・ザ・歌舞伎』←タイトルから時代が
偲ばれますねぇ…(85年5月刊)
(著者は松竹の演劇プロデューサー)
の中に下記のような記述があり、これが
記憶の片隅に残っていたのかな?>自分
>一般的に用いる「丈」という尊称は、
>もともと中国から来た言葉で、幟や貢物、
>引幕などを贈るとき、○○丈へといように使います。
中国から来た言葉、とは書かれていますが、
その語源等は不明確。
ただ、中国でも長さの単位として用いられていた
ようですから、そのあたり、何か上記のように
大きさのあるもの?を贈る時に転用されていった?
のかしらん・・・
まあ、この記述だと『「丈」という漢字』自体は
中国から来たもの、という意味にも(無理すれば?)
取れるし、『「丈」という尊称が』中国から来た、
とも取れる。(キャー日本語読解難しい!!)
しかしながら、紅娘さんの回答で
役者に対する「尊称」の意味での使用は中国では
ないと分かりました。
漢字だけもらって、意味は日本独自のものに
変化していく、ということはままあることでしょうか。
役者さんのポジションって世界的にあまり
変わらないのかもしれませんね。
中世、近世(近代)は、不勉強でよく分かりませんが、
古代史跡の後などを巡ると、神殿等に絡んで、
初期の呪術的なものも含め、巫女というか
原初的な音楽や演劇―「パフォーマンス」
に関わる人々って
神(や王)に奉納する、或いは神託を受ける
という表向きと、売春婦(夫)的な要素も
含まれたりすることがあるので、
「演者」というものが、ある種の恐れの裏返しも含め
蔑視されたのかもしれませんね~
私も偉そうに書いていますが、わからないことの方が多くて、また調べておきますね
漢字一字の意味を調べる上でもう少し詳しい辞典『漢語大字典』が一部行方不明で、「丈」が調べられないのが歯がゆいのですが…
『漢語大詞典』で名前の後ろに「丈」を持ってきて敬称に使うパターンはどうやら清代の随筆にあるようで、江戸時代の文人がそうした中国の作品を読んでいて、それを歌舞伎の役者さんに使ったという可能性も考えられます。
誰か国文学者さんが調べていれば、ありがたいんですけどねぇ。
今の京劇の俳優さん達への敬称は、昔から使われている言葉として「老板」があり、一般的には経営者の意味で、そこから一座を支える看板役者を指すようになりました。梅蘭芳なら「梅老板」というように使いますが、普通、老生の役柄を演じる俳優が一座の看板役者になることが多いです。
最近は「学校の先生」を意味する「老師」を使うことが多くなりました。「老板」よりも幅広く、比較的若手の俳優や女性の俳優にも気軽に使えます。
ちなみに、我がごひいきの張建国さんを私は「建国先生」と呼んでいます。私は「ミスター建国」「建国さん」という意味で使っていますが、自分でも少し丁寧すぎるように思います。本当なら「張老師」ぐらいでいいと思うのですが、私の周りには他にも「張老師」が何人かいるので、なんとなくしっくりこなくて…
今度どう呼べばいいか、聞いてみます
勘三郎さんが、「ある評論家が舞台を実に来て座席で寝ていた。そのあとさも見たかのように評論が載っていた」とおっしゃっていました。
そういういい加減な人もいるのだなぁと思いました。
>paruさん、こんばんは~。
たまに猫ちゃんの写真、ロムさせてもらってます。
ネットサーフィンしても
演劇関係のブログしか、ほぼ見ないのですが、
paruさんちに限り、「演劇」より先に「猫」の
カテゴリーを見させてもらっています♪
【予防接種】のひーちゃん(勝手にニックネームつけるなー・笑)
が、マイお気にみんな可愛いですけどねー
ケンカしたり、みんなでくっついて寝たり、
ホント、カワイイ。一緒に遊びたたい~。
キャットシッター(!?)に行かせて下さい(笑)
劇評家も人の子だから、
劇場で眠たいこともあるでしょうが、寝るはともかく
見もせず「評論」書くなんてね~。
誰がその姿を目撃しなかったとしても、
己の矜持、職業的倫理観はどうなのよ?って
思ってしまいますねぇ。
私も、以前は、結構「お社」に遭遇したことも
ありました^_^;
演劇のカテゴリは別のブログでやってます。
(ブックマーク→毎日開演!)です。
興味がありましたらどうぞ~。
http://blog.goo.ne.jp/paru_nekogundan/e/85717261d0a410cb6eb1bb187fcf2720