東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

増田義郎 訳,アコスタ,『新大陸自然文化史 上』,1966

2007-10-29 18:15:15 | 翻訳史料をよむ
『大航海時代叢書 第1期 第3巻』、原書は1590年。
このシリーズをまだ1冊も読んでいないかたには、まずこれをおすすめする。

東南アジア関係では有名なトメ・ピレスやリンスホーテン、日本関係で有名なルイス・フロイスなど第1期収録であるが、いきなりこれらに齧りつくのはたいへんだろう。
史料としては貴重だが、読みにくいことおびただしい。

このシリーズの読みやすさ読みにくさは、訳者のせいではない。原文が草稿段階で読みにくかったり、地名や人名が現在のものと違って読みにくい、という要因が大きい。
その点、このアコスタは、スペイン語としてしっかりとした文章らしく、叙述も平明でよい。
上下2巻で、下巻のほうの目次をみると、インディオの風習・宗教・統治形態・技術などが考察されおもしろそうだが(おどろおどろしい挿絵もあり)、上巻のほうがわたしにはおもしろい。
目次を見て、アリストテレスだのプラトンだのが出ていて、こりゃあかんと本を閉じたくなる人もいるだろうが、ちょっとまって。

本書は、新世界つまりペルーやカリブ海沿岸、メキシコの自然に遭遇したヨーロッパ人の動揺と思考が説かれている。著者はイエズス会聖職者でペルー管区長を務めた人物。
実際の観察をもとに、古代の哲人や聖書学を問いただし、真理を模索する冷静な文章である。
かたくるしい神学的論議や哲学的思索がでてくるのかと読むのに躊躇するが、内容はひじょうに平明で論理的。やたらと文献をもちだすタイプでもないし、オカルト的なほうへトンでしまうタイプでもない。

たとえば、地中海地域では、冬に雨がふるけれども、ではペルーなどでも同じ時期に雨がふるので、これを「冬」というべきか?いや、夏、冬の区別は子午線上の太陽の高度によって決めるべきであって、ヨーロッパでは「冬」の時期をペルーでは「夏」と呼ぶべきだ。
というような議論。ばかばかしいようだが、こんなことを真剣に論争していたのである。
そして、新大陸の人間の起源はどこからか?ノアの子孫か?というような議論も冷静に推理する。帰納と演繹から推測するのであって、こんにちの科学の方法とは異なるが、論理的思考、説得の手順など、近代科学の萌芽をかいまみせている。
まあ、ときどきとんでもない方向にいって、そこがさらにおもしろい点でもある。聖書の記述を本気で信じる立場の人間が、真剣に、論理的に、矛盾に対峙しようとする姿勢が読みとれる。

天文学や磁力、気象、鉱物などハードな話題とともに、動物相の違いや作物の話題もある。うっかりハードと書いたが、当時、「物理」「化学」「生物学」「農学」という区別はもちろんない。
人間を含め、あらゆる事象を観察し、ヨーロッパのことがらと比較して一般化しようとする試みがあるわけだ。
水銀アマルガム法、トウガラシ、バナナなど、アジアに影響をあたえたものが、アメリカ大陸でどのように観察されたかも記されている。
あっと、バナナは東南アジア原産で、ヨーロッパ人のアメリカ移住にともなってアメリカに導入されたものと、注にある。つまりそれ以前、アメリカにバナナはなかった、ということ。(これは定説がゆれているようだ。トウガラシに関しても異説あって、東南アジアにも近縁種があったとする説もあるが、アメリカ原産が世界中に広まったと考えてよいでしょう。)

注や補注が完備。こんなのあたりまえ、というようなことから、神学・魔術・民族学・言語学関係の親切な注たくさん。1960年代に本書を訳した先人の苦労をしることもできる。

高山病(もちろん、当時、原因は不明である。)にかんする記載があったり、熱帯が必ずしも猛暑でないことなど、ふつうの旅行者としての記録もあって楽しい読み物でもあります。

E.J.H. コーナー,石井美樹子 訳,『思い出の昭南博物館』,中公新書,1982

2007-10-29 17:58:18 | 20世紀;日本からの人々
著者は日本のシンガポール占領時、ラッフルズ博物館に副園長として勤務していた植物学者。日本軍政下で昭南博物館と命名された植物園・図書館・研究施設を日本人といっしょに管理し、荒廃や略奪から守った顛末を記したもの。

占領中の著者の記録が残っており、同僚の水産研究者バートウィッスルの日記もあり、博物館事務長ミスター・カンの日記もある。著者は日本語はまったくできないが、ロンドンに帰国後、日本の歴史や文化背景をレクチャーしてくれる協力者もいた。

こういうわけで、内容は一応、信頼できる。というか、信頼できるのどうのという事がらよりも、戦火から科学の遺産を守ったイギリス人と日本人の美しい物語、というタイプ。
少々いやみったらしい文句をいえば、ハナシの通じる上流階級同士の交流という感じがしないでもない。
たとえば、人の名前が、身内に呼び方をそのまま書いているみたいで、上記のミスター・カンという言い方はないでしょう。翻訳者のことも石井夫人と書いてあるが(訳してあるが)、こういうのなんとかならんもんか。
さらに、いちゃもんに近い文句かもしれないが、年代を昭和で訳したり(原文がそうか?)、組織名や団体名の訳語もきになるが、まあいいか。いちいち頭の中で変換しながら読まなくてならない。

しかし逆にこんなお友だちの輪を回想した著作であるからこそ、ジャワ人労働者が中継地シンガポールで大量に死亡したエピソードを、あっけらかんと書いている。
(前項『日本軍政下のアジア』で引用されている。)

副題「占領下シンガポールと徳川侯」とあるように、湘南博物館総長になった徳川義親侯爵の功績をたたえた本でもある。
著者は1966年太平洋学術会議にロンドン王立協会代表団として参加するため来日。侯爵と再会している。また、このとき生物学者である昭和天皇とも握手しているが、ことばはかわしていない。
「虎狩り」殿様・徳川義親については、東南アジア関係でよくでるなまえで、情報も多いから略。中公文庫から再刊された『じゃがたら紀行』読んだことあるが、当然今は、手元にないし、記憶なし。

小林英夫,『日本軍政下のアジア』,その2

2007-10-29 17:52:51 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
あー、基礎知識のなさ、不勉強がみにしみる。たとえば……

日本内地や台湾・朝鮮・満洲の余剰資金が国策会社や東南アジアの資源開発を請負った会社に投資される。それにより工業資源・石油が内地にくる。それで軍需物資・武器弾薬を製造する。それを軍隊が消費する。
この過程で、どうやって利潤がでるのか。結局、税金が出資者にわたる、ということでは?バブル経済とどう違うのか?
もちろん、資源開発も、内地までの輸送も成功しなかった。投資は失敗である。
では、こんなに失敗した事業が多いのに、なんでツブれなかったのか。出資者が損失をかぶったのか?海南島の石碌鉄山を開発した日本窒素なんて、どうしてツブれないんだよ、どっかよそで儲けていたんだな。

第Ⅲ章の5節、7節は通貨濫発のカラクリ、インフレと経済混乱を説く。本書の最重要点。つまり、大東亜戦争の最重要トピックである。
書いてあることはわかる。しかし、これも基礎知識がないと、じゅうぶんに理解できないことである。

ただし、若いモンは、わたしのように、もうこんなめんどくさいこと勉強したくない、なんて思わずにカラクリとメカニズムを勉強してくれ。
本書には強制徴用、華人からの資金徴用のトピックも扱っている。
ともかく、すべて、「投資した資本からいかに利潤を得るか」という問題である。儲かる見込みがないなら、戦争などやらないのだ……と、戦争を合理的経済活動としてとらえるか、不合理な情熱やどうでもいいやというなれあいも含めてとらえるか、それは各自考えましょう。

小林英夫,『日本軍政下のアジア』,岩波新書,1993

2007-10-29 17:51:51 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
いくら経済オンチのわたしでも、この本は読んでる。
今回読みかえしてみて、文章もわかりやすいし、背景の説明も適切で、理想的な新書の記述である。

副題が「「大東亜共栄圏」と軍票」とあるように、占領地の通貨政策をまとめた一冊である。

いうまでもなく、戦争というのは相手側の資源と資産をうばうものであるし、軍隊は巨大な消費団体である。外交交渉、戦闘、法規の整備、動員体制、これらは、すべて資産を増やし、資源を獲得し、軍隊を食わせるためにある。つまり、通貨政策こそが、戦争のカナメである。
第1章では、満洲において日本の通貨政策が成功したこと、華北・華中・華南においては、とても成功とはよべない不首尾なものであったことが説かれる。
「点と線」の支配ということばが、北支・中支の戦線について使われるが、この「点と線」の支配というのは、日本側の法幣が流通しない、ということである。
ブタ一匹、米一升も金でかうべきものである。もちろん略奪ということはある。しかし、日常茶飯の入用品をすべて略奪ですませていたら、軍隊の行動は、米とブタと薪を分捕ることに費やされてしまう。実際そうだったんだ、という批判もあるが、おいておく。軍隊は消費者である。金を払ってものを買うのが軍隊である。すくなくとも、法規上はそうだ。
ところが、国民党の法幣のほうが、日本の法幣より強かった。中原でも華南でも、日本は信用度の高い紙幣を発行することができなかった。(当然、ここでも英米の画策あり、それが戦争だ。)
この間の事情がくわしいが、各自読んでくれ。

次、第3章。

重要なことらしいが、北支那振興株式会社、中支那振興株式会社という国策会社(1938年設立)については、本書でもくわしくない。おそらく膨大な史料と著作があるんだろうが。この時期の国策会社、債権の発行、子会社の設立などに関しては、財政・金融の知識がないので、今はパスする。
パレンバン、ミリ、カウエンガン、エナンジョン、バリクパパンの石油、マンカヤン銅山、ボードウィン亜鉛・鉛鉱山、ビンタン島のボーキサイト、バンドンのキニーネ製造所、など、最重要資源にかんしては、本書のテーマとはずれるので短い説明のみ。(上記の地名、あたまにはいってますか?)

久生十蘭,『従軍日記』,その6

2007-10-29 17:50:54 | 20世紀;日本からの人々
十蘭の記述をダシにして、関係ないことを書くのもなんだが、いい機会なので従軍慰安婦のことを。この問題を書くと、アラシやスパムにおそわれそうだが、まあ、わたしのこのブログに注目している人はいないでしょうから。

1990年代にこの問題が政府、マス・メディアでとりあげられたとき、わたしは、何をいまさら、と思ったものだ。従軍慰安婦という名称はともかく、そういう実態があったことは、もうあったりまえのことで、今さら、事実関係がどうのこうの、おかしいんではないか、と思った。
しかし、事態は、「事実究明」「証拠」「証言」というレベルになり、わたしにとって、あれあれ……という事態になった。

そりゃ、捜せば、証拠も証人もでてくる。そして、それに対して、証拠不十分、証言に信頼性なし、という反論、あとは、もう、むちゃくちゃな中傷合戦である。

わたしとしては、そんなもん、あったのは当然で、あったりまえなんだから、認めてしまえよ、といいたいが、政府間の問題がからむと、そうはいかないということだろう。
わたしと同世代、もしくはそれ以上の年代の者にとっては、善悪の判断、謝罪や保障の問題は別として、強制的だろうがなんだろうが、軍隊の承認なしに、売春宿を経営できるわけがない、というのが、常識的な見かただと思っていたのだが。まあ、歴史事実は、常識で判断してはいけないってことは、わたしのブログでもいっているから、これは矛盾してるかな。(ちなみに、証拠や文書をもちだすのは、BC級戦犯を裁いた連合軍の論理とおなじじゃないか)

病気や栄養失調で死んでしまった慰安婦には、もう証言もなにもできないわけで、現在生存している人の証言がどうのこうの、細かいことにこだわるのも……という気がしないでもない。
さらに、男の立場でいうならば、そういう境遇にあった慰安婦しか性的対象がない、という兵卒の立場も気になる。生きて日本に帰ったとしても、一生結婚できる見込みがなく、ガールフレンドなどとつきあえる見込みもない。(売春が悪いという概念がなかったと同様に、ガールフレンドという概念もなかったのだが)そんな戦地で、売春婦しか慰みごとがなかった男の気持ちをおもうと、慰安婦の存在をどうのこうのと判断するのも、現在生きている者の放漫なような気がして……。

一方、1990年代にはいって、この問題がマス・メディアにでてきた条件もかんぐりたくなる。
もし、もう10年、20年はやければ、「おお、そうとも、わしゃー**の**をいっぱい抱いたもんじゃ、女も買えん兵隊が役にたつかいな!」とおおいばりでわめく爺さんも多かったはずだ。そんな爺さんがみんないなくなって、安心して話題にあげられる時代になったから、マス・メディアでもとりあげたんじゃなかろうか、と。かんぐりすぎか。
事実を隠したい勢力にしても、元気でうるさい老人がいなくなって、堂々と、歴史的証拠の問題にすりかえることができるだろう。

さらに、生理的に、信条的に、女を買うのがいやな兵卒は、きっとシゴキやイジメの対象になっただろうなあ、そのほうが心配なんだが。(同様に、酒が飲めない兵士なんかもイジメやシゴキの的になったろうな。わたしは、酒も飲むし、タバコも吸う。きっと戦地へいったら、女も買っていただろう。まあ、買春よりも喫煙が悪い!という人が現在多くなっていて、そのうち、慰安婦問題より、タバコ問題が重要なテーマになったりしてね、ははは。)

そして現在、証拠がどうの、当時の法規がどうの、軍の関与がどうしたこうしたと、重箱の隅をつつく問題に終止するようになった。
議論に加わる気はないが、アタマにくる発言は、「あの女どもは、商売して稼ぐために出かけたんだ。」という言い方だ。
商売して儲けるために活動する国民を守るのが国民国家の軍隊じゃなかったっけ?

久生十蘭,『従軍日記』,その5

2007-10-29 17:46:24 | 20世紀;日本からの人々
さらにアンボンへ。アンボン島第一砲台とハロンの航空隊。
ここでの空襲はやはりすごい。報道班員の記録としてはめずらしいだろう。
さらにニューギニア島、現在のパプア州カイマナ、さらに前線のミミカへ。
海岸からアウトリガー船で大発(小型内燃機関船)さらに水雷艇カササギ(鵲)へ乗り移るシーンあり。これは迫真の描写。
発熱や下痢もあり、さすがにまいったようだ。

アンボン島のハロンは戻り、マイコールへ移動するところで日記はおわっている。
ドボやトアールにも足を延ばした形跡はあるものの、その後の経路は不明で、本土への帰路も不明である。残念。

*****

順序が逆になったが、本書の翻刻は北海道教育大学函館校の小林真二というかた。長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘)や水谷準の研究もしている方である。
小林真二氏は解説のなかで、この日記は「二重の規制を免れた報道班員日記」といっているが、これは、私的な日記を禁じた軍規と占領当時の規制のことである。
しかし、この日記はもうひとつの規制も免れている。
家族や肉親の隠蔽である。前半は、ちょっと世間に発表しかねる内容だ。同時期の記者や世話になった部隊に見せられない記述もある。あるいは、子孫が強烈な十蘭ファンであったら、別の意味で発表をためらったかもしれない。そういう意味で、これは三重の規制を免れた稀有な例だ。

ただしさいしょに書いたように、今回は抄録。抄録でも仰天の出版だから久生十蘭ファンにはマストだろうが、ウエブ上には幻想文学系・ミステリ系以外の反応がほとんどないなあ。
東南アジア研究専門家の書評や批評をしりたいのだが、プロは抄録を相手にしないかもしれない。それに、内容は、文体や後の作品へのアイディアを別にすれば、前線訪問記であって、たいして参考にする内容がないからなあ。

久生十蘭,『従軍日記』,その4

2007-10-27 19:44:38 | 20世紀;日本からの人々
さていよいよ前線へ。
十蘭はチモール島クパン(クーパン)へ。

ここで、はじめての空襲を体験し、対空防御戦も経験する。
このへんの描写は、客観的というか、自分をみはなして、うろたえる姿を第三者の立場でみる書きかたである。小説家十欄の筆力をかんじる場面である。
もっとも、最初からこの従軍日記は、自分を外から見て書いているような部分が多いのだが。
文体がときどき筒井康隆調になるのは、一人称を「おれ」にして、客観的にうろたえる姿を描くと、あの文体になるのかもしれない。

さて、十蘭は、前線の部隊にはいっても報道班員の特権かどうかしらないが、まったくペースをくずさず、昼寝をし、行軍訓練に参加するのもいいかげん。まあ、40歳すぎているから、からだがいうことをきかない、ということもあろう。
暇な夜には、クーパンの町へ女を買いにでかける。
ここでは「半島組」「台湾組」という言い方をしている。これが十蘭個人の言い方なのか、一般的な言い方なのか、わたしはよくわからんが。「日本人」の場合は、こう区別していたのか?

あと、日記を読んでいてわからないのは、軍隊内外の金銭の流れ。
適切な本を二三冊読めばわかるとおもうのだが、その適切な本がみつからない。シロウトの悲しさ、こんな基本的なことがわからないのだ、とほほ。
給与や経費がどのような形で支払われるのか?兵士への給与は軍票だろうが、経費はどうなっていたのか?内地への個人的な送金は可能か?どういう手続きか?伝票はどうなっているのか。ぜんぜんわからんのだよ。
クーパンの部隊では、十蘭は食事代などを支払っている。別の部隊に所属するものがやっかいになった場合、経費を精算するようだが、どういう規則や規定があったのか、わからん。知っている人にとっては常識以前なんでしょうが。

久生十蘭,『従軍日記』,その3

2007-10-26 18:21:18 | 20世紀;日本からの人々

2006-09-02 に紹介した
猪俣良樹,『日本占領下インドネシア 旅芸人の記録』,めこん,1996
のビンタン・スラバヤと十蘭の遭遇がなかった?
残念ながらなし。ビンタン・スラバヤについて言及はあるものの、十蘭がみたのは、おなじようなレビュー劇団Dewi Mataの公演。(p80)
歌とダンス、「新派のようでいかにも単純」な芝居、「万才のような寸劇」がまざったレヴューであったようだ。

ただ、もし、十蘭がビンタン・スラバヤを見たとしても、同じような感想をもっただろうし、正確な描写ができたとはおもえないな。
わたしは、十蘭のポップ・ソングやダンスに対するセンスを、たいして信用できない。フランス仕込みの審美眼をもっていたようであるが、この時代の洋行帰りの限界がある、と判断する。あ!こういうと、十蘭ファンから、怒りの抗議がくるかもしれないな。しかし、小説の魔術師がかならずしも、ステージ・ショーやポップ・ミュージックを理解するとはかぎらない。そこらへんの限界は考慮にいれるべきだ。

マデウンのサトウキビ・プランテーションの視察あり。
これは当然、十蘭は気乗りせず。おざなりな記述。案内するほうも、おざなりで、よくある役人の現地視察とおなじ。もし、本気で視察しようとしたら、かえって迷惑がられて妨害や隠蔽もあったかもしれない。

ボロブドールの遺跡と、プランバナン遺跡の見物もあり。
これも当然、十蘭興味なし。
ユネスコの世界遺産に指定されるなど、脚光をあびる前のプランバナン遺跡のようすなどわかればよかったが……。

ともかく、以上のことがらで、この従軍日記をみても収穫なし。

サランガンは、スラバヤからの道路がある避暑地。
バタヴィアの猛暑をさける避暑地がボイテンゾルフ(ボゴール)だったが、ボゴールが植物園が開設され、政庁も置かれたのに対し、サランガンは純粋に避暑地、リゾート地であったようだ。
スラバヤの暑さにまいった十蘭は、ここ、サランガンでほっと一息をつくが、現地駐在の武官のおせっかいと接待攻撃にあう。(しかし、この武官、よくある性格であるが、おそろしく迷惑でやっかいな人間である。)
サランガンで十蘭が滞在したホテルは、現在Hotel Sarangan という名でのこっているホテルと思われる。
ここいらに滞在するのはオランダ人観光客が多いらしく、ウェブの情報もオランダ語が多い。(当然読めない。)
ふつうの(他のヨーロッパや日本からの旅行者は)ジョグジャやソロに滞在するか、スラバヤの喧騒を楽しむから、こんな避暑地に行くのはよっぼど時間に余裕がある人、あるいは、暑さに耐えられない人だろう。

久生十蘭,『従軍日記』,その2

2007-10-26 18:17:10 | 20世紀;日本からの人々

いよいよ読みはじめる。
わりとよく書けてる、とか、けっこう参考になる、という評価は久生十蘭に対して失礼であろう。

まず、日本を発ってスラバヤまで、そしてジャワ島内の見聞について。
ああ、久生十蘭にして、この程度か……というのが正直な気持ちだ。
やはり、当時の従軍記者や宣伝班ででかけた人間は、なにも見ていない。日本人どうしの不平不満にあけくれ、軍人をばかにしながら軍人と同じようなことをしている。

当然、この日記には、十蘭のかっこつけた韜晦がある。怠惰な生活をことさら書きなぐっているようにみえる。
そして、もちろん、読者としても、十蘭に現地の自然観察や住民の生活をみることなんて期待はしない。

しかし、たとえば、食通で食い意地のはった十蘭であるから、もっとジャワの食い物の話など聞きたいのであるが、ほとんど具体的な話はない。
ドリアンとマンゴスチン、ひさしぶりに本物のコーヒーを飲んだこと、朝食のカステラとゆでたまごに辟易したこと、サランガン湖畔で牛乳を飲んだこと(p99 きわめて珍しい記述、乳牛がいたのだ、オランダ人がいたんだから、当然だが)、その程度ですね。
エビ、フカヒレ、カニ、シュウマイやヤキソバ、それにサテ(十蘭の表記でサッテー)もでてくるが、具体的な描写なし。
それよりも、スキヤキや寿司をよく食っているのだが、これも具体的な記述なし。
スキヤキというのは、薄くきった牛肉を砂糖とショウユで煮たものだとおもうのだが、具体的描写なし。生の鶏卵を溶かしたものをつけて食ったんでしょうか。ほかにトウフやネギははいってたんでしょうか。
米がうまいかまずいかなど書いてくれれば参考になったが、函館生まれの十蘭は外地米に慣れていたから、とくに米の味にこだわらなかったかもしれない。ジャワの米は北海道の米よりうまかったはずなんだが……。
ともかく、アルコール飲料のことはひっきりなしにでてくる。朝から晩まで酒びたり。これでは、他の食物を食う気がおきなくともふしぎはない。

次に悪場所、「慰安所」と表記されている売春宿のこと。
この話題が連日のように続く。
これを書くのが、この日記の目的か?と思われるほど。

軍人も軍属も報道関係者も、みんな「混血」や「白人」と寝ることを考えているみたいな雰囲気だ。そして、オランダ人は当然ながら、イタリア人、ドイツ人、フランス人と、まるでジャワ島にはヨーロッパ人ばかり住んでいるような記述である。
つまり日本人は、「白人女」や「混血女」を追っかけまわしている。

もちろん、「シナ人」や「インドネシア」がいる慰安所もある。十蘭はまめに散歩し、いろいろ試してみる。
ええと、この「支邦人」という表記も注意を要する。(googleの検索などで、このことばがあると、はじかれそうだが、本文で使っているんだからしょうがない。)
「華人」「チャイニーズ」という意味で使っているようだが、ほんとうにそうなのか?十蘭には確認できない、と思うのだが。これは、ほかの日本人でも同様だろう。
何代も前からジャワに定住している華人系なのか、それとも最近移住してきて、インドネシア語もジャワ語もしゃべらない者なのか、それとも、他の東南アジアからやってきた華人系なのか。
ともかく、十蘭自身は「ばからしい」「くだらない」などと書いているが、そういうくだらない人間といっしょに慰安所に出入りしていたのである。うーむ。

飲む打つ買う、三拍子そろった日本人の行動を知るという意味では、典型的な資料といえるかもしれないが、戦争のこともジャワのことも、ほとんどわからないのが、第1章から第3章までの記述である。

あと、ボゴール植物園に行ったこと。
これについては、幻想文学系のブログを書いている方が、もしや、久生十蘭と中井猛之進の遭遇があったのでは?と期待したことを書かれている。実はわたしも、もしや、と思ったのだが、この時、1943年3月には、まだ中井博士は植物園園長に就任していないのですね。だから、遭遇があるわけない。とほほ。
十蘭は、この植物園の記述を1ページほど書いているが、植物にさほど興味がない十欄におもしろい記録を期待してもむだである。

久生十蘭,『従軍日記』,講談社,2007

2007-10-21 14:38:23 | 20世紀;日本からの人々

ぎょえー!長生きはするもんだ。
こんなものが読めるとは!

ええと、わたしにとっては、久生十蘭は、20世紀最大の日本語小説家である。
といっても、断簡零墨を渉猟するような粘液質ではないので、三一書房版の全集を読んで、未収録作品をさがすうちに飽きてしまって、完全制覇はしていません。過去に買った本は処分してしまったので、現在一冊も手元になし。それなのに、20世紀最大というのはおこがましいが、もう小説を小説として楽しんで読むのがめんどくさくなってきてますので……。
こんなふうに書くと全国数万人(?)の久生十蘭マニアに顰蹙をかうだろうな。まあ、文学を楽しむ才能がないかわいそうな人間とおもって、スルーしてください。

さらに、久生十蘭の著作権継承者(本業がスポーツ・ライターをしている女性らしい)のブログを発見してびっくり。

blog.livedoor.jp/hisaojuran/

十蘭ファン垂涎の原資料にかこまれて、十蘭の生い立ちや足跡を追っています。
しかし、この方が十蘭の功績をご存知なかったのはともかく、まわりの方もほとんど知らないという記事にはおどろいた。
そんなに無名なんですか?文庫でもかなりの作品がでているし……。

全集の刊行が計画されているそうだが、これを読むとか、買うとかというと……。雑誌掲載時そのままの表記で出す、未完の作品も含めた企画なら興味をそそられるが……。

さらに、解説が橋本治大先生である。現役の物書きのなかで、わたしがもっとも信頼する、深い知性の方である。(ことわっておくが、橋本治の著作は、二割か三割しか読んでない。あはは、これで橋本治ファンにも顰蹙ものだ。)
橋本治様の解説入り!すごいぞ!

ところで、橋本治を知ったのは、久生十蘭とどっちが先だったかな。『桃尻娘』のタイトルが、久生十蘭『だいこん』の一節から採られている、と作者あとがきに書かれてあったが(これも記憶にたよっている)、『だいこん』と『桃尻娘』、どっちを先によんだか、もう記憶のかなたである。

そういうわけで、アマゾンに注文してただいま到着。
写真や地図もついて1800円。安い!他の出版社だったら、この二倍の定価がついたでしょうね。出版元は講談社だから、初版が売り切れたら増刷はないものと思ったほうがいい。早めに入手しておこう!

ぺらぺらと、めくると、完全収録ではなく、全体の8割の抄録……
完全版は来年から刊行予定の全集を買えということでしょうか……

これから読みます。