●6月25日昼の部
段治郎タケル楽でもあり、ヤマトタケル公演前楽ということで
猿★征ファンも更に増えていた客席でした。
一幕目は、意外と?いつもどおりの芝居といった感じで、
なんだか、明日も明後日も、まだまだ段ちゃんもタケル演っているんじゃない?
と思うような・・・
ただ、熊襲新宮での立ち廻りのふっきれた感じというか、なんだか瞬間
ニヤっと相手を威嚇しているように見せながら微笑んでいる?(とも見えた)
あたりが、共にこの殺陣を作り上げた絡みの役者さんたちへの労いにも思え…
(勝手な思い入れ的解釈かしらん^^;)
この立ち廻りに限らず、古典歌舞伎のように堂々と?
黒衣さんが前面に出るワケにはいかないので、
演者にそれぞれ役割分担があり、戦いながらも
樽を片付けに入る熊襲の兵士・民衆や―この日、中央の樽を片付けに
入ろうとした兵士に、
いきなりタケルの蹴った樽がややズレた方角に向かって飛び、
凄い勢いで押さえにかかってました~
最後に蹴り上げた樽も、下手の兵士さんがバレーのブロックよろしく
両手を挙げハイジャンプで止めてましたね―
タケル・熊襲弟もガンガン樽を当てて、動く道具方として(?)
板羽目はずしてるし。灯を落とす操作をしているのも、
実は大和の密使の?(~o~)フルーツ娘・・・
タケルの見現しも熊襲の民がお手伝い。
自然に無駄なく、効率よく出演者の仕事が決められているあたりも
素晴らしいなぁ~と、いつ観ても感心してしまいます。
今回、ヤマトタケルの何度目かの再演を観て、澤瀉ファンの友人らと
「ホント、タケルって良く出来ている作品だよねー。」と
(リピーターも、この2005年版が初見の子でも)
舞台面の美しさ、演出、転換・展開、上記のような細々した色々を含め
以後の、スーパー歌舞伎の作品は、この応用に過ぎなかったんだな~と。
このオリジナルを超えていかなければいけないのだから
色々付加したり、アレンジしたりはあったかもしれないけど。
産みの苦しみのタケルも大変だったとは思いますが、
これを超える事を目指し作品を創り続けなければならなかった
<タケル後>も非常にご苦労だったでしょうね・・・
再演を重ね、洗い上がった、「今」のこの作品だからそう思うのかな?
初演はもっと混沌だったかもしれないけど。
でも、この三幕のコンセプト自体は、当然、変わっていないのだから
19年前、このお芝居が誕生したことは、すばらしく画期的な事だった
と、改めて思います。
深手を負った熊襲弟タケルに何者かと問われ
「纒向の~」から始まる一連の台詞、ここのところは、私は段治郎タケルの
言い廻しの方が、哀切が強く感じられ好みなのですが、
(疎まれているのでは?と寂寥を抱えながらも、なお、偉大なる父の形容、
そして、その皇子であることの名乗りを誇らしげにあげるそのいじらしさが…)
ここも、いつもは涙が零れてしまう処のひとつですが、
この日の段ちゃんはあまりにも清々しいので、私も明るい気持ちで聞き入りました。
二幕からは一転、疾走感のある演技で、この四ヶ月を駆け抜けてきた
ラストスパートを切っているかのような。
走水の船上では、やっぱりトランス状態っぽい?こんなに、ありったけの
エネルギーを放出するような演技で、あと2回タケヒコも残っているのだけど
大丈夫かな~?なんて、余計な心配をするほど。(ホント余計ですね・・・)
(ここの、「行ってはならぬー」と言いつつ、弟姫の入水ルックへの
ぶっかえりの後見をするタケルもツボなのですが(~o~)←いい場面で、
そんな事考えているのか~>自分)
(スーパーでは、前述のようになかなか後見出せないので、
出演者同士補い合う法則?がよく活かされているな・・・という事で^^;)
三幕に入り、いつもならこの終幕は、タケルの悲嘆にハラハラと涙してしまう
事が多いのですが、この日は、嘆きというよりは、
「全てが終わっていく」事へのある種、諦観のような感情を強く感じました。
段治郎タケル最期の宙乗りでは、大きな拍手を浴びてキラキラと輝き
なんだか、「良かったねー!!」と気持ちは明るいのですが、
ここでどっと、涙、涙になってしまいました(T_T)(T_T)
エピローグの後に、カーテンコールが一度。段治郎タケルは
まず舞台中央で、笑顔で客席に礼をした後、下手仮花道まで駆け下り、
一階後方、そして二階席のお客様にアピール。
再度、中央に戻り、客席・出演者から拍手を受けながら、
そして彼自身は客席に手を振りながら、幕が下りました。
段治郎タケル楽でもあり、ヤマトタケル公演前楽ということで
猿★征ファンも更に増えていた客席でした。
一幕目は、意外と?いつもどおりの芝居といった感じで、
なんだか、明日も明後日も、まだまだ段ちゃんもタケル演っているんじゃない?
と思うような・・・
ただ、熊襲新宮での立ち廻りのふっきれた感じというか、なんだか瞬間
ニヤっと相手を威嚇しているように見せながら微笑んでいる?(とも見えた)
あたりが、共にこの殺陣を作り上げた絡みの役者さんたちへの労いにも思え…
(勝手な思い入れ的解釈かしらん^^;)
この立ち廻りに限らず、古典歌舞伎のように堂々と?
黒衣さんが前面に出るワケにはいかないので、
演者にそれぞれ役割分担があり、戦いながらも
樽を片付けに入る熊襲の兵士・民衆や―この日、中央の樽を片付けに
入ろうとした兵士に、
いきなりタケルの蹴った樽がややズレた方角に向かって飛び、
凄い勢いで押さえにかかってました~
最後に蹴り上げた樽も、下手の兵士さんがバレーのブロックよろしく
両手を挙げハイジャンプで止めてましたね―
タケル・熊襲弟もガンガン樽を当てて、動く道具方として(?)
板羽目はずしてるし。灯を落とす操作をしているのも、
実は大和の密使の?(~o~)フルーツ娘・・・
タケルの見現しも熊襲の民がお手伝い。
自然に無駄なく、効率よく出演者の仕事が決められているあたりも
素晴らしいなぁ~と、いつ観ても感心してしまいます。
今回、ヤマトタケルの何度目かの再演を観て、澤瀉ファンの友人らと
「ホント、タケルって良く出来ている作品だよねー。」と
(リピーターも、この2005年版が初見の子でも)
舞台面の美しさ、演出、転換・展開、上記のような細々した色々を含め
以後の、スーパー歌舞伎の作品は、この応用に過ぎなかったんだな~と。
このオリジナルを超えていかなければいけないのだから
色々付加したり、アレンジしたりはあったかもしれないけど。
産みの苦しみのタケルも大変だったとは思いますが、
これを超える事を目指し作品を創り続けなければならなかった
<タケル後>も非常にご苦労だったでしょうね・・・
再演を重ね、洗い上がった、「今」のこの作品だからそう思うのかな?
初演はもっと混沌だったかもしれないけど。
でも、この三幕のコンセプト自体は、当然、変わっていないのだから
19年前、このお芝居が誕生したことは、すばらしく画期的な事だった
と、改めて思います。
深手を負った熊襲弟タケルに何者かと問われ
「纒向の~」から始まる一連の台詞、ここのところは、私は段治郎タケルの
言い廻しの方が、哀切が強く感じられ好みなのですが、
(疎まれているのでは?と寂寥を抱えながらも、なお、偉大なる父の形容、
そして、その皇子であることの名乗りを誇らしげにあげるそのいじらしさが…)
ここも、いつもは涙が零れてしまう処のひとつですが、
この日の段ちゃんはあまりにも清々しいので、私も明るい気持ちで聞き入りました。
二幕からは一転、疾走感のある演技で、この四ヶ月を駆け抜けてきた
ラストスパートを切っているかのような。
走水の船上では、やっぱりトランス状態っぽい?こんなに、ありったけの
エネルギーを放出するような演技で、あと2回タケヒコも残っているのだけど
大丈夫かな~?なんて、余計な心配をするほど。(ホント余計ですね・・・)
(ここの、「行ってはならぬー」と言いつつ、弟姫の入水ルックへの
ぶっかえりの後見をするタケルもツボなのですが(~o~)←いい場面で、
そんな事考えているのか~>自分)
(スーパーでは、前述のようになかなか後見出せないので、
出演者同士補い合う法則?がよく活かされているな・・・という事で^^;)
三幕に入り、いつもならこの終幕は、タケルの悲嘆にハラハラと涙してしまう
事が多いのですが、この日は、嘆きというよりは、
「全てが終わっていく」事へのある種、諦観のような感情を強く感じました。
段治郎タケル最期の宙乗りでは、大きな拍手を浴びてキラキラと輝き
なんだか、「良かったねー!!」と気持ちは明るいのですが、
ここでどっと、涙、涙になってしまいました(T_T)(T_T)
エピローグの後に、カーテンコールが一度。段治郎タケルは
まず舞台中央で、笑顔で客席に礼をした後、下手仮花道まで駆け下り、
一階後方、そして二階席のお客様にアピール。
再度、中央に戻り、客席・出演者から拍手を受けながら、
そして彼自身は客席に手を振りながら、幕が下りました。
運良く最後の最後に「舞台を堪能」出来るお席に当たりました。走水の波役の方々、本当に素晴らしかったです!!
タケルと弟橘姫二人だけのシーン、静寂とあの波音が堪りません。
それは焼津のシーンでも同様ですね
余りの美しさに呆然としましたっけ。
一つのものを作り上げる事の大変さ、偉大さを改めて認識させられる舞台でした。
こんなにも一つの舞台に夢中になったのは初めてです
yayaさん本当にお疲れ様でした。
まだまだ書いて頂けますよ・ね??