日本のャsュラーカルチャーの授業を担当しているが、この授業は本当にいろいろ勉強になる。
基本的に、アメリカで出版されている日本の現代ャsュラーカルチャーについての論文の類いが玉石混淆、というか、「玉」がやたらと少ない、という現状があり、いちおう大学授業なのでアカデミックな論文を課題にしようと思っても、中身を読むことで勉強になるとか、鋭い視点だと感銘を受けるようなものが、まだまだ少ない。その反面、昨今のアメリカ人大学生にも日本のマンガやアニメオタクがけっこういて、大学生のほうがよほど知識があったりとか、あるいはマンガやアニメもそのへんのアカデミック論文などよりよほど深く読めてしまったりとかする。そういうわけで、私も「教える」というより、「勉強させてもらっている」モードにはいりがちな授業だ。
そんなこんなで、結局授業はアカデミック論文も読ませるが、それについては批判が主になってしまったりして、、それより、生のマンガやアニメ、音楽などの題材をもってきて、それを学生たちと分析したり、議論したほうが全然面白かったりするのだった。
それはさておき、マンガ、アニメと最近扱ってきたのだが、アメリカ人の学生たちに、アメリカのコミックやアニメと、日本のアニメはどう違うのか、という質問を授業中してみたりすると、けっこうな人数が、「日本のマンガやアニメのほうが、自分と関連づけられて、身近に感じる。面白い」というのだ。興味深い現象だなあと思った。普通、例えばソープオペラだとかの類いの研究だと、自国あるいは近隣の「文化が近い」といわれているところでつくられた作品のほうがウケやすい、といわれていたりする。(例えばラテンアメリカ諸国でのメキシコのソープオペラ人気とか。)一昔前には、アメリカのドラマ「ダラス」はなぜ日本で失敗したか、議論があったりもした。しかし、今の日本のマンガやアニメに対しては、アメリカのものより、「身近に感じる」アメリカ人大学生がかなりいるという事態になっているようだ。
アメリカのマンガが、例えば「スーパーマン」などのように、スーパーヒーローものとか、ジェンダー的にも昔ながらの強い男イメージが強調されていたりとか、自分の現実とほど遠く感じるような内容ということもあるのだろう。そして、アメリカのテレビアニメというと、土曜の朝に放映されている子どもむけのアニメ、という印象らしい。大学生にはウケないのもわかる。それに加え、今の大学生は、日本のゲームで育ってきた世代でもある。ャPモンにファイナルファンタジーの世界にどっぷりはまって育ってきた学生たち。もはや、日本のマンガやアニメにより親近感を感じてしまい、自分の日々の状況に近い、と思うのも、わからないことではない。
それでも、アニメというのはストーリーも追いやすく、日本のゲーム世界に慣れているアメリカ人にはわかりやすいと思うが、マンガを読むにはある程度のリテラシーがいると思う。私が日本で育つ中で、無意識のうちに学んできたマンガ特有の表現(顔に汗が描いてあったら、焦っているとか、冷や汗の表現だとか、怒っていることを表現する記号のようなものとか)は、ある程度年齢がいってからマンガを読むようになった今のアメリカ人大学生層にとって、学ばねばならない類いものなのだろう。コマのすすみ方、描き方一つとっても、イレギュラー要素も多いし、アメリカンコミックとはかなり違っている。「どうやってマンガが読めるようになったのか」と聞いてみたら、何冊も読むうちに自然に読み方をおぼえていった、という答えが返ってきた。そういうものなのか。。今の子ども世代になると、物心ついたころから日本のマンガが読める状況にあるだろうから、今の大学生よりもっと自然に、無意識のうちにマンガの読み方を体得するようになっているのかもしれない。
マンガ隆盛の陰で、苦しい状況なのがアメリカンコミックである。まあ、日本のャsュラーカルチャーの授業を履修する層が、アメリカンコミックより日本マンガを好む層が多い、というのもあるのだろうが、、なんだか、一部の変わったオタク層にしかウケなくなったアメリカンコミック、、というような言われようをしていて(トレッキー、と似たような言われようだが、スタートレックよりなおさら人気が落ちている、というような印象の語り)、辛いものを感じた。これがアメリカ研究の授業にいくと違うのか、それとも一般的な思われ方なのだろうか。
基本的に、アメリカで出版されている日本の現代ャsュラーカルチャーについての論文の類いが玉石混淆、というか、「玉」がやたらと少ない、という現状があり、いちおう大学授業なのでアカデミックな論文を課題にしようと思っても、中身を読むことで勉強になるとか、鋭い視点だと感銘を受けるようなものが、まだまだ少ない。その反面、昨今のアメリカ人大学生にも日本のマンガやアニメオタクがけっこういて、大学生のほうがよほど知識があったりとか、あるいはマンガやアニメもそのへんのアカデミック論文などよりよほど深く読めてしまったりとかする。そういうわけで、私も「教える」というより、「勉強させてもらっている」モードにはいりがちな授業だ。
そんなこんなで、結局授業はアカデミック論文も読ませるが、それについては批判が主になってしまったりして、、それより、生のマンガやアニメ、音楽などの題材をもってきて、それを学生たちと分析したり、議論したほうが全然面白かったりするのだった。
それはさておき、マンガ、アニメと最近扱ってきたのだが、アメリカ人の学生たちに、アメリカのコミックやアニメと、日本のアニメはどう違うのか、という質問を授業中してみたりすると、けっこうな人数が、「日本のマンガやアニメのほうが、自分と関連づけられて、身近に感じる。面白い」というのだ。興味深い現象だなあと思った。普通、例えばソープオペラだとかの類いの研究だと、自国あるいは近隣の「文化が近い」といわれているところでつくられた作品のほうがウケやすい、といわれていたりする。(例えばラテンアメリカ諸国でのメキシコのソープオペラ人気とか。)一昔前には、アメリカのドラマ「ダラス」はなぜ日本で失敗したか、議論があったりもした。しかし、今の日本のマンガやアニメに対しては、アメリカのものより、「身近に感じる」アメリカ人大学生がかなりいるという事態になっているようだ。
アメリカのマンガが、例えば「スーパーマン」などのように、スーパーヒーローものとか、ジェンダー的にも昔ながらの強い男イメージが強調されていたりとか、自分の現実とほど遠く感じるような内容ということもあるのだろう。そして、アメリカのテレビアニメというと、土曜の朝に放映されている子どもむけのアニメ、という印象らしい。大学生にはウケないのもわかる。それに加え、今の大学生は、日本のゲームで育ってきた世代でもある。ャPモンにファイナルファンタジーの世界にどっぷりはまって育ってきた学生たち。もはや、日本のマンガやアニメにより親近感を感じてしまい、自分の日々の状況に近い、と思うのも、わからないことではない。
それでも、アニメというのはストーリーも追いやすく、日本のゲーム世界に慣れているアメリカ人にはわかりやすいと思うが、マンガを読むにはある程度のリテラシーがいると思う。私が日本で育つ中で、無意識のうちに学んできたマンガ特有の表現(顔に汗が描いてあったら、焦っているとか、冷や汗の表現だとか、怒っていることを表現する記号のようなものとか)は、ある程度年齢がいってからマンガを読むようになった今のアメリカ人大学生層にとって、学ばねばならない類いものなのだろう。コマのすすみ方、描き方一つとっても、イレギュラー要素も多いし、アメリカンコミックとはかなり違っている。「どうやってマンガが読めるようになったのか」と聞いてみたら、何冊も読むうちに自然に読み方をおぼえていった、という答えが返ってきた。そういうものなのか。。今の子ども世代になると、物心ついたころから日本のマンガが読める状況にあるだろうから、今の大学生よりもっと自然に、無意識のうちにマンガの読み方を体得するようになっているのかもしれない。
マンガ隆盛の陰で、苦しい状況なのがアメリカンコミックである。まあ、日本のャsュラーカルチャーの授業を履修する層が、アメリカンコミックより日本マンガを好む層が多い、というのもあるのだろうが、、なんだか、一部の変わったオタク層にしかウケなくなったアメリカンコミック、、というような言われようをしていて(トレッキー、と似たような言われようだが、スタートレックよりなおさら人気が落ちている、というような印象の語り)、辛いものを感じた。これがアメリカ研究の授業にいくと違うのか、それとも一般的な思われ方なのだろうか。