ふぇみにすとの雑感

日々の雑感、テレビ、社会、フェミニズムについてなど。モンタナ発信。

「ローカル」にこだわれることの特権

2009-09-22 13:28:00 | 人類学
今学期は文化人類学の入門クラスを教えている。このクラスの最大の課題が、学生が自分でフィールドリサーチをしてエスノグラフィーを書くことだ。そのための準備として、小さな練習をしてもらおうと、全員に地域のスーパーマーケットの好きなところに行ってもらって、観察などのフィールドリサーチ的なことをしてもらい、短いエスノグラフィー風ペーパーを書く、という宿題をやってもらった。

学生たちはそれぞれ、いろいろなスーパーを選んでいて、その観察やら分析やらもけっこう面白いものもでてきた。それぞれのスーパーマーケットの特徴的な「文化」みたいなものをつかもうとしてくれた。そんな中、浮かび上がってきたひとつのテーマとして、坊主マンやモンタナ的な文化ともいえるのかもしれないが、「地元」へのこだわり系スーパーと、ナショナルチェーンスーパーの違いがあった。

モンタナ州というところは、「地元」へのこだわりが強い。別の言葉でいえば、国などは自分たちのことを放っておいてくれ、というような政治文化のようなものがある。だから、オバマの健康保険プランに全力で反対モードにはいってる人がけっこういたりするし、自分たちが銃をもつ権利なども著しく重要なものであるとして、声高に主張する人も多い。そして、だからこそ大統領選挙で、ロン・メ[ルが大人気だったりもしたわけだ。

そんな政治文化的なものと、アウトドアに燃える人たちが多い坊主マンならではかもしれない環境へのこだわりとがあり、オーガニック系「地元産」野菜や肉などへのこだわり系スーパーが数件ある。そして、他の地域にある、オーガニック系ナショナルチェーンスーパー(ホールフーズ、トレーダージョーなどの)ははいってきていない。それらのオーガニック系スーパーは、生協だったり、地元スーパーだったりする。そういった店舗が数件ある。

反面、ナショナルチェーン店もはいってきており、代表的なのがWalmartだろう。巨大店舗をもち、格安に食料品から電化製品など、そこに行けばほぼすべて手にはいるというスーパーだ。そのほかにもSafewayや、Albertsonなど、全国チェーン系スーパーも数件ある。

「地元」産物へこだわって、オーガニックのものを出してくる地元経営スーパーをサメ[トしたい、そこで買った方がよい安心品質のものが手にはいるし、という理由で利用する人は多い。私自身も、Coopなどは値段が高いのだが、やはり卵とか野菜とかいいものを売っていたりするので、時々利用する。店舗もフレンドリーな感じだし、ジャンクフードなどをレジの近所に置きまくってとにかく売り唐ケ、という雰囲気もない。

でも、学生の目はかなりシビアだった。「地元」にこうやってこだわれる人たちというのは、それだけの余裕がある裕福な人たちであるとしっかり見ているペーパーがけっこうあった。たとえばそういったスーパーで従業員として働いている学生たちが数人いたが、客に対してけっこうシニカルなまなざしをもっていた。パートタイム従業員である自分たちが買えない高い食材を買っていく裕福な人たち、という見方だ。

「地元」商店へのこだわりが強い坊主マン市民でも、アメリカを襲う経済不況のため、地元商店で買いたいけれど高いため無理で、値段がより安いナショナルチェーン店で買わざるを得なくなった、という客の話を紹介した学生もいた。そして、地元商店で買う場合は客も従業員に対してナイスかもしれないが、安い値段でものを売るナショナルチェーン店にくると、従業員に対しても、とたんに人間扱いしなくなるような側面があると。ひとり、ナショナルチェーン系の店で働いている学生が、そういった実感を書いていた。

要するに「地元」や、安心な食材などというものにこだわれるというのは、裕福であればこその特権であり、貧しい人たちはナショナルチェーン店に行かざるを得ない。そのこと自体にイラついている人たちもいるが、安さにひかれて全国チェーンのほうに行く。そうした店の従業員の扱いは、労働条件もよくはないが、客からの扱いもひどい傾向がある、と。要するに、階級問題が厳然と存在しているということが見えてくる。

スーパーマーケットを素材にしたエスノグラフィー宿題は、いつも私のほうが学ぶことが多いくらいなのだが、今年も例にもれずひじょうに興味深かった。そして、やはり坊主マンの学生は「階級」や「労働」をめぐる問題には感覚的に敏感だなと思った。

人類学パンフ用写真選定の結果

2009-03-01 02:48:15 | 人類学
人類学科パンフ作成のための会議が昨日開かれ、予想どおり、結局私のフィールドワーク写真はボツとなった。

私の写真の中から選ばれたのが、1)女性学会のために青森にいったときに行った、駅前再開発ビル「アウガ」地下にあった、街おこし用につくられたと思われる閑散とした魚市場で撮った写真。2)初詣に明治神宮にいったときの通りがかりにあった焼きそば屋台写真、の2点だった。次点で惜しくも落選(?)したのが、温泉にいったとき、浴衣を着ての部屋食の際、仲居さんに撮ってもらった写真。どれもはっきりいって、観光客の写真みたいなものであり、私の研究とは何の関係もないのだった。

「多様性」見せかけ目的で、授業で講義中の私の写真をいれるって手もあるのかなとは思ったが「トモミが講義していても、学生がプレゼンしている写真と区別がつかん」ということで、ダメみたいだ(笑)。うーん。。。

フィールドワーク写真といわれても

2009-02-28 00:52:33 | 人類学
私が所属している文化人類学の学科を宣伝するために、学部生むけのパンフレットをつくる作業がすすめられている。そこで、写真をいくつか掲載したいとのことに。

マイノリティ教員が私ひとりなので、多様にみせかける(?)目的から、私がフィールドワークをしている写真をもってきてくれ、と言われた。で、写真をさらっているのだが、、私のフィールドワークの対象って日本人で、とくに女性が多いので(しかもフェミニストだよ)、いわゆる「文化人類学者がフィールドワークやってる写真」に見えないんだよな。。自分が誰かをインタビューしている写真なんてないし(普通、そんなの撮る機会ないからなあ)、参与観察的になんかのイベントなどに参加している写真とか、ご飯食べている写真はあっても、「日本の女どうしでなんかしている」「ご飯を食べている」「友達と遊んでいる」写真にしか見えないのだ。しかも、その写真だけみても、どれが私で、どの人たちが研究の対象者かの区別もつかないだろう。

当然ながら、世間的に「文化人類学」というもので予測されるであろう、いわゆる「エキゾチック」な写真なんて皆無である。温泉で遊んでいる写真とかは下手したらエキゾチックに見えるのだろうか。あ、お正月に初詣にいった写真は、「エキゾチック」に見えるかも、、、しかし、明治神宮研究しているわけじゃないし、関係ないよな。

ほかの教員たちは皆白人で(ついでに男で)、いわゆる「欧米」圏外で研究していると、撮った写真すべてが「白人学者対ネイティブ」的な、「人類学的」なものになるんだろう。あるいは、考古学でなんか掘っている写真とかだと、それが近所で行われたとしても、なんとなく「人類学的」である。しかし私がもっているフィールドワークの写真の中に、そういう、人類学パンフレット掲載にありがちと思われるイメージが見つからないのだ。

もっていく写真ないな、、と困っているのだった。
しかし、「人類学」という分野自体ががどういうイメージで形成されているか、ある意味考えさせられる面があるな。

ピザとコーンとマヨネーズ

2009-02-05 11:42:51 | 人類学
ャsュラーカルチャー授業で「食べ物」を扱う。鮨のグローバリゼーションがネタのひとつ。カリフォルニア巻きだのフィリー巻だのの話をしていたのだが、日本に住んでいたことがある学生から、日本のピザにコーンのトッピングというものがあることについて発言があった。いい機会だということで、日本の宅配ピザ屋のサイトをみせた。

当然のように、コーンがのっかって、マヨネーズがかかったピザ写真がでてきた。それを見た学生たち、「信じられん」「考えられん」というご発言。「日本のピザにコーンがのり、マヨネーズがかかっている」というのは、アメリカ人的にはとんでもない組み合わせで、どうやら気持ち悪い、ととられるようだ。「でも、みんなマヨネーズ大好きで、いろんなものにかけるじゃない?なぜピザはダメなの?」ときいてみる。もちろん、コーンも同様だ。アメリカといえばコーンだしなあ。でも、「なんか変」というご意見があるばかりで、「どうして変」かについては、納得いく答えはでてこない。ピザのトマトソースとマヨネーズのコンビが変、という意見もあったが、ケチャップとマヨネーズがかかった食べ物だってあるだろうし、、しかも、マヨネーズと似たような、ランチドレッシングの場合、ピザにかかっていても許せるのだそうだ。

ピザにコーンとマヨネーズはのせるべきではない、というこの強いアメリカ人の概念、どこからでてきたのか興味深いな。そして、日本のピザ屋が、なぜピザにコーンとマヨネーズを載せようと思ったのかも、同様に興味がでてきてしまったぞ。。

「日本人論」をぶちこわす

2009-02-05 02:37:58 | 人類学
現在教えている、日本のジェンダーとセクシュアリティの授業。日本関係の授業を教えるたびに苦労するのが、学生たちがもつ「日本」および「日本人」(いわゆる"the Japanese")というものへの思い込み。

ャsュラーカルチャーの授業とかなら、それでもけっこう学生たちは最新の日本の状況をネットなどでおさえていたり、オタクであればあるほど、日本の多様なアニメやマンガ、そしてそこで描かれる様々な世界について詳しいから、そう苦労しなかったりする。しかしながら、これが「ジェンダー」になると、、さすがに「日本の女性は抑圧された月メ」的なオリエンタリストなステレオタイプこそなくなってきているが、「日本の女性は専業主婦」とか(そして対になるのが「日本の男性は大企業サラリーマン」)、おいおい高度成長期から80年代くらいまでの流行ステレオタイプかよ、、というものがいまだに幅をきかせているのだ。その背景にあるのは、学生たちの「日本よりアメリカのほうがすすんでいるのだ」という思い込みだったりもする。

「女性」や「男性」に関する一般化に加え、例えば「日本の教育」のステレオタイプもまだまだ根強い。例えば、「日本の大学は簡単」だとか、「受験地獄は大変」だとかいうイメージが妙に根強く共有されてしまっているようだ。一口に「日本の大学」といっても、学部や大学によって忙しさもまちまちだろうし(理系と文系もちがうだろう。卒業後に国家試験を受けるような学部はけっこう大変だろうし。)モンタナの大学にくらべて、そんなに日本の大学が簡単なのか、、といえば、かなり怪しい。また、日本の「受験地獄」も大学を選ばなければ全入時代だったりもする。

この、7~80年代に「日本人論」でいわれていたステレオタイプが、いまだに根強いのだ。これは、アメリカに日本から留学してくる日本人学生たちの思い込みも影響している気がする。とくに昨今、アメリカの学部に留学できる、というのは、ある程度お金がある家の学生が多いだろうし。モンタナには日本企業の駐在員はほとんどいないと思うが、駐在員が多い地域はその人たちのもつ考え方も影響しているかもしれないし、そもそも日本領事館などが、「日本といえば中流サラリーマンと専業主婦家庭」的なイメージをいまだに垂れ流していることも原因かもしれない。(たとえばシアトル領事館のサイトをみると、そういう類いの日本宣伝ビデオを盛大に貸し出しているようだ。)

今のジェンダー授業では、それをまずぶちこわす作業を最初の2週間ほどでやるべく、(まあいちおう人類学なので)ルース・ベネディクトだとか中根千枝とか読ませて、批判&脱構築しまくったりしているわけだ。しかし学生たちにとってこれはちときついらしい。今まで、日本人の友達から学んだり、なにかの本で読んだり、下手したら授業で学んできた知識が丸くずれになるようなものだからなあ。でもこれしておかないと、"the Japanese"がどうしたこうした、、というような議論をいつまでたってもされてしまい、とくにジェンダー&セクシュアリティの授業でこれをされると非常にきついのだ。

それほどに、「日本女性」ステレオタイプ、というのが妙に強固に働いている状況、なんとかしたいものだなあ。