東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

中村とうよう,「インドネシア音楽とアフリカ音楽」,1984

2006-05-29 23:12:47 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
中村とうよう,『アフリカの音が聞こえてくる』,ミュージック・マガジン1984年12月増刊号(通巻211号)所収

この号は、全部とうようさんの書き下ろしで、アフリカからみた、アフリカを中心とするポピュラー音楽についてのエッセイとレコード・ガイドが収録されている。
そのなかの1章であるが、これは、ポピュラー音楽ではなく、有史以前からのインドネシアとアフリカの楽器の伝播についての論議である。

とうようさんが参考にしてるのは、

A. M. Jones, Africa and Indonesia: The Evidence of the Xylophone and Other Musical and Cultural Factors (Asian Studies),1971.
黒沢隆朝,『楽器の歴史』,音楽の友社,1956.
そのほか、ヤープ・クンスト,『音楽の源泉』、クルト・ザックス、小泉文夫など。

内堀基光,「マダガスカルとボルネオのあいだ」では、楽器のついての言及がなかったが、インドネシア周辺とアフリカの楽器の共通点については、ほぼ確実に、インドネシア周辺の東南アジア起源なのである。

とりわけ、ジョーンズの本は、インドネシア周辺(めんどくさいので、以後、インドネシアと略す。もちろん、現在のインドネシア共和国のことではなく、オーストロネシア諸語を話す、マレー世界、ジャワ、ヌサ・トゥンガラ、それに周辺のタイやビルマも含めての東南アジア地域のことです。)からアフリカに伝わったものとして、棒琴(棹にヒョウタンなどの共鳴体をつけた弦楽器)を挙げているいるし、擦弦楽器の起源をインドネシアとしている。つまり、ヴァイオリンのような弓でこする弦楽器をインドネシア起源としている。

そりゃ、いくらなんでも、飛躍しすぎじゃないか、と思うのだが、世界中の学者で共通に了承されているのは、木琴の仲間がインドネシア起源である、ということだ。

この点は、ジョーンズが特に力をいれて説明しているところで、アフリカに分布する木琴の仲間のチューニングは、すべてインドネシア周辺の音階と共通する。

1.シャムやビルマと共通のイソ=ペンタトニック(オクターブを七等分)
2.インドネシアのスレンドロ音階と共通
3.インドネシアのペロッグ音階と共通

というわけで、3種すべて東南アジア起源である、とする。
ジョーンズは親指ピアノも東南アジア起源の木琴類の小型化だとしている。

ここまでいわれると、アフリカびいきの人はおもしろくないだろうが、このとうようさんの論考はアフリカの音楽のすばらしさを伝えようとするエッセイであり、別にアフリカが亜流だといいたいわけではない。
ともかく、楽器に関しては、東南アジアから伝わったと思われるものが多いのだ。

とくに、マダガスカルに関しては、決定的な楽器がある。
竹筒琴あるいは竹皮琴といわれる、竹の皮だけ残してくり抜いたような楽器、弦楽器の一種(といっても竹が振動するわけだから、弦ではない)。
マダガスカルのヴァリハというもので、ほとんど同じものが、スマトラやボルネオにあり、似たものは他の東南アジアに分布する。

こうしてみると、インドネシアから移住した人々が、どういう経路をたどったにせよ、物質文化は、似た環境のところ、熱帯のアフリカに伝播したとみてよいのではないか?
インドやペルシャ湾、アラビア半島に寄ったとしても、そこで、インドネシアの物質文化は根をおろさなかった、というわけだ。

さて、インドネシアとアフリカの関係ばかりにとらわれず、本論全体をちょっと紹介すると、南北アメリカを含め、アフリカ的なものが、今後ますます強まり、ポピュラー音楽の背骨となり血となる、ととらえるアフリカ音楽案内である。
アフリカ音楽は、全世界に伝播し、融合した、いいかえれば、20世紀のポピュラー音楽は、全世界がアフリカ的要素を強めていったものである。
とまあ、1980年代の中村とうようさんの持論を展開したものだが、このとき(つまり1984年当時)はまだ、インド洋やポルトガルのことは、それほど強調していない。すでにクロンチョンについての熱い思い入れがあるが、世界のポピュラー音楽をアフリカ=ポルトガルを軸として見る視点はまだない(というより、アフリカ的なものとして、ブラジルやカリブ海を捉えている)。
このすぐ後の著作では、クロンチョンやインドネシア、インド洋、アフリカをめぐるポピュラー音楽の伝播をとらえている。
そのことは別項で。

永積昭,『月は東に日は西に』,同文舘,1987

2006-05-28 23:43:26 | フィールド・ワーカーたちの物語
著者はもちろんフィールド・ワーカーではなく歴史研究者であるが、本書は、著者が経験した各国の東南アジア研究事情の話。そして東南アジア研究事情を通して、各国の姿をかいまみる、学者を通して見た東南アジア見聞録である。

著者が滞在した、あるいは一時的に訪れた東南アジアの事情は以下のとおり。

1968~69のインドネシア、インドネシア大学。
ここでは、日本外務省文化交流事業の一環として寄贈された日本学部の教授として、著者は日本史と(時々日本語)を教授する。
意外な人物がこのプロジェクトにかかわっていて、初代の派遣教授は文化人類学の吉田禎吾教授。原忠彦・原ひろ子夫婦も日本語を教えていた。
なぜ文化人類学者が日本語なんか教えるかというと、当時、日本文化・日本史研究者が誰もインドネシアなんかに行きたがらなかったからなのだ。それで、インドネシアに行かせてくれるなら、という希望をもつ研究者というと、文化人類学者か東南アジア研究者だけで、そのため、むこうの学生にとっては迷惑であるが、慣れない日本語や日本史の授業が行われたのである。(現在は、いくらなんでも、こんなことはないし、日本語教授の人材も豊富だろう)
そうした中で、著者はいかに自分が日本史・日本文化を知らないかを知るわけだが、では、どういう人材がベターかというと、いろいろ難しい問題があるだろう……。

1976年のタイは、チュラロンコーン大学での会議。
インドネシアもマレーシアもシンガポールもフィリピンも同様だが、東南アジアの東南アジア研究は、深くUSAの影響を受けている。バンコクでの会議も「コーネル・マフィア」と揶揄されるほど、USA留学組が多い。

1982年から、著者はマラヤ大学の外部試験官(というものがある)を引き受ける。
これは、マラヤ大学の学年末試験や論文の審査を外部の人間が行うシステムであるが、著者の任期中にマラヤ大学を訪れる。
シンガポールの分離で、マラヤ大学はそのクアラルンプール分校から、国家の大学という地位になったのだが、実質がともなわない面がある。
マレーシアの政策として、マレー人が優遇されているが、ほんとに優秀なのは華人やインド人では(?)という問題も垣間見られる。外からの人間としては、言いにくい問題でもある。

1983年の国際アジア歴史学者協会(IAHA)のマニラでの会議。
フィリピンの学者の派閥と目立ちたがりをめぐるどたばた。

シンガポール
これは、著者の担当学生である卓南生(トウ・ナムセン)蔡史君(チョア・サークン)夫婦の著作、二人に案内されてのシンガポール見聞の話。
蔡史君『新馬華人抗日史料 1937~1945』1984が完成されるまでの苦労、日本での留学生生活の不便・不満、日本現代社会の東南アジア観全般についての問題。

以上のほかに、著者のUSA留学時代の思い出も追加されている。(こまったことに、こっちの話のほうがおもしろいのだが……。)

著者は、ジョン M. エコルズからインドネシア語を習ったそうだが、当時は、本当にい一対一に近い集中授業であったようだ。テープレコーダーを使う学習法も確立していない時代で、完全に口頭での練習である。
エコルズは、ハッサン・シャドリとともにインドネシア=英語辞書を作った人物、著者は初代のディープ・ユーザーであったのだ。
今じゃ、インドネシア語を習うために、わざわざUSAに行くなんて必要はなくなったが、当時はそれ以外の道がなかったのか……?とにかく、インドネシアなど東南アジアに留学するのは、とても難しく、経費もアメリカ生活と同様に高い時代だったらしい。

チェコスロヴァキア出身のベンダの思い出も記されている。
The Cressent and Rising Sun という、日本の占領時のイスラーム政策を論じた著作で有名。
イェール大学の東南アジア史の重鎮、シンガポールのInstitute of Southeast Asian Studies の初代所長を短期間務める。
著者はベンダ先生に日本とアメリカの研究者の違いを問われて、こう答える。
「日本の研究者はシャーロック・ホームズ、アメリカの研究者は、スコットランド・ヤードだ。小説では、ホームズがみごとに謎を解くけれど、現実の研究で成果をおさめるのは、勘と推理をはたらかせる個人ではなく、物量と人材にものをいわせたスコットランド・ヤード型のアメリカなんです。」
これには、ベンダ自身が、まったく同意したそうだ。
ベンダは天才型、勘と論理型の研究者で、日本とイスラームの関係にしても、日本の政策をあまりに用意周到な計画されたものとして見てしまう。実際はいきあたりばったりの政策を、ベンダは、自分と同じように頭がいい人間が計画的に行ったこととみてしまいがちなのだ。

さて、本書には一編、他と調子がかわったエッセイが含まれるいる。
ベトナム戦争時の報道カメラマン、ライフ誌に掲載された写真を何枚も撮った岡村昭彦(1929~1985)についての思い出だ。
なんと!永積昭さんは岡村昭彦と、学習院初等科と中等科の途中まで同級生だった!

といっても、わたしは、岡村昭彦という人物の著作はいっさい読んだことがない。
目立ちたがりで、トラブル・メーカーだったらしく、現在、著作が再版されないのも、いろいろなトラブルが原因であるようだ(わたしの想像です。)。
岡村昭彦とベトナム戦争反対派内部のトラブルは、良識派を攻撃するかっこうの話題になりそうで、どうもみんな話題にするのを避けているようだ。

本書では、岡村昭彦の少年時代のいやな面を思い出話として語っているだけで、著者の永積さんは、その業績まで否定しているわけではない。
ただ、どこの世界にもある、人間関係のトラブルが、東南アジアを見る側の日本人の間にも存在するのだなあ……という話である。
そして、過去の人間的トラブルで、その人間の業績を云々していいのだろうか?という問題。
う~む……。

内堀基光,「マダガスカルとボルネオのあいだ」追加コメント

2006-05-27 23:16:29 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
ある集団が元の居住地から、ほかの場所へ移住した、という歴史的事項があるとき、われわれは(←わたしだけではないと思う)、いくつかのイメージを抱く。

たとえば、飢饉、他民族からの迫害、天災などで住めなくなった土地を、住民全体が捨てて新しい土地をもとめるというイメージである。いわばモーゼに指導されるユダヤの民のイメージ。
あるいは、武力や軍事力に優れた民族が、文明の地を収奪する、蛮族の侵入タイプ。
あるいは、すすんだ民族が未開の民族の土地に到来し、支配するというイメージ。
あるいはあるいは、新天地をもとめて無人の荒野にたどりつくという物語。

でも、こんなイメージなんて、実際にはほとんどない、有史以来の事件としては、皆無に近いのではなかろうか。

マダガスカルへのオーストロネシア諸語を話す集団の移住の実体を想像するとき、以下のことを考慮にいれてみよう。
インドネシアのどこかに住んでいた集団の言語が、マダガスカルで存続した、ということは、母語として継承されたということだ。ということは、集団中に女がかなりの割合でいたわけだ。
航海をするには、航海術に秀でた人間集団が必要だが、それと、船にのっている集団が同じグループ、同じ身分とは限らない。

わたしの想像が理解いただけただろうか?
船で運ばれた人間は、乗客や家族や商人とはかぎらない。
商品という可能性もあるのだ。

内堀基光,「マダガスカルとボルネオのあいだ」,2000

2006-05-27 23:12:34 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
家島彦一 ほか編,『モンスーン文化圏 海のアジア 2』,岩波書店,2000,所収。
マダガスカル島とインドネシア西部(スマトラ、ジャワ、ボルネオ島など)は約6000キロ離れている。現在のマダガスカルの住民は、先史時代、現在のインドネシアあたりから移動してきた、ということは、ほとんど疑いがない。あらゆる分野(言語学、形質人類学、農業など文化要素)から、このことは了承されている。
では、いつごろ、どこから、どうやって人々は移動したのか?
これが本論のテーマであるが、以下、ひじょうに錯綜していて、仮説の段階をでない論議もある。気をつけて読んでください。著者も仮説や感想を述べているが、断定的意見を書いているわけではない。

まず、インドネシア方面からのオーストロネシア語を話す人間が移住する以前に、マダガスカル島に人類がいたという形跡はない。つまり、それ以前は無人の島だった。ということは、ニュー・ジーランドとともに、人類が移住した最後の土地である。ハワイよりも後である。
(16世紀にポルトガル人が到来したとき、「アラブ人」の拠点がいくつかあったが、それらはポルトガル人によって駆逐さらる。イスラームの影響が過去にあったとしても、今日のマダガスカルの住民にはその痕跡はない。)

それではどうやって、オーストロネシア語を話す人々は航海をしたか。
これは、仮説でしかないが、アウトリガーのカヌーかダブル・カヌーだと思われる。
太平洋方面へのオーストロネシア語を話す人々の移動は、アウトリガー・カヌーやダブル・カヌーの航海によるものだから、それと同じ方法でインド洋を航海できたのは、ふしぎではない。

それでは、広いマレー世界・インドネシア西部のうち、どのへんから人々は出発したのか?
言語学者の想定では、ボルネオ島と主張されてきた。
マダガスカルに滞在したノルウェーの言語学者オットー・ダールによれば、マダガスカル語にいちばん近いのが、ボルネオ島・南カリマンタンの内陸に住むマアニャン人である。
この説は言語学者のあいだでは、ほぼ定説となっている。

オットー・ダールの説は以下のとおり。

原マダガスカル人であるマアニャン人がボルネオを離れたのは紀元700年ころ、バンジャール人の圧力により、マアニャン人の一部は内陸へおしこめられ、一部は外へむかった。外へむかったマアニャン人はバンカ島でマレー語の語彙を受け入れつつ、さらにこの地を離れ、マダガスカルに向かう。渡海移住を助けたのは、バンカ周辺の海洋民バジャウである。彼らは、アフリカ東岸への航海をとおして、すでにマダガスカルの存在を知っていた。バジャウの一部はマダガスカルにとどまり、西南海岸の漁撈民ヴェズの祖となった。マダガスカルへの移住は一波とは限らないが、短期間の移住の後、つまり7世紀の移住の後、マダガスカルとインドネシア地域の交通は途絶えた。

以上だけでも、異論、批判がやまほどでそうだが、いちおう、言語学的にはつじつまがあっているそうだ。
それにしても、興奮する内容だ。

さて、次の仮説は、オランダ出身の言語学者アデラールである。
アデラールはみずからマダガスカルとボルネオの両方で調査をした。
アデラールは、マアニャン人がボルネオを離れたあともマレー語を話す人々と接触を続けたとし、そのマレー語を話す人々とは、南スラウェシのブギス人だと考えた。
インドネシア地域とマダガスカルの関係は14世紀ごろまで続き、マアニャン人つまり原マダガスカル人はジャワ語に由来する語彙も取り入れた。

著者内堀基光さんは、ここで異議をはさむ。

現在、南東バリト諸語として分類される言語がどこで話されていたか不明であり、さらに、マアニャン人という、現在南カリマンタンに住む人々が、現在とおなじまとまりをもっていたとは限らない。
つまりだ、マアニャン人の源郷がボルネオ島とは限らない。
また、マダガスカルの原住民といわれるヴァジンバを、実在する実体のある民族集団としてとらえるのも、勇み足ではないか。

以上の言語学的研究から、なぜ、6000キロも移動したのかという疑問に答えることはむずかしい。
考えてみてくれ。7世紀にしろ、14世紀にしろ、インドネシア周辺は人口密度が低い、無人の土地がたくさんあるところだったのだ。
(この問いは、オセアニア方面への人類の移動についても、発せられる。)
著者は、インドネシア地域から移動した原因も不明だが、「目的地」としてマダガスカルが最初からあった、という仮説には承服しない。

7世紀をシュリヴィジャヤの勃興、南インドのチョーラ朝の拡大といった背景を考え合わせると、この当時インド洋東部には、かなりの交易のネットワークができていたはずであり、そのことは、インドネシア地域からインド洋へ向かう人の動きを促進したはずである。
ともかく、インド洋方面へ向かう人の流れは、交易・移民として、あたりまえのこととして、知られていたわけだ。

著者はさらに、アフリカの人の移動も考慮する。
アフリカ東海岸とアラブ人の交流もあり、インドネシア方面からの移動集団が東アフリカに滞在したことも当然予想される。
さらに、アフリカ東岸からマダガスカルまでの航海は容易である。
アフリカ東岸で、インドネシア方面からの集団とアフリカのバントゥー諸語の集団がまじりあい、さらにスワヒリ世界との接触もあり、これらの文化要素がまじりあったうえで、マダガスカルへの移住・移動が行われたと考えてもよい。

著者が注目するのは、マダガスカルの文化的な均一性、それに対する形質的な多様性である。ようするに、言語はほぼ同じなのに、顔つきや肌の色はアフリカ的な人からマレー的な人まで多様である。

それに対し、ボルネオは、言語的には多様であるのに、顔つきはほとんど同じ人々が住んでいる。(著者はもともとボルネオでフィールド・ワークをやった人である。)

あるいは、農業。
ボルネオは陸稲の焼畑農耕の世界である、と一言でいえるが、土地の回復力が強く、森が再生し、人々は森にかこまれて暮らしていた(すくなくとも20世紀半ばまで)

ところが、インドネシア的、あるいはマレー的な稲作農業とされるマダガスカルの稲作をみると、とてもボルネオを起源にするとは思えない。
中央高地一隊は草原になり、牧畜が行われている。
著者は、マダガスカル中央高地の草原をとても東南アジア的な景色とは思えない、という感想をもつ。
棚田も一見東南アジアのような風景だが、実は、この水田も1950年代にはじめられたもので、スイスの宣教師団が土地にふさわしい品種を実験したものだそうだ。

こうしたことから考えても、マダガスカルの農耕が、ボルネオを源郷とする技術とは思えない、というのが、著者の感想である。
もっとも、著者も自分の感覚だけでものを言っているわけではない。
ひょっとして、環境が違うから、ボルネオ伝来の焼畑も土地が疲弊し、草原になって、そして、牧畜として利用できることから、こんな草原の中で暮らしている、とみることもできる。
また、焼畑の儀礼が簡略化される、失われるというのも、儀礼というものは、急速に変化するもので、年月の経過による変化は当然のことである。

というわけで、壮大なロマンを喚起させる話である。
問題点を整理すると、
いつからいつまで移動が続いたか?
どこから出発したか?
出発した集団は均一か?残った集団は均一か?
航海を先導したのはどんな集団で、どんな文化をもっていたか?
途中でどこに寄ったか、滞在したか?どうして、途中で定着しなかったか?
途中の滞在地で、他の集団と混じりあったか?文化の交換があったか?
マダガスカルに定着した後、いかなる文化の変容があったか?
どうして、マダガスカルの人々は、移住してきたことを忘れたのか?

そして、なぜ、そんなに遠くまで、航海したか?
この問いには、答える必要なし、という意見もある。
なぜなら、遠くに行きたいというのがあたりまえで、もし、疑問を発するなら、なぜ一か所に定着している人々がいるのか、という疑問こそ発せられるべきである、という考えもあるのだ。

アブドゥッラー 中原道子 訳,『アブドゥッラー物語』,平凡社東洋文庫,1980

2006-05-27 00:32:33 | コスモポリス
ジャウィ(アラビア文字)手写本 Hikayat Abdullah. Jawi Edition, 1849. より抄訳。
1797年マッラカ生まれ1854年メッカ巡礼の途ジェッダで死亡したアブドゥッラー・ビン・アブドゥル・カディールの自伝。
13歳でラッフルズの書記になり、多くのヨーロッパ人のマレー語教師、通訳となった人物。同時に近代マレー文学最初の作品、19世紀マレー・シンガポールの歴史資料、同時代の目撃記録でもある。

第1章でつまずかなければ、後はどんどん読める、読みやすい翻訳、親切な注。
で、第1章、ほんの5,6ページであるが、みんなここで読みたくなくなるでしょ?

アブドゥッラーの先祖の来歴を語るこの章、ひじょうにとっつきにくいが、同時に本書全体を代表する、当時のマラッカ、マレー世界を描いた部分である。

まずこの人物の曽祖父はイェメン出身のアラブ人。この曽祖父が南インドのタミールに旅立ち、四人の子をもうける。そのうちアブドゥッラーの祖父はマラッカにやってきて、そこで祖母と結婚。父はマラッカで生まれマラッカで育ち、結婚。あいての女(つまりアブドゥッラーの母)はケダー(マレー半島)から来たインド人の家系である。
アブドゥッラーの父も母も母語はタミール語、アブドゥッラーも当然母語はタミール語である。つまり、マレー語はアブドゥッラーにとって第二言語でさえなく、最初に学習したのはコーランをよむアラビア語である。
そういう人物がマレー語を父から強制されて意識的に学習し、後にマレー語書記の第一人者となり、ヨーロッパ人にマレー語を教え、最初の近代マレー語文学である本書「ヒカヤット・アブドゥッラー」を書いたわけである。

ふう、おつかれさま。
わたしの要約に不満なかたは、インドネシア地域研究の白石隆さんのページに要約と分析あり。参考にしてください(中公新書『海の帝国』と同じ内容です。)
coe.asafas.kyoto-u.ac.jp/research/sea/ Political/shiraishi_publications/uminoteikoku(4).htm

時代はナポレオン戦争の余波でマラッカがブリテン勢(ブリティッシュ東インド会社、以後カンパニィと略す)の領土になり、それがふたたびオランダへ、シンガポール開発、シンガポールが完全にカンパニィの所有になる、といった時代。
ラッフルズ、ファークァル、クロフォードといったカンパニィの人間、さまざまな事件や条約が語られる。

激動の時代の焦点となった二つの都市、マラッカとシンガポールを描いた内容であるから、登場する人物、人間集団も、19世紀のユーラシア総登場という具合。

まず、地元のスルタン。スルタンの宮廷にたむろする様々な人間。
アラブ人、南インド人などアラブ系ムスリム。
ミナンカバウ、リアウ、メダンなどマラッカ海峡周辺のマレー人。
いろいろな言語集団、結社に分かれた華人集団。
ポルトガル人や混血のキリスト教徒。

カンパニィがつれてきたベンガル人やヒンドゥー人兵士(おそらくグルカ兵などもいただろう。)
カンパニィや教会関係のさまざまなヨーロッパ人。
オランダ人がつれてきたジャワ人やマドーラ人兵士。
海峡を荒らしまくるブギス人海賊。
海賊がつれてくる奴隷には、フローレス島やスラウェシ島の人、メラネシア系の奴隷もいた。

はじめて、アメリカ人というものがやってくる、ときいたアブドゥッラーは恐ろしくなる。
イングランド人の話によれば、荒れ果てた島に流された元囚人の子孫らしい。色が黒いのか、白いのか。ジャングルでくらす野蛮人か?
実際にシンガポールにやってきた宣教師夫婦をみたアブドゥッラーは安心する。
男もイングランドの男そっくりだ。女もイングランドの女そっくりだ。礼儀をわきまえた正直な人たちではないか。

すごい思考でしょう。
現在のような人権思想でもないし、人種差別主義でもない。
欧米人にコンプレックスを抱いているわけでもない。
プロテスタント宣教師の男と女を評価する基準は、イスラム的な礼儀、倫理なのだ。
アブドゥッラーはまわりのムスリムや自分の家族から、カンパニィの人間やキリスト教宣教師とつきあうのは、危険な行為、不純な交際だと非難されるのだが、アブドゥッラー自身は、完璧に敬虔なムスリムであり、他の人間を判断する基準もムスリムの倫理である。
だから、今日の目でみた、ヨーロッパの経済侵略は彼には見えない。逆に、だまされるマレー人スルタンが間抜けだ、とさえ思っていたようだ。

最後にアヘン戦争と南京条約締結が、彼自身の見方でしめされる。
アブドゥッラーは、カンパニィの側が強いことを十分知っている。そして、無能な清の皇帝が負けるだろうと予想し、まわりの華人と議論する。(つまり、こんな話をするほど、身近に華人たちがいたのだ。)
予想どおり、カンパニィが勝つと、アブドゥッラーは自身満々だった華人をからかうように、世間話をする。
くりかえすけれど、アブドゥッラーは大英帝国やカンパニィに忠誠を誓っているわけでもないし、ブリテン本国がどんなところで、どんな策略を弄しているか知っているのでもない。ただ宣教師やカンパニィの人間の能力や礼儀を個人的に尊敬しているだけなのだ。
同時に、華人をばかにするのも、彼らが博打にふけっているからであり、マレー人スルタンを軽蔑するのも、奴隷を虐待して、狼藉をはたらくからである。
政治的にどっちを選ぶとか、どっちに属するか、なんてことは、考えもしない。

以上の意味で、本書は19世紀マレー世界、現代マレー語の形成、といった観点から必読の書とみられているが、そのほかいろいろな意味でおもしろい。
印刷機(活版印刷)の導入、福音書の翻訳、蒸気船、ダゲレオ式写真、外科手術、といった近代技術をみたアブドゥッラーの驚き(幕末の日本人のようだ)。
初期のシンガポール、初期というより開発以前のようすから、この当時から土地投機がはじまったこと。
家族の心配(アブドゥッラーといっしょにシンガポールに移住しようとしない)、家族の死や病気のこと。

貨幣単位が錯綜していて、とてもついていけない読者は、とばして読めばいいでしょう。
容量や距離の単位はマレー式やイングランド式がまざっているが、メートル法も出てくる。特に写真技術を説明する部分が全部センチを使っているのだが……。本当に当時のマラッカやシンガポールでメートル法を使っていたのかだろうか?
暦年は西暦とヒジュラ暦の両方使用。
一日24時間制を使っているが、一日の区切りはイスラーム式、つまり日没から次の日が始まるやりかたである。

こんな世界だったんです。

浦一也,『旅はゲストルーム』,光文社 知恵の森文庫,2004

2006-05-25 23:49:08 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
初出は東陶機器の企業誌「TOTO通信」に1994年から連載「旅のバスルーム」
2001年東京書籍刊『旅はゲストルーム 測って描いたホテルの部屋たち』を加筆、修正。

著者は建築家、ホテルの設計、とくに内装の設計が専門。初出誌からわかるように、バスルームに特に関心がある。
世界中の名門、高級ホテルに宿泊し、室内の寸法を測り、平面図に描き、さらに水彩で着色するのが趣味(?)。ほぼ2時間ぐらいで作業を完成させるようだ。

わたしなんぞ一生泊まるどころか、そのホテルのある都市にさえいけないような、ヨーロッパや北アメリカ、その他アジアのホテルが紹介される。
ホテルの紹介なんてうんざりだ、と思う方、そう、わかります。実際ホテルのことを書いたキザな薀蓄話はあふれているし、旅行ガイドもホテルの紹介ばっかりじゃないか。

しかし、本書はちょっとちがいます。そこそこにキザですが、情けない実情も混ぜ、イヤミもユーモアになっている。(luxaryはラクシャリーとよむのを初めて知った。形容詞になると、ラグジャリーですね、覚えておこう!)

さて、ちょっとまじめになろう。
ホテルというのは、外界から選ばれた客を隔て、内部の豪華で上品な雰囲気で下賎の者どもを威圧する装置である。
客となって選ばれるには、それなりの財力とマナーと見栄を必要とする。それがない人は高級ホテルに泊まるべきではない。
しかしだ。みんなほんとは見栄をはるのに疲れるのである(らしい)。
そして、その見栄の緊張感から解放されるのがゲスト・ルーム、とりわけバス・ルームである。
そのバス・ルームをいかに設計するかが、デザイナー、建築家の腕とセンスであろう。
本書は、筆者のスケッチと文とともに、建築家その他の名前が原綴りで示され、ホテルのホーム・ページのURLも載っている。これをたよりに、ウェブ上で架空ホテル滞在を楽しむことができる。

東南アジアのホテルもいくつか載っている。
というより、高級ホテルの分野では、東南アジアには格式も評価も高いホテルがいっぱいある。
ただ、東南アジアの超高級ホテルは、ヨーロッパや北アメリカの高級ホテルとは、ちょっとコンセプトが異なるようだ。
建築や内装で斬新なホテルも多いが(バンコク、上海など)、伝統的な人材、ありあまる労働力、立地の自然環境でもてなすホテルがあり(オリエンタルホテル、シャングリラなど)、こじんまりしたヨーロッパとは、異なるようだ。
リゾートホテルの紹介は少ない(バリ・オベロイくらい)が、こっちも北アメリカ方面とは異なるようである。

そのほか、ドア、ベッド、バスルームなどの基礎知識(薀蓄)あり、読んで見栄をはろう!

西岡直樹 絵と文,『完本 インド花綴り』,木犀社,2002.

2006-05-24 14:10:18 | 自然・生態・風土
『インド花綴り』1888.と『続・インド花綴り』1991.を合本、加筆。
初出は月刊『インド通信』に1982年から連載。(現在も連載中!)
わたしは『インド通信』現物は一度も拝見したことありません。すみません。
『インド通信』ホームページは、
http://homepage3.nifty.com/~mariamma/india.htm

この本を片手に、ゆっくり旅をしてみたい……、そんな気分がわいてくる一冊である。
が、旅にでたら、そんなのんびりした気分じゃあいられない貧乏性のわたしのような人間は、通勤列車の中でもパソコンの前でも台所ででも、どんどん読んでいきましょう。

植物のスケッチといっしょに短文で植物学的記載、料理、薬効、伝説を綴った本である。樹木から野菜・穀物・雑草まで含む。
題名どおり、インドの「花」を中心としているが、当然、果実や種、根や葉っぱも描かれている。
著者がインドに長期滞在したのは、1973年から西ベンガル州の大学での留学。
もともと農学畑の人らしいが、インドでは民話や伝説を研究したようだ。
そういうわけで、著者自身のインドでの見聞、神話・民間伝承の話がもりだくさんである。
西ベンガル州を含む西インドばかりでなく、全インド亜大陸、東南アジアに共通する植物が多いし、伝説も共有している場合があるので、東南アジア旅行にも参考になるだろう。

実はわたし、題名にインドがついた書籍は、敬遠しがちである。
神秘のインドも混沌のインドも貧困のインドも苦手なのだ。
そんなわたしのようなインド苦手派にも読める本が1990年代からぽつぽつ出てきた。本書が連載された『インド通信』創設者の松岡環(まつおか・たまき)さんなんかが代表格で、まず具体的なものから楽しんでいこうという姿勢である。
本書はそうした動き(といっても、運動や思潮ではないが)の一環でありましょう。

富山太佳夫,『空から女が降ってくる 』,岩波書店,1993

2006-05-23 11:06:36 | フィクション・ファンタジー
富山太佳夫,『空から女が降ってくる ―― スポーツ文化の誕生』(Image Collection 精神史発掘),岩波書店,1993.

副題をみればわかるように、文化史・精神史の方面からの19世紀スポーツ文化についてのエッセイ。
とくに結論がある書きかたではなく、自由にイメージを連想させ、19世紀のジェンダー・イメージ、暴力、未開と文明のイメージをつづったもの(としておこう)。

うしろのほうから紹介していく。

自転車。
自転車に関しては、わたしはひじょうに興味がある。
自転車を自由で軽快な活動としてとらえるか、貧乏くさいものとしてとらえるか、実用的な移動手段としてみるか、紳士淑女の優雅なスポーツとしてとらえるか、不穏ないかがわしいものとしてみるか、各国・民族・宗教によってさまざまである。(現代日本では、ど根性スポーツ、障害者の迷惑になる駅前放置自転車、自転車にのって徘徊する不審者・変質者といったイメージまであるんだから、いやんなるじゃありませんか。自転車を日常的に使っているみなさん、そうでしょう?!)
1900年前後には、自転車を優雅なスポーツ、解放的な活動とみるイメージがブリテン島で定着したようだ。というものの、やはり、自転車をいかがわしいものとみる見方は継続していたようで、特に女性がのる場合、批判と揶揄のまとになった。
著者はラスキンの1888年の発言、「人間の肉体の美徳を損なう」とする見方をアナクロニズムととらえているが、やはり、この自転車をいかがわしいものとみる見方は継続しているようだ。

探検。
スタンリーのマッチョな探検、原住民を銃でおどし、ジャングルをポーター隊をひきつれて進む男性的な探検。それに対して、メアリー・キングズレイの開放的な旅。
(こう大雑把に要約すると、著者の微妙な分析をそこなうが、しょうがない。各自、読んでみてくれ。)スタンリーやリヴィングストン、メアリー・キングズレイにかかわっていると話がすすまない。

ボクシング。
強いものが正々堂々と戦って勝つ、というフェア・プレーの精神の代表であるボクシング。
著者はこの表のイメージとともに、ギャンブル、賞金稼ぎとしてのボクシングの裏のイメージを紹介する。
アマチュア(ジェントルマン)とプロ(下層階級)の対比がこんなところにもあったのだ。

登山。
ウィンパー『アルプス登攀記』(1871)のなかの驚くべき一節を紹介している。

「アオスタの谷は山羊で評判であるが、白痴では不評判である。……白痴病はアルプス地方のいたるところに広がっている」

いったいぜんたいこの文は何をいいたいのだ!?
著者の分析によれば、アルプスの山羊が密猟のため絶滅の危機にひんしているのを嘆いたものであるそうだ。
では、なぜ、唐突に白痴のことが続けられるのか?
アルプスの山羊はジェントルマンが狩猟を楽しむための動物なのだが、それが、貧乏で無知で犯罪の傾向をもつアルプスの地元住民によって密猟されている。
衛生観念のない、犯罪者の傾向を持つ住民が、無秩序にこどもを生み、白痴が増えている。その反面、貴重な自然である山羊が減っている。
そういう文脈なのだ!

スポーツの興隆と衛生思想・産児制限・労働管理との結びつきに関しては、本書よりもっと詳しく書かれた本がいっぱいあるが、登山・野外活動・スポーツと対比し、労働者や貧民の無知で不潔な生活をイメージする文脈もあったのだ。

さて、本書のタイトルになっている「空から降ってくる女」というのは、パラシュートで降下するのを遊園地や博覧会で見物人にみせるショーの話。(後の時代の飛行機ショーの話もでてくるが省略。)
イングランドで最初にパラシュート降下した女性、ドリー・シェパードの話だ。
表紙の絵が示すように、ひじょうに扇情的、エッチなイメージを喚起するショーだ。
それでは、このショー・ガール(という言葉は使っていないが)は、危険でエッチなショーを強制的に演じさせられる女だったのだろうか?

パラシュート降下ショーは気球の発明とともに始まり、博覧会や遊園地のアトラクションとして人気を得る。
19世紀中葉からの博覧会・遊園地に関する本はいっぱいあるが、温室・ミニチュア・ジオラマといった建造物、回転木馬やローラーコースター、音楽や芝居とともに、気球とパラシュートのショーがあったわけだ。
彼女、ドリー・シェパードがオーギュスト・ゴードンという興行主と会ったのはロンドンのアレクサンドラ・パレスという遊園地で18歳のとき。好奇心旺盛だったドリーはゴードンの誘いに気軽にこたえ、ほとんど訓練も練習もなく、本番にいどんだ。
観客たちの好奇のまなざし、(本書の表紙のごとき)新聞の扇情的な記事とは異なり、彼女は純粋に感覚的なおどろき、空を飛翔することの躍動感をたのしんだ。
ドリー・シェパードの写真が載っている。パラシュート降下のときのコスチューム、といっても今からみると普通の服装である。セーラー襟の上衣とズボンであるが、当時はこれがブルマーと呼ばれていたのだ(だから残念ながら脚はみえません)。

さて、博覧強記の富山太佳夫さんのアクロバティックなエッセイを実直に紹介してもつまらないでしょうから、最後に少々強引な方法でひとつのエピソードを紹介する。

ドリーがオーギュスト・ゴードンと知りあったのは、上述のようにロンドンの遊園地であったが、その経緯を紹介しよう。

彼女は、ここで音楽会をやっていたスーザのファンだった。
そうとうにミーハーなファンで、スーザ本人に会おうと、ウェイトレスになる。そして、首尾よくスーザのテーブルにサービスすることになるのだが、その場に同席していたのが気球と落下傘の見世物興行師オーギュスト・ゴードンというわけである。

スーザはもちろん「星条旗よ永遠なれ」のあのスーザです。
勇ましい(そしてニュアンスに欠ける退屈な)行進曲の作曲者として有名だが、彼は軍楽隊の指揮だけでなく、むしろこの遊園地でショーのようなポピュラー音楽の演奏者、バンドマスターと有名だった。
大編成の行進曲ばかりきいていると、スーザの曲のお祭り的、ショービジネス的、ダンス音楽的な要素が耳にとどかないが、スーザの曲をギター、マンドリン、ヴァイオリンなどの演奏できくと、ハワイアンのような感じをもっているのがわかる。
ポルトガル系の作曲家スーザは「星条旗よ永遠なれ」の作風ばかりでなく、やわらかくニュアンスに満ちたダンサブルな曲を演奏する人でもあったのだ。

スーザの一面がよくわかるエピソードですね。

青木保,『タイの僧院にて』,中央公論社,1976.

2006-05-22 00:41:53 | フィールド・ワーカーたちの物語
1972年8月から翌1月まで、著者の仏教僧としての修行の記録

クイズ;テラワーダ仏教(上座部仏教)の僧の戒律で、正しいのはどれか?

1.食べ物を捨ててはいけない。
2.コーラを飲んではいけない。
3.下着のぱんつをはいてはいけない。
4.タバコを吸ってはいけない。

仏教の寺で修行するなんて、どうもうさんくさいイメージがする。
まして、よその国の宗教の寺に、文化人類学者が修行するなんて、いかにも研究ぽくて動機が不純ではないだろうか?
こんな疑問がわいてくる体験をつづった本であるが、読後感はさわやか、著書の修行の成果にも、読者として納得がいくものである。

そもそもタイのテラワーダ仏教(上座部仏教、テーラヴァーダとも表記される、小乗仏教という言い方は最近少ないが、本書では使っている。)というのは、修行する者本人の自力を尊重するもので、戒律はあるけれど、寺に拘束するきまりはないし、還俗するのも僧のかって、来る者は拒まず、去る者も引き止めない。
日本の寺のような、檀家制度もないし、宗派行動は禁じれれている(著者が修行したタマユット派とマハー派という「派(ニカイ)」があるが、争いをしているわけではない)。
五体満足な男なら誰でも僧の修行ができる開かれた宗教なのである。(この、開かれた、というところがくせもので、このことは、イスラームやキリスト教と同じく、未開の民を同化していく暴力的な側面も持つが、この問題はここでは置いておこう。五体満足な男という点についても、ここでは置いておく。)

戒律のきびしいタマユット派であるが、得度した後のワットでの生活は、戒律さえ守っていればある意味すごしやすく、平穏な生活である。
日本の仏教寺院のようなしごきやいじめはない。

1965年、26歳ではじめてタイを訪れた著者は、最初、ユネスコの東アジア研究プロジェクトに加わっていた。
タイで人類学研究をしたいものの、集団フィールドワークは性にあわず、単独の研究もさまざまな障害(ベトナム戦争のさなかで、共産主義に対抗して、タイ国の防衛をしていた時代である。)があり政府や地方行政組織の許可がとれない。(なお、著者は酒ものめないし、登山にも興味がない、という人類学者としては致命的(?)な欠陥をもつ人物である。)
いろいろ悩むなかでバンコク市内にある僧院で僧侶の修行をもくろむ。
テラワーダ仏教のもつ「形」「行為」を実践することに魅かれる。

バンコク市内にあるタマユット派の教学の中心、ラーマ四世が王子の時に初代管長となったワット・ボヴェニベーを選び、ウパサンパダ(得度)の儀式のためのパーリ語経文を暗記し、みごと僧として修行の生活にはいる。(なんのかんのいっても、優秀な人なのである。)

ピンタバート(托鉢)からはじまるワットの一日、ニーモン(俗人が僧をもてなし、徳を積む行為)、僧院の構造などが、語られる。

ワットの中が、俗界を離れた聖域、というわけでもない。
僧の大部分は、深遠な仏教の教理など興味がない。
というより、タイの仏教は、男子なら誰でも一時的に僧の修行をする習慣があり、パンサー(安吾)の期間(タイの雨季にあたる)は、とくにこの「一時僧」が多い。
別に、仏教の真理をきわめるなんて態度はない。
社会的な慣習として、そして特に母親のため(独身の息子が僧の修行をすることは、母親の徳になるのだ)、若いものも会社や官庁で一定の地位にあるものも、3ヶ月くらいの修行を積む。
著者ははじめ(そして読者も)、形式的な習慣にすぎないのではないか、と思う。
しかし、僧とワットの修行に対するタイ人の態度は真剣そのものであって、形式を型どおりにこなすことが、精神的にも社会的にも重要な意味を持つことを、著者は(読者も)しだいに納得していく。

ワット・ボヴェニベーで長く修行を重ねている僧たちにもいろいろなタイプがいる。
型どおりになんでもソツなくこなす官僚タイプ。
寺にはいる以外勉学の道がなかったので、僧になり学業に励み、将来を嘱望されながら、寺の外の世界に憧れる僧。
ワット内では、僧の過去があからさまに語られることはない。(過去や家族、血縁を断ち切ることが、僧になることなのだ。)だが、やはり、いろんな過去が語られる。
もとムエタイ(タイ式ボクシング)の選手で筋肉もりもりの僧、船員をしていたとかいう刺青をした僧もいる。
誤解を避けるために書いておくけど、こういう過去が問題になることはないし、噂話しとしても、軽い会話で語られるだけである。

タイ仏教ではスック(還俗)も原則的に個人の自由である。
だからこそ、外の世界に出たい者は悩む。
ここちよい、戒律さえ守っていれば暮らしがたち、俗人からも尊敬される寺の生活を抜け出して、外の世界で生きることへの不安がある。
しかしまた、僧になりたての若い者よりも、三十代、四十代の修行の長い僧のほうにスック(還俗)への迷いが強い。(おれは、このまま、寺以外の世界を知らずにいきてゆくのか?という迷い)

僧の間にしっかりといきづいているピィー(悪霊、お化け)への恐れが、本書で一番の読みどころ。
もともと、仏教の教理と関係ないし、戒律からみても、そしてなにより近代的宗教をめざすテーラワダ仏教において、こういう迷信は否定すべきものである。
しかし、ワット・ボヴェニベーの僧たちは、高僧も若い僧も、みんな真剣にピィーを恐れているのだ。
当然ながら、著者はその恐れを理解できないが、人類学者として興味がある。
ところが、タイ人の僧としては、このピィーに対する恐れ、というかピィーというものが存在することを、外国人である著者(および、他の国からきた修行僧)に、指摘されることが、面目ないことなのだ。

著者としては、別にテーラワダ仏教のワットでピィー騒動が起きることを、おもしろおかしくいいたてるわけではない。
また、タイ仏教の前近代性をあげつらうわけでもない。
人類学者としては、ピィーのようなものが現代でも生きながらえていることを、肯定的に見たい気分もあるだろう。

著者はワット内の派閥的なムード(国際派が国王寄りであり、土着派が政府寄りである、というややこしいい話もでてくる)、年寄りの僧たちと若い僧の意識の違い(俗人との関係は戒律を守っているだけでよいという伝統派と僧は俗人の問題に積極的にコミットすべきだという改革派の対立、大雑把なまとめ方ですが)、魔術を使う(?!)異端的な僧がいること、そうしたことは話題にできるのに、このピィーについては、語ることをはばかられる雰囲気が厳として存在するのだ!

しかし最後には、著者もタイ人とおなじようにピィーを認識するところまで、理解したようである。

****************

クイズの答。

1.食べ物を捨ててはいけない、という戒律はない。
  それどころか、朝、托鉢で得た食物は、その日のうちに食べなければ捨てる。
  おそらく、蓄財をしない、という古い時代の戒律がそのまま残っているのでは?
2.テラワーダ仏教の僧は、早朝の食事と、正午前の食事の一日二食である。
  では、午後完全に断食かというと、そうではない。
  まず、水は飲んでよい。
  また、砂糖は、薬としてとることが、許される。だから、お茶に砂糖をいれて飲んでもいいし、コーラを飲んでもいい。著者はウェールズ出身の僧といっしょに、アフタヌーン・ティーを飲むこともあったそうだ。
4.のタバコもOK。お釈迦様の時代になかったから、戒律にもないのだ。
正解は3.下着のぱんつをはいてはいけない。
なぜなら、僧は、チーオン(黄衣)以外をみにつけてはいけない。だから、ぱんつもだめなのだ。

戒律は釈迦の時代のガンガー流域のインドを念頭においているようで、現代からみて、またタイからみて、へんな戒律も多い。
たとえば、山羊の毛で織った敷物をしいてはならない、という条項があるが、こんなものタイでは探してもない。
戒律としては、不自然ではないが、どうして、この戒律がひとつの群になっているのだ?というのがある。

スラパーナーワッガの戒律群は、
飲酒は一切禁じる。
他の僧をくすぐったり、ふざけて触ってはならない。
水泳を禁じる。
他の僧を驚かしてはならない。
暖をとるため火を焚くことを禁ずる。
衣の染色にかんする規定。

納得できないわけではないが、どうして、これらが一つのグループになるのだ?
皮膚感覚や酩酊に対する禁忌だろうか?

****************

つい最近、青木保がエリック・ホブズボーム,『反抗の原初形態 千年王国主義と社会運動』中公新書,1971.を訳していることを発見した。
この本は読んでいないが、講談社新書『中国の盗賊』のなかで、ホブズボームの著作『匪賊の社会史』1972.を知り、こんなむかしに青木保がホブズボームを訳していたことにびっくりした。
ホブズボームといえば、『創造された伝統』(この本もざっと読んだだけです。)の著者で、青木保の関心領域にとても近い人だなあ、なんて思っていたのだが。

それで、この『反抗の原初形態』を訳した後に、タイの僧修行をした記録が、この『タイの僧院にて』というわけだ。

なお、本書『タイの僧院にて』は、創造された伝統を告発する、という見方はない。
むしろ、形式的なものでも根拠の薄いものでも、儀礼として尊重することによるリアリティ、精神的充実感を体感した記録です。

デーヴィッド・アーウィン著,鈴木杜幾子 訳,『岩波 世界の美術 新古典主義』,2001.

2006-05-20 23:25:10 | フィクション・ファンタジー
美術に興味がない人には、新古典主義なんて、曖昧模糊としたもので、ぴんとこないだろう。
美術に興味がある人には、新古典主義なんてもんは、まじめに語るに値しない、二流の傾向、過去の遺物という見方があるようだ。

それではいったい、この「新古典主義」というのは、なんなのだ?
作品としては、ダヴィッドの「皇帝夫妻の戴冠」、フラックスマン「提督ホレイショ・ネルソン子爵墓碑」、建築では「サント=ジュヌヴィエーヴ聖堂」(パリのパンテオンのこと)、あの種のものである。
観光地でハトの糞にまみれている彫像、サイズがでかい歴史の教科書の図版に使われるような絵画、絵はがきに載るような建築、やっぱりB級品ではないか……。

本書はこんなわたしのような無知な読者のため、まず、グランドツアーから話をすすめる。
ゲーテの『イタリア紀行』に描かれている、南国への旅、地中海世界への旅である。
本城 靖久,『グランド・ツアー―英国貴族の放蕩修学旅行』,中公文庫 (中公新書 1983で読んだけど、同じ内容なのかな?)で描かれる、英国のジェントルマン階級、フランス貴族、ドイツなど北方の国の文人の旅行である。

イタリア、シチリア、ギリシャなどの見聞を通じ、アルプスの北側の人間に共通の憧れ、幻想が生まれる。
古代ギリシャ・ローマの文明をヨーロッパ人(あるいは人類全般?)の理想ととらえ、さらにエジプト・東洋のイメージをごちゃまぜにし、建築・彫刻から、絵画・デザインまで包括する傾向が生まれる。これが新古典主義である。
そうだったのか!

まず、建築。
ロバート・アダムのエディンバラ都市計画に代表されるような、古代風の建築。はやい話が大英博物館、さらにサンクトペテルブルクの建築群、ワシントンのホワイトハウス、あれが新古典主義である。
建物の外観ばかりでなく、内部の意匠、家具、壁紙、装飾品をみるともっとよくわかる。
ロバート・アダム作「ソールトラム・ハウスのダイニング・ルーム」なんかみると、ようするにヨーロッパ風だなあ、と感じる天井・窓・絨毯・椅子・テーブル・食器・壷や燭台、これが新古典主義なのだ(写真をみてもらわないとよくわからないなあ。)

次に歴史画。
ギリシャやローマの神話を題材にしたものから聖書の場面まで、いかにも劇的におおげさに写実的に描いた絵画、これがこの当時の様式である。

ここまでは、そんなもんかと思うが、次に庭園・風景画、そして大量生産品(といっても高価)のデザインが紹介される。

「ピクチャレスク」という語であらわされる古代の田園風景、荒れ果てた遺跡、嵐や火山の噴火、あれが「ピクチャレスク」である。
画家としては、ヴァランシエンヌ、クロード・ロラン、ターナーなど。
(実はこの「ピクチャレスク」という言葉、しばしば誤訳されるのだが、その話はおいておこう。)
そして、ギリシャ・ローマ・エジプトをごちゃまぜにし、さらに東洋風をまぜた庭園や邸宅建築が流行する。
庭園の代表はルソーの墓碑があるエルムノンヴィル。

発掘されたエトルリアの壷の複製(実はエトルリア製というのもまちがい)、田園や美神を描いた陶器がデザインされる。
ウェッジウッドやセーブルの工房でつくられたのが、この種のモチーフを描いた陶器である。
日常(といってもジェントルマンや貴族たちの)の家具・食器が新古典主義様式でつくられ、庭園や邸が古代の風景を再現するかのように設計される。
こうしたなかで、当時の人々は暮らしていたのである。

さらに、この様式は政治的イヴェント、国家的モニュメントにも用いられる。
博覧会・遊園地が盛況をきわめるのは、この時代より後だが、このころから、舞踏会・凱旋パレード・花火大会・博覧会の建築・装飾が新古典主義様式でつくられる。
ナポレオン、ネルソンなど国家的英雄の肖像画・彫像がつくられる。
こうして、新古典主義というのは、たいていの美術愛好家から嫌われる趣味の悪いおおげさなものとなった。

ヨーロッパでこの様式が支配的だったのは1750年から1830年と著者は規定しているが、その後も生きのびる。
「ワシントンからシドニーまで」新古典主義は広まってゆく。
というより、ヨーロッパ以外の新大陸、アジアの植民地のほうに、この様式は生きのびる道をみつけた。
新古典主義建築を見物するにはアジアでもOKだ。
カルカッタ政庁がこの代表であるそうだ。
本書のなかで唯一日本のものが紹介されているのが、なんと、横浜正金銀行神戸支店!現在、神戸市立博物館になっている。
そして(欧米の人たちにとって)呪いであるナチスのお墨付きになり、数々のくだらない美術品が生まれ、20世紀の美術が迫害される。こんな点も新古典主義が嫌われる要素であるようだ。

こう紹介しても、まだぴんとこない読者がいるだろう。

1750年から1830年というのは、ヨーロッパ史上の大事件が起きた時代である。なにが大事件なのか、いまいち理解できないが、とにかく大事件として扱われるフランス革命、アメリカ合衆国の独立、自由・平等の啓蒙思想、自由貿易論争、産業革命など、とにかく語句だけはよく知っていることが起きた時代である。

新古典主義というのは、この時代の思潮、国民国家の誕生と歩みをともにし、ヨーロッパがヨーロッパとして一体感を持つことができた時代の様式なのだ。
それは、もちろん、どこにもない、過去をつぎはぎした、幻想の風景である。
だいたい、この時代、ギリシャはオスマン帝国の一部であり、ほんとに保存状態のよい遺跡は現在のトルコ共和国やシリアにあったのだ。
そして、ギリシャ・ローマと聖書の世界をミックスしたような歴史画、現代を舞台に神話の英雄を描いたような戦争画や彫像というのも、幻想である。

ほかの芸術分野と重ねあわせてみると、この新古典主義の時代というのは、音楽でいえばロマン派、小説でいえばゴシック文学の時代とシンクロする。
つまり、ベートーベンの時代であり、『オトラント城奇譚』『ヴァテック』『フランケンシュタイン』の時代である。
大雑把にいえば、ヨーロッパらしきものを完成させようとしたのがこの時代であり、これ以後は、この完成したものに異議申し立てをし、破壊しようという時代になるわけだ。
といっても、著者の主張によれば、新古典主義的なものは19世紀20世紀を通じて生きのび、神話的モチーフ、古代的意匠は再生をくりかえしている。

最終章でハイラム・パワーズ作「ギリシャの女奴隷」(題名がすごい!)という大理石像が紹介されるている。
1844年作のこの彫像は、ヴァティカンのコレクションのウェヌスをモデルにしてつくられたものだそうだが、著者によれば、この作品は「ギリシャ独立戦争中にトルコ人に捕らえられ、奴隷市場に裸身を曝さざるをいなくなったキリスト教徒であるという物語を示唆するいくつかの細部を加えている」のだそうだ!!
脱ぎ捨てられた衣裳のあいだに十字架がみえ、鎖でつながれている。
彫刻家がアメリカ人であるという理由で民主主義の寓意であるとさえ考えられていた?!

すごいですね。
たんなるおねえちゃんのエッチなはだかにもったいぶった理屈をつけて見物し、背後にトルコ人の物語を暗示するとは!

巻末の年表がいい。(1750年から1830年まで)
ここだけでも図書館で立ち読みしてみよう。
七年戦争(1756~63)の時代からはじまる。この戦争中、カナダのフランス側にいたのがブーガンヴィル、ブリテン側にいたのがジェイムズ・クック。
アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオンの帝政、ウィーン会議と大項目の事件がいっぱいあるわけだが、その最中にセーブル製陶所がマリー・アントワネットのために食器セットを作り、ダヴィッドが「レカミエ夫人の肖像」を描き、エルギン卿が大理石コレクションを大英博物館に売却し、ミロのヴィーナスが発見されフランスが購入……そういう時代だったのです。

年表の末尾1830年にあったことは……
グランド・ツアーはしたけど、美術より火山や地質に興味があったチャールズ・ライエルが『地質学原理』出版。ダーウィンがビーグル号航海に持っていく書物ですね。
ギリシャ独立正式承認。
ギリシャに駐留したイングランド軍人とギリシャ女の間にこどもが生まれるなんてこともこの後のことですね。(ラフカディオ・ハーンとかね)

いつとは知らぬ過去に人間の理想をもとめ、桃源郷をイメージするという思潮を「古典主義」「新古典主義」と名づけるならば、19世紀にも20世紀にも脈々とうけつがれている。
ヨーロッパ人、アメリカ人は、この後も(おせっかいなことに)、日本列島に「日本アルプス」を発見し、桂離宮を発見してくれる。
あるいはインドシナの奥地でアンコール・ワットを発見するなどといった行為も同じような精神である。
一方で、東アジアや東南アジアの人々も、モニュメントをつくり、議事堂や銀行を建て、テーブルや椅子を家の中に配置し、ディナー用食器をあつらえ、ダンス・パーティをするようになる……というわけだ。
(そういえば、本書では、思潮や文学との関連は述べられているが、ファッションのことは言及されていないな。)

なお、作品や建築物を、いかにも以前から知っているように書きましたが、本書で初めて知ったものが大半です。実物はもちろんひとつも見たことありません。

あと、どうでもいいことだけど、本書の印刷はシンガポール。文字のインクが薄いグレイで読みにくいんですが……。