東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

末広鉄腸,『南洋の大波瀾』,1891(明治24年)

2009-02-20 19:03:56 | フィクション・ファンタジー
まずテキストは『明治文学全集 6 明治政治小説(二)』,筑摩書房,から
奥付に編者名はないが、柳田泉の解説と編集。

底本は明治24年初版。総ルビの一部を省く。
それから書名だが、国会図書館の近代デジタルライブラリーでは『南洋之大波瀾』となっているが、画像データで表紙をみると、〈之〉ではなく、漢字の〈乃〉をくずした〈の〉である。

よって、本書明治文学全集での表記が正しいだろう。
ああ、めんどくさい!

ちなみに近代デジタルライブラリーの画像なんて、とても読めたもんじゃない。こういうものを、しっかりと電子データにおこして全文検索可能にするのが、グローバリゼーションに対抗するってことではないのでしょうか。
さらにちなみに、筑摩書房の明治文学全集は、記念碑的な全巻索引が完成している。人力でやったのだろう。

*****

やっとなかみにはいる。
以下、ストーリーをばらすが、ばらして文句がくるような内容でないでしょう。

文章は読みやすい。とくにルビがいっぱいなので、漢字が苦手な読者としてありがたい。
それで、シロウトの勘でいうと、この種の小説がこの時代で可能になったのも、講談や読本の下地があったからではないのか。
会話の文体など明治維新からの20年そこそこで発明できるものではなく、やはり江戸時代からの蓄積のうえになりたっているのだろう。
さらに挿絵もちゃんと日本的伝統のうえに改良されたもので、今見ても不自然ではない。

途中まで読んでいって、どうもへんだなと思い解題を読む。
最初から読んで、これは当時つまり明治20年代のフィリピン、マニラ中心であるが、そこに移住した日本人を中心にした話だとおもっていた。前提知識がなければ、だれだってそう思うだろう。
ところが、登場人物の名は日本風であるが、すべてフィリピン人およびイスパニア人である。主要登場人物に日本人はなし。

ホセ・リサールをモデルにしたフィリピン独立闘争がテーマである。

つまり、中心人物の多加山、阿清などすべてフィリピン生まれのフィリピン人である。
しかし、情景描写、人物描写、すべて和風であって、とても海外を舞台にした話とは思えない。
度量衡も貨幣単位も日本のもの、太守・飛脚船・下男・番頭などが登場し、いつの時代の話だとツッコミたくなる。
こんな小説がゆるされた時代なんですね。まあ、現代の小説であっても、海外を舞台にした話でにたようなものがいっぱいあるだろうが。

ストーリーはスペインからの独立を計画する主人公らが、最後に独立を達成するという話。
スペイン政府と旧教(カトリックのこと)が完全に悪役であり、なぜかイギリス人は協力的である。
最後に独立するのだが、中心人物、多加山・阿清が日本人の子孫であり、日本の保護領となってめでたしめでたしとなる。
この日本人の子孫であったという事情が、作者にとって異常に重要なことであり、系図だの先祖の宝刀についてまじめに考察される。
そして、その結果、まったく当然のように日本にシンパシーを抱き、フィリピンを日本の領土にすることを天皇に上奏し、議会の承認を得る。

あれれ、と思うが、この点が政治小説の政治小説たるところだろう。

フィリピンに領土的野心を抱く勢力としてドイツとイギリスが考慮されているが、アメリカはまったく眼中にない。そして当時の認識ではむりもないだろうが、華人系住民のことはまったく考えられていない。

こんな小説である。

対外政策、海外進出にかんすることは別にしても、現代の読者にとって、ストーリーがあまりにもご都合主義である。とうていありえない偶然が三回も四回もあって、話の進行はほとんど偶然に左右されているのだから。

『明治文学全集 6 明治政治小説集(二)』,筑摩書房,1967

2009-02-20 19:00:06 | フィクション・ファンタジー
以下、柳田泉の解説にそって、政治小説とはなにかを解説する。すでに政治小説について知っている方は退屈であろうが、しばしがまんしてくれ。

まず、明治10年代、自由民権運動、国会開設要求の主張をひろめる小説として出発する。
この民権運動というのは、てっとりばやくいうと、薩摩・長州政権に対する旧幕府側や東北列藩のまきかえしである。賊軍側、あるいは庶民のうらみと不満を代弁したものだ。

さて、明治20年代、国会が開設されても、事態はまったくかわらない。あいかわらず政府と政党がけんかしているばかり。日本は欧米資本の市場となり、不平等条約は改正されず、列強の猛威のなか国の存亡はいかに、という状態がつづく。

この時期になり政治小説とくくられる小説は、欧米列強への反撃、反植民地主義、日本の独立、海外雄飛などを論ずる小説となる。

さらに明治30年代、19世紀の末から日露戦争にかけて、題材や主張が多様になる。
柳田泉が紹介するところによれば、政治家の腐敗や政界のスキャンダルをえがいた暴露小説、後のプロレタリア文学につづく社会主義小説、女性参政権や社会進出を描く女権小説も政治小説の流れに位置するそうだ。

いまから見ると、どうしてこんなバラバラなものが政治小説と一括されるのかふしぎだが、社会の矛盾をあばき、未来への提言をし、欧米列強への反撃をアジる、など当時の政治主張をごった煮的にもりこんだものが政治小説なのである。

さて、実際のテーマ、ストーリーをみると、こんなものがある。
東洋奇人『世界列國之行末』 明治20年

世界は七つの強国に分断され、その最強のものはアメリカとロシア。
ロシアは中国を併せ、上海から日本攻撃の指揮をとる。
日本は陸上・海上とも破れ、アメリカに助けを乞う。
アメリカは革命党を裏からあやつり、ロシアに内乱を起させる。
その結果ヨーロッパ全土が同盟し、アメリカと日本を助ける。

この例など、まだまだおとなしい話でまとまっている部類なのだそうだ。

架空戦記、ユートピア小説、海外立志伝、南洋冒険小説などの原型が誕生した。
さらに、村井弦斎の家庭小説に代表される社会改良小説、山田長政を主人公にした歴史小説、〈ジンギスカンは源義経だった〉系の擬似歴史トンデモ系、沈没したと思われた帝国海軍戦艦が実は世界平和をまもるため……、という『沈黙の艦隊』の原型みたいなもの、みんなこの時期に登場している。

そして、中国や朝鮮と連帯しようというアジア主義、逆に中国などを征服しようという北進論、共産主義やアナーキズム、ユートピア論、人道主義、対ロシア防衛論、南洋開拓論、などなどさまざまな思潮とむすびついて多様化する。

えーとつまり、
横田順彌『日本SFこてん古典』や小熊英二『単一民族神話の起源』に書いてあるようなハチャメチャ系がこの時代にどっと出てきたわけだ。

その代表が本巻収録の末広鉄腸であり、東海散士である。
以下、末広鉄腸の『南洋の大波瀾』を紹介。

『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』,光文社新書,2007

2009-02-20 18:59:26 | 国家/民族/戦争
愛娘『想像の共同体』の嫁ぎ先だが、文学さん家は家柄はいいのだが、最近落ち目で将来が心配だ。
地域研究さん家は、最近羽振りがいいが、なにしろ成金だから、いつまた元のヤクザ者にもどるともかぎらない。
まあ、親心としては、そこそこの人類学家か、堅実な歴史学家がいいだろうな。

ところが、いったん娘を世に出すと、ポストモダンとかカルチュラルスタディーズなんて、どこの馬の骨かわからんジゴロに言い寄られるわ、正体不明の外国人に求愛されるは、とんでもないことになった。

親としては、いったん手放した娘、もうおとなになっているのだ。もはやでしゃばることはない。
といいながら、ぶつぶつ言っているのが、この日本での講演。

2005年4月、早稲田大学での二日にわたる講演記録。
それに編者の梅森直之がサマリーと感想を加えている。
質疑応答も収録されているが、この部分つまらん。

題名に偽りあり。ベン教授の関心は19世紀後半に始まる世界の一体化であって、現在進行中のアメリカ合衆国によるグローバリゼーションではない。テロリズムについても、現在報道されるようなものに特に関心なし。あたりまえだろう。

さて、アンチョコ本であるが、とても参考になった。
『想像の共同体』は最初のNTT出版版を読んだが、詳しいことは忘れた。もう一度トライするのも面倒だし、内容がわかっているものを再読するのはしんどいので。

それでこの『想像の共同体』だが、みなさんむずかしく考えすぎているんじゃないですか。
たしかに、ベン教授の特殊な用語、難解な英語はやっかいだが、言っていることは簡単だと思うんだけど。

さらに混乱の元は、〈均質で空虚な時間〉〈出版資本主義〉〈巡礼〉〈海賊行為〉〈公的ナショナリズム〉といった造語をツマミ食いして、別の領域に応用する読者がおおぜい現れたことではないか。

元祖ベン教授の関心は、講演の後半で語られているように、アナーキズム、クレオール化した半ヨーロッパ人半現地人が世界化する、という方面のテーマであるらしい。
いわば、国民国家化は、元の関心テーマの半分で、残りの半分のほうにベン教授は強いこだわりを持っているのではないか。

本書によってベン教授の温めてきたテーマ、将来書きたいテーマはわかった。

では、親元を離れた『想像の共同体』をどう読めばいいのだろう。

インドネシア研究者しか読まないような本が、全世界で注目され、ベン教授もびっくりだろうが、インドネシアに関心を持つ日本の研究者も、あれよあれよというまに、部外者にごちゃごちゃにいじくられて、困っているのではないか。

これは、決して縄張りを荒らされた、というケチな料簡ではない。

もう一度、基本を考えるため、以下の論考をおすすめする。

『東南アジア研究』,34 巻 1号 1996 年 6月 所収
高谷好一,「〈想像の共同体〉論批判 〈世界単位〉の立場から」
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56580/1/KJ00000131920.pdf
 
土屋健治追悼特集号で、土屋健治に対する批判として書かれているが、内容は〈想像の共同体〉論批判である。
この高谷論文の結論は、わたしは同意できない。近江出身の高谷好一がイメージするような生態に即した世界があるにしても、それ以外の世界各地の人々が生まれ育った地域が、近江と同じように生態にねざした価値ある世界とは無条件に肯定できない。荒れはてた開拓地や過密都市をすみかとする人々もいる。

しかし、全体の論旨のすすめかたはきわめて明快。
強引な展開が気になる方は、参考文献にあげられている
加藤剛、白石隆、矢野暢、富沢寿勇など各論文をどうぞ。

井上章一,『日本に古代はあったのか』,角川書店,2008

2009-02-16 21:28:46 | フィクション・ファンタジー
まったくわかりやすい、おもしろい文章を書く著者だ。
p70,71 より

マルクス主義史学の歴史家に、お国自慢の意識があったとは、思いにくい。日本にも、昔は奴隷がいたんだぞ。少々定義はあいまいだけどな、人民はその大半が奴隷だったんだ。どうだ、すごいだろう。まいったか。日本にも古代はあったんだからな、見くびるなよ。と、そう彼らが考えていたわけではないだろう。

日本も罪ぶかい国でした。一見、本格的な奴隷はなさそうですが、じつはいたんです。たとえば、班田農民というかっこうで、なりをひそめていました。すみません、日本にもあのいまわしい古代をへてきていたんですよ。

これは、日本にも西洋のような奴隷制があったかどうかという、戦後歴史学界のもんちゃくを軽くいなした部分であるが、ちょっと前まではまじめに論じられていたのだ。

なぜ奴隷制、農奴制がこれほど大きな問題になったかというと、マルクス主義では労働力の調達のちがいが時代をわける画期となっており、だから奴隷制と農奴制の区別は古代と中世を区別する指標して重要である、というわけである。

だから日本での論議は、地中海地域の奴隷を北方ヨーロッパの農奴制と比べ(この段階で、比較が可能かという疑問があるのだが)、さらにそれを東方の島国日本の状況にあてはめようとする。(さらに、近代の南北アメリカでの奴隷制をいっしょくたに論じるめちゃくちゃな話もあったが、さすがにまともな歴史家にはそんな混乱はない。)

このテーマに関しては、決着がついているだろう。
オリーブやブドウやコムギをつくる地中海の農法と、オオムギやソバを植えてブタを飼う北方の農法を比べてもしょうがない。さらに、乾季がない日本列島の農耕にあてはめても意味ない。
さらに、班田というのは、商品作物であるコメをつくるプランテーションですよね?
あれは、労働力が不足している時代にムリヤリ労働力を集中させて商品作物を作るという発想から生まれたものですよね?(違うのか??)
プランテーションと小規模焼畑農耕が混在する地域で、プランテーションだけ見ても全体は描けない。

本書の大テーマである時代区分論、つまり、古代と中世の境目はどこか、中世と近世の境目はどこか、という問題も、現在ではもう、論じるのは意味ないから止めようという趨勢になっていると思いますが、どうなんですか。

もちろん、著者の企図としては、歴史学者の仲間うちでけで了解していてズルイじゃないか。教科書にはまだ、日本の古代なんて分け方になっているのに。一般人には教えないのか、という抗議がある。
そういうシロウトの素朴な疑問をしっかりと追及して、わかりやすい文章で論じたという意味で、著者の熱意に感服する。

*****

いちばんおもしろく、わたしの関心にはまったのは、ゲルマン民族のローマ帝国への侵入を、東国の武士の畿内への侵入になぞらえてとらえた歴史観。
本書によれば、これは京都大学の史学科にはじまる。

初代国史科教授であった原勝郎『日本中世史』(1906、現在、平凡社東洋文庫,1969で読める)である。

ゲルマニアを東国にたとえ、軟弱な文明に毒されていない素朴で質実な勢力ととらえる。
一方、京都をローマにたとえ、爛熟して活力のない女々しい世界ととらえる。

こういった、ゲルマン=東国、ローマ=京都、というつなぎかたがおかしい以前に、地中海からゲルマニアに広がる西洋を日本列島の一部に縮小してあてはめてしまうのがヘンなのである。

国史科が、広大なユーラシア西部の動きをせまい日本列島におしこめた一方、東洋史科では、ユーラシア西部の動きを東ユーラシア全体と共通する社会の変動としてとらえた。
内藤湖南にはじまる発想であり、宮崎市定にひきつがれる。ならば、そのユーラシア全体の時代区分を日本にも適用するのが本筋であろう。
だから、卑弥呼の時代にはすでに中世である。というのが本書を貫く主張である。

著者は原勝郎は南部藩出身の東北人であり、京の都に劣等感をもつ関東史観をひろめた研究者ととらえる。
ここが本書のおもしろいところだが、著者は研究者の出身地、出身校から関東派をあぶりだして、アンチ京都派ととらえる。
うーむ。
しかし!井上さん、内藤湖南も南部藩出身ですけど。現在では秋田県になっている十和田(鹿角市になってしまった)の出身だが、南部藩士の息子ですよ。

でも、こういうところも含め、著者の下世話な分析は好きですよ。

平泉澄と石母田正に共通する京都蔑視をあばいたところなど、最高におもしろい。

*****

一点、ひっかかることろ。

本書は全体として、史書や研究書、一般向け啓蒙書を扱っている。
しかし、ひとりだけ、著者が直接問いかけた人物がいる。
梅棹忠夫だ。

『文明の生態史観』によれば、封建制度(フューダリズム)は日本とヨーロッパのみに存在した特殊な歴史過程である。そして、梅棹は武士の台頭によって、日本に封建制が生まれたととらえた。(そうだっけ?詳しい中身忘れた)
その点について、著者・井上は直接梅棹忠夫にたずねる。

――京都には、いわゆる封建領主がいなかったと、お考えですが。
「そう考えています。京都は町人の街だった。封建制のしくみは、京都におよんでいない。」
――梅棹先生は、封建制が日本の近代化につながったとお考えですよね。そうすると、京都は日本の近代化と関係がなかったことになってしまいますが。
「基本的には、無関係です。京都は日本の近代になど、すこしも貢献しなかった。近代化からは浮きあがっていた街だと言ってもいいでしょう」

これを、著者・井上は、梅棹が京都を否定的にとらえている発言だとしている。

ええ?!

その場の口調や雰囲気はわからないが、文字どおりにみれば、京都を否定するどころか、ほこりをもって肯定しているのではないですか??

梅棹にとって近代化とは、進歩や啓蒙ではなく、ひとつの文化(文明といってもよいが、梅棹は西ヨーロッパやアメリカを文明とは言わないだろう)のタイプにすぎないのでは。
その近代化なんぞにかかわらなかった京都こそは、独自の別のタイプの文化(これは、確実に普遍的文明ではない、狭い地域の文化だ)をもっているのだ、と言いたかったのでは。

矢沢利彦 編訳,『イエズス会士中国書簡集 5 紀行編』,平凡社東洋文庫,1974

2009-02-09 22:54:39 | 翻訳史料をよむ
これも訳者が嘆くように読まれていないんだろうな。
この時代の歴史に詳しい人はべつだろうが、わたしも実物を手にとってみる前は内容がまったく想像できなかった。
康熙・雍正・乾隆時代のイエズス会士の書簡で、地誌・紀行の分野のものを10篇選んで訳出したものだが……

なんと!イエズス会士は康熙帝のブレーンになって測量調査をしていたのだ。

だから中原の地よりも、華南沿岸、長江河口の崇明島、澎湖島、台湾島、琉球、南沙諸島、新疆、西蔵、それに北京禁紫城の内部まで、辺境のようすが伝えられている。(ほかに、ポルトガルから華南まで、インド洋航路、マラッカ海峡の描写もあり。第1~第3書簡)
なんというか、今現在からみてキナ臭いところを彼らイエズス会士は実見していたのだ。
というより、現在おきている問題の起源が、このころ清朝に編入された領土なんですね。

なお、第四書簡は当時の大問題、「典礼問題」について。
クリスチャンが儒教・道教・仏教の儀式に参加することを認めるかどうかという問題。この問題がこじれて、雍正帝時代に禁教になったのだが、当時の事情を伝えている。
ところで、鄭芝龍がクリスチャンだって書いてあってびっくり。(ウィキペディアにもそれらしきことが載っているが、こういう微妙な問題は信用できないからな)これって常識なのか? 

日埜博司,『クルス『中国誌』』,講談社学術文庫,2002

2009-02-08 17:31:06 | 翻訳史料をよむ
矢澤利彦「学術文庫版のための序」が冒頭に。
それによれば、
長南実・矢澤利彦 訳,ゴンサーレス・デ・メンドーサ『シナ大王国記」,1965
は、クルスの著作を大量に引用・剽窃したものであり、一次資料としては、本書『中国誌』のほうが格段に正確であるのだそうだ。
メンドーサの訳者がじきじきに言うのだからほんとうだろう。

ただし記述が正確であることが即、史料としての価値を高めるかというと、そうでもないのだ。

どういうことか。

つまり、メンドーサ『シナ大王国記」のほうは、当時のヨーロッパ人のシナに対する憧れ、幻想、過大な賞賛、事実を歪めた描写があるわけだが、そのマチガイや勘ちがい、誤解を知るために重要な史料であるわけだ。

それに対し、本書のほうは誤解や曲解が少なく、だいいち著者本人がシナ本土を見たファーストハンドの記録である。
当然、内容に信頼はおける。
しかし、その事実の部分というのは漢文史料そのほかで容易にわかる内容である。現代の日本人読者で、当時のシナを知るために、まず本書にあたるという読者はほとんどいないだろう。

ここに、「序」の著者・矢澤利彦が書いている憤懣の理由があると思う。
どんな憤懣かというと、矢澤らが訳したものは、ほとんど読まれていない、批判もされない、ということだ。

かくいうわたしも「シナ大王国記」は、ぺらぺらめくっただけで、降参。
実に読みにくいのである。
なぜ読みにくいかというと、当時のポルトガル人記録者の誤解や偏見やマチガイをできるだけ原型をとどめるように訳しているからだ。
だから、固有名詞も地名もポルトガル語のカタカナ表記をつけ、シナ語をポルトガル風に書いたものの原綴をひとつひとつ示す。
たしかに史料翻訳としては当然の努力であるが、一般読者としてはしんどい。

一方、本書は実に読みやすい。
めんどうな文献的注、言語学的注を省略し、本文がすらすら読めるように書かれている。
注は、記述が妥当かどうか、メンドーサの記述との差異、当時の事情など内容そのものに関することをまとめて読者に説明する。
春名徹氏が書評で絶賛したそうだ。

もっとも、あんまりすらすら読めて、見逃してしまう危険もあり。
「大航海時代叢書」など読んでいる人は先刻ごぞんじだろうが、〈中国〉〈インド〉などという訳語、知らない人が読んだら誤解しそうである。

凡例に明記されているように、〈インド〉というのは、南北アメリカ大陸だけではないのは当然だが、本書の時代はインド洋から日本列島あたりまでを含む。もちろん、日本列島という地理的概念はまだないが。

書名としては最初の『十六世紀華南事物誌 ヨーロッパ最初の中国専著』のほうが適切だと思うが、これじゃますます売れないだろうな。

*****
原書出版1570年、クルスは印刷完了直前にペストで死亡。

初版は、
『十六世紀華南事物誌 ヨーロッパ最初の中国専著』,明石書店,1987
改訳、改題して再刊は
『クルス「中国誌」 ポルトガル宣教師が見た十六世紀の華南』,新人物往来社,1996

本文庫は、新人物往来社版を底本として、序文やあとがきを付ける。文献的註釈は省略。索引なし。

川北稔,『世界の食文化 17 イギリス』,農文協,2006

2009-02-06 21:53:02 | ブリティッシュ
世界史の最大の(?)謎、イギリスの食事はなぜまずいかという謎に挑む。

しかし、ほんとにイギリスの食事がまずいのか、これはもうわたし自身たしかめようがない。
たくさんの旅行記、滞在記、伝聞でイギリス(ブリテン)の食事がまずいという話はしきりに出るが、一方でイギリスの食文化をもちあげる記事もある。
それに、イギリスだけでなく、ロシアやドイツもまずいという話はよく聞くし、フランスやイタリアだって、ほんとは口に合わなかったり体質に合わない日本人が大勢いるようだ。
タイやベトナムだってちょっとまえまでは、うまいとかまずいという以前にまったく情報がなかったのだ。

ともかくわたし自身行ったことがないし、たとえ行ったとしても短期間の滞在でわざわざマズイものにトライすることはないだろうから、自分で確認するのは不可能だ。
それに本書によれば、1970年代前半から劇的に変化し(転換点は1972、3年)、おいしくなっているし、旧植民地と地中海地域の食文化が根をおろしているという。

ここまで書いてきて、これはあきらかに、イギリス(ブリテン)に対する特殊な関心の持ち方だとわかる。

ほかの国・地域なら、他人様の食事をマズイとか酷いというのは失礼だし、環境により農産物・海産物が乏しい地域はおおいし、社会の下層の食生活が貧しいのは当然のことである。
それなのに、ブリテンだけとくにマズイ、マズイ、といわれるのは、ブリテンに対する日本人の特殊な感情によるものだろう。

本書は、歴史の中で何段階にも生じたブリテンの食生活の劣化を考察し、世界システムの中枢になったブリテン島の住民の食事をとおして、イギリス史に対する誤解を解きほぐす試みでもある。まあ、『路地裏の大英帝国』と『砂糖の世界史』を読んでいれば、ほとんどわかっている内容であって、頭を整理するために読む。

*****
日本の戦時中の食糧難について、「米がなかったら、パンを食べればいいのでは?」と言った学生がいたそうだ。
マリー・アントワネットみたいな発想の学生だが、著者・川北稔はこの発言に注目する。

>日本人は米さえあれば生きられるように思っていたが、その意識が、外国の食生活の理解にも反映されて、イギリスの食生活を考えるにも、ひたすら小麦のことを考えればいいというような、いささかとんちんかんなやりかたが専門の歴史家のあいだでさえ、とられてきた。じっさいのイギリス人の食生活では、小麦の比重はけっして大きくはない。小麦価格をもって、食費の指標とするようなことは、きわめて乱暴なことなのである。

>砂糖と茶の消費が増加し、ミルクやチーズが減少したことについては、もうひとつ押さえておくべき要因がある。栄養価が低く、多くの批判があったにもかかわらず、なぜこのような変化が起こったのか。
 (中略)
>囲い込みが進行すると、共有地を利用した牛乳の自給は困難になった。そうでなくとも、これらの商品は、供給される季節が限定されていて、変動が激しかった。保存や運搬の技術も未熟であったから、ロンドンのような大都会の住民にとっては、コンスタントにミルクの供給を受けることはきわめて困難になった。つまり、工業化と都市化とは、それ自体が、供給面でも、オートミールやミルク、チーズの消費を困難にしたのである。

ポテト・茶・砂糖については当然ながら記述が多いが、牛乳に関してもくわしい。
新鮮なミルクは下層の都市住民にとって高価な製品であった。離乳後の子供には栄養上、牛乳が必要だという事実を知らない母親が多い(?)、と言われるほど。タンパク質もカルシウムもほとんどない食生活である。
慢性的栄養不足による結核・赤痢も多かったし、クル病、トリ目、乳歯が生えない、という栄養失調による発育不全があった。

極貧層をのぞいて、一応、牛乳が衛生的に供給できるようになるのは、19世紀後半である。

食肉もジェントルマン階級以外に普及したのは、冷凍技術が導入された19世紀後半である。ニュージーランド、オーストラリア、アルゼンチン、アメリカ合衆国からの輸入が可能になって、ブリテン産食肉(アイルランド・スコットランド含む)は六分の一以下になった。

*****

とまあ、経済的要因は以上のようなことであるが、イギリスの食事のマズサというのは、家族構成・ライフサイクル、それにジェントルマン階級の教育制度もおおきな要因になっている。
親の世代から子へ調理が伝えられない。その労働者階級をサーヴァントにして、中産階級が料理を作らせる。また、少年期・青年期の寄宿舎生活で味覚を破壊される。女性が(妊婦も)タンパク質・ビタミン類が不足し、一家の主人はアルコールに収入をつぎ込む。

1930年代から第二次世界大戦期の食料配給・給食・食堂も強い影響をあたえる。ここで、決定的に、栄養素が足りていれば味はどうでもいい、というイギリスらしさが定着する。

*****

しかし、読み終わっても、やはり謎は残る。

なぜ海産物の加工は進展しなかったのか?(気候のせい?)

なぜトマトやトウガラシは普及しなかったのか?

醗酵食品が少ない理由は?(アンチョビー・ソースなど例外はあるが)
ザワークラウトやキムチのような保存技術はなかったのか?

どうしてまともなパン製造が普及しなかったのか?(商品化、外食化で進歩してもよいはず。)

臓物料理が民衆に普及してもよさそうなのに、それもなし。上等のクジラ肉料理が生まれる条件はあったはずなのだが。