東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

入矢義高・梅原郁 訳注,『東京夢華録』,1983

2009-01-22 22:48:52 | 翻訳史料をよむ
初版は岩波書店。平凡社,東洋文庫から1996。
高島俊男さん絶賛、戦後日本での中国文学研究の金字塔。

それでなにがそんなにすごいのか、ひもといてみる。
北宋の首都・汴京(べんけい、現在の河南省開封市)の風俗を記録した書。
地理書、風土記の類。つまり衣食住から年中行事までの都市生活案内である。
時代は1100年代初頭、本書が書かれたのは南宋の時代1147年ごろ。

うーん、悔しいぞ、東南アジアファンとしては。
900年ぐらい前の記録がこうして残っているのだ。中華四千年などというのは大嘘であるが、二千年くらい前から途切れずに記録が残っている。

イブン・バットゥータやトメ・ピレス、あるいは義浄や馬歓のような外来者の記録しかない東南アジアとは大違いだ。もちろん、外部の目のほうが、その文化の内側の者が気づかないものを記録するということは多い。しかし、この東京夢華録(とうけいむかろく、と読む)のような詳細な観察記録は、外来者には不可能だろう。

さらに本書、つまりこの訳注本である。
日本側のトップクラスの研究者であるそうだが、中国側の研究水準を抜いている。
その成果をこうして、われわれ一般人に親切に説き、公開してくれるわけである。

本文の五倍から十倍の量の訳注。
あの、訳注っていっても漢和辞典を引けばわかるというレベルではないですよ。
ひとつの注にすべて参照・参考文献が明記されている。
もっとも、こちらシロウト読者としては、どうやってその参考文献に辿りつくのか、魔法のような技としか思えないが。

註釈以前の問題として、ただ漢文が読めて字典を引けば意味がわかる、というようなものではない。
ヨーロッパの記録でも、植物名・動物名は現在の認識と違っていてやっかいだが、漢語の場合、文字が同じでモノが違う、モノが同じで文字が違うというのが頻出、とてもシロウトが齧れるものではない。

だいいち、原書は文字と文字の間にスペースがない、だらだら書きである。単語と単語の区切りを識別する段階から始めなければならない。

というように、プロ中のプロの仕事を、こちら読者は寝ながら読めるというわけだ。ありがたい。

******

本書ではじめて、羊頭狗肉の意味がわかった。(すでに知っている人には常識なのか)
いろんな人が軽いエッセーの中で指摘しているが、漢民族の間では、ヒツジ肉よりイヌ肉が珍重され、値段も高い。
それなのに、羊頭狗肉という言い方はおかしい。

それで、東洋文庫版 p80の注によれば、この頃まで、特に華北ではヒツジが最上級品とされていたのだ。
ブタは下等にランクされた。
ヒツジが最高級(コーランの記述と同じか!?)、ツラの皮からキンタマまで食す。だから、羊頭を掲げるわけである。

西倉一喜,『中国・グラスルーツ』,めこん,1983

2009-01-20 22:25:20 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
さすが出版社めこんだ。
ブックデザインが違う。軽くてポップな感じ。しかし内容は鋭い。

前項『人民の沈黙』と同じく、北京語言学院に留学。1980年から一年滞在。本書には記されていないが、本書の出版がわざわいし、その後10年間中国入国禁止になる。

フットワークが軽く、全方位好奇心あり。
たとえば、わたしはぜんぜん関心ないが、釣り(魚釣りですよ、ネットのツリではない)や格闘技の話もあり。

当然、留学先の北京語言学院の話、学生の話が中心になるが、いたるところをウロチョロする人で、北京市内はもちろん中国各地を旅行している。
中国人の口の堅さ、外国人嫌い、情報隔離政策については前項など、当時の旅行記・滞在記でもおなじみだろう。

しかしよく観察し、なんでも顔を出す人だ。

中身を個々紹介してもきりがないから、中国の外国人で著者が見たものを挙げると、アフリカからの留学生、北朝鮮からの留学生、ソ連大使館の外交官、カンボジアのポルポト派留学生、などなど。
もっとも驚いたのは内蒙古自治区でのアメリカ人骨董バイヤー。もうすでに、こういう輩がいたのだ。

*****

ところで、今頃気づくのもなんだが、本書は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、文春文庫にもなっている。
知らなかった!
めこんがまだ発売・文遊社の時代、出版点数が20点ないころ。同時期に『ゲリラの家族』が出ているんですね。

では、本書は、なぜ他の出版社で出さなかったのだ?桑原社長と著者がたまたま知り合いで、出版できたわけではないでしょう?
本書の元になったのは、共同通信社の内部のガリ版刷ミニコミから。
ええ!通信社内部でもガリ版だったのか!
これほどの傑作を出版するのが、零細めこんだけとは??

松井やより,『人民の沈黙 わたしの中国記』,すずさわ書店,1980

2009-01-20 00:14:35 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
おそらく、アンチ松井やより派は、けけけ、あの松井が過去にどんなトンデモない本を書いていたんだ、とアラ探しをするであろう。
しかし、本書は、きわめて常識的な内容である。

また、1975年から1年、中国に滞在した記録、きっと貴重な見聞がいっぱいだろう、と期待して読む読者もいるだろう。

残念ながら、この点についてもきわめて常識的で、あっと驚くようなおもしろい話は少ない。

その理由は、著者がジャーナリストとして観察眼がないためではない。
著者は外交官の妻として滞在したのだが、取材は完全に禁止、中国人との交際は禁止、ちょっとした会話もはばまれる、という状態。完全に外国人を中国人民から隔離する政策であったのだ。

その鎖国状態、隔離政策を記録したものとして価値はある。
北京に滞在している外国人女性といっしょに語言学院(中国人が外国語を勉強し、外国人に中国語を教えている)のクラスに入学する。そのクラスメイトが全員女性で外交関係者の妻たち、アメリカ人、オーストラリア人、イラン人、アルジェリア人という組み合わせがすごい。
その中で、果敢に中国人民にせまり、答えの返ってこない質問をする。

今となっては、著者のクリスチャン的な考え、戦後日本的な感覚を中国人にぶつけても意味ないように思えるが、これだけ単身奮闘したのは、ある意味歴史的証言だ。
中国側のヤラセを記録したようなもの。

とくに、結婚と離婚、産児制限、避妊、家族構成に関する章はおもしろい。
ちょうど、一人っ子政策が始まる時期だったのだ。
あるいは、一夫一婦制を遵守し、離婚がむずかしい制度を報告している。

衣食住から労働環境、家族構成まで当時の〈友好人士〉の報告が隠していた事実を暴露。名前ははっきり挙げてないが、日中友好協会近辺のウソをいくつも指摘している。
いや、〈友好人士〉たちは、ほんとに事実を知らず、中国の支配層とまったく同じセンス、同じ道徳観だったのだろう。
著者がこれを、〈儒教的〉というのには賛成できないが、人民の性をコントロールすることが、日中双方の友好人士にとって当然の美風と考えられていたようだ。

もっとも、ほんとに人民がコントロールされっぱなしだったかどうか、それは本書からも他の記録からも判断できないが。

*****

こまかい点でハッとしたのは、タバコとお茶が高価で贅沢品であったということ。
中国人といえば、四六時中タバコを吸ってお茶を飲んでいるというイメージだったが、もちろん、ごく一部の地域でしか生産できないタバコやお茶が豊富にあるわけはないよな。
普通の人民はお茶など飲めない。いや、著者と接するような、ある程度余裕のある階層でも白湯が日常的な飲み物であったのだ。

高島俊男,『独断!中国関係名著案内』,東方書店,1991

2009-01-18 22:39:16 | 実用ガイド・虚用ガイド
ちくま文庫から出ている『本と中国と日本人と』,2004
は、この改訂版。
東方書店のPR誌『東方』の連載エッセイから収録しているが、追加と削除があり、『独断!』と『本と中国と日本人と』の内容は3割から4割ほど一致しない。


本書には絶大にお世話になっている。
内容は各自、本書でも文庫版でも読んでくれ。

著者・高島さんは、「お言葉ですが」のシリーズが有名で、ウェブに散乱するのもその傾向のものが大半だが、本書『独断!……』で紹介された書籍・書物をちゃんと読みたいもんだ。と、いいつつ、わたし自身も水滸伝関係はまったく読んでいないのだが。
高島さんには、元気なうちに書いてもらいたかったことがある。

たとえば白川静のこと。
この白川学のどこがヘンなのか、シロウトにもよくわかるように、ちゃんと批判して欲しかった。

あるいは、岩波文庫や平凡社・東洋文庫の中で、この校本はおかしい、この訳はおかしい、ということをはっきり書いてもらいたかった。
別に権威ある出版をけなしてよろこぶ、ということではないし、学者の間のもめごとを楽しむというわけでもない。

たとえば最近、ロレンスの『知恵の七柱』の〈完全版〉と称するものの翻訳が東洋文庫から出ているでしょう。それじゃ、以前の翻訳はどうだったんだ?ということになる。さいわいにして、わたしは旧『知恵の七柱』を読んでないが、もし読んでいたら、ああ、時間を無駄にした、ってことになるではないか。

同様に、日本語文献の翻刻でも、漢語からの翻訳でも、シロウトにうかがいしれないヘンなものがあるかもしれない。

本書に紹介されたものの中でいえば、
河口慧海,『西蔵旅行記』 である。

この現行の書籍版は、講談社学術文庫も白水社版も、(今では入手がむずかしい)旺文社文庫版も、みんないいかげんなテキストである。
これは本書で例が示されているのでシロウトにもわかる。岩波文庫か東洋文庫あたりで、原文発表時のテキストを収録してくれないもんだろうか。

こんな具合に古典翻訳・校本・再刊本について、高島さんに一刀両断してもらいたかったな。

******

ただ、現在の高島さんのファンや出版社の姿勢からすると、そんな話題をとりあげる本は出そうにないな。

宮崎市定、桑原隲蔵、内藤湖南、津田左右吉、こんなビッグネームこそ、高島俊男を通じて知るべき巨峰であるはずなんだが。

えっと、誤解をまねくといけないが、本書で紹介している本はそんなビッグネームの重厚な業績ばかりではない。
その反対に、バックパッカーの旅行記や(高島さんもバックパッカーって言葉つかっているんだよ)、学生や女性の滞在記や現代アジア事情の本がいっぱいある。

そのオバサンの滞在記として、おっと、オバサンなんて呼ぶとたちまち抗議の声がとんでくるだろうが、高島さんが紹介している本がある。
一冊一項として扱った紹介ではなく、

「ちょっと横道」 中国レポートの移りかわり と題した中でふれている。

松井やより『人民の沈黙』,すずさわ書店,1980

である。
ええ!?
高島さんが松井やよりの本を褒めるわけがない。けちょんけちょんに貶しているんだろうって、思うでしょう。
違う違う、ちゃんと評価している。
アンチ松井やより派にも、アンチ高島俊男派にも、松井シンパにも高島先生の弟子にも意外だろうが、ちゃんと紹介しているんですよ!

<腰抜けレポートからまともなレポートへの転換点に位置するのが、松井やよりさんの『人民の沈黙』ではないかとわたしは思う。
<この本は、転換点だけあって複雑な本である。
<ひどい話だが、そのころまでの大部分の日本の新聞というのは、中国関係記事に関するかぎり、中華人民共和国の宣伝機関みあたいなものであった。(まともなのはサンケイと赤旗だけ、などと言われたものだ)。
<この本を読めばわかるように、松井やよりさんというのは、いたって正直な、率直なかたである。そういう人に、その新聞社の記者として見たまま感じたままを語られては、ぐあいがわるかったのであろう。
<つぎに、松井さん自身が複雑――というより、混乱している。それはこの本のエピグラムに如実にあらわれている。

 祖国の解放と、人民が主人公の新しい社会のために命を捧げた数百万の烈士たちに
真の社会主義を目ざして、投獄も迫害も恐れず闘い続ける民主と人権の闘士たちにこの書を
 捧げる

<前段では今の中国を「人民が主人公の新しい社会」とたたえ、後段ではその社会を解体しようとしている人たちに声援を送っている。

 中略

<当時の日本にはまだ、社会主義である以上必ず資本主義より進んだ社会にちがいない、という神話が強固に生きていた。それに、一つの国が総ぐるみで外来者にいつわりのイメージを描いて見せるというような大じかけなペテンに、これまで日本人は出くわしたことがなかった。
<松井さんはその神話にすっぽりとからまれながら、それを抜け出そうともがいている。『人民の沈黙』はそのもがきの姿を正直に示した記念碑的な中国レポートだ。

<松井さんと同じ日本のジャーナリストである西倉一喜氏もまた、同じ神話にからまれ、同じもがきを経た人である。そして、西倉氏が一年の留学生活でついに神話から脱し切った時、『中国・グラスルーツ』の爽快な視野がひらけたのである。


どうです。
読みたくなるでしょう。
で、読んでみた。
次項へ

森村桂,『天国にいちばん近い島』,立風書房,1979

2009-01-13 18:57:20 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
初めて読む。
この作品の初版は 1966年の学習研究社版らしいのだが、未見。
旅行したのが1964年、著者24歳、東京オリンピックの頃。
以下、森村桂 文・後藤鐵郎 写真,『いまでも天国にいちばん近い島』,PHP研究所,2002
に書かれていることも参考にする。

海外旅行記については、その地での見聞や体験よりも、作者の日本での生活感覚がわたしの感覚から離れていて、読んでいて、ええっ?と思うことがある。

森村桂は、海外へ行きたいと思っていたのだが、
〈友人は英語ができたものだから、高校卒業と同時に、フルブライトの奨学金を得てアメリカへさっそうと旅立った。私は横文字はまったく駄目、しかも貧乏だったから、外国行きなど夢のまた夢だった。〉

ちょっとちょっと、多少英語ができるくらいでフルブライトの奨学生になれるわけないでしょう。それに、貧乏だろうが金持だろうが、海外渡航は外務省の許可が必要だった時代でしょう。
海外への持ち出し金は、18万円(つまり500ドル)。
女子大学進学率が2~3%の時代に女性で大学に行けたのだから、充分金持ち階層である。

著者は〈マドモワゼル〉ではなく、〈マダム〉と呼ばれることを気にしているが、当時24歳といえば、すでに子供をひとりふたり生んでいてもおかしくない。
ニューカレドニアの住民から見ても、普通にオバサンに見えたはずだ。

それから、エッセーとしておもしろさを狙ったのか、それとも天然なのか、著者はまったくフランス語ができない。
どうして出発前に多少とも勉強しなかったのだろう。すでにラジオ講座フランス語など方法はいくらでもあったはずだが。
世話になった無国籍のワタナベ氏の問いかけに対し
「ノン、ヌーメア、グッド」
これじゃ、ヌーメアなんか大ッ嫌い、と言ったってことになるのだが?
もちろん、著者としては、ヌーメアは悪くない、好きだ、と言ったつもりであろうし、向こうにもそう通じたようだが。

著者が『暮らしの手帖』編集部にいたというのも初耳だ。花森編集長のツテで鉱石運搬船に便乗できたらしい。
退職した時の手持ちの貯金が20万円!これは小学校教員の初任給の1年分だ。(ただしボーナス含まず、税金や社会保険料が引かれる前。)それが、退職後に減ってしまって、親戚や友人から借金して滞在費用や旅行に必要なものをまかなったようだ。
その中で32000円(!)でカメラを買ったそうだ。カラーフィルムが高価で、やっと2ダース(!)買う。
そして、当時の旅行傷害保険については不明だが、著者は保険を掛けていなかった。ニューカレドニアで盲腸(虫垂炎)の手術をするのである。
著者は、こんな蛮地で手術するはめになったことを心配しているのだが、それより金のことが心配じゃなかったのだろうか。

わたし自身とっくに忘れていたが、当時、虫垂炎で死亡するのも珍しくなかったのだ。最近、虫垂炎が減ったのは、栄養状態がよくなったためであるらしい。

*****

副題「地球の先っぽにある土人島での物語」にあるように用語の問題。

紀伊国屋ブックウェブで斎藤美奈子さんがレビューしているのを読んだ。
〈土人〉問題である。
この言葉があるため復刊が難しいらしい。
最初から最後まで土人の連発である。

これは、〈土人〉を〈先住民〉に直せばいいというものではない。また、〈土人〉というのは、〈地元の人〉という意味であって、なんら差別的なニュアンスはない、という主張もダメだ。
〈地元の人〉という意味なら、ヨーロッパからの移民も、近隣の島からの移民も、ベトナムやインドネシアからの移民も、日本人二世もみんな〈土人〉でけっこうということになる。
著者も当時の読者も、〈地元の人〉という意味で了解していたのではないのは明らかだ。

さらにやっかいなのは、著書は(読者も)、悪い意味で使っていない、少なくとも、その意識はない、ということだ。
これは差別的な意味でドジン、ドジンと呼ぶのより、さらに困ったことだ。
〈土人〉に同情的でありながら、人食人種の血が蘇る、などと平気で書いている。困ったもんだ。

というように、天然ボケで売ったような内容であるが、今読んでもはっとする部分もある。

著者は最初、日本商社の駐在員に世話になるのだが、日本商社、日本人二世、そして無国籍の日系人、など島の中で分裂があり、著者は右往左往することになる。
商社マンに産業スパイの疑いをかけられ、まずい関係になる。さらに二世グループのリーダーの世話になることで、ますます関係が悪化する。
観光客というものがまだ存在しなかった時代で、単にぶらぶらする、ということが信じてもらえなかったのだ。

観光といえばナイトクラブや遊興施設、という時代だったのである。(もっとも、ニュー・カレドニアのナイトクラブがどんなものだったか、ちゃんと観察してくれれば貴重な資料になっただろうが。)
ダイビングもシュノーケリングも、ビーチ・リゾートという概念も定着していなかった時代なのだ。

著者には、多民族社会という概念がなかったが、それだからこそ、かえって混乱した移民社会が見える記述もある。
日本商社駐在員夫妻が招待したのは、今でいえばベトナム・レストランだろうが、著者には支那料理店モドキ、としか見えてない。著者は料理の本を編集していた人なんですよ。

とまあ、アラ探しのような紹介になったが、現在でも読んでみる価値あり。自分探しの旅の先駆的作品という位置もあるが、当時の海外日本人社会、海外渡航事情を知るのに最適。

角川文庫版で入手が容易だろう。(字句の修正をしているかな?土人という言葉がないと、意味不明な箇所がいっぱいあって、修正不可能だと思うが)

あと、どうでもいいが、映画『天国にいちばん近い島』,角川映画,1984とは、ぜんぜん違う内容であった。

******

著者・森村桂の父親・豊田三郎は、「ビルマと北京と満洲以外には行ったことがない」、と娘に言っていた。その父が娘に物語った南の島を求めて、著者・森村桂はニューカレドニアに旅立つわけである。このへんの事情が著者の幻想かほんとに親子の間の会話かどうか、今となっては不明である。ただ、ビルマや満洲に無いものが、南の島にある、という幻想を娘・森村桂は深く考えなかったようだ。
ビルマや満洲もニューカレドニアと同じじゃないか、と思ったら別の視点が生まれただろうに。
これは決してビルマや満洲が、「天国に遠い」ところにある、という意味ではない。ビルマや満洲もニューカレドニアと同様に、人情も美しい自然もあるんじゃないでしょうか。

きだみのる,『東南アジア周遊紀行』,潮出版社,1974

2009-01-11 16:41:32 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
タイ・ラオス・カンボジアの旅行記、1968年から69年にかけて。
初出は『世界』『中央公論』、それに『文藝春秋』『展望』『潮』。

最初に言ってしまえば、わざわざ捜して読む必要なし。タイやラオス、カンボジアについてのおもしろい話はない。
ただ、当時の日本、当時この地域にいた外国人のようすを知るおもしろさはある。
ただし、ひじょうに読みにくい。この著者の書き癖もあるし、前後関係がわからない人物があるし(阪大の岩田君というのは岩田慶治のことだろうな……という具合)、当時の読者の関心を推測して読まなくてはならない。

で、その当時の読者の関心というのは、ムラというか、字(あざ)、農村共同体、著者のいうところのは、近代化の中でどうなるべきか、という問題。
どうなるも、こうなるも、そんなことはマチの人間にゃあ、関わりのないこったろう、というのが、ムラの人間の言い分だったろう。
この著者の『気違い周游紀行』(今となっては出版できない禁句を含む)も当時おおきな話題を呼んだであろうが、なにをあったりまえのことを書いているんだろうね、都会のセンセーは、と思った読者も多かったのではないか。

その著者が、東南アジアにも日本の(くりかえすが、このというのは、集落、字(あざ)のこと、未解放のことではないよ)のようなものがあるはずで、その調査の下見のような旅行が本書のもとになっている。

今から見ると、こんな見方は完全にハズレです。

人間どこでも同じだ、だから、おまえらアジアの人間も、我々アメリカ人のようになりたまえ、というのがエライ迷惑であったのと同じく、我ら稲作農民はみんな同じだ仲間だ、という日本人の考えもエライ迷惑だったのである。

その日本人が、当時1960年代後半に大勢タイ・ラオス・カンボジアに居住していた。というか、著者はそういう人脈の中で行動して見聞しているのだから当然だが、その日本人の様子がよくわかる。
外交官、海外青年協力隊(著者が平和部隊、平和部隊と書いているのでアメリカ合衆国の団体かと思って読んでいたら日本の海外青年協力隊のことらしい。)、日本工営、農機具メーカー、本田技研に味の素など、たくさんの日本人がいたのである。
また、フランスやUSAからの政府関係者、US Aid、平和部隊もたくさんいた。

そんなタイ・ラオス・カンボジアの様子がよくわかる。南ベトナムへは行けず。
カンボジアでは戦時賠償ではない日本の援助が展開されていた。
ラオスではチーズやワインが輸入されて、大使館や政府関係者に配られていた。
医療関係者の殺傷事件がタイで頻発していた。

それで、著者・きだみのる、この人物は完全なコスモポリタン、半フランス人でシティ・ボーイ、荒畑寒村や大杉栄と交友があり、アテネ・フランセのフランス人に連れられてフランスに行って暮らした人物である。
ちなみにアテネ・フランセは極東学院とも人脈がダブり、著者はギメ博物館や人類博物館の学者たちとも交友がある。
レヴィ・ブリュール『未開人の思惟』を訳しているし、ファーブル昆虫記も訳している。

そんな人物ですので、(字、ムラ)の観察といっても完全に外部からの目である。

当時、1960年代は、まだまだ都市とムラの差が歴然としており、都会の人間にはムラの情報が珍しかったのだろう。
同時にムラを近代化しよう!という進歩派(?)の考えの間違い、胡散臭さも意識されていた。
しかしこの頃、1960年代半ばから、急速にムラは解体し、同時に都市のほうもムラ化していった。食いっぱぐれの次男坊・三男坊が都市に流入し、ムラでは農作業よりも道路工事の賃労働が現金収入の道になっていく。

その都市の中のムラ的なものの代表が創価学会。
その創価学会系出版社・潮出版社は当時急速にインテリ知識人を取り込んでいた。
本書の初出誌である『世界』や『中央公論』からはみでた知識人を取り込んで、味方につけようとしていたのだろう。

ただし、この方針は(もし、そういう方針だったのならば)、まったく不要であり不必要だった。

創価学会ともあろうものが、ヘラヘラしたインテリに頼ることはないのだ。
自分達は自分達の、インテリから蔑まれるような人間関係や掟を守っていればいいのだ。そういうことを、きだみのるは主張していたんではないか。

これは皮肉でもなんでもない。
創価学会とも共生できないようでは、ムスリムや漢民族やクリスチャンと共生なんかできるわけないじゃん。

ただし、そんなムラ的な人間関係、の掟、字の暮らしを東南アジア全体に求めてもダメだった。
当時1960年代、USAもヨーロッパもさかんに東南アジアの民族調査をしていたのだが、その結果わかったことは、日本とは違うってことでしょう。

井上章一,『夢と魅惑の全体主義』,文春新書,2006

2009-01-09 19:00:34 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
次から次へと意表をつく著作を発表する方だ。
本書は、インターネット上に発表されたものを編集したものだが、著者はインターネットどころかパソコンも使わず、手書きの原稿を渡しているのだそうだ。

結論はシンプルだし、丹下建三を扱った章は前に読んでいるので、わかりやすかった。
つまり、ムッソリーニやヒトラー、スターリンとは違い、日本では〈ファシズム〉を表現するような建築は生まれなかった。
反対に、鉄材の使用規制により、バラック建築が丸の内に出現し、一方、皇居外苑は建築物のない広場として残された。
もし、ナチズムやスターリズムが造ろうとした建築を日本列島に捜せば、それは東京都庁や広島平和公園である。ここいらへんの語り口は、説得力あり。各自楽しまれたい。
さらに、蒋介石や毛沢東政権下でも継承されたものがある。

以下、勝手な付け足し。

本書を旅行ガイドとして見た場合、わたしにとって、縁遠い都市ばかりだ。
ロシアやドイツに行きたくないわけではないが、もし行けるとしてもサンクトペテルブルクやライン川・ドナウ川流域がまず第一目的地となるだろう。モスクワやベルリンは二の次である。
中国に関しても同様で、旧満洲や北京に長く滞在する気にはならない。

以上いずれも寒い所で、とても自分の金で行く気しないのである。寒い地方乾燥した地方に、〈全体主義的〉建築が建つというのは、なにか理由があるのではないか?
そういえば、ピョンヤンがこの種の建築の宝庫(あるいは、すでに遺跡?)であるな。南北統一後、ぜひ保存してほしいものである。

東南アジアでも〈全体主義的〉建造物は少なくないが、規模からいったら、まったく問題にならない。モニュメントや官邸、宗教建築も多いが、本書で解説しているような新古典主義にはならなかったようである。(ハノイやヴィエンチャンはどうだったんでしょう?)

武田雅哉, 『楊貴妃になりたかった男たち 』,講談社,2007

2009-01-08 22:20:02 | フィクション・ファンタジー
つぎつぎと、あっと驚く視点の本を発表する武田雅哉。
本書は漢民族の異性装を扱ったものだが、内容は詳しく紹介するまでもないでしょう。読む人はすでに読んでいるでしょうし。

〈オンナのような格好をする男や奇妙な外国のマネをする女が増えるのは、世の乱れる前兆〉というものの言い方は、大昔からあったのだ、と納得。

さらに、男=女、という区別が、士大夫=庶民・の区別、漢=胡の区別、と複雑にからみあって意識されていた、ということ。

服飾に関しては、少なくとも書籍に発表されるようなレベルでは、まったく読むに耐えないような低水準のものが多くて、食文化や建築に比べると、格段につまらない。
これは服飾に関する本を書いている著者たちが、文化人類学や経済学を知らず、農耕・牧畜などの生業に無関心で、宗教や統治に無知で、近々数十年のスパンでしか想像力が働かないからだ。なぜ、衣服に関する著作がおもしろくないのか、ということ自体が文化人類学やカルチャル・スタディーズのテーマになりそうなもんだ。

本書がある種の突破口になりますように!

*****
本書の内容に関係するが、本書に書かれていない、長年の疑問がある。
それは何かというと、漢民族はむかしむかしから、男女別々の服装をしていたのか?という疑問だ。
メラネシアやポリネシアでさえ男女の身につけるものには、その社会の中で明瞭な差異があったのだから、漢民族の衣服・装飾に男女別があるのは当然と想像される。
しかし、実際にどの程度の差があったのか、よくわからん。