東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

大塚和夫,『イスラーム主義とは何か』,岩波新書,2004

2009-12-29 21:21:52 | 国家/民族/戦争
第5章 ムスリムの「近代」
2 世俗化・近代化再考

ここで、西欧式の近代=世俗化という前提に疑問をはさむ。

一般的な理解として、近代化にともなう世俗化として、

1 政教分離~国家は宗教に介在しない。特定の宗教を保護しない

2 宗教の私化~宗教は個人の内面の問題であり、また家庭などの私的な領域での規範や行事、儀礼である。

3 現世意外の領域、つまり死後の世界や他界よりも、現世、現実の世界の問題を重くみる。

というような傾向を含蓄する。
しかし、本書で論じられているイスラーム世界においては、近代化が必ずしも政教分離や宗教の私化をともなわず、また来世を現世よりも重くみる(不適切な例だが、自爆テロリストなど)世界観も強まっている。

このように、イスラーム世界以外では、ナショナリズムと結びつく傾向が、イスラームにおいては、宗教と結びついている。われわれは、このような近代化も一つの世界であると、認識しなければならない。

しかし!

ここでまちがってはいけないのは、イスラームとひとくくりにできる一枚岩のイスラーム世界などというものは、存在しない。
同じ言葉で語られるもの、たとえば本書の例でいえば女性のヴェール。エジプトでヴェールを着用する女性と、アフガニスタンでブルカを着用する女性と、インドネシアでジルバブを着用する女性を、同じように伝統回帰とみてよいわけはない。
それぞれの歴史的・地域的な事情と政治的あるいはファッション的意味がある。

つまり、「ヨーロッパ的近代」と「イスラーム的近代」と二者択一に論じることはできない。

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という前提にたって、著者のエジプト滞在の話を含め、イスラーム主義の歴史が説かれる。

第1章 アラビア半島のワッハーブ運動
第2章 スーダンのマフディー運動
第3章 エジプトのムスリム同胞団
第4章 エジプトのジハード団など、20世紀後半の動き。

とくに第4章に関しては、識字率の上昇、高等教育の普及にともなって、西欧の文化を知った知識層から「イスラーム復興」の動きが出てきていると説かれる。(ゲルナーやアンダーソンのおなじみの理論も援用される。)

第5章 4 ピューリタニズム的イスラーム?

ゲルナーの
"A Pendulum Swing Theory of Islam"
という論考は初めて目にするのだが、(だいいちわたしはゲルナーなんて読んだことないし、モロッコでベルベル語を話すムスリムを研究したなんてことも知らなかった。ハリー・ベンダと似た生い立ちの人なんだな……)そのなかで、ゲルナーは前近代のイスラームの動向を説明するものさしとして、以下の二つの基準を考えた。

C特性群
1.現世・来世におけるヒエラルキー志向
2.聖なる存在と一般信者との間を媒介する聖職者や精霊の活発な活動
3.知覚可能な物体などを用いた聖なる存在の具象化
4.儀礼や神秘的行為が盛況になること
5.特定の個人・人間への忠誠

P特性群
1.厳格な一神論志向
2.ピューリタニズム的厳格主義
3.聖典と読み書き能力重視
4.信者の間の平等主義
5.霊的仲介者の欠如
6.儀礼的な放縦さをおさえ、中庸で覚醒した態度を尊重
7.情緒よりも法や規則の尊守を重視

という分類である。
このC特性群はカトリック、P特性群はイスラームに該当するものであるが、ゲルナーはさらに、イスラームの内部にこのC特性群とP特性群に対応するものがあると分析した。

著者は、ゲルナーは前近代について上記のように述べたが、現在でも(もしくは現在のほうがもっと)この枠設定が役立つのではないか、と述べる。

以上、かなり雑な紹介になったが、イスラム原理主義などという言葉を不用意に用いないようにするためにも一読した。
わたしはつねづね、シーア派とかスンナ派とかいうメディア上の言葉に違和感を抱いているのであるが、ああいった雑な分類にひきずられないようにしなくては。

もっとも、同じ著者が編集した、
大塚和夫 編,『世界の食文化 10 アラブ』,農文協,2007
なんかを先に読んだほうがいいかもしれない。

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本書執筆当時は石原政権の都立大学問題でかなり悩まされたそうである。
その後、めでたく東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長にご栄転!
えっと、今ウェブで調べたら、今年、2009年4月29日、59歳で死去!?!
ぐあーん!

小宮まゆみ,『敵国人抑留』,吉川弘文館,2009

2009-12-28 23:19:48 | 国家/民族/戦争
労作である。わたしの知るかぎり類書なし。
ドイツ人に関しては『戦時下のドイツ人』集英社新書, があるが、総合的に戦時下の外国民間人を扱ったのは本書一冊だけではないだろうか?

まず、よっぽど外交史や戦史に詳しい読者でないと、背景知識がない。
大東亜戦争終了時の中立国はいくつあると思いますか?

スイス
スウェーデン
ポルトガル
アイルランド
アフガニスタン
バチカン

以上六カ国である。
スペインはどうした?かというと、1945年4月国交断絶。
アイルランドが中立国?1943年5月に日本国総領事館設置により、中立国になる。
ドイツは降伏により、自動的に敵国扱いになる。(三国同盟の規定による)
ポーランドは45年6月統一臨時政府樹立、対日宣戦布告。

そういうわけで、開戦時は、アメリカ、ブリティッシュ・コモンウェルス、オランダ、それにギリシャやベルギーなどのヨーロッパの連合国側だけだった敵国人がどんどん増えていく。
最終的には、イタリア人・ドイツ人・フランス人・スペイン人・ポーランド人も敵国人として抑留することになる。

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本書の緻密な調査の中で一番驚いたのは、秋田県鹿角郡毛馬内町のイタリア人収容所である。毛馬内!内藤湖南が生まれた山奥じゃないか。
そこの毛馬内カトリック教会にイタリア大使はじめ外交官、それに大連・ハルピン・台北から移動してきた領事館員が収容された。
ここは著者自身が聞き取りにでかけている。まずまず平和な生活であったようだ。よかった、よかった。

もう一か所、秋田県内では、平鹿郡舘合町へ厚木市七沢温泉の女子抑留者が移されている。本土決戦にそなえ「相模湾上陸作戦」阻止のため、敵国人抑留者を移動させたのだそうだ。

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以上の例を含め、すべての収容所の収容人数、死亡者、移動が克明に調査されている。
ほとんどが合法的な処置であり、赤十字などへ情報公開しているのだが、秘匿された例もある。

もっとも悲惨なのは、アッツ島のアリュート人。
敵国人ではないから殺すことも捕虜にすることもできず、アメリカ側の攻撃が予想される中、小樽へ移送される。
結核などで半数近く死亡。
彼らの存在が赤十字国際委員会は報告されるのは1945年8月14日。
実は、彼らアリュート人は戦争終結後、こんどはアメリカ政府にたらい回しにされ、結局アッツ島へ帰還することはかなわなかった。近くに核実験場があるように、軍事上の要所とされたためである。

秘匿された抑留者に、オランダの病院船オプテンノール号乗組員がいる。病院船を拿捕し、さらにそれを改装して日本軍の病院船に使ったという国際法違反を隠蔽するためであったらしい。
この乗船員では、オランダ人船員が抑留されたことは当然として、インドネシア人下級船員も抑留されたのである。(インドネシアという国籍はなかったから、どういう根拠だったか不明。というより完全に違法ですね、一応大東亜の同盟国であったのだから。)

『近代日本思想大系 13 歴史認識』,岩波書店,1991

2009-12-19 21:17:36 | 国家/民族/戦争
田中彰・宮地正人 校注 による史料集

なんで突然こんな本をひらいたかというと、
井上章一,『キリスト教と日本人』,講談社現代新書,2001
に、久米邦武の筆禍事件について記述があり、なんのことかと思ったから。

久米邦武というのは、あの久米邦武、『米欧回覧実記』、岩倉使節団の記録者である。太政官の修史館館員であり、太政官制度廃止後には帝国大学の編年史編纂掛、帝国大学教授をつとめる。
この時期に発表した「神道は祭天の古俗」という論が問題になり(『史学会雑誌
』掲載のあと田口卯吉主催の『史海』に転載)、さまざまな批判を浴び、離職する事件があった。

ということすら知らなかったが、本巻にはその論文全文のほか、批判・反論が併録されている。また、同じく編年史編纂掛の重野安繹(こちらのほうが歴史家としては有名なんだそうだ)の論文なども読める。
もちろん、校注者の手が加えられており、収録文献の選択にも編者の個性が反映しているが、気軽に原史料にアクセスできる。

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でも、その前にこのシリーズについて。

全23巻+別巻1巻のシリーズで、加藤周一が中心編集委員らしい。
幕末から明治末期あたりまで、各テーマ別の資料を集めた形式である。

このシリーズには『15 翻訳の思想』『16 文体』といった、文章や言語、文字そのものをテーマにした巻があるが、この『13 歴史認識』に収録された文章をみてみても、ああ、やっかいな問題であったのだなあ……と痛感する。

ちなみに、収録された文献は、新字体に改められ、訓点や句読点を加え、難読語句にはときどき振り仮名も加え、註釈も付いていて、これでもか!というくらいに易しく直してくれているのだが、それでも読めない字がいっぱいあるのです。情けない。
(『日本語が亡びるとき』みたいな話になるが、)明治期に公用語を英語とかフランス語にしよう!などという今から考えると暴論が出たのも、必ずしも極論ではないなあ、と思う。

現在でも読まれている文学作品を見ると、ヨーロッパ語を公用語にするなど途方もない暴論に聞こえる。
しかし、本巻に収録されている文献のほとんどは、漢文訓読体で書かれているのである。それどころか、日本人による著作でも原文が漢文(もちろん白文ですよ、返り点や句読点のないナマの漢文)のものがある。
つまり、書き手も読み手も、頭を漢文にして思考していたのである。ならば、漢文のかわりに英語にしよう、という流れがあってもふしぎではない。

とくに本巻収録の文献は、外国の歴史、地誌、歴史認識をテーマにした文章である。
漢文(清国人やヨーロッパ人が書いたシナ語)を翻訳(というより訓読)した文や、英語やフランス語からの翻訳を含む論考が多数収録されているが、これらは、ヨーロッパ諸語の原文のほうがわかりやすいのではないか、と思われる文が多々ある。

というより、本巻収録文献を今さら現代人が読む価値はどのへんにあるかという問題でもあるのだが、当時の人々、一般人ではなく要職にある者や学者でさえも、ほんとうに理解して読んでいたとは思えない内容が多々ある。

漢字を読むのが不自由な現代の読者でも一応内容がつかめるのは、実は、すでに内容を知っているからなのですね。フランス革命だろうがアメリカ独立だろうがイギリスの議会政治だろうが、すでに内容はわかっている。だから、その現代の知識から内容を類推して読んでしまうのである。

ところが、当時の明治の学者・ジャーナリスト・官僚、その他知識人がこれらの文章を読んだ段階では、歴史上の人物の相貌も地理的な知識も生活習慣も、ぜんぜんわかっていなかったのですね。
英語やフランス語やドイツ語の単語をたんに漢字に置き換えただけで、概念などまったくわかっていない場合も多い。
地名や人名はカタカナで書かれているものも多いが(ちなみに地の文がカタカナの文も多い)、どこの誰やらちゃんとわかっている人はほとんどいなかったのではなかろうか。

今では、ヨーロッパ語の固有名詞は、カタカナ書きの規則がある程度、あくまである程度であるが、固まっているから、それほど違和感はないけれど、当時の著作者・翻訳者はそうとう苦労しただろう。
だいたい、本巻収録の文献では、各自バラバラの勝手な表記をしているのである。これでは、誰が誰やら、何処が何処やら、さっぱりわからなくなる。(さらに、索引が作れないのだよ)
シナ語の漢字表記も同様である。むこうのほうが滅茶苦茶に見えるが、当時のカタカナ表記をみると、同じくらい混乱して、同じくらいわかりにくかったのだなあ、とわかる。

と、すれば、本巻の編集意図にそって読むと、近代的歴史学の方法を輸入し、なんとか日本の歴史を解き明かそうとした歴史家よりも、皇国史観を当然のこととして国民に植え付けようとした一派のほうが耳目に入りやすかったのかもしれない。あっけらかんとした、デタラメでも嘘でもいいじゃんかー!と主張する論が「久米邦武事件」に関連して収録されている。こういう文献が気軽に読めるのが本シリーズの長所だろう。
一方で、福沢諭吉や田口卯吉の論など、これほど長く収録する必要があったのか疑問。ちゃんと全編読める本が入手容易なのだから、これらは書誌事項ぐらいだけで済ませてもよかったのではないか。

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Ⅰ 幕末の歴史認識 10個の文献
Ⅱ 明治前半期の歴史認識 15個
Ⅲ アジア主義と歴史認識 8個
Ⅳ 日本における近代史学の形成 25個
Ⅴ 天皇制イデオロギーの形成と歴史叙述 10個
Ⅵ ドイツ史学の導入 3個
Ⅶ 久米邦武事件 6個

という多数のアンソロジーなのでほとんどが抄録、序文だけのものや断片に近いものもある。ちゃんとした研究者は原文にあたるのだろう。

『海国図志』。魏源が林則徐の嘱をうけて編纂したものであるが、日本では何種類もの翻刻本があるんだって。本巻では4種のさわりを収録。
『坤輿図識』も抄録。閣竜(←コロンブスのこと)小伝の部分、どっかで見たことがあったっけ。

というように多数の文献のさわりを読めるが、本文自体よりも、書誌事項と執筆・刊行の経緯と影響のほうが役にたつでしょう。

鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創,『日米交換船』,新潮社,2006

2009-12-08 23:04:25 | 国家/民族/戦争
鶴見俊輔から記憶に埋もれた過去を掘りだす聞書き。
『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔×上野千鶴子&小熊英二,新曜社,2004)よりおもしろい。鶴見俊輔のくりかえしの多い思い出話なんかもうウンザリという人も、本書の内容にはびっくりするのではないか。

日米開戦当時の状況は、わたしなりに少々わかっているつもりだったが、ぜんぜん知らないことが盛りだくさん。黒川創が手堅くまとめた交換船の記録と鼎談によって知ることができる。

たとえば、エジプトとイラクは一応連合国側であるのだね。アフガニスタンがどういう経緯かわからないが中立国。
中南米の国々は、参戦はしていないが、日本と国交断絶になった国が多く、中立国はアルゼンチンだけ。

そして、交戦国の代理交渉国として、それぞれ中立国を指定するわけである。ヨーロッパの四国、スイス・スウェーデン・スペイン・ポルトガルである。
ポルトガルが中立国であったということは、現在のマカオやゴア、東チモールも中立地帯であったわけだが、連合国側と日本の国民を交換する港になったのは、現・モザンビークのロレンソ・マルケスである。双方が敵国の国民をロレンソ・マルケスまで輸送し、交換する。これが日米交換船と日英交換船。

ニューヨークから、南北アメリカ大陸に一時滞在中の外交官・商社員・新聞記者・留学生、コックや子守として雇われていた者、それにパスポートも持たない不法(必ずしも不法であったわけではないが、詳細略)入国者、一時滞在中の船員、などを日本まで送り返す。

外交官は最優先で引揚者の対象になるわけだし、横浜正金銀行や三井・三菱の社員がそれに次ぐ。しかし、留学生やアメリカ人と結婚した滞在者の中には帰りたくない者もいた。反対に帰りたいのに船に乗れなかった一世や二世も多かったわけだ。

それから、このアメリカからの交換船には、タイ人学生も含まれていた。
枢軸国側に含まれる国はドイツ・イタリア・日本、それにタイだけなのである。だから、ヨーロッパ方面のドイツ・イタリアを別にすると、アジア方面はタイ人だけが日本人といっしょの交換船で退去することになっていた。

ところが、なぜか本書でも理由が不明だが、外交官は乗らず、民間の留学生である女子大生だけが同船した。鶴見俊輔はあまりタイの女子大生に興味がなかったようだが、都留重人は話をしている。首相の娘も乗っていた、という話があるが、ピブーンの娘ってこと?まあ、タイの上流階級は日本と同じく一夫多妻だから、正妻の子ではないかもしれない。上流階級では女子教育に対する偏見がないから、女子留学生が多かったのですね。

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日英交換船について、黒川創がまとめているが、この状況はさらに複雑である。

東南アジア~西太平洋地域での状況は以下のようだった。

まず、ブリテン領については、海峡植民地・マレー連合州・非マレー連合州(マレー半島のその他地域)・サラワク・北ボルネオ会社領(サバ)の日本人は敵国人として抑留された。
英領インド、つまり現在のインドやスリランカの日本人外交官も敵国民として隔離された。
オランダ領東インド、つまり現在のインドネシア在住の日本人も抑留された。

これらの英領・オランダ領の日本人は、オーストラリアまで護送されたケースも多い。もちろん、オーストラリアやニュージーランドに滞在していた日本人、真珠採りのダイバーなどは当然その地で抑留されている。その後、ロレンソ・マルケスまで交換船で運ばれ、昭南島(シンガポール)へ戻ってくる、という道筋を辿ったのである。外交関係者は、日本まで戻った者が多い。

しかし、フィリピンの場合は、開戦後すぐに日本軍が侵攻したので、この地の敵国人(つまりアメリカ合衆国の国籍を持つもの、ブリテンのコモンウェルスの国籍を持つもの、オランダ・ベルギーなどヨーロッパの敵国人)は、交換の対象にならなかった。
フィリピンと同じ扱いになったのはグァム島。

本書に記載はないが、国際連盟からの委任統治領、つまりサイパン、パラオなどは、この交換の範囲外であったはずだ。

さらに複雑なのは、これら西太平洋と東南アジア在住の〈中国人〉なのだが、本書に記載なし。この場合の〈中国人〉というのは、中華民国国民ということで、むかしから住んでいた華人ではなく、中華民国の外交官など。
これは、汪兆銘政権側か国民党側かで立場が異なるはずだが、ここいらは複雑で、今のところわたしはよくわからん。

さらに、本書で言及されないのは、満洲国の外交官や政府関係者であるが、こういう身分・立場の人々は、東南アジアにも南北アメリカにも存在しなかったのだろうか??

あと、民間人ではないが、グルカ兵はどうなっていたのだろう。戦争捕虜(POW)扱いだろうか。ちなみに、大東亜戦争で日本兵が戦ったのは、グルカ兵・シナ人・黒人も含む連合軍であって、〈白人〉とだけ戦ったわけではありません。

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以下、鶴見俊輔の昔話からおもしろいことがらをアト・ランダムに書きつらねる。語られるのは、第一次交換船の話で、その後の第二次や日英交換の話は別に黒川創がまとめている。鼎談は話があっちへいったり、こっちへきたり、まるで近所の人や親戚の人の話をするように有名人の話が続くので、各自、読まれるように。

ハーバート・ノーマン、天野芳太郎(ペルー、天野博物館の)、坂西志保(交換船での帰国者で唯一のアメリカ合衆国公務員、議会図書館勤務)、大河内光孝(子爵の妾腹の子、サーカス団員として滞米、帰国後「横浜事件」に巻き込まれ逮捕)、竹久千恵子(女優)については、本書の中に詳しい紹介がある。

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後藤新平(鶴見俊輔の母方の祖父)は、やたら女に手を出してこどもを産ませる人であったようで、共産主義者で帰国拒否の佐野碩(さの・せき)が新平の孫だったとは。
後藤新平の東京の屋敷は、戦中から戦後にかけて、満洲国大使館→中国大使館、それにレバノン大使館→サウジアラビア大使館→モスク、になっているそうな。
その千坪ほどの敷地に、妾腹の家族などが住んでいたそうな。フランク・ロイド・ライトが連れてきたチェコ人アントニン・レイモンドの設計した洋館があったそうな……。まるで、おとぎ話のような話である。

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昭南島についたとき(1942年8月9日)、永田秀次郎が軍政最高顧問の地位にあった。ヘータイの位でいえば、山下奉文の次くらいなのだが、まったく実権なし。ちなみに、この人は後藤新平が東京市長のときの助役でもあった。
鶴見憲(鶴見良行の父、俊輔・和子の叔父)はマラッカ州の知事をしていた。
昭南島博物館の館長は田中館秀三。たまたま上野動物園園長の古賀忠道も滞在していて、船中でペットにしていたカメレオンを上野動物園に寄付した。

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「レーン事件」というものがあった。
北海道大学の教師、クェーカーのレーン夫妻が軍機保護法違反の容疑で逮捕・起訴されていた。アメリカ側は、このレーン夫妻の交換船による帰国を求める。日本側は拒否。

それに対し、アメリカ側は、横浜正金銀行サンフランシスコ支店長・松平一郎を帰さないぞ、と対抗手段にでる。横浜正金サンフランシスコ支店長は、オノ・ヨーコの父親もつとめたことがある要職であるが、なぜ、こんな政治的駆け引きに使われるのか?
それは、この支店長・松平一郎という人物が松平常雄の息子であったから。では、その松平常雄というのは誰かというと、秩父宮妃殿下の父親、宮内大臣の職にあった人物。
つまり、松平一郎というのは、今で言えば宮内庁長官の息子であり、ひょっとすると皇后になるかもしれない人物の兄弟であった。

結局、レーン夫妻は第二次交換船に乗せるということで決着がついた。

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鶴見俊輔・和子の姉弟、都留重人と同じく留学生として渡米し、交換船で帰国した者のうち、のちに國際基督教大学に関係した人物がふたりいる。

初代学長になる湯浅八郎は戦時中もアメリカに残るわけだが、わかい教え子の武田清子は同船し、鶴見俊輔・和子と交際することになる。
鶴見俊輔は母親に反抗し、キリスト教が嫌いなどといいながら、クリスチャンとの交友が多い人なんだな。

もうひとり、高橋たね という人物。結婚して松村姓になった女性だが、この方は後に皇太子(平成の天皇)の家庭教師になったエリザベス・ヴァイニングの秘書兼通訳をつとめる。
その後、湯浅八郎や武田清子が設立の要人になった國際基督教大学の図書館長になる。図書館長とは、大学において学長に次ぐエライ人であって、入学部長や食堂のおばちゃんや教会牧師よりエライのである。

それから、後にこの大学を卒業する雨宮健という少年も乗っていた。日本郵船勤務の父親と姉・弘子とともにペルーに滞在していたのである。当時7歳。鶴見俊輔はこの姉弟とも知り合いになり、姉・弘子が残した記録を見ている。

末廣昭,『タイ 中進国の模索』,岩波新書,2009

2009-10-18 20:16:40 | 国家/民族/戦争
とりあえずメモ。

1993年の『タイ 開発と民主主義』に続く岩波新書のタイ事情。
続く、なんていっても、16年前じゃないか、とおっしゃる方もおられようが、こういう形でフォローされる国はタイだけで、著者の末廣昭氏のように信頼できる方がこまめに一般向けの本を書いてくれるのは、じつにありがたいことである。

これが、中華人民共和国や韓国だと、あまりに玉石混交で、何を読んだらいいのかわからない状態。
一方で、フィリピンやマレーシアなんか、どこも扱ってくれないのだ。

つくづく、日本におけるタイの情報は恵まれているな、と思う。
マス・メディアでは紛争や災害しか報道してくれないが、こうしてしっかりした情報・分析が読めるのだ。

アジア通貨危機のあとも、着実に経済発展しているというのが、しっかりわかりました。
セメントとビールの生産高のグラフ、ショッピング・センターとコンビニエンス・ストアにみられる消費行動の変化、感染症・生活習慣病・老人性退行症という病症率の変化、大学生数(社会人大学生の割合が多い)など、的確なデータを示し分析する技はみごと。
少子高齢化と感染症、高学歴化による就職難、地方ボスの支配(もしくは地方自治)と非能率的な官僚組織(もしくは伝統的テクノクラート)……といった、西欧や日本が長い年月で解決してきた、いや長い年月をかけても解決できなかった問題が一挙に噴出している状態であるようだ。


そうか。電子部品部門では、タイ独自の付加価値を創出するのはむずかしい、それよりも、食品・自動車・繊維・観光が他国よりも優位に立てる、という方針があるのだな。

田中克彦,『ノモンハン戦争――モンゴルと満洲国』,岩波新書,2009

2009-09-13 22:19:35 | 国家/民族/戦争
ちょっとわき道にそれて、内陸へ。
一気に読んだ。
まあ、細かい部分はすぐに忘れるだろうが、戦争の背景を一般読者にもやさしく説いた新書らしい新書。
戦争の原因をめぐる著者の論旨には、今後異論がでるかもしれないが、少なくとも普通の読者にとってははずせない基礎事項を丹念に書いてくれている。
わたし自身、まったく暗い地域であるので、本書の書き方はありがたい。

地名・地域名・行政組織・人名の表記とその理由、民族や部族の名称とその由来など、まちがいやすいことや誤解されている事項をていねいに解説している。
さすが言語学者でモンゴル学の第一人者である。
これらの基礎事項は、まず異論のないところだろう。というより、モンゴル語各方言とシナ語とロシア語をしっかりできる人など研究者でも少数だろうから、一般人としては信じるほかないですね。(著者はチベット語も知っているし、ドイツ語や英語も堪能である。東南アジア研究者もたいへんだが、この方面の研究者もたいへんだ。)

著者の業績からすれば本書『ノモンハン戦争』は、長い研究生活の一端を一般読者向けに書き改めた程度であろうが、『エスペラント』などと違って、かなりホットな話題、論争を呼びそうなテーマである。
たぶん、政治的な話題が好きな方面から恣意的に引用されたり、あるいは著者の見方を糾弾する批判が出てくるんじゃないだろうか。

そういう意味でも、つまり批判や同調するノイズに惑わされないためにも、すぐに読める本であるから、各自自分で読むべし。
全体の文脈を無視して断片的に引用されそうな部分がたくさんあるので。

わたしはぜんぜん知らなかったが、著者は中華人民共和国政府やロシア政府側からそうとうに評判が悪いそうだ。中国政府など、名指しで批判している。
一方日本国内では、ミギヒダリに分類しないと気がすまない人々からは、完全にヒダリの人間だとみなされているだろう。

「あとがき」を読んで驚いたのは、1972年ごろ司馬遼太郎から取材の依頼があって、代理の取材者が来たので断ったのだそうだ。
著者は別に司馬氏に悪い感情があったわけではないようだが、安易な取材ではノモンハン戦争を理解できないだろうという気分があったらしい。
ふうん。
司馬遼太郎がノモンハンを題材にした小説を書かなかった(書けなかった)というのは、ファンにとって大問題らしいが、1970年代では偏った資料しかアクセスできないので、安易に小説化しないかったのは正解かもしれない。といいつつ、わたしは司馬遼太郎の小説は1編しか読んでいないので、ファンの気持はわからないけれども。
モンゴル語資料やソ連崩壊後に公開された資料なしには、日本軍の駒の動かし方がどうだこうだという話にしかならなかっただろう。
ということも含め、ホットな話題である。

**********

話がずれるが、岩波新書の言語・ことば関係はハズレがなくおもしろい。
鈴木孝夫はミギ、田中克彦はヒダリなどと政治的スタンスはそれぞれあるようだが、新書の内容はどれも一般読者に向けて冷静に書かれている。
文章も平明でユーモアがある。
トンデモ扱いされる大野晋『日本語の源流を求めて』を最近読んだが、なかなかおもしろかった。
内容の妥当性は?であるが、決してむちゃくちゃな論ではない。

鶴見俊輔 上坂冬子,『対論 異色昭和史』,PHP新書,2009

2009-05-21 21:36:34 | 国家/民族/戦争
べ平連のサイトに引用があっておもしろそうなので読んでみた。

www.jca.apc.org/beheiren/saikin152Tsurumi+Kamisaka-taidan.htm

ボケ(鶴見)とツッコミ(上坂)の漫才みたいな対談である。
しばらく前から鶴見俊輔は同じようなことをくりかえして言っているが、死ぬ前にどんどん若い人が話をきいて記録を残してほしい、とわたしは思っている。
ところが、本書を読んだあとにウェブで知ったのだが、上坂冬子のほうが本書発売前に死去していたのだ。

うーん。とすれば、これは死ぬ前に上坂冬子が言いたいことをを鶴見俊輔に聞かせた記録か。鶴見がワキで、上坂・後シテの怨念の聞き役になったわけだな。

上坂冬子としては、上野千鶴子や小熊英ニなんかワカッチャいない、わかってたまるか、わたしこそは鶴見兄貴の言葉を残せる人だ、という憤懣と自信があったのだろう。
それに対し鶴見俊輔のほうは、もし上坂冬子の死を予想していたなら、上坂の気持ちをうけとめてやりたいという、義務、というより仁義があったのだろう。
ともかく、死ぬ前に鶴見俊輔に話をきいてもらって胸がはれた。これが、魂鎮めってことだな。

上記べ平連のサイトはじめ、ウェブ上にずいぶん引用があるので、詳しい内容は略す。
かくべつ鶴見俊輔ファンではないわたしでも、以前に読んだ話が多い。一番おもしろいのは、上記のべ平連についてのCIAのとんちんかんな分析。

鶴見俊輔や『思想の科学』を知らない人が本書を手にとるとは思えないので、よけいな解説は不要だろう。もし説明しようとすれば、何千字にもなってしまう。ただ、靖国神社と従軍慰安婦問題にしか関心がない〈右翼〉〈左翼〉分類好きの若い連中にはとてもじゃないがつうじない内容だ。その点では上坂冬子の無念は晴れないかもしれない。とほほ。

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知っている人は知っているのだろうが、わたしが知らなかったことは、思想の科学社が有限会社になる際の資金を提供したのが井村寿二だったという話。東南アジアブックスなどのシリーズを発行していた井村文化事業社の井村寿二です。大丸(というのは昔の屋号で、全国チェーンの大丸とは別。現在〈大和〉という屋号であるようだ)という百貨店チェーンを経営していた人物であり、勁草書房の経営者でもあったそうだ。
だから、東南アジアブックスの書目選定に鶴見良行(俊輔のいとこ、べ平連の中心人物)がかかわっていたのは当然なのか。

よけいな心配だが、『思想の科学』という雑誌は、その新興宗教もどきの誌名もあり、そうとう誤解されているようだ。
本書にあるように、鶴見俊輔の秀才嫌い・学校嫌いとはうらはらに、インテリが集まってつくった雑誌である。
その初期に、この上坂冬子や佐藤忠男のような市井の庶民の(←イヤな言葉だな)書き手もデビューした。

だから、初期の同人のインテリと、いかにも庶民です、という書き手が集まった生真面目な雑誌と思われるかもしれない。さらに、廃刊時まで編集をしていた加藤典洋が「敗戦後論」を出すような、論壇雑誌的雰囲気もあったから、インテリや市民運動家の巣窟と思われてもしょうがないのだが。

でも80年代になると、それこそ、セックス・ナチュラル・ロックンロール!ポップ・カルチャーとフェミニズムの雑誌であったのだよ。
戸田杏子,『 世界一の日常食―タイ料理 歩く食べる作る』が連載されるような雑誌、といえば雰囲気がつかめるかな。(でも、前川健一さんなんかから見ると、くそお、オレが歩いて食ったのは、こんなもんじゃねえぜ、という対抗心もあったかな。ちなみに、わたしが雑誌『旅行人』を知ったのも『思想の科学』の雑誌特集を通じてだ。)
ちょうど『ガロ』が初期のころは白土三平やつげ義春のような地味で前衛的な漫画雑誌だったのが、後期にはポップとエログロのコミック雑誌になったようなもんだ。こう説明すると、ますます混乱をまねくだろうが。

このブログ内で、『思想の科学』関係の記事をリンク。

長谷川英紀,「ジャパン・アズ・オタック・No.1」
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/9c3032bf37567f70175d760c5aa1713f

蛭子能収,『くにとのつきあいかた』
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/f0b0266e8ebf04f45555f40e72743b41

上田信,「体臭のある音 アジア感の転機点」
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/9c3032bf37567f70175d760c5aa1713f/prev

丸山静雄,『インドシナ物語』,講談社,1981

2009-05-04 21:32:23 | 国家/民族/戦争
ベトナム戦争関係の著作をたくさん出している方だが、はじめて著作を手にとってみる。別に意識的に避けていたわけではない。ベトナム戦争関係で本を書いている人は何百人もいるから、たまたま読んでいないだけである。
朝日新聞の論説委員でもあったから、教条的なものの言いかたをする方ではないか、と思っていたが、わりとニュートラルである。いや、ニュートラルというより、あらゆる方面に興味があって、さまざまな現場を見てきた人物であるようだ。

順を追って説明する。

まず、1909年(明治42年)生まれ。つい最近までご存命であった。

大東亜戦争前に二度召集されている。
岩波新書『インパール作戦従軍記』(1984)にあるように、朝日新聞大阪支社の記者としてインパール作戦取材。これについて詳しいことは別項で。

その後、〈明号作戦〉1945年3月当時はフエに滞在。敗戦時はサイゴン。

戦後すぐのことは不明だが、1950年代後半はニュー・デリー支局員。
バンコク支局開設とともに、一年あまりバンコク滞在。つまり、初代の朝日新聞バンコク特派員といえる。
その後、朝日新聞外報部次長など経て論説委員になった。退社後は大学教授。

それで本書であるが、著者・丸山静雄すでに70歳をこえている。ひじょうにエネルギッシュな方であるようで、ニ段組400ページ近くの厚さに、あらゆることを盛りこんでいる。なお、本書でのインドシナとは、タイやビルマも含めた大陸部東南アジアのこと。

このころ1981年あたりが東南アジア情報の転換期かなあ、というのがざっと見た感想。
まず、歴史・考古学分野については古すぎる。このあと、東南アジア史に関して、どんどん新しいみかたが生まれ、一般読者向けの本が出る。
少数民族関係はひじょうにこまかいことまで書いているが、未整理で雑然としていて、読者には伝わらないだろう。
日本と東南アジアの関係については、戦時中から前線を体験した人であるので詳しいが、今の読者には伝わりにくいかもしれない。
ベトナム戦争とその後の経過、カンボジア問題、難民問題はこの頃進行中で、ひじょうに詳しい。ちなみに、本書刊行当時でも国連の代表はポル・ポト派である。
ベトナムの〈社会主義国家建設〉については、数々の矛盾や問題が生じていたことを書いている。
冷戦や大国間の外交・政治、民族主義と社会主義についても詳しい。

というように、政治と外交問題に重点がおかれている。というより、東南アジアといえば、政治を抜きにして本を書こうなどと考えられなかった時代であろう。

現在読んで、ははあ、と思うのは、環境問題がほとんど書かれていないこと。メコン川開発計画なども、実に楽観的であるなあ。

ミルトン・オズボーン,『シハヌーク 悲劇のカンボジア現代史』,岩波書店,1996

2009-04-24 19:31:41 | 国家/民族/戦争
小倉貞男 訳,石澤良昭 監訳。
原書 Milton Osborne,"Sihanouk Price of light, Prince of Darkness",1994

うーん。
著者はカンボジア現代史の第一人者であるようだ。それで一般読者にとって困るのは、著者自身の知識が豊富すぎて、こまかい事実をどんどん羅列していくことである。あまりにも細かく、ついていけない。
もともと政治史をめざした著作であるから、文句をつけるのがおかしいが、もう少し、経済や文化、世界の状況など説明してもらいたい。

それから、一番気になるのは、やはり、そこかしこに漂うバカにした筆致。もちろん、シハヌーク殿下を批判したりバカにするのはけっこうであるが、それが政治や外交とどう関わるのか、いまひとつ納得できない。たんに人格的にバカにしているみたいなところが多い。その人格批判やゴシップがこの著作の目的なら、それはそれでいいんですが。

監訳者の石澤良昭が「カンボジア人からみたシハヌーク国王」という小文でフォローしている。しかし、この文も本書のテーマとはずれているような気がする。フォローになっていない。

登場人物が多すぎるので、一覧表か簡単な解説がほしいところだが、なし。索引もなし。だから、ええと、この人物は……と前の部分をめくらなくてはならない。
政府機関や政党、政治団体の名称もこんがらがる。
あと、頻出する〈左派〉〈右派〉、〈左翼〉〈右翼〉という表現がどっち側なのか、何を意味するのかとまどう。これも一覧表が欲しかった。

というわけで、興味深い事実が山ほどあるにもかかわらず、前後関係がわからず欲求不満になった。

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細かいことだが、へんな部分。(p195)

1966年前後、カンボジアから南ベトナムの共産勢力へ、米が密輸されていた。農民の余剰米はすべて政府が買い取ることになっていたが、政府買取価格が低いので、華人の穀物商人がどうどうと買い集めて、国境まで輸送していた。(政府は黙認)

それで、プノンペンからの米の運搬のための賄賂の相場があった。
トラック一台で国境までの買収金が1500USドルだというのだ。

ちょっとおかしいぞ。
1500USドル=54万円。
当時の日本の標準価格米小売価格の4.8トン分である。
米価の高い日本での4.8トン分も賄賂を払う?なんて考えられないのだが。
桁間違いではないか。150ドルでも高すぎると思うが。

なお、ほかにも数字がおかしいところがあり、訳者が訂正している部分あり。

『本多勝一集 第16巻 カンボジア大虐殺』,朝日新聞社,1997

2009-04-23 23:24:31 | 国家/民族/戦争
『カンボジアはどうなっているのか』,すずさわ書店,1978
『カンボジアの旅』,朝日新聞社,1981
を収録したほか、関連する座談会や小文を収録。

文庫版の『検証・カンボジア大虐殺』,朝日文庫,1989
で省かれていたベトナムに関する部分も収録。たとえば、ハノイのタンロイ・ホテルをさんざん貶している部分。うーん……本多勝一らしい。

本題にはいる。1978年3月1日にハノイ入り、3月8日からの取材が前編。すずさわ書店から刊行された内容である。
ナヤン・チャンダが取材したのと同じ時期。
今読むと、ひじょうにくどい。なにをあたりまえのことを書いているのかと思う読者も多いだろう。
しかし、本文中にあるように、ハノイ政府のヤラセではないかという疑惑、実は殺戮しているのはベトナム軍ではないかという疑惑があったのだ。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』の紹介で、ベトナムは外交がヘタだと書いたが、それでもなんとか対外的イメージをよくしようと画策している。ところがカンボジア(ポル・ポト政権)は、まったく無防備に、将来のことを考えずに、無差別殺戮をしている。あまりにも作為がないので、逆に、これはハノイ政府が……という疑いもうまれたわけである。

ただし、すでにこの段階でも現地を取材した記者は、カンボジア内でとんでもない事態が起きていることを納得している。本多勝一や石川文洋カメラマンばかりでなく、前項のナヤン・チャンダやヨーロッパの記者たちは、何が起きているのか予感する。

ところが、日本でもアメリカでも、取材した記者たちの報道が疑われたわけだ。
そこで、本多勝一らは、さまざまなメディアでうったえるわけだが、肝心のカンボジア内の取材ができないので、説得力がない。ハノイの宣伝に乗せられているという非難も多かった。
そこいらへんの事情が、本巻の付録として収録された対談や小文でわかる。

もっとも、日本共産党系の『文化評論』などに載った記事では、ますます疑われたかもしれない。当時は、日中友好ブームであり、〈バスに乗り遅れた〉共産党のくやしまぎれの反論だと思われたかもしれない。

******

ところで、ウェブ上に散乱する、〈本多勝一がカンボジア大虐殺を否定していて、さらにその否定していた事実を隠蔽している〉という説について。
これは、1975年当時の話で、無差別虐殺が起こる前のことで、さらに全体の文脈からみてどうでもいいことなので、こだわるほうがおかしいだろう。

わたしが、ちょっとひっかかるのは、この『本多勝一集 16』で、朝日文庫版『検証・カンボジア大虐殺』の中の座談会「虐殺はなぜ起きたか」が収録されていないことである。

その座談会「虐殺はなぜ起きたか」は、鈴木利一・井川一久・矢野暢の三人の座談会で司会が本多。
このなかで、矢野暢が、あ、先生そりゃまずいですよ、と言いたくなる発言をしているのだ。さすが本多勝一司会は気がついたのであろう、「この座談会の発言はそれぞれの発言者の意見であり、全員の考えではない」、と念を押しているのだが。
うーむ。矢野暢の著作に感服し、本多勝一のファンでもあるわたしは、困ってしまうぞ。

ただし、ネット上のプチウヨのみなさん、この『本多勝一集 16』に収録されていないからといって、またまた本多は過去の著作を隠蔽したなんて、騒がないでくれよ。
もっともプチウヨの諸君は、矢野暢の発言のどこがマズイのか気がつかないかもしれないが。
あえて引用しませんので、みんな文庫で確かめてね。

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以上のこととはまったく別に、当時は政治離れの時代であったことも知っておくべきでしょう。
戦争や政治のことではなく、もっと歴史や文化を知るべきでは、というムードというか決意があったはずだ。

1977年、鶴見良行は『マラッカ物語』を連載中。これも、まだまだイデオロギー的にこだわった著作ではあるのだが、もっと長い歴史を知る、民衆の暮らしを知るという方向を探っていたはずだ。

桜井由躬雄は、1978年1月にバンコクの東南アジア研究センターバンコク連絡事務所に派遣される。まず、タイ国内をみようと、東北タイへ。

星野龍夫と森枝卓士は、1984年に『食は東南アジアにあり』へ結実することになる食文化に興味をもっていたはず。(本業は別ですよ)

山口文憲は1977年は香港。映画をみたり散歩をしたりしていた。

前川健一さんはバンコクや台湾の屋台でメシを食っている。1979年にはビルマにも行っているんですね。

出版社めこん、1978年創業。1979年の台湾の小説『さよなら・再見』が第一弾。

というのが、1977年から78年。