「巻貝の貝殻を耳にあてると、海の音が聞こえるよ」
と子供の時に母親から言われて、素直にやってみると本当に波の音が聞こえるのでびっくりしました。
「なんで?なんで海の音が聞こえるの?」
「ずっと海に住んでたからでしょ」
貝殻ってなんて不思議なんだろう…感動しました。
「なんで?なんで海の音がきこえるの?」
「耳にある蝸牛という器官の中で液体が揺れ動いている音が貝殻に拡大されて聞こえる、自分の耳の音なんだよ」
と言われたら、「ふーん、よくわからないけど耳の音なのか。」で終わっちゃいますよね。正確な知識は感動的じゃありません。
「唯物史観」
もしいかなる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様にまたいかなる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代わりに「地球は何度何分回転し」と言うのは必ずしも常に優美ではあるまい。 (芥川 龍之介)
「感じる」ことよりも「知る」ことの方に重きが置かれすぎているような気がします。安易に理屈や分析(アナリーゼ)に頼りすぎることは、静かに自分の心に耳を澄ます機会をなくしてしまうこともあるでしょう。その結果できたものは、人の心を動かすことはできないのだと思います。
さてさて、今日はこれから山形Qの練習です。「説得力のある演奏」に必要なものは何なのかと考えているのです。自分できちんと感じないと、子供を救うことができません。
「お父さん!お父さん!きこえないの?魔王がぼくになにかいうよ」
「落ち着きなさい、枯葉が風にざわめいているだけだよ」 (ゲーテ 「魔王」より)
と子供の時に母親から言われて、素直にやってみると本当に波の音が聞こえるのでびっくりしました。
「なんで?なんで海の音が聞こえるの?」
「ずっと海に住んでたからでしょ」
貝殻ってなんて不思議なんだろう…感動しました。
「なんで?なんで海の音がきこえるの?」
「耳にある蝸牛という器官の中で液体が揺れ動いている音が貝殻に拡大されて聞こえる、自分の耳の音なんだよ」
と言われたら、「ふーん、よくわからないけど耳の音なのか。」で終わっちゃいますよね。正確な知識は感動的じゃありません。
「唯物史観」
もしいかなる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様にまたいかなる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代わりに「地球は何度何分回転し」と言うのは必ずしも常に優美ではあるまい。 (芥川 龍之介)
「感じる」ことよりも「知る」ことの方に重きが置かれすぎているような気がします。安易に理屈や分析(アナリーゼ)に頼りすぎることは、静かに自分の心に耳を澄ます機会をなくしてしまうこともあるでしょう。その結果できたものは、人の心を動かすことはできないのだと思います。
さてさて、今日はこれから山形Qの練習です。「説得力のある演奏」に必要なものは何なのかと考えているのです。自分できちんと感じないと、子供を救うことができません。
「お父さん!お父さん!きこえないの?魔王がぼくになにかいうよ」
「落ち着きなさい、枯葉が風にざわめいているだけだよ」 (ゲーテ 「魔王」より)