ふぇみにすとの雑感

日々の雑感、テレビ、社会、フェミニズムについてなど。モンタナ発信。

校庭の芝生化、ねえ。。(千葉県管理教育番外編)

2007-05-06 11:09:33 | 千葉県管理教育関連
石原都知事の政策として、校庭の芝生化というものがあるのを知った。(今頃、な話題なのかな?)
この何となくよさげに聞こえる「校庭の芝生化」。石原の施政方針演説によれば、

また、校庭の芝生化は、ヒートアイランド現象の緩和に寄与するだけでなく、屋外で遊び回る子どもたちの元気な声が学校に戻ってくるなど、うれしい効果も生み出しておりまして、都内のすべての公立の小中学校で、校庭の芝生化を進めてまいります。


ということらしい。すべての学校か。。

私がこの「校庭の芝生化」に反応してしまう理由。それは、やはり以前、このブログの「千葉県管理教育シリーズ」で書いた、私がいった管理教育バリバリの某K小学校の校庭が、芝生化されていたからだ。おそらくK小学校は、校庭の芝生化の面で先駆的な学校だったのだろう。『みどり豊か」だとか、「芝生の校庭が自慢」とか、よく学校で言われていたのを覚えている。校庭が芝生になって、緑がふえるとか、土の校庭に比べればほこりが飛ばないとか、運動しても怪我は軽くすむとか、芝生の上で自由に動けるとかいうと、確かによさげに聞こえる。(実際これらはいい面なのかもしれない。)当時の学校に洗脳されていた(?)状態の私は、「校庭が芝生なんて、なんて素晴らしいんだろう」と、教師の言うことを鵜呑みにしていた。

というか、むしろ、子どもながらに鵜呑みにしないとやっていかれなかった、、という面もあったのかもしれない。「緑の芝生」が自慢であるような状況をキープするのは、とにかく大変なのだ。そもそも芝生というのは、手入れが大変である。校庭は広い。そこに植えるのがまず大変。植えてしばらくは土足で入ったりすることは禁止され、入ったら教師にものすごく怒られた。校庭の大部分が、使えないという事態がしばらく続くわけだ。基本的に、特別な場合をのぞいて、芝生にはいっていけないとされる時期はかなり長かったと思う。自由に遊ぶどころか、入ってはいけない場所が多い校庭、というのはどうなんだろう。

そして、芝生につきものなのが、雑草抜き。抜いても抜いても雑草は生えてくる。私の学校の場合、この雑草抜きを主に生徒たちにやらせていた。かなり頻繁に雑草抜きを、炎天下だろうがなんだろうがせねばならなかった。そのために生徒たちは「窒ラら」を家庭で作らせれ、持参させられていた。そして、この「雑草抜き」だって、聡怩ニ同様、静かに行うものとされ、遊びながらやったり、ふざけたりするとすぐに怒られた。そして、雑草を根っこから抜いてない、抜き方が悪い、といって、ひどく怒られることもしばしばだった。

芝生を植えるのも、生徒も動員された記憶がある。(もちろん、教員や親たちも動員されていたが)そして、「自慢の芝生」を使って運動するために、例えば芝生に朝露がついていたりするとよくない、ということで、朝露をふかされたり、ひどいときには、来客に体育の鍛錬の結果を披露するために開かれていた公開研究会があるため、芝生がぬれていてはまずい、でも体操服姿で前転をぐるぐるすれば露がとれる!と言われて、強制的に前転をさせられたときもあった。もちろん、体操服はびちょびちょである。風邪だってひくかもしれない。でも、そんなことより「自慢の芝生」、そしてその上で「運動に励む子どもたち」の姿を見せることのほうが、重要だったんだろう。。

ということで、「校庭の芝生化」を石原がすすめている、、というのは、個人的にはひどくうなずけてしまうのだった。芝生化すると、草取りなどの、保守派が大好きな「聡怐vや「奉仕活動」と共通性の高い活動が増えて、管理教育の方向にいきやすくなるもの。。

たしかに芝生化にはいい側面もあるとは思うのだが、自分の経験に基づくと、かなり微妙、というか、あまり賛成できない気がする。しかも、石原都政のもとでの芝生化とあっては、、、。芝生化のために、芝生をケアする人たちを新しく雇う、なんて計画もなさそうな気がするし、、(詳しくは知らないけれど)

管理教育についての雑感

2006-07-25 21:27:54 | 千葉県管理教育関連
千葉県の管理教育エントリーを書いてしばらくになるが、いまだに時々コメントつけて下さる方々がいる。しかも、新しく当ブログにいらっしゃる方々が、様々な体験や思いを書いてくださっているのだ。これは、とても嬉しいことだ。

こんなに各々のコメントに情報、実体験や思いがつまっているコメントが集まるエントリーというのは、珍しいように思う。確かに、私もあのエントリーを書いた時は、長文のものを毎日せっせと、一気に書いてしまった。それほどまでに、「思い」がはいる題材なのだろう。。

大昔の出来事であり、普段の生活でそう思いだすわけではないが、思い出してみると、一気に様々な記憶がよみがえってくる。「何かおかしい」という感覚がなかったわけではないだろうが、一つの価値観を叩き込まれたために「素晴らしい小学校」だと思って疑わなかった自分自身の小学校時代。そして、「おかしい」ことに抗議したら、あっという間に浮いてしまった中学校、「伝統」の名のもとに「女子校生らしさ」なるものを押し付けられて息苦しかった高校時代。。。

コメント欄をみると、以前よりましかもしれないが、最近まで、あるいは現在も管理教育状況が続いているケースがありそうだ。(とくに、いまだに聡怩站ニ間体育前後に「直立不動」姿勢をとらせているらしい某八千■市など)。また、現在、(「戸塚ヨットスクール」などもあるから、以前からだが)「ひきこもり」や「不登校」など関連の施設などにおいて、時には暴力も使う過剰な「管理」問題が深刻な場合もあるらしい、というのが、ネットみていてわかってきた。共通の問題点も出てきそうだ。

はっきりいって、私の受けた千葉の管理教育は、毎日連続的に続く暴力であり、トラウマにつながるような経験だったような気がする。だって、未だにあの自分に叩き棒が振り下ろされる瞬間(毎日のようにあったのだが)を思い出すと、身がすくむもの。それを考えても、いまだにこういう状況が続いているというのは、大問題だったと思う。。




千葉管理教育番外編:親の視点

2006-07-06 01:49:40 | 千葉県管理教育関連
シカゴに遊びにきた親との会話の中で、70~80年代千葉県の管理教育の話題が出た。

母親の記憶では、授業参観の日に、忘れ物をしたとかいう理由で、数人の生徒が、床に正座をさせられたまま授業を受けていたことがひどく印象に残っているらしかった。すっかり忘れていたが、言われてみればそんなことがあったように思う。授業参観といえば、自分の親、そして他の子どもの親もずらっと並ぶ中で、正座をさせられているというわけだ。子どもにだってプライドはある。親の前で、正座させられた状態で授業を受けるということが、どれだけそのプライドを傷つけることか、、。

そして、授業参観の後の教師との面談の際に、私の母親は、体罰の横行に対して、苦情を言ったという。そして言い合いになり、あげくの果てにその教師は「バカな親とは話さない!』と言い放ったとか。次の順番を待っていた、他の生徒の母親に、「何の怒鳴り合いをしているのかと思った」とか言われてしまったと言っていた。エラいぞ、母親!

ほかの親がどうだったのかはわからないが、そう教師に対して苦情を述べる人たちが多かったとは思えないという。成績やら内申書やらが気になって、文句を言うに言えない状態の親も多かったのでは、と親は言っていた。私自身が半洗脳状態にあった小学校のときは親が、洗脳が解けた中学は親も私自身も両方が、教師に対して文句をいい唐オていた私の内申書評価は、相当悪かったのだろうなあ。

小学校高学年から中学にかけての、あの教員たちの異常としか思えないような状態、あれは何だったんだろうと、私のみならず、親も思っていたようだった。あの時期の千葉県で、こういった酷い状況になっていた理由は何なのだろうか。

教育基本法の改悪、「愛国心」が通知表項目に含まれるなどという動きをみていると、またあの千葉県管理教育の恐武ュ治が帰ってくるのも遠い世界のことではないようにも思えてしまう。

千葉管理教育シリーズその6:密告文化と暴力、管理

2006-06-07 23:37:21 | 千葉県管理教育関連
千葉県管理教育シリーズ、中学、高校編である。

中学にはいると、小学校時代「ジェンダーフリー」だった体罰は、明らかに女に対しては少なくなったように思う。だが、当時世間は校内暴力全盛時代。暴力を防ぐ=暴力を通じて管理する、という公式だったのか、男子生徒に対しては、相変わらず殴る、蹴るの体罰が続いていた。自分自身が暴力をふるわれなくとも、他人がふるわれている様を目の前で見させられると、同じような心理的圧力がかかってくる。しかも、あの小学校時代を過ごしてきた記憶も生々しいわけだ。

中学にはいって制服が導入されると、生徒手帳に細かく書かれた校則により、髪型、制服のスカート丈などが細かく規制されるようになった。そして、体操服には名前が大きく書かれたゼッケンがあった。服装を通じての「管理」は、より細かいところまで行き届く状況になったわけだ。そして、前回エントリのコメント欄で出てきた、監視に基づいてお互いを密告する、恐武ュ治的なクラス文化もまだ続いていた。

とくに私の中学一年の時の担任は、密告文化を制度化していたといえる。彼はある時、「クーャ東煤vなるものの発行を始めた。自分をシンボル化したマークが書いてあるその「クーャ東煤vを全員同じだけの数、生徒に配布した。そして、忘れ物をするとか、誰かに悪さをしたとかなると、そのクーャ東狽ェ没収されるのだ。クーャ東狽ェ没収される人々がいる一方、「よいことをした」とされる生徒には、クーャ東狽ェ渡される。そして、クーャ東狽ェたまった生徒は、「評定衆」とよばれるグループに入ることになり、座席も暖かい窓際の日なたをとれたり、何かと優先的に扱われる。反面、クーャ東狽ェなくなってしまい、借金状態になった生徒は、「少年院」と呼ばれるグループに入ることになり、座席は廊下側の寒いところにまとめて座らされ、土曜には居残りで説教され、反省文を書かされるのだ。

今なら人権問題として大問題になりそうなことである。当然ながら、この「評定衆・少年院」システムは密告文化を醸成する。ようやく洗脳状態だった小学校時代を終わり、中学になって反抗心が芽生えてきていた私は、この制度はおかしいと担任に抗議した。それ以来、担任との間は険悪になった。反抗するためには、ヘンなことで揚げ足をとられないよう、なんとしてでも「少年院」にはいらないように、「評定衆」ステータスを保った上で反抗しよう、などと、わけのわからない余計なプレッシャーを自分にかけるようになったように思う。

中学2~3年の担任もまたすごかった。すぐにかっとなる性格だった彼は、マラソン大会だかの後で生徒の父母らがお汁粉を作ってくれるという時に、お汁粉が嫌いで食べられなかった生徒に対して激怒。お汁粉を配布していた父母らの目の前で、何人かの生徒を鼻血が出るほど往復びんたをし、殴りまくった。はっきりいって、そっと「食べられません」といって残してくれたほうが、作った側としてもよほど有り難いことだろう。また、突然「3ヶ月ほど前のキャンプで夜中にトイレに行ったものがいる!時間外に飲み食いしていたからに違いない」などといって烈火のごとく怒りだし、本来あるはずだった音楽の授業をぶっつぶして、一時間ずっと怒鳴り散らしていたこともあった。3か月前のことで、しかも人間、夜中にトイレに行きたくなるときだってあるだろう。そんなことでこんなに怒るか、、と唖然だった。時折抗議することもあった私と、この教師の間もひどく険悪なものだった。

そして高校である。県立の女子校だったが、県立の中でも、どう考えても管理厳しめのところに行ってしまったようだ。校訓のひとつは「清純」、校歌は「操」がどうとか、「御国のために」どうたらとかいうコワい内容で、「千葉の母を育てる」とか何とか校長が威張っていた(私はこの良妻賢母教育の大失敗例だといえよう)。なぜだかわからないが、制服の袖部分を折ると怒られ、スヌーピーなどのキャラクターが描いてあるかばん禁止。ワンャCントのついている靴下禁止(は中学のほうだったかな?)もちろんバイト禁止、免許取得禁止、、と、これも禁止のオンパレード。なんとなく学生たちは皆、似た雰囲気をもつようにになっていったように思う。いる間はそれなりに楽しかった気がするが、出てみて異様さがわかった、という感じの高校だった。

だが、ひとつ印象的だったのは、わざわざ女子校を選んできた理由として、「校内暴力」を挙げていた同級生がけっこういたことだ。当時の千葉県では(おそらく全国的に?)校内暴力状態が相当ひどかった地域も多く、毎日窓が割られたりで、授業などほとんどなかったと言っていた。彼女たちは「女子校だったら、ああいうことはないだろう」と思って来た、と言っていたのを覚えている。

前回書いた戦前女子教育の名残的なマスゲームへの異様な熱意のほかに、この高校は「ぞうきんがけ」への異様な熱意をもっていたように思う。体育館で体育の授業がある度に、あの足腰がひどく疲れる、鍛錬系ぞうきんがけを行わさせられる。それを考えるだけで、体育館での体育は憂鬱だった。保健室は、ぬかぞうきんを使って必死に磨かされた。あ、そういえば小学校時代も、あの学校は木の床そうじにワックスがけを、やたらしょっちゅうやらされていたのを思い出した。

いちおうこれで、体験ストーリー的には一段落かな。でもまた何か思い出してしまうかも・・、恐るべし千葉管理教育。6回もこんな長いものを書くことになるとは思わなかったぞ。
ちなみに、東葛地域においては、小学校より中学校の管理教育のほうが激しかったという印象をネットの記述からは受ける。八千代市は、私の経験では、何といっても小学校が最悪だった。。。

千葉管理教育その5:小学校体罰編

2006-06-06 23:36:21 | 千葉県管理教育関連
前回エントリのコメント欄にも書いたが、私の小学校5~6年のときの担任は、「叩く専用棒」というものを常に所持していた。最初は、直径2~3センチくらいの木の棒をもっていたような気がする。だが、ある日、細い、しなる窒フ棒の先の部分に、ひどく固い黒いもの(固く重いゴムのようなもの?)をつけた棒を開発してきた。そんなものが商品として売っているわけもなく、わざわざ工夫して、叩くためだけの用途に作ってきたわけだ。窒ナしなり、先についているものが重いため、反動もついて叩く側はほとんど力を入れる必要がない。何度でも苦労なく叩ける。だが、その反動と、棒の先についている固いもののために、叩かれる側は非常に痛いという代物なのだった。そしてその棒を開発した彼は、かなり自慢気だった。

この棒でどこを叩かれるのか?頭である。頭をそんなに固いもので叩かれれば、当然、コブができる。当時の私の頭はコブだらけだった。毎日のように学校でコブを作ってくるので、痛くてお風呂で髪を洗うのも一苦労だったのだ。

いつ叩かれるのか?理由は何でもアリだった。はっきりいって、教師の機嫌次第だ。怒れば叩かれる。というわけで、毎日の最大の関心事は教師の機嫌といったような子どもたちが養成されていた。

だが、その「叩き棒」は、感情的に怒るときに利用されるというより、むしろ日常生活で、「冷静に」利用されるものと化していたように思う。例えば、月例テスト、という毎月行われるテストがあった。漢字と計算のテストで、前もって問題がわかっているテストなので、間違えてはならない、とされていた。でも当然、間違えることだって大いにある。そして、間違えた分、「叩き棒」で叩かれることになっていた。ある時期など、一問間違えると、100点満点のマイナス5点で、95点になるのだが、「マイナス5点」分、あわせて5回、その叩き棒で叩かれる、ということになっていた。せめて1問間違えたら叩くのは1回にしてほしい、、と思ったのを覚えている。こんな調子で日常的に叩かれるのだから、頭がコブだらけになるのも当然だ。

その他、棒を使わず、ゲンコツで殴るというパターンもあったし、平手打ちビンタもあった。ケツバットなんて甘っちょろい(?)体罰は少なく、ほとんど顔か頭を叩くというパターンだった。
ある時、なぜだか忘れたが、校庭で私を含めた女子生徒4~5人に対して、教師が烈火の如く怒りはじめたことがあった。彼は「そこに並べ!」と言って、私たちを並ばせた。そして、一番端に並んだ生徒をものすごい勢いで平手打ちした。彼女はその勢いに耐えられず、ふらついてよろけた。するとその教師は「なにふらついている!たるんでいるからだ!」と言い放ち、再度ものすごい勢いのビンタをした。彼女も、そしてそれを見て、次に殴られるのは私だ!とわかっていた私たちも、意地でもよろけてはいけないのだと余計恐ろしくなったものだ。どう考えても、完全に軍隊ノリである。

殴る系体罰のほか、前にも言及したが、正座もよくあるパターンだった。教室や廊下での正座、校庭での正座(小石などがあるため、けっこう痛い)、そして、なんと遠足の際、バスの中で正座させられたこともあった。そして、殴るにせよ、正座にせよ、連帯責任のために体罰を受けるということも日常茶飯事だった。例えばある生徒がひとり、集金を忘れてきたら連帯責任で全員数時間の正座。こんなことが日々行われていた。まる一日正座の日、なんてのもあった気がする。

前回ご紹介した、国会での議論にも少々出てきていたが、声が小さい、というのは怒られる一大要因だった。卒業式などの式典練習の際、「はい」という返事が小さい、というだけで、何度も何度も繰り返し練習させられ、怒鳴られたり殴られたり。

小学校時代に関しては、体罰を受けるのに男も女も関係なかった。ある意味、「ジェンダーフリー」に体罰を受けまくっていたのだ。そして、たまたま私の担任は男で体罰愛好家であったが、ほかのクラスの女教師にも、体罰愛好家はいた。

あの頃の八千代市の小学校教育は、国会でも話題になるくらいなのだから、確かに異常だったのだろう。なぜ八千代市が、そして千葉県があの頃、こういう状態になっていたのだろうか?教育委員会がおかしかったのか、教員養成システムが変だったのか、それとも他の理由によるのだろうか。

体罰編として一気に書くつもりが、小学校だけでこんなに長くなってしまった。。中学校でも実はかなりおかしな経験をしているので、次回はこれまであまり出てこなかった、中学、そして高校について書こうと思う。