東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

大塚和夫,『イスラーム主義とは何か』,岩波新書,2004

2009-12-29 21:21:52 | 国家/民族/戦争
第5章 ムスリムの「近代」
2 世俗化・近代化再考

ここで、西欧式の近代=世俗化という前提に疑問をはさむ。

一般的な理解として、近代化にともなう世俗化として、

1 政教分離~国家は宗教に介在しない。特定の宗教を保護しない

2 宗教の私化~宗教は個人の内面の問題であり、また家庭などの私的な領域での規範や行事、儀礼である。

3 現世意外の領域、つまり死後の世界や他界よりも、現世、現実の世界の問題を重くみる。

というような傾向を含蓄する。
しかし、本書で論じられているイスラーム世界においては、近代化が必ずしも政教分離や宗教の私化をともなわず、また来世を現世よりも重くみる(不適切な例だが、自爆テロリストなど)世界観も強まっている。

このように、イスラーム世界以外では、ナショナリズムと結びつく傾向が、イスラームにおいては、宗教と結びついている。われわれは、このような近代化も一つの世界であると、認識しなければならない。

しかし!

ここでまちがってはいけないのは、イスラームとひとくくりにできる一枚岩のイスラーム世界などというものは、存在しない。
同じ言葉で語られるもの、たとえば本書の例でいえば女性のヴェール。エジプトでヴェールを着用する女性と、アフガニスタンでブルカを着用する女性と、インドネシアでジルバブを着用する女性を、同じように伝統回帰とみてよいわけはない。
それぞれの歴史的・地域的な事情と政治的あるいはファッション的意味がある。

つまり、「ヨーロッパ的近代」と「イスラーム的近代」と二者択一に論じることはできない。

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という前提にたって、著者のエジプト滞在の話を含め、イスラーム主義の歴史が説かれる。

第1章 アラビア半島のワッハーブ運動
第2章 スーダンのマフディー運動
第3章 エジプトのムスリム同胞団
第4章 エジプトのジハード団など、20世紀後半の動き。

とくに第4章に関しては、識字率の上昇、高等教育の普及にともなって、西欧の文化を知った知識層から「イスラーム復興」の動きが出てきていると説かれる。(ゲルナーやアンダーソンのおなじみの理論も援用される。)

第5章 4 ピューリタニズム的イスラーム?

ゲルナーの
"A Pendulum Swing Theory of Islam"
という論考は初めて目にするのだが、(だいいちわたしはゲルナーなんて読んだことないし、モロッコでベルベル語を話すムスリムを研究したなんてことも知らなかった。ハリー・ベンダと似た生い立ちの人なんだな……)そのなかで、ゲルナーは前近代のイスラームの動向を説明するものさしとして、以下の二つの基準を考えた。

C特性群
1.現世・来世におけるヒエラルキー志向
2.聖なる存在と一般信者との間を媒介する聖職者や精霊の活発な活動
3.知覚可能な物体などを用いた聖なる存在の具象化
4.儀礼や神秘的行為が盛況になること
5.特定の個人・人間への忠誠

P特性群
1.厳格な一神論志向
2.ピューリタニズム的厳格主義
3.聖典と読み書き能力重視
4.信者の間の平等主義
5.霊的仲介者の欠如
6.儀礼的な放縦さをおさえ、中庸で覚醒した態度を尊重
7.情緒よりも法や規則の尊守を重視

という分類である。
このC特性群はカトリック、P特性群はイスラームに該当するものであるが、ゲルナーはさらに、イスラームの内部にこのC特性群とP特性群に対応するものがあると分析した。

著者は、ゲルナーは前近代について上記のように述べたが、現在でも(もしくは現在のほうがもっと)この枠設定が役立つのではないか、と述べる。

以上、かなり雑な紹介になったが、イスラム原理主義などという言葉を不用意に用いないようにするためにも一読した。
わたしはつねづね、シーア派とかスンナ派とかいうメディア上の言葉に違和感を抱いているのであるが、ああいった雑な分類にひきずられないようにしなくては。

もっとも、同じ著者が編集した、
大塚和夫 編,『世界の食文化 10 アラブ』,農文協,2007
なんかを先に読んだほうがいいかもしれない。

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本書執筆当時は石原政権の都立大学問題でかなり悩まされたそうである。
その後、めでたく東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長にご栄転!
えっと、今ウェブで調べたら、今年、2009年4月29日、59歳で死去!?!
ぐあーん!

小宮まゆみ,『敵国人抑留』,吉川弘文館,2009

2009-12-28 23:19:48 | 国家/民族/戦争
労作である。わたしの知るかぎり類書なし。
ドイツ人に関しては『戦時下のドイツ人』集英社新書, があるが、総合的に戦時下の外国民間人を扱ったのは本書一冊だけではないだろうか?

まず、よっぽど外交史や戦史に詳しい読者でないと、背景知識がない。
大東亜戦争終了時の中立国はいくつあると思いますか?

スイス
スウェーデン
ポルトガル
アイルランド
アフガニスタン
バチカン

以上六カ国である。
スペインはどうした?かというと、1945年4月国交断絶。
アイルランドが中立国?1943年5月に日本国総領事館設置により、中立国になる。
ドイツは降伏により、自動的に敵国扱いになる。(三国同盟の規定による)
ポーランドは45年6月統一臨時政府樹立、対日宣戦布告。

そういうわけで、開戦時は、アメリカ、ブリティッシュ・コモンウェルス、オランダ、それにギリシャやベルギーなどのヨーロッパの連合国側だけだった敵国人がどんどん増えていく。
最終的には、イタリア人・ドイツ人・フランス人・スペイン人・ポーランド人も敵国人として抑留することになる。

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本書の緻密な調査の中で一番驚いたのは、秋田県鹿角郡毛馬内町のイタリア人収容所である。毛馬内!内藤湖南が生まれた山奥じゃないか。
そこの毛馬内カトリック教会にイタリア大使はじめ外交官、それに大連・ハルピン・台北から移動してきた領事館員が収容された。
ここは著者自身が聞き取りにでかけている。まずまず平和な生活であったようだ。よかった、よかった。

もう一か所、秋田県内では、平鹿郡舘合町へ厚木市七沢温泉の女子抑留者が移されている。本土決戦にそなえ「相模湾上陸作戦」阻止のため、敵国人抑留者を移動させたのだそうだ。

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以上の例を含め、すべての収容所の収容人数、死亡者、移動が克明に調査されている。
ほとんどが合法的な処置であり、赤十字などへ情報公開しているのだが、秘匿された例もある。

もっとも悲惨なのは、アッツ島のアリュート人。
敵国人ではないから殺すことも捕虜にすることもできず、アメリカ側の攻撃が予想される中、小樽へ移送される。
結核などで半数近く死亡。
彼らの存在が赤十字国際委員会は報告されるのは1945年8月14日。
実は、彼らアリュート人は戦争終結後、こんどはアメリカ政府にたらい回しにされ、結局アッツ島へ帰還することはかなわなかった。近くに核実験場があるように、軍事上の要所とされたためである。

秘匿された抑留者に、オランダの病院船オプテンノール号乗組員がいる。病院船を拿捕し、さらにそれを改装して日本軍の病院船に使ったという国際法違反を隠蔽するためであったらしい。
この乗船員では、オランダ人船員が抑留されたことは当然として、インドネシア人下級船員も抑留されたのである。(インドネシアという国籍はなかったから、どういう根拠だったか不明。というより完全に違法ですね、一応大東亜の同盟国であったのだから。)

井上章一,『キリスト教と日本人』,講談社現代新書,2001

2009-12-27 22:31:58 | フィクション・ファンタジー
伊東忠太の法隆寺エンタシス説、などなど明治期の脱亜論のブームの中で生まれた、日本にもむかしむかしからヨーロッパ的なものがあったんだ、キリスト教だって伝わっていたんだ、という論議をおもしろくおかしく分析したもの。

というより、トンデモ系まで含めて、江戸時代からの「きりしたんは邪教」から「憧れのヨーロッパ文明」という流れを追ったもの。マジメなキリスト教研究が目をそむけていた低俗な迷信から日猷同祖論まで俎上にのせる。

空海がネストリウス派キリスト教に接触していた←フィクションとして楽しむにはよいが、確定できる史料はない。
厩戸王子伝説は、キリスト生誕伝説の伝播
大塩平八郎はキリシタンだった!
キリスト教は仏教を改竄したものだ!
宗門檀那請合之掟←偽書であることが学問的に確定している
平田篤胤の本教外篇←キリスト教のパクリというのが定説。
佐伯好郎の広隆寺=キリスト教会説(太秦論)←ほとんど笑い話として楽しまれているが、根強い本気派も残存している。

というような話題。

前項の久米邦武「神道は祭天の古俗」にも江戸時代の巷説が残っているとみる。つまり、キリスト教は仏教の分派であるとか、仏教の訛である、といった江戸時代の風説に通じる要素がある、と捉える。(久米邦武自身はのちに、自説の飛躍を反省している。)

高野山の大秦景教流行中国碑レプリカ
この話は知らなかった。
こういう怪しげな話題になると、ウェブ上にいっぱい情報がありますね。

あとがきの「おわりに」にも笑った。
ソニー・ロリンズの「セント・トーマス」を聴きつつ……とあるが、そういえば、あれも南蛮渡来だ……

『近代日本思想大系 13 歴史認識』,岩波書店,1991

2009-12-19 21:17:36 | 国家/民族/戦争
田中彰・宮地正人 校注 による史料集

なんで突然こんな本をひらいたかというと、
井上章一,『キリスト教と日本人』,講談社現代新書,2001
に、久米邦武の筆禍事件について記述があり、なんのことかと思ったから。

久米邦武というのは、あの久米邦武、『米欧回覧実記』、岩倉使節団の記録者である。太政官の修史館館員であり、太政官制度廃止後には帝国大学の編年史編纂掛、帝国大学教授をつとめる。
この時期に発表した「神道は祭天の古俗」という論が問題になり(『史学会雑誌
』掲載のあと田口卯吉主催の『史海』に転載)、さまざまな批判を浴び、離職する事件があった。

ということすら知らなかったが、本巻にはその論文全文のほか、批判・反論が併録されている。また、同じく編年史編纂掛の重野安繹(こちらのほうが歴史家としては有名なんだそうだ)の論文なども読める。
もちろん、校注者の手が加えられており、収録文献の選択にも編者の個性が反映しているが、気軽に原史料にアクセスできる。

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でも、その前にこのシリーズについて。

全23巻+別巻1巻のシリーズで、加藤周一が中心編集委員らしい。
幕末から明治末期あたりまで、各テーマ別の資料を集めた形式である。

このシリーズには『15 翻訳の思想』『16 文体』といった、文章や言語、文字そのものをテーマにした巻があるが、この『13 歴史認識』に収録された文章をみてみても、ああ、やっかいな問題であったのだなあ……と痛感する。

ちなみに、収録された文献は、新字体に改められ、訓点や句読点を加え、難読語句にはときどき振り仮名も加え、註釈も付いていて、これでもか!というくらいに易しく直してくれているのだが、それでも読めない字がいっぱいあるのです。情けない。
(『日本語が亡びるとき』みたいな話になるが、)明治期に公用語を英語とかフランス語にしよう!などという今から考えると暴論が出たのも、必ずしも極論ではないなあ、と思う。

現在でも読まれている文学作品を見ると、ヨーロッパ語を公用語にするなど途方もない暴論に聞こえる。
しかし、本巻に収録されている文献のほとんどは、漢文訓読体で書かれているのである。それどころか、日本人による著作でも原文が漢文(もちろん白文ですよ、返り点や句読点のないナマの漢文)のものがある。
つまり、書き手も読み手も、頭を漢文にして思考していたのである。ならば、漢文のかわりに英語にしよう、という流れがあってもふしぎではない。

とくに本巻収録の文献は、外国の歴史、地誌、歴史認識をテーマにした文章である。
漢文(清国人やヨーロッパ人が書いたシナ語)を翻訳(というより訓読)した文や、英語やフランス語からの翻訳を含む論考が多数収録されているが、これらは、ヨーロッパ諸語の原文のほうがわかりやすいのではないか、と思われる文が多々ある。

というより、本巻収録文献を今さら現代人が読む価値はどのへんにあるかという問題でもあるのだが、当時の人々、一般人ではなく要職にある者や学者でさえも、ほんとうに理解して読んでいたとは思えない内容が多々ある。

漢字を読むのが不自由な現代の読者でも一応内容がつかめるのは、実は、すでに内容を知っているからなのですね。フランス革命だろうがアメリカ独立だろうがイギリスの議会政治だろうが、すでに内容はわかっている。だから、その現代の知識から内容を類推して読んでしまうのである。

ところが、当時の明治の学者・ジャーナリスト・官僚、その他知識人がこれらの文章を読んだ段階では、歴史上の人物の相貌も地理的な知識も生活習慣も、ぜんぜんわかっていなかったのですね。
英語やフランス語やドイツ語の単語をたんに漢字に置き換えただけで、概念などまったくわかっていない場合も多い。
地名や人名はカタカナで書かれているものも多いが(ちなみに地の文がカタカナの文も多い)、どこの誰やらちゃんとわかっている人はほとんどいなかったのではなかろうか。

今では、ヨーロッパ語の固有名詞は、カタカナ書きの規則がある程度、あくまである程度であるが、固まっているから、それほど違和感はないけれど、当時の著作者・翻訳者はそうとう苦労しただろう。
だいたい、本巻収録の文献では、各自バラバラの勝手な表記をしているのである。これでは、誰が誰やら、何処が何処やら、さっぱりわからなくなる。(さらに、索引が作れないのだよ)
シナ語の漢字表記も同様である。むこうのほうが滅茶苦茶に見えるが、当時のカタカナ表記をみると、同じくらい混乱して、同じくらいわかりにくかったのだなあ、とわかる。

と、すれば、本巻の編集意図にそって読むと、近代的歴史学の方法を輸入し、なんとか日本の歴史を解き明かそうとした歴史家よりも、皇国史観を当然のこととして国民に植え付けようとした一派のほうが耳目に入りやすかったのかもしれない。あっけらかんとした、デタラメでも嘘でもいいじゃんかー!と主張する論が「久米邦武事件」に関連して収録されている。こういう文献が気軽に読めるのが本シリーズの長所だろう。
一方で、福沢諭吉や田口卯吉の論など、これほど長く収録する必要があったのか疑問。ちゃんと全編読める本が入手容易なのだから、これらは書誌事項ぐらいだけで済ませてもよかったのではないか。

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Ⅰ 幕末の歴史認識 10個の文献
Ⅱ 明治前半期の歴史認識 15個
Ⅲ アジア主義と歴史認識 8個
Ⅳ 日本における近代史学の形成 25個
Ⅴ 天皇制イデオロギーの形成と歴史叙述 10個
Ⅵ ドイツ史学の導入 3個
Ⅶ 久米邦武事件 6個

という多数のアンソロジーなのでほとんどが抄録、序文だけのものや断片に近いものもある。ちゃんとした研究者は原文にあたるのだろう。

『海国図志』。魏源が林則徐の嘱をうけて編纂したものであるが、日本では何種類もの翻刻本があるんだって。本巻では4種のさわりを収録。
『坤輿図識』も抄録。閣竜(←コロンブスのこと)小伝の部分、どっかで見たことがあったっけ。

というように多数の文献のさわりを読めるが、本文自体よりも、書誌事項と執筆・刊行の経緯と影響のほうが役にたつでしょう。

鶴見俊輔,『アメノウズメ伝』,平凡社,1991

2009-12-14 22:21:32 | その他;雑文やメモ
著者の体験と記憶をいもづる式に書きつらねたエッセーである。
フェミニズムやジェンダーという言葉を鶴見俊輔は使わないが、その方面の話題である。上野千鶴子も著者本人から内容を聞くまで読んでなかったそうだ。(←正直者!せんせい、こんなおもしろい本あるんですけど、よくわかんないところがあるんですう~などと言ってくれる教え子はいないのか。)

献辞は著者の妻・横山貞子。

といっても、学者が知らなくても恥じることはない、著者のたんなる思い出話ともいえる。読者は鶴見俊輔の引き出しから取り出される世間話と博覧強記をただただ楽しめばよいのである。

『古事記』の神話から始まり、ストリッパーの一条さゆり、前項でも出てきた天照皇大神宮教の北村サヨ、ラナルド・マクドナルドなど、著者好みの人物が次から次へと出てくる。(索引完備)

鶴見俊輔としてはめずらしい(それとも、過去に触れていて、わたしが知らないだけか?)瀬戸内晴美、田辺聖子、落合恵子などにも言及。

最初に書いたように、イモヅル式、アフォリズム調の語り口であるので、厳密に著者が何をいいたいのか、などという読み方をしてもおもしろくないだろう。
たとえば、ガンジー関するところなど著者がガンジーをどう捉えているのか、よくわからん。(p133)

ガンジーはやきもちやきで、自分の監督下にある少年少女に性的純潔を要求し、少年少女が水浴びにゆくにもひとりでついていって監視したことを、自分で書いている。ガンジーの心の底には、自分の性的欲望に対してくわえられる暴力行為があり、その暴力性の反動として、自分の子どもや妻や(自分の監視下にある)少年少女に対してくわえられる道徳的禁圧という形での暴力性があらわれる(E.H.エリクソン『ガンジーの真実』)。こうしたちがいにもかかわらず、裸身をさらして、見知らぬ相手に対するという態度において、ガンジーはアメノウズメに似ている。その政治的有効性という面だけにかぎれば、両者ともに、ある性格の相手に対する場合にだけ、その態度は、のぞましい結果をひきだすものと言える。

……よくわからない。このあと、オーウェルのガンジー観も紹介されているが。

山口文憲,『日本ばちかん巡り』,新潮社,2002

2009-12-13 21:45:43 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
詳しい紹介は今しないが、日本の宗教を考える本として、旅行記として、エンタメ・ノンフィクションとして、異文化観察記録として、めったにない傑作。

初出は同じタイトルのシリーズとして『藝術新潮』に1990年3月号から1995年11月号まで不定期連載。

それが、この単行本がでたのが、2002年。さまざまな紆余曲折、スッタモンダがあったようだ。ひらたく言えば、取材した教団からの「訂正」や「収録拒否」の依頼があった。それに対応して、やっとこの書籍の出版までこぎつけたというわけ。

単行本化にあたって、新しく上九一色村の取材も行っている。あのオウム真理教をめぐる一連の事件も、本書成立の障害になったようだ。つまり、われわれは、あのオウムのような反社会的な似非宗教ではなく、まっとうな信仰を守るものであるから興味本位の取材はことわる、と言いたい教団があったわけだ。

もちろん、「収録拒否」や「訂正」を要求した団体ばかりでなく、ひじょうにおおらかで協力的なところもある。本文を読めばわかるだろう。

収録された、教団・聖地は、

天理教 奈良県天理市
金光教 岡山県金光町
大本 京都府亀岡市・綾部市
世界救世教 神奈川県箱根町・静岡県熱海市
真如苑 東京都立川市
善隣会 福岡県筑紫野市
嵩教真光 岐阜県高山市
天照皇大神宮教 山口県田布施町
出雲大社 島根県大社町
辯天宗 奈良県五條市・大阪府茨木市
伊勢神宮 三重県伊勢市
生駒山系の神々 奈良県、大阪府
松緑神道大和山 青森県平内町
いじゅん 沖縄県宜野湾市

ちくま文庫で2006年文庫化。もうすぐ品切れになりそう。

鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創,『日米交換船』,新潮社,2006

2009-12-08 23:04:25 | 国家/民族/戦争
鶴見俊輔から記憶に埋もれた過去を掘りだす聞書き。
『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔×上野千鶴子&小熊英二,新曜社,2004)よりおもしろい。鶴見俊輔のくりかえしの多い思い出話なんかもうウンザリという人も、本書の内容にはびっくりするのではないか。

日米開戦当時の状況は、わたしなりに少々わかっているつもりだったが、ぜんぜん知らないことが盛りだくさん。黒川創が手堅くまとめた交換船の記録と鼎談によって知ることができる。

たとえば、エジプトとイラクは一応連合国側であるのだね。アフガニスタンがどういう経緯かわからないが中立国。
中南米の国々は、参戦はしていないが、日本と国交断絶になった国が多く、中立国はアルゼンチンだけ。

そして、交戦国の代理交渉国として、それぞれ中立国を指定するわけである。ヨーロッパの四国、スイス・スウェーデン・スペイン・ポルトガルである。
ポルトガルが中立国であったということは、現在のマカオやゴア、東チモールも中立地帯であったわけだが、連合国側と日本の国民を交換する港になったのは、現・モザンビークのロレンソ・マルケスである。双方が敵国の国民をロレンソ・マルケスまで輸送し、交換する。これが日米交換船と日英交換船。

ニューヨークから、南北アメリカ大陸に一時滞在中の外交官・商社員・新聞記者・留学生、コックや子守として雇われていた者、それにパスポートも持たない不法(必ずしも不法であったわけではないが、詳細略)入国者、一時滞在中の船員、などを日本まで送り返す。

外交官は最優先で引揚者の対象になるわけだし、横浜正金銀行や三井・三菱の社員がそれに次ぐ。しかし、留学生やアメリカ人と結婚した滞在者の中には帰りたくない者もいた。反対に帰りたいのに船に乗れなかった一世や二世も多かったわけだ。

それから、このアメリカからの交換船には、タイ人学生も含まれていた。
枢軸国側に含まれる国はドイツ・イタリア・日本、それにタイだけなのである。だから、ヨーロッパ方面のドイツ・イタリアを別にすると、アジア方面はタイ人だけが日本人といっしょの交換船で退去することになっていた。

ところが、なぜか本書でも理由が不明だが、外交官は乗らず、民間の留学生である女子大生だけが同船した。鶴見俊輔はあまりタイの女子大生に興味がなかったようだが、都留重人は話をしている。首相の娘も乗っていた、という話があるが、ピブーンの娘ってこと?まあ、タイの上流階級は日本と同じく一夫多妻だから、正妻の子ではないかもしれない。上流階級では女子教育に対する偏見がないから、女子留学生が多かったのですね。

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日英交換船について、黒川創がまとめているが、この状況はさらに複雑である。

東南アジア~西太平洋地域での状況は以下のようだった。

まず、ブリテン領については、海峡植民地・マレー連合州・非マレー連合州(マレー半島のその他地域)・サラワク・北ボルネオ会社領(サバ)の日本人は敵国人として抑留された。
英領インド、つまり現在のインドやスリランカの日本人外交官も敵国民として隔離された。
オランダ領東インド、つまり現在のインドネシア在住の日本人も抑留された。

これらの英領・オランダ領の日本人は、オーストラリアまで護送されたケースも多い。もちろん、オーストラリアやニュージーランドに滞在していた日本人、真珠採りのダイバーなどは当然その地で抑留されている。その後、ロレンソ・マルケスまで交換船で運ばれ、昭南島(シンガポール)へ戻ってくる、という道筋を辿ったのである。外交関係者は、日本まで戻った者が多い。

しかし、フィリピンの場合は、開戦後すぐに日本軍が侵攻したので、この地の敵国人(つまりアメリカ合衆国の国籍を持つもの、ブリテンのコモンウェルスの国籍を持つもの、オランダ・ベルギーなどヨーロッパの敵国人)は、交換の対象にならなかった。
フィリピンと同じ扱いになったのはグァム島。

本書に記載はないが、国際連盟からの委任統治領、つまりサイパン、パラオなどは、この交換の範囲外であったはずだ。

さらに複雑なのは、これら西太平洋と東南アジア在住の〈中国人〉なのだが、本書に記載なし。この場合の〈中国人〉というのは、中華民国国民ということで、むかしから住んでいた華人ではなく、中華民国の外交官など。
これは、汪兆銘政権側か国民党側かで立場が異なるはずだが、ここいらは複雑で、今のところわたしはよくわからん。

さらに、本書で言及されないのは、満洲国の外交官や政府関係者であるが、こういう身分・立場の人々は、東南アジアにも南北アメリカにも存在しなかったのだろうか??

あと、民間人ではないが、グルカ兵はどうなっていたのだろう。戦争捕虜(POW)扱いだろうか。ちなみに、大東亜戦争で日本兵が戦ったのは、グルカ兵・シナ人・黒人も含む連合軍であって、〈白人〉とだけ戦ったわけではありません。

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以下、鶴見俊輔の昔話からおもしろいことがらをアト・ランダムに書きつらねる。語られるのは、第一次交換船の話で、その後の第二次や日英交換の話は別に黒川創がまとめている。鼎談は話があっちへいったり、こっちへきたり、まるで近所の人や親戚の人の話をするように有名人の話が続くので、各自、読まれるように。

ハーバート・ノーマン、天野芳太郎(ペルー、天野博物館の)、坂西志保(交換船での帰国者で唯一のアメリカ合衆国公務員、議会図書館勤務)、大河内光孝(子爵の妾腹の子、サーカス団員として滞米、帰国後「横浜事件」に巻き込まれ逮捕)、竹久千恵子(女優)については、本書の中に詳しい紹介がある。

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後藤新平(鶴見俊輔の母方の祖父)は、やたら女に手を出してこどもを産ませる人であったようで、共産主義者で帰国拒否の佐野碩(さの・せき)が新平の孫だったとは。
後藤新平の東京の屋敷は、戦中から戦後にかけて、満洲国大使館→中国大使館、それにレバノン大使館→サウジアラビア大使館→モスク、になっているそうな。
その千坪ほどの敷地に、妾腹の家族などが住んでいたそうな。フランク・ロイド・ライトが連れてきたチェコ人アントニン・レイモンドの設計した洋館があったそうな……。まるで、おとぎ話のような話である。

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昭南島についたとき(1942年8月9日)、永田秀次郎が軍政最高顧問の地位にあった。ヘータイの位でいえば、山下奉文の次くらいなのだが、まったく実権なし。ちなみに、この人は後藤新平が東京市長のときの助役でもあった。
鶴見憲(鶴見良行の父、俊輔・和子の叔父)はマラッカ州の知事をしていた。
昭南島博物館の館長は田中館秀三。たまたま上野動物園園長の古賀忠道も滞在していて、船中でペットにしていたカメレオンを上野動物園に寄付した。

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「レーン事件」というものがあった。
北海道大学の教師、クェーカーのレーン夫妻が軍機保護法違反の容疑で逮捕・起訴されていた。アメリカ側は、このレーン夫妻の交換船による帰国を求める。日本側は拒否。

それに対し、アメリカ側は、横浜正金銀行サンフランシスコ支店長・松平一郎を帰さないぞ、と対抗手段にでる。横浜正金サンフランシスコ支店長は、オノ・ヨーコの父親もつとめたことがある要職であるが、なぜ、こんな政治的駆け引きに使われるのか?
それは、この支店長・松平一郎という人物が松平常雄の息子であったから。では、その松平常雄というのは誰かというと、秩父宮妃殿下の父親、宮内大臣の職にあった人物。
つまり、松平一郎というのは、今で言えば宮内庁長官の息子であり、ひょっとすると皇后になるかもしれない人物の兄弟であった。

結局、レーン夫妻は第二次交換船に乗せるということで決着がついた。

**********

鶴見俊輔・和子の姉弟、都留重人と同じく留学生として渡米し、交換船で帰国した者のうち、のちに國際基督教大学に関係した人物がふたりいる。

初代学長になる湯浅八郎は戦時中もアメリカに残るわけだが、わかい教え子の武田清子は同船し、鶴見俊輔・和子と交際することになる。
鶴見俊輔は母親に反抗し、キリスト教が嫌いなどといいながら、クリスチャンとの交友が多い人なんだな。

もうひとり、高橋たね という人物。結婚して松村姓になった女性だが、この方は後に皇太子(平成の天皇)の家庭教師になったエリザベス・ヴァイニングの秘書兼通訳をつとめる。
その後、湯浅八郎や武田清子が設立の要人になった國際基督教大学の図書館長になる。図書館長とは、大学において学長に次ぐエライ人であって、入学部長や食堂のおばちゃんや教会牧師よりエライのである。

それから、後にこの大学を卒業する雨宮健という少年も乗っていた。日本郵船勤務の父親と姉・弘子とともにペルーに滞在していたのである。当時7歳。鶴見俊輔はこの姉弟とも知り合いになり、姉・弘子が残した記録を見ている。

安丸良夫,『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈 』,岩波新書,1979

2009-12-07 20:00:46 | 名著・話題作 再読
30年前の刊行であるから、その後の研究の成果は膨大であると思われるが、コンパクトな名著として現在もマストだと思う。(欲を言えば、もうすこし振り仮名を多くしていただきたかった。恥ずかしながら読めない字がたくさんある。普通の辞書に載っていないのだよね、固有名詞は)

**Ⅰ 幕藩制と宗教 **
 1 権力と宗教の対峙
 2 近世後期の排仏論

Ⅰは前史としての水戸学、一向一揆、キリシタン禁制、荻生徂徠、太宰春台、中井竹山『草茅危言』、会沢安『新論』などを概観。

**Ⅱ 発端 **

 1 国体神学の登場

第一次官制と神祇官、復古の幻想、御巫・卜兆の除去、慶応4年の神仏分離
事例;比叡山麓坂本の日吉山王社(ひえさんのう)
事例;興福寺 岩清水八幡宮 北野神社

 2 神道主義の昂揚

事例;楠社 白峰宮 招魂社
事例;宮中祭儀における神仏分離
東京遷都 浦上キリシタン
東西本願寺の動向→朝廷側に

**Ⅲ 廃仏毀釈の展開 **

このⅢ部、辺境に起こった事例としておもしろい
事例;津和野藩 隠岐 佐渡 富山藩 松本藩
事例;苗木藩(美濃の山間の一万石ほどの小藩)
政府の政策よりも先走って廃仏毀釈を断行。真宗門徒の抵抗。
蛭川藩では、廃仏毀釈が徹底した。

と、いうように辺境の地では廃仏毀釈が先行した例があるが、僻地の小藩だからこそ可能であり、富山や松本では成功しなかった。

**Ⅳ 神道国教主義の展開 **

 1 祭祀体系の成立
明治2年の改革から
教部省の成立、あったま悪そうな官僚たちが、祭政一致・神仏分離を画策するが、現実の政策に追いつかない。

事例;伊勢神宮の改革
事例;神宮動座への抵抗
現在の神宮祭祀が確立

 2 国家神の地方的展開
明治4年5月14日「官社以下定額及神官職員規則等」
明治4年3月 神武天皇祭を「海内一同遵行」
祝祭日の制定
人日(じんじつ)上巳(じょうし)端午(たんご)七夕(たなばた)重陽(ちょうよう)の五節句を廃止。
元始祭(1月3日)皇太神宮遥拝(9月17日)神武天皇祭(3月11日)の設定
大麻配布
天皇・皇室の洋風化

**Ⅴ 宗教生活の改編 **

 1 ”分割”の強制
この部分は修験道について。本書の内容の中でいちばんハッとした。
つまり、もともと仏教的要素が強い山岳信仰をむりやり「神社」にしてしまったのである。”分割”って言ったって、もともと”神道”の要素なんかないのである。
わたしは道教の要素も強いと思うが、現在の研究ではどうなっているんだろうか?

事例;吉野山蔵王権現
事例;出羽三山
事例;富士講 仙元大菩薩
事例;竹生島(琵琶湖) 秋葉山(遠江国)
事例;神田明神(平将門の御霊を祀る)

 2 民俗信仰の抑圧

神社改め、つまり小さい祠や氏神の統廃合
民俗行事の抑圧。本書が記するように順調に進行したかどうかは少々疑問だが、ホームレス、エンターテイナー、マジック、ギャンブル、ライヴシアターの抑圧。

**Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ **

 1 大・中教院と神仏合同布教
明治4年9月、島地黙雷(西本願寺派僧侶)の建言~キリスト教対策
教導職と三条の教則~仏教側優位、神道側劣位

 2 「信教の自由」論の特徴
仏教勢力は経済力でも、理論や人材の面でも神道勢力に負けるものではなかった。特に真宗は対抗的な論理を持ち、近代化に対応した。

また、政府の中枢にある者も「信教の自由」を模索した。当時、どの程度の認識があったのか細かい分析が必要だろうが、大勢として、信教の自由に向かわざるをえない状況であった。
島地黙雷のような洋行の経験を持つ知識人たちは、信教の自由、政教分離の原理を理解し、さらにナショナリズムに向かう傾向を持ちはじめた。

岩倉使節団~条約改正
真宗五派の大教院離脱(明治6年10月)

というわけで、つかのまの廃仏毀釈であったわけだが、この混乱が民衆宗教を混乱させ、仏教の改革をまねき、また、新たに発明された神道も定着することになるわけだ。

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「本書の発行年が古い(1979年初版)こともあり,現代的な観点からはいささか不充分な点が見られるものの,本書は日本における世俗化の歴史を通史的に見通す上で今なお示唆に富む文献である」と、東大の「共生のための国際哲学特別研究Ⅲ」「世俗化・国家・宗教」セッション(2009.07.01)でも報告されているので、安心しました。

別に権威にすがるわけではなく、最新研究動向ってのはシロウトにはなかなか近寄りがたいので。このセッションは羽田正氏が中心らしい。岩波新書創刊70周年記念のオススメでも推薦していたのは大塚和夫氏だけだった。中東・イスラム研究者のお墨付きだぞ!

能登路雅子,『ディズニーランドという聖地』,岩波新書,1990

2009-12-06 23:36:06 | コスモポリス
この分野に興味があるなら、まず最初の一冊。
この分野というのは、宗教人類学・観光・巡礼・聖地・ユートピア思想・ポップカルチャーと国民統合、などなどについて。

ディズニーランド関係書は、信者のための巡礼案内か、サクセス・ストーリーみたいなビジネス書ばかりで、まともに読めるものが少ない。
また、妙に批判的というか、大衆文化をわかっていない本も多い。

本書は浅く広くであるが、万遍なく扱っている。ビジネスとしても建築としても基本的なところはわかるし、ウォルト・ディズニーの生涯や映画制作についても、さらりと概観できる。

著者は東京ディズニーランド開設の仕事にもタッチした方で、内部の事情に通じているとともに、学者的な目もそなえ、(いや、ほんとに学者だ、東京大学大学院の教授なんだ)冷静な分析である。ディズニー・カルチャーを、いわゆるオンナコドモ無知な大衆を騙す低俗なもの、と捉える古臭い見方はない。

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東京ディズニーランドには数回行ったことがあるが(なんで、あんな金のかかるところに数回行かにゃならんのだ、とほほ……)、あの広さであの収容人員であるにもかかわらず、拡声器やラウドスピーカーを全く使用しない、という理念に驚いた。東京ディズニーランドは、日本で一番静かな観光地ではないだろうか。あの方針を貫いた設計思想はすごい。
食い物のマズさもすごいけど、あれも基本理念なのだろうか。

五十嵐太郎,『新宗教と巨大建築』,講談社現代新書,2001

2009-12-06 23:34:34 | コスモポリス
ちくま文庫から改訂版がだされているが未見。

明治神宮や靖国神社は日本的かつ近代的なデザインとして評価されていた。戦後は、アヴァンギャルドと日本的寺社建築が評価される一方、新宗教の建築群は、目を背けたいもの、キッチュなもの、アナクロなものとして、ほとんど顧みられなかった。

そうした、無視され見えないものとされた近代の新宗教建築をしっかり論じた一冊。

博士号論文を基にしているので、きわめて実直で堅実な書き方である。

内容は、天理教が一番多く全体の三分の一。金光教と大本教で三分の一。この三つの分析は教義の紹介、教団の歴史、現在の姿、建築的な分析など文句ない力作である。

ただ、読者としては、少々不満になる。この三つの教団は、見物人にも取材にもオープンで、内部に学者と話が通じる人材も多い。教義はともかく、社会に開かれた知的な教団である。
建築も、それほど奇妙ではないしグロテスクでもない。

書名と表紙から読者が期待するのは、もっとキテレツでオマヌケな建築ではないだろうか。
その方面は、さらりと流されている。後半、各教団数ページづつ扱われているが、概略程度。この方面は教団側の協力ななければ詳しい分析はできないだろうし、新書の性格としてもあまり話を大きくするわけないはいかないだろうから。

著者は意外と(失礼)著作が多いことがわかった。ヤンキーとか結婚式教会とかおもしろい分野に挑んでいる。