東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

山本紀夫 文・写真,「じゃがいものふるさと」,2008

2008-04-28 18:38:46 | 自然・生態・風土
『たくさんのふしぎ』2008年2月号(第275号)所収,福音館書店。

すべて著者自身の写真で、アンデス高原のジャガイモ栽培とチューニョ作りを紹介したもの。
いつもながら、『たくさんのふしぎ』の写真はすばらしい!
日本・ヨーロッパ・エチオピア高原・ヒマラヤ山麓の写真も2ページづつ載っているので、次回作ではこれらの地域の歴史も語ってくれるだろう。

モーム, The Back of Beyond,1931

2008-04-24 22:42:45 | ブリティッシュ
ついでにこれも。
完全ネタバレです。
未読の方は、バックしてください。
「この世の果て」という題で訳されているが邦訳は参照せず。

最初にざっと読んで、二組のカップルをめぐる浮気話、それを聞く、引退直前のレジデント(架空のマレー連邦州の総督)ジョージ・ムーン。……という話かと思ったが。
二組のカップルは、
トム・サファリー&ヴァイオレット
ノビー・クラークス&エニッド
トムとノビーは、いっしょにマレー半島にやってきて、下働きからエステートの管理人までになった男たち、まあ親友どうし。
ヴァイオレットとノビーの密通について、トムがレジデントのムーンに話す、という形で物語が進行する。しかし!
これって、典型的な「信頼できない語り手」タイプのストーリーだ。

まず、ヴァイオレットとノビーの関係は、ヴァイオレットが夫トムに告白した内容である。さらに、それをトムが解釈してムーンに話す。それに対し、ムーンは自分の過去の離婚話と離婚した妻の話をする。
そして、不倫だの、男の名誉だのという意地で、せっかくの結婚生活を破綻させるのは愚かなことだ。この歳、つまり引退する老人になってみると、若い時の意地や世間体は無意味だ。そして、この話を知っているのは、もう今日引退して、本国に帰るわたしだけではないか。結婚生活を続けなさい、と忠告する。

とまあ、人生経験豊かなレジデントのムーンであるが、ぜんぜんわかっちゃいないね。

ムーンに悩みを語ったトムが内心の憤懣をおさえられないのは、ヴァイオレットが浮気をしたからじゃないからだ。そうではなく、親友のノビーが浮気をしたのがショックだったのだ。
さらに、このトムがかってなのは、自分がノビーの妻エニッドと浮気していることに無頓着で、自分の妻ヴァイオレットにも総督ムーンにも話していないってことだ。

そうです。エニッドがみごもっている子の父親はトムです。
ヴィオレットの方は、妊娠できないタイプ。だから夫婦の間にこどもは無し。
一方、トムのほうは、ノビーが死んだのだから、自分がエニッドの子のめんどうをみなくちゃならないな……と思いはじめている。

実は、この短編中でよくわからないのはビリヤードのシーン。
わたしは、ビリヤードのことはさっぱりわからないので、このシーンのトムの心の動きがさっぱりわからない。
しかし、おそらく、このゲーム中にノビーの死の報せを聞き、動揺したものの、よし、これからは、おれがエニッドとその子を守らねば、と決心したのではないか。

と解釈すれば、この物語の焦点は、なんにもわからずに話を聞いている、引退前の老人ジョージ・ムーン、ということになる。

サマセット・モーム, The Outstation, 1924

2008-04-23 22:52:04 | ブリティッシュ
ネタバレ!!
未読の方は読まないでください。
重要なトリックをばらします。

「奥地駐屯所」と訳されている短編。
ペンギン版 W. Somerset Maugham, Collected Short Stories Vol. 4,1978.
今回、邦訳は参照せず。

怖い話ですね。

舞台となるKuala Solor というのはボルネオの架空の地名で、モームの他の作品にも用いられている。
登場人物は、
ミスター・ウォーバートン;ボルネオ奥地の Resident
クーパー;新任のアシスタント
どちらも、形式的にはスルタンが任命するのだが、実際はスルタンの代理のブリティッシュの官僚が人事権を握っている。
10年以上もたったひとりで駐屯地に在任しているウォーバートン、彼のもとに新人のアシスタントがやってきたことで、ふたりの男に間に軋轢と争いが始まる。

とにかく、ミスター・ウォーバートンの描き方が、みごとに典型的なスノッブである。
天然のまじりっけのないスノッブ。
遺産相続で手にした大金を、ジェントルマン階級とのギャンブルや旅行で使い果たし破産、ボルネオの奥地のレジデントという職をなんとか手にいれる。

そこでたったひとりの白人として、マレー人を文明化し召使いとして教育し、イングランド風の生活を頑なに守っている。本国ではすでに物笑いの種にしかならない格式を守り、タイムズの人事消息を読み、正装して(たったひとりで)ディナーをとる。

そこへやってきたのが、バルバドス生まれで、ボーア戦争時に兵隊で戦った男。つまり将校になる特権がなく、パブリックスクールにも行っていない男。当然レジデントのウォーバートンとはあらゆる点で反目しあう。
実は、ウォーバートン自身の遺産も、リバプールで工場を持っていた母方の家系からの遺産なのだが、彼はその血筋をひた隠しにしている。
クラウン・コロニー生まれ(バルバドスやシンガポール・ペナンなど直轄領。ボルネオはスルタンからの借地なのでクラウン・コロニーではない。)のクーパーと、リバプールに出自をたどれるウォーバートンは、僅差の境遇なのである。

前半は、このスノッブ男を徹底的に醜く描く。
こういう点、モームが通俗的だ通俗的だと嫌われる理由だろう。われわれ原住民にとっては痛快であるが。
しかし、やがて、相手方のクーパーのほうも傍若無人でヤナ野郎に思えてくる。

さて、問題は、誰がクーパーを殺したか。
これは当然ウォーバートンである。殺人をしめしたところ。

Cooper was playing his gramophone. Mr. Warburton shuddered; he had never got over his instinctive dislike of that instrument. But for that he would have gone over and spoken to Cooper. He turned and went back to his own house.

But for that he... を「それでなかったら」と読み取り、ウォーバートンはクーパーのバンガロウに行ってクーパーを諫める、もしくは説得できたのに……と解釈することも可能なんでしょうか??
ここは、クーパーが、ウォーバートンが死ぬほどきらいな蓄音機でラグタイムをかけているので、足音を気づかれずにバンガロウに入り、クーパーに speak することができた、と解釈すべきではないか。
speak → to express feelings by other than verbal means <actions speak louder than words>

他の部分からも殺人がウォーバートンによるものと推測できる箇所がある。

まず、凶器のクリス。これはクーパー自身が買って持っていた安物。
侮辱されたマレー人が復讐するのなら、自分のクリスを使うはず。(もっとも、厳密な人類学的研究でどうなっているか不明ですが。一応、常識として。)

あと、上に引用した部分の
Mr. Warburton shuddered
shuddered とは、 A sudden strong change or reaction in feeling, especially a feeling of violent disgust or loathing で震えること。
つまり、わかりやすくいえば、キレた、ってこと。

しかし、なんといっても明らかなのは、クーパーの死体を見てからのこと。
召使い(アバスの従兄弟)に対し、
「クーパーは(マレー人の)アバスに殺されたのだ。」と断言し、しかし、アバスは軽い罪ですまされ、しかも服役中はこの家(つまりウォーバートンの家)で更生のために働くことになるだろう、という。
ここで、御主人様と召使いの間で、暗黙の了承がかわされる。
めでたし、めでたし、である。

怖いのは、ウォーバートンが殺人を犯したということ自体ではない。そうではなく、その罪をマレー人召使いにきせ、さらに恩着せがましく減免してやろうという態度である。そして、悲しいことに、マレー人側に抵抗するすべはなく、むしろ感謝してウォーバートンの策略を了承する。……という話。

*****

というわけで、昔から英語読解テキストとして使われているモームの短編であるが、、植民地の統治者であるブリテン人を描いた作品群として読まれていたとは思えない。
大英帝国と植民地という枠だけで読めるわけではないが、この枠を知らないと、まったく理解不能になると思うのだが。

過去にモームの作品が英語読解のテキストとして用いられたのは、教える側の日本人がなんの疑いもなく、ブリテン統治者側に自分の身を置き換えて読んでいたからではないだろうか。そして、こんにち読まれないのは、物語の中の統治者対原住民、ジェントルマン階級対平民、という構造がわかってきて、不愉快だから読まれなくなったのではなかろうか。とくに先生が女性だと不愉快な描写が多いだろうな。ははは。