ふぇみにすとの雑感

日々の雑感、テレビ、社会、フェミニズムについてなど。モンタナ発信。

ちょっと多忙

2006-10-30 23:20:08 | 日々の出来事、雑感
書きたいことはいろいろあれど、ほかの書き物その他が押し寄せているー。時間がないっ。
ぼちぼちペースで更新していきます。

しかし教育基本法改悪議論はひどいな。。こんな改悪案が通ったら、それこそ日本の皆さんが私が経験したようなすごすぎる管理教育を経験されるようになるのか。君が代の息継ぎの場所間違えただけでボコボコに殴られたりして、大変だったんだぞー。流行の(?)素手素足でトイレ聡?/a>だって、強制的にやらされたりすることになるかもしれないぞ。こんな改悪なんぞ絶対してはいけないというのに、自民党、民主党ともに狂ってるとしか、、。

「ジェンダー」万能論もちょっと変

2006-10-23 01:22:58 | フェミニズム
前から気になっていた、大阪の集会で出されたという、「今こそいるねん『ジェンダー平等』宣言」について一言。

しかしその一方で、「男女平等」という言葉を口にしたとたん、必ずと言っていいほど持ち出されたのは「男らしさ」「女らしさ」の尊重でした。今度は、人々を男女二分法で切り分け「らしさ」を尊重させたうえでの平等、つまり「条件付きの」平等を強いる声と闘わねばならなくなったのです。



これ、いつ、どこで、誰が「男女平等」という言葉を口にしたとたん、必ずといっていいほど「男らしさ」「女らしさ」の尊重を言い出したのか、具体的に説明してほしいものだ。
女性差別撤廃条約批准と、家庭科共修の実現によって、少なくとも政府・文部省レベルでは、男女同一カリキュラムになり、「男らしさ」「女らしさ」の尊重などとは言えなくなっていたはず。バックラッシャーが言っていたということなのだろうか。東大のジェンダーコロキアムのときは、文部省がずっとこういっていたという発言があったりしたが、それは歴史認識が間違っているだろうと。そして、少なくとも女性運動で「男女平等」をいっていた行動する女たちの会などは、男女特性論などとっくの昔に(70年代から)超えた議論をしていたわけで。
(もちろん、「男女平等」という概念が「男女」というカテゴリーを温存するものだという批判はありだと思うが、この場合の男女特性論云々という批判に関しては、歴史認識が間違っているだろうと私は思う。)

と、ここまでは、私が何回も繰り返し主張してきたことの、またまた繰り返しだったわけだが、この宣言、次のように発展していく。

 
ところが、この鉄のように重い扉の鍵をはずす力を持って登場したのが「ジェンダー」という概念であり、言葉でした。この新たな言葉こそ、私たちがずっと求めてきた平等をもたらすのに不可欠な表現であり、1995年の第4回世界女性会議で地球上の全ての女性問題を解決するキーワードとして認められて、私たちを新しい夜明けに導いたのです。


私はこの集会は行ってないが、意味のある情報共有や意見交換がなされたのかもしれない。そして、「ジェンダー」という言葉が攻撃されている中で、ジェンダーを守りたい、素晴らしい概念だと主張したい、という気持ちはわかるし、確かにフェミニズムにとって重要な概念だったのは事実だ。

だが、「重い扉の鍵をはずす力」とか「新しい夜明けに導いた」ってのはすごすぎだ。神々しさすら感じさせてしまうではないか。そして、この記述だと「ジェンダー」概念が北京会議で「認められ」た以前の、フェミニズムの長い長い蓄積を、この言葉が北京会議で『認められ」たことひとつでがらっと変えたみたいな認識になってしまいそうだが、これはちょっと違う気がする。

それに加えて、ジェンダーが「地球上の全ての女性問題を解決するキーワードとして認められて」というのは、あまりに言い過ぎだ。「ジェンダー」だけで全ての女性問題は解決しない。エリート女性の問題は解決するのかもしれないが、「ジェンダー」に加え、セクシュアリティ、人種、民族、階級、障害、「第一世界」と「第三世界」の格差問題などなど、様々な要素を同時に、重層的なものとしてみていくことによって、女性が抱える様々な問題はようやく解決されていくわけだろう。

「ジェンダー」を守ろう守ろうとするばかり、「ジェンダー」概念がすべてを包括する概念かのように捉えられてしまうことで、ただでさえ軽視されがちな、他の様々な差異の問題がかき消されていってしまうことを危惧する。


日本での「アメリカ」イメージ

2006-10-23 01:19:50 | 社会問題
日本において見たり聞いたりする「アメリカ」のイメージは、ニューヨークやDCの中心部(ホワイトハウスなど)の東海岸の一部と、カリフォルニアに偏っているのではないかということを前回書いた。
その後、『『リトルバーズ~イラク 戦火の家族たち』というイラク戦争についての日本のドキュメンタリー映画のDVDを人から借りたので観る機会があった。

監督が危険なイラクに行って、病院などで起きている現実を撮影したり、3人の子どもを無くした父親や、クラスター爆弾の破片で眼を負傷した少女とその親や、不発弾による事故で手を失った少年やその親の悲しみや怒りを追った映像。イラクについて私たちが知ることができない、現実を撮った映像は確かにパワフルで、意味深いものだったと思った。

ただ、ひっかかった点がある。監督さんが、イラクの街を警備するアメリカ軍の兵士たちにむかって、責め、詰問するシーンがよくでてくるのだ。アメリカ軍の兵士たちは、大きな戦車に乗っていたり、銃を掲げて警備していたり、笑いながら記念撮影していたり。映像からは何も考えてない人たちのように見えてしまった。監督さんの詰問にも、「イラクの人たちを解放するのが目的だ」と教科書的回答を言ってみたり、あるいは都合が悪くなってくると「答えられない」となったりしていた。

だが、、正直いえば、街を警備する末端の兵士たちを、日本から行った映画監督が詰問していることへの違和感ももってしまったのだ。多くが人種的マイノリティであり、白人でもおそらく貧困にあえぐ階層で、貧困地域出身であろう兵士たち。末端兵士たちがなぜ軍隊に入らざるを得ず、イラクに送られ、自らの死ととなりあわせの状況で、矛盾だらけの現実の中で教科書的答えをせざるをえないのか。無事帰国できても、負傷やPTSDを抱えたりする可能性も高いだろう。

「How many children have you killed? Go to the hospital and see the people dying!」そう叫びながら制圧したバグダット市内を巡回する米軍の前に立ちはだかる一人の女性。


この「人間の盾」であるという女性はアラブ系の人のように見えたが、話す英語がいかにも高い教育を受けたというイギリス英語だった。高い教育をイギリスで受けられたおそらくエリートであろう女性が、末端の、アメリカでおそらく貧困にあえいでいて、軍隊にはいらないと高等教育も受けられない状況にあるだろう兵士たちにむけてこの言葉を叫ぶことにも、この女性は「正しい」ことを言っていて、行動にも移していてすごい人であることはわかるのだが、やりきれないものも感じた。

アメリカの政府や軍のあり方は問題だらけで、この無意味な戦争は一刻も早くやめてほしいと思う。(共和党、中間選挙でぼろ負け希望!)だが、どうしようもない状況に置かれている末端兵士たち(それでも、帰国してから反戦運動に関わりイラクの現状を伝えたり、現地でも反戦メッセージがこめられた手紙を書いていたりする人たちはいるが)が、どうしてイラクに軍の一員として行き、教科書的なメッセージを外部に伝えねばならないのかという背景について考えることも重要だと思う。
この背景部分が、日本に伝わっている「アメリカ」イメージとギャップが大きすぎて、伝わってないのかなという気もした。

背景は、荒れ果てたシカゴ市のサウスサイドであるとか、ほとんど店がつぶれてなくなっている元商店街の中にぽつんぽつんとある、檻で囲まれまくっている商店(ほとんど酒屋)とか、意味もなくふらふらしている人たちの多さとか、デトロイトの廃墟ビルや放火されて焼けこげ状態の家が何年も放置されている状況とか、セントルイスの窓の破れた廃墟ビルが並ぶ様子とか、ミシシッピの地域全体が壮絶に貧しい状況とか、そういうところから見えてくるのではないだろうか。macskaさんの言及しているバッファローも、私も数年前に行ったが、ダウンタウンの荒廃ぶりはかなりすごかった。

だが、こういう「荒れたアメリカ」の映像って日本にはほとんど流れてないような気がする。思いつくのは、マイケル・ムーアの『Roger and Me』や『華氏911』でうつる、ミシガン州フリントくらいか。エミネムの『8 Mile』もデトロイトの様子が描かれていたが、ハリウッド映画系は普通、危ない場所で撮影なんかしないしな。去年のニューオリンズの様子はどのくらい日本のニュースでうつったのだろう。もし、私が住むシカゴ南部で、ああいう自然災害が起きたら、ニューオリンズとまったく同じような状況に陥るだろうと思う。それほどに、貧困問題は深刻だ。私が住むところからほんの数ブロック離れたところは、アメリカでも有数の貧困地域だ。

貧困地域の高校などを狙いうって、ミリタリーのリクルートは行われる。ミリタリーにはいれば、いい服も着られて、大学にも行かせてもらえるかもしれず、尊敬もされるし、、といいことばかり言って。仕事もなく、いつ銃弾がとんできて殺されるかもしれない日々の生活からしたら、戦争に行くのもあまり変わらないのかもしれない。『華氏911』でミシガン州フリントの人たちが、イラクも自分たちが住むフリントもあまり変わらない、といってたのは、当時ミシガンに住んでいた私には、確かにそうかもしれないと思えるものがあった。

こういうアメリカの負の姿、もっと伝えて行ってほしいと思う。でも日本の特派員さんたちや、テレビ会社の人たちは、たいてい東海岸か西海岸の裕福地帯にしかいないからなあ。。


"Escape from Japan" - but not to Chicago!

2006-10-16 09:04:53 | ニュース、時事ネタ
コメント欄でも紹介されていたが、今日のニューヨークタイムズに"Escape from Japan"という記事が出ていた。

日本人の彼氏にふられて傷ついた女性が3ヶ月間ニューヨークに「自分を見つける」ために滞在するというストーリーから始まり、フリーターやニートと呼ばれる人たちが、ニューヨークの居酒屋で集っているとか、日本人の若者たちがニューヨークに3ヶ月から3年くらいの期間、滞在する現象について書かれている。観光ビザやビザウェイバープログラムの範囲内でのこともあれば、イリーガルでの滞在も多そうだ。

1990年代中盤、女性と男性のフリーターが日本の不況のために同じくらいの数、ニューヨークにきていた時代とくらべ、景気が若干回復してきて男性が卒業後、若干企業での職をみつけるのが簡単になってきたなかでは、女性の数が圧涛Iに多くなっているとも。

彼氏にふられてニューヨークに来た女性は、日本と違い、ニューヨークでは重圧もなく、自由で、クリエイティブでいられると言い、ダンスコンテストに参加し、アメリカ人のボーイフレンドを作り、日本に帰ってからも夢であるダンスのキャリアをめざして、コンテストに出続けているという。「日本」と「ニューヨーク」を正反対の言葉で語り、ニューヨークが自由で冒険できて、、という、非常にありがちなストーリーである。

ニューヨークタイムズの記事だから、という要素もあるのだろうが、「ニューヨーク」という街に特別な意味合いがこめられてしまっているようだ。「ニューヨークに住みたい」といって日本からアメリカに来る人たちは確かに多そうである。テレビドラマでもよく出てくるし。もちろん日本人だけでなく、ほかの国々の人も、アメリカ人でもそういうケースはあるだろうが。「ニューヨーク」という年には特別な意味を感じられるものがあるのだろうか。ほかのアメリカの都市でも、「ロスアンゼルスに住みたい」「サンフランシスコに住みたい」「ハワイに住みたい」という理由でアメリカに来る人たちはいそうだ。

ただ、「シカゴに住みたい」「デトロイトに住みたい」「ヒューストンに住みたい」「ワシントンDCに住みたい」なんて人たちは聞いた事ないのだよな。映画やメディアに出てくる「アメリカ」のイメージが、ニューヨークかカリフォルニアに集中してしまっていることも原因だろうか。日本からの特派員さんたちも、ニューヨークやDCか西にいる場合がほとんどだろうし。

「ニューヨークに住みたい」という人たちが多くくるニューヨークにくらべ、同じような大都会でありながら「シカゴに住みたい」という理由で来る人たちがほとんどいないシカゴでは、いる日本人の層も違うだろうと思う。シカゴもデトロイトにしても、留学、仕事など、何らかの都合で、シカゴやデトロイトに来なければならなかった人たちが大部分だからだ。ただ単に「シカゴに住みたいから」きている人たちはほぼいないと思うのだ。

ニューヨークについてよく言われる、「自由で、重圧もなく、クリエイティブ」云々ということは、ほかの大部分のアメリカの都市のイメージにはなってなさそうだ。ミネアャ潟Xなんて、街自体で件pをサメ[トして、すごくアーティスティックな街だったし、サンタフェも件p家が多かったりする。でもそのへんに「住みたい」という理由で行く日本人は少ないよなあ。

「ニューヨーク」という記号にあまりに特別な意味をもちすぎるってのも、何だかなあという気がしてしまう、実はニューヨーク苦手な私なのだった。(といっても、旅行者としてしか行った事ないけれど。住んだら違うのだろか)

付け足しだが、どうにも日本に住んでいる女性たちが抑圧されまくっていて、ニューヨーク(アメリカ)にきてはじめて解放されるのだ、という印象を与えまくるこの記事のトーンも、あまりにありがちすぎて、気に食わないものがあるぞ。