東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

弘末雅士,『東南アジアの港市世界』,岩波書店,2004

2009-10-11 21:30:54 | コスモポリス
ちょっと前に書いた、旅行記に頻出する人喰い伝承に関連して。

本書は、東南アジア海域世界13世紀から20世紀初頭まで、交易拠点としての港市を論じたものであるが、人喰いや女人が島の伝説についてもページを割いて論じている。

要点をまとめると、次のようになる。

ムスリム商人や華人商人が往来していた時代から、東南アジア各地には、人喰いが住むという蛮地の伝承があった。漢文史料やアラビア語史料にいくつも逸話が残されている。
さらに、ヨーロッパ人が渡来すると、彼らの記録にも人喰いや女人が島の話が頻出する。

これを、交易の結節点の港市という観点からみると、以下のように説明できる。

つまり、人喰いの住む瘴癘の地というのは、森林物産や金を産出する地であり、港の王がアクセスする権威・権力を有する地である。
外来商人が近づくことができず、港市の王の権威を通して産物を入手しなければならない。
そこで、未知の内陸への恐れを強調する伝聞が流布する。

逆にいうと、交易のルートであるからこそ、外来商人が求める珍奇な商品を産するからこそ、人喰いや野蛮人の伝聞が誕生する。

女人が島伝説についても同じことが言える。
女だけが住み、偶然漂着した船乗りたちが、精力を吸い取られて死んでしまう、という伝説が各地にある。
これは、現地の水先案内なしには航海できない海域に、奇怪な島と危険が待ち構えているということで、やはり外来の商人のアクセスを拒み、香料や香木の産地へのルートを秘匿したいという状況のもとで生まれる。


一方で、これが本書の大きなテーマであるが、内陸の側でも港市の王に関するさまざまな伝説が生まれる。
内陸の首長や指導者と港市の王に特別の関係があり、血縁を同じくするという伝承である。
内陸部の産物を港市へ送り出す正当な理由があり、また港市の王は、外来の商人が持ち込む悪疫や厄災から内陸を保護する。

つまり、港市の王は、外来商人外来文明と内陸部を仲介する者であり、双方の直接交渉を規制・コントロールし、関係を潤滑にする役割を担う。

いろいろな例が挙げられているが、頭がクラクラするような例がマタラム王家とオランダ人に関する伝承。

p122-123

 中部ジャワの王家のうちでも、ジョクジャカルタのスルタン王家は、強力な兵力を有した上に、中部ジャワの未開墾地の開発が順調に進み、王国は隆盛に向かった。スルタン王家にとってオランダは、海岸部にあって王国の繁栄を支援する存在であることが望ましかった。一八世紀後半から一九世紀初めにかけてスルタン王家が作成した『スラト・サコンダル』によれば、バタヴィアのオランダ人はパジャジャラン王国の正統な後継者であるという(Ricklefs, 1974: 377-402)。それによると、オランダの地のマブキット・アムビン Mabukit Ambin の王は、一二名の美しい妻を有していた。そのうちの一人の妻は、身ごもったのちに、貝を産み落としたという。そのなかより、バロン・スクムルとバロン・カセンデルが生まれた。バロン・カセンデルは、成長するとスペイン王のため数々の軍功をたて、ついに王の跡を継ぎ、次のスペイン王となった。

 スペインはカセンデルの統治下で栄えたが、カセンデルは精神修行の旅に出たくなった。そこで王位を兄のスクムルに譲ろうとしたが、他の兄弟たちの反対を受け、結局父親のマブキット・アムビン王に王位を譲った。王となった父親は、兄弟たちの不和を諫め、一致団結することを説き、この結果オランダ東インド会社 Kumpni が結成されたという。

 カセンデルと他の三人の兄弟は、そこでジャワの地に赴いたという。当時ジャワは、マタラム王スナパティの時代であり、カセンデルら四人は、スナパティに仕え、王国を繁栄に導いた。またスペインにいたスクルムも、ジャワの地に商売のため出かける決心をした。一〇隻の船が商品を積んで、一〇ヵ月かけてジャワの地に到着したという。スクムルは、ジャカルタの支配者に歓迎され、ジャカルタ沖のオンルスト島に滞在することとなった。

 その頃西ジャワのパジャジャラン王国は、イスラームを信奉するジャカルタの支配者にすでに滅ぼされていたという。パジャジャラン王家の王女の一人は、山岳地帯に逃げ、そこで聖者と結婚し、一人の娘をもうけた。この娘はたいへん美しく、ジャカルタの支配者は彼女を娶ろうとしたが、彼女の子宮から発する炎のため、叶わなかった。そこで彼女は、ジャカルタの支配者からスクルムに売り払われた。スクルムは彼女をスペインに連れて帰り、やがて二人の間にジャンクンが生まれた。

 ジャンクンは成長すると、母の出身地がどこかを尋ねた。母親は、出身がパジャジャランであり、ムスリムのジャカルタ王によって滅ぼされたことを打ち明けた。そのためジャンクンは、ジャカルタ王を討つべく、ジャワに出発した。ジャカルタに到着したジャンクンはジャカルタ王と戦いとなった。激戦の末、ジャカルタ王は、ジャンクンにジャカルタを譲らざるをえなかった。ジャカルタ王は、南部の山岳地に退き、そこで元パジャジャランの王女のことを思い出し、悲嘆に暮れたとい。


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以上の話の中の〈ジャンクン〉というのが、オランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在位1619-23,1627-29 )のことである、と伝承は伝える。

むちゃくちゃなようで、マタラム王の権威はオランダ人より強く、オランダは港市の外来商人に過ぎないが、血縁関係があり、ジャワの権威があるという話である。

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以上の状況は、18世紀末ごろまで続くが、19世紀になると、オランダはジャワ全体を植民地化し、スマトラの内陸部まで植民地化をすすめる。

その過程で、一時消滅した人喰い伝説が再び蘇る。

19世紀後半の内陸植民地化とさまざまな抵抗をめぐる論考が説かれるが、長くなりすぎたので、項をあらためる。


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