東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

榧根勇,『水と女神の風土』,古今書院,2002

2007-03-28 16:14:43 | フィールド・ワーカーたちの物語
著者(かやね・いさむ)は、ユネスコの国際水文学計画
International Hydrological Programme, 略称 IHP の一環として、
1988-1990 「バリ島の水循環と水利用」の学術調査に参加。

結果は、

Kayane, I., ed. (1992) WAter cycle and water use in Bali island.
Institute of Geocience, University of Tsukuba,
にまとめられている。

本書は公式の学術報告書では書ききれない、調査のなりゆき、著者とバリ島との出会い(1975年4月以来)、バリの環境や文化を論じる。

ウィットフォーゲルからクリフォード・ギアツ、池澤夏樹から板垣真理子まで、多彩な本を参考にし、著者の専門の水文学、スバック・システムのフィールド調査、村人からの聞き取り、スリ女神、バリ・ヒンドゥー教、観光地としてのバリ島、などなど縦横無尽に書きまくる。
専門の論文には書けない胸のたけをはきだした感じ。

うーむ。こういうことは、もっと一般的な薄い本にするとか、あるいは、ちゃんと学問として論じるとか、別の方法はなかったんだろうか。
という不満は残るが、なにしろ水利の専門家の本である。
たいへん参考になった。

可児弘明,『近代中国の苦力と「豬花」』,その3

2007-03-28 11:03:58 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
以下、本書に登場する専門用語、難解語を解説して、内容をまとめる。

著者も指摘しているように、このような慣習・制度は、地域による差異が大きく、時代によって変化するものである。
くれぐれも一般化しないように。
本書の対象である、19世紀後半の広東圏の一般的な制度、用語である。

侍妾;
一夫多妻制度、もしくは妾である身分のこと。完全に合法的であり、慣習上も否定されるどころか、賞賛される。
侍妾が生んだ子も男子であれば、相続権をもつ。

儀礼婚;
問名、訂盟、納聘(のうへい)、納幣(のうへい)、請期、親迎という六礼
もしくは、納采(のうさい)・問名(もんめい)・納吉(のうきち)・納徴(のうち ょう)・請期(せいぎ)・親迎(しんげい)

結婚用語をあやしげに解説したウェブサイトには、テキトウなことが書いてあるが、これらの六礼の重要な点は、人身支配権の移動である。
父親もしくは養父から、夫側の家への所有権の移動である。

慣習では、納聘がおわると、つまり女家が対価をうけとると、婚姻が成立したことになる。

登記結婚というのは、政庁に登録した婚姻だが、慣習上では、この登記は必要ではないし、また、登録しても効力をもたない。
(それ以外に、同棲して夫婦になる事実婚もあり、この事実婚も慣習で認められていたが、あまり道徳的とは思われなかったようだ。正式の儀礼は、所有権の移動である。)

この慣習が

冒娶偏売(ぼうじゅへんばい、結婚すると騙して誘拐し、略売すること)

の取り締まりをむずかしくした。
第三者には、正式の婚姻と、略売の見分けがつかない。
香港とシンガポール間の移動で、略取された女子および略売者が、婚姻のため移動すると申告すれば、当局はチェックのしょうがなかった。

婦道;
夫および夫の家に隷属する妻の立場。夫が妾を持つことを容認するばかりでなく、積極的に勧める行為も「婦道」である。もっとも、ここまでくると、実態にそくした考えなのか机上の空論なのか解らなくなる。

逃散;
妻が夫の家から逃げること。
当然、人身支配権を侵害する行為とみなされる。
みつかれば、夫に引き渡される。
略売された婦人は、第三者からみると、妻の逃散か、夫の質入(妻を質にいれることを典妻という)か見分けがつかない。

自疏女;
婚姻を拒否する女である。
流通を阻害する不道徳な行為であり、さまざまな非難、迫害があった。

では、彼女たちは、どうやって生きながらえたのか。
著者は、先行研究を参考にしつつ、以下のように考える。

まず、この時代、広東省の製糸業が、家内制手工業から工場制に移行することにより、賃金労働者として生活することが可能になった。
あるいは、広東省では、婚姻前の娘が集団で生活する娘宿の習慣があった。
そして、婚姻が女にとってメリットがないことを知った女たちは、共同で結社のような組織をつくり、結婚しない生活を維持した。

以上、まだまだメモしたいことがあるが、時間がないので切り上げる。

可児弘明,『近代中国の苦力と「豬花」』,その2

2007-03-28 11:02:04 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
妹仔(まいし)制度

無償で使役される女碑をあらわす広東方言。
生家から買主へ人身支配権が移転され、さらに転売が可能。

つまり、父親が娘(多くの場合幼女)を他人に売り、それが転売され、家内労働や売春労働として使役される。

養女を名目として、売身文契・送帖などとよばれる売買文書がつくられる。
この文書は、買主の権利を擁護したものであり、つまり、犯罪・誘拐による人身である場合も買主の権利は保護され、売主が責任をもつ。
名目的には永代売買でない場合もある。
つまり、売主が将来買い戻すという条項がある文書もあるが、事実上は、永代売買であり、生涯奴隷である。

相続権がなかった女子を養育する、ということは、ほとんどの場合、利殖である。つまり、幼い女子を育て、転売することを目的とする。
この妹仔が、東南アジア向けの豬花の供給源となった。

香港では1879年、妹仔制度は奴隷制度にほかならない、という主席判事の見解があった。
しかし、中国人の慣習は、中国人相互の関係にまかされる、という統治方針により、その後も廃止されることはなかった。

廃止反対側の論拠は、妹仔制度は、溺女(嬰児殺し)を防止するものであり、貧困層の救済であり、教育、病気介護、婚姻の世話もおこなわれるものであり、黒人奴隷制とは根本的にことなるものである、という主張だった。

その後の妹仔解放の経過は、
1909;清国、人身売買を禁じる。
1919;中華民国で妹仔制度への批判高まる。
1923;香港政庁、妹仔条例により、新規の妹仔を禁じる。しかし、以後も実態としての妹仔売買は続く。
1929;香港総督、妹仔身分の登録制を採用。
1933;海峡植民地、マラヤ連邦4州においても登録制とする。

本書に掲載されている1936年6月の史料によれば、
海峡植民地で合計1000人程度
マラヤ連邦4州合計1000人程度
非連邦州合計で200人程度

の妹仔が登録されている。

1934年6月の史料によれば、
年齢別では、
10歳未満;630人
10歳から15歳未満;1614人
15歳以上;505人

という構成。
これは、何度も何度も移動・売買禁止法令が続いたあとの、表面上の登録である。
つまり、闇取引、すでに死亡したものが、大勢いた、ということである。
年齢の数え方(満とか数えとか)は不明だが、10歳ごろから娼妓として使役されていた、と考えられる。

保良局のような福祉施設が設けられる一方、同じ階層が妹仔制度を維持していたことについて、著者は以下のようにみる。
つまり、香港で保良局を運営していたのは、植民地制度内の商業ブルジョワジーであり、半植民地としての広東省と外界(海峡植民地など)を結ぶ接点として香港という都市があった。
その香港で事業を経営するブルジョワジーに根本的な解決をするすべはなかった。
というよりむしろ、彼らは半奴隷制、半植民地制の中で利潤を得るものであり、女の隷属的な身分は、社会全般に必要であった、ということだ。
(この、半奴隷制、半植民地というのが、重要で、完全に合法的な奴隷制であれば、また別の状況、別の利害が生じたのだろう。)

鈴木政平,『日本占領下 バリ島からの報告』,草思社,1999.その2

2007-03-28 10:42:49 | 20世紀;日本からの人々
あっと、あまりにも当然の予備知識だが、わからない方があるかもしれないので、おせっかい付記。

師範学校というのは、教員つまり先生を養成するための学校。
高等学校や士官学校などのエリート・コースとはまったく別。

一般民衆に、政府の方針を植え付ける仲介者を養成する期間。
学問や科学や軍事を伝える機関ではない。

本書のように、教育政策を実施する場合、まず、改革するのが、師範学校(および、臨時促成機関として、教員養成所)である。
師範学校は、政府の政策を末端に伝える、かなめの教育機関である。

それから、マス・メディアがなく、新聞・書籍の流通のない地域では、学校が最大のメディア、近代化を運ぶ施設になる。
本書で描かれる、バリ島は、そんな前近代の状態であったと思われる。

そして、こんな前近代の初等教育では、算数・国語も大事だが、体操・音楽・図画などが、強烈なインパクト(破壊力といってもよい)を持つのだ。
本書でも書かれているでしょ。「インドネシア人は走ることを知らぬ人種だ」って。
明治以前の日本人も走れなかったのだよ。
そんな明治時代の日本人を改造したのが、体操や音楽なのだ。

そして、ノート、画用紙、クレヨン、筆、さらにスポーツ用具や理科実験器具など、消費グッズの魔力を伝えたのも学校なのだよ。

鈴木政平,『日本占領下 バリ島からの報告』,草思社,1999

2007-03-28 10:40:04 | 20世紀;日本からの人々
副題;東南アジアでの教育政策

これも、『一中尉の東南アジア軍政日記』と同様、倉沢愛子による発掘。
くわしい出版の経緯はあとがきに記されている。
海軍占領地域(スマトラとジャワを除く、現在のインドネシア東部)に民政部文教課長として派遣され、教育政策を担当した人物による報告。
想定読者は、故郷和歌山市の教育関係者。発表されることを前提として書いた文章である。

書かれたのは、昭和17年9月、昭和18年6月、後半19年7月から11月。(1942年から1944年)
このうち、前半、1943年までは日本側の戦況がそこそこであり、じっくり南方民政を展開しようか、という時期。

一方、1944年は、戦況が悪化、日本全滅、南方が連合軍の魔手に堕ちるか、と懸念された時期。

わたしごときが、あらためて書くまでもないことだが、出版に関与した倉沢愛子さんなどは、元記録者をみだりに批判することはできないのである。
出版や閲覧に協力してくださった家族への配慮もあるし、また、今後、資料を持ち込む方もあるだろうから、当時の記録者を現在の立場から、軽々しく批判してはならない。

軽々しく批判してはならないが、軽々しく持上げるのも、やはり、なんだと思う。
本書で告発されるオランダの愚民政策は、たしかに事実であり、非難されるものである。
では、本書で語られる日本の教育政策や日本軍政がいいんですか?!

誤解のないように言っておくと、戦況が悪くなって、年少者を生産活動に動員した時期のことではない。
あるいは、著者があっけらかんと述べている肌の色のこと、跣(はだし)のことなど、肉体的な偏見のことではない。(それも無視するわけにはいかないが。)
そうではなく、日本精神だの、入学式・卒業式・運動会・朝礼・職員会議といった儀式、ラジオ体操や唱歌のことである。
日本軍政の教育政策が、現代のインドネシア教育にも影響をあたえているのは知っている。
しかし、こんなものがいいことですかい?
いや、こんなことを書くと、現代の視点から当時を批判したり、当時の逸話から、現代の教育事情を批判する小言親父とおなじ穴のムジナになってしまうか。

そうではなく、アンボンとバリの比較、フローレスやロンボックの事情、日本統治以前の教育制度とその実際、日本統治方針とその施行の実際のズレ、教育要員として派遣された人材、などなど、具体的な情報をくみとるべきである。

ともかく、奇跡的にわかりやすい文章だ。
(わかりやすい文章を書いた人ほど、後に批判され、わけのわからない文章は後世の批判をまぬがれる、ということがある。)
当時の教育関係者(著者は、いまでいえば小学校校長)一般が(もちろん、現在も)、これほどわかりやすい文章を書けたとはおもえない。
著者の才能と訓練によるものだろう。
当時の軍関係者や報道関係の文章と比較すると、時代を超えている。

榊原政春,『一中尉の東南アジア軍政日記』,草思社,1998.

2007-03-24 11:15:31 | 20世紀;日本からの人々
著者は越後の高田藩主第十六代当主、妻は徳川家から、義理の兄(妻の姉の嫁ぎ先)は高松宮という雲の上の人。
学習院、東大法学部を卒業後、台湾拓殖会社勤務、徴集で軍隊へはいったあと、士官学校をへて、尉官待遇となる。

軍隊ではぺえぺえとはいえ、政治学を修めたインテリ、台湾拓殖での実務経験もある。こうしたバックグラウンドをもつ人物が南方軍総司令部付に配属され、東南アジア各地をまわった個人的日記である。

この日記を発見、というより出版にこぎつけたのは、解説と注を書いている倉沢愛子さん。
どういう経緯でこんな高貴なひとの記録にお近づきになったか知らないが、倉沢さんの温厚なお人柄によるものか?

内容は、大東亜戦争開戦の1ヶ月前から、開戦後1年半ほどの南方軍の戦闘と軍政の記録、個人的な見聞、軍政に関する個人的な意見、など。

おおくの報道関係者や作家、画家が動員された報道班の一員としてサイゴンにむかう輸送船にのりこむ。
(この報道班の記録が、戦後も多数活字化されている。)

解説に倉沢さんも書いているように、発表を予定してない個人的日記のうえ、ジャワ・バリ・スマトラ・シンガポール・フィリピン・ビルマ・ベトナムと広い地域を実際にみている。

戦時中の記録として、例外的なほど読みやすい。
あたりまえの話だが、軍人や兵士のかいた回想は読みにくい。
以前は、わたしも、自分の読解力の不足とおもっていたのだが、どうも、そうとばかりいえないようだ。

戦記や従軍記の類は一般に、自分たちにだけわかる隠語や専門用語をはずかしげもなく使っている。
これは、軍隊生活をした人にとって無理もないなあと思っていたが、やはり人に読ませる文章として恥ずかしい。
軍人というものが、第一に役人である、ということがわかってからは、よけい腹がたつ。
あのへんな言葉使いは、ようするに、最近の役人が、IT革命だの情報公開だの、10年もしたら意味不明になる言葉を使いたがるのとおんなじなのだ。
やたらとシナ文字をつかいたがるのも暴走族と同じ虚勢である。

その点、この日記は、さすがインテリ、後世に伝える文章、内地に暮らす人にもわかる文章である。

さらに敗戦後の記録は、仲間内の誹謗中傷やうらみつらみばかりで読むのがつらい。
食い物のうらみぐらいなら、戦場の過酷な経験として読めるが、女のとりあいだの、物資の横流しだのを読むのはツライ。
彼らにとっては戦争よりも派閥争いが重要だったんだと、あらためてわかる。

本書は、日本がまだ勝ち戦を続けている時点で終わっているので、この点でも爽やかである。

それで内容は各自読んでいただくとして、すごいのは、やはり総司令部付ということで、移動は自動車と飛行機!
宿舎には、世話をする兵士がいて、ときどきホテルに泊まったり、という信じられない世界だ。

さらにすごいのは、そんな筆者の生活感にとっても物資が豊富で都会的なサイゴンやバンコクの姿である。

けして筆者のような上流階級の軍人ばかりでなく、一般の兵士や徴用者も東南アジアの物資の豊かさに驚いたことはいろんな記録に見える。

この日記にもあるように、ビルマ戦線に回された兵士たちはものすごい過酷は戦場を体験したわけだが、ジャワやマレー半島、それにバンコク、サイゴンなどは、当時の日本と比べ、暮らしやすく、物資が豊富なところだったのだ。

筆者は台湾拓殖の経験があるから、食料・工業製品の円満な流通、輸送機関のことに関心をもっているが、軍人さんは無頓着なもんだったようだ。
ただし、いくら著者が冷静に分析しようとも、経済・民生の問題は解決不可能だったろう。
オランダもUKも100年以上の植民地統治の技術と経験があり、それでも問題をかかえていた。さらに、実質的な商業を握るチャイニーズを敵とする日本が、順調に経済を運営できるわけはない。そして、日本が一番信頼すべきイスラームや上座部仏教徒の価値を無視して治安が維持できるわけはない。
著者の分析は即物的で現実的(そして冷酷)だが、ファナティックな軍部に通用する論理ではなかったわけだ。

そんなわけで、当時としては例外的に流通・経済・人材動員に関心をもつ著者の意見がダイレクトに表現されている。


可児弘明,『近代中国の苦力と「豬花」』,岩波書店,1979

2007-03-24 10:39:08 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
史料は求める人の前に発現する。
香港・広東省の人身売買・奴隷的労働力の移動をあつかった研究である。
書名は「キンダイ チュウゴク ノ クーリー ト チョカ」 とよむ。
豬花は日本語にない単語であるが、音読みでチョカと読む。

中国史研究者は、みんなこの程度の知識を持っているのだろうか。仰天の事実が満載である。

まず、時代はアヘン戦争後。
マクロな視点でみると列強、というより、大英帝国による輸入超過の決済として、労働力の輸出が苦力貿易ということなのだ。

最初は北アメリカ西海岸やキューバ、ペルーへの苦力が主流である。
これは、単純にまとめると、奴隷制廃止後の労働力補充である。
というより、実態は奴隷制そのものである。
アメリカ大陸までの航海の間、積荷である苦力の損耗率(つまり死亡率)が20%から30%というすさまじさ。
アフリカから新大陸への奴隷貿易航海を中間航路というが、その消耗率(つまり死亡率)とたいしてかわらないのでは?

大陸横断鉄道の完成によって、東海岸から西海岸へ労働力の移動が可能になる。
それとともに、華人苦力は、ヨーロッパ人労働力からじゃまもの扱いされる。
華人移民の規制、制限がもうけられる。

1870年代からは、苦力の輸出先は東南アジアの開発地域、つまりマレー半島・ボルネオが主流になる。
シンガポールが最大の受け入れ先、それから再輸出されるものも多い。
それとともに、苦力の性欲を処理する売春業も移動する。
中国からの移民として、最初の女性移民が売春労働力としての「豬花」である。
こうした背景をもつ、19世紀後半から20世紀初頭にかけての、東南アジア向け女性労働力の移動が本書の主題である。

と、ながながと要点を得ないまとめかたになったが、

香港から海峡植民地への女性奴隷の交易

が、本書のテーマである。
もちろん、奴隷という言葉は使われていない。交易という言葉も使われていない。
犯罪行為としての誘拐・略取、合法的な女婢使役制度や売春制度、半ば合法的な侍妾制度、それらが複雑にからみあった交易・商売・慣習・犯罪の分析である。

史料は、著者みずから探しあてた、保良局(民間の福祉施設、孤児・犯罪被害児を保護、善導する組織)の記録文書である。
つまり、犯罪被害者として救済された子女と、直接の加害者である誘拐・強略者の記録である。
であるから、遠方に送られてしまった者(ほんとうに被害者)の記録ではない。
また、売春宿を利用した客や、背後で儲けた者たちの記録は、表面に現れない。
それにもかかわらず、生々しい一次記録、現場の証言である。

二、三注意したいこと。

まず、これは、ブリティシュ・ヘゲモニーの時代における、言い方をかえれば、近代化の課程で出現したできごとである。ということ。

そうではあるが、この交易・制度をささえた背景に、中国の家族制度、女性観が強力な基盤として存在したこと。

さらに、人口過密な中国から、四方八方にあふれでた華人は、人口過密地帯でうまれた伝統を、一部は引き継ぎ、一部は廃棄していったことである。
(当時の過密人口の移動先として、四川地方、台湾、東北地方、そして南海があった。)
現在、東南アジア、東北アジア、アメリカ大陸にちらばった華人、元の家族制度・女性観を引き継いでいる面がある一方、正反対に変化した面もある、と思われる。

そして、本書の主題からまったく離れてしまうが、同じく人口過密なところからはみでた存在として、華人と衝突することになるのが日本からの移民である、ということ。

孫歌(スン グー),「昭和史論争における一つの側面」,2006

2007-03-21 21:33:40 | 20世紀;日本からの人々
『岩波講座 アジア・太平洋戦争』第3巻,岩波書店,2006.所収。
著者は、中国社会科学院文学研究所研究員。

いったいぜんたい、これは、何を問題にしているのか、ほとんど一般人にはわからない問題。

亀井勝一郎 対 遠山茂樹 の「昭和史論争」をめぐる、歴史研究者の立場を論じているようだが、これが重要な問題なのか、もはやどうでもいい問題なのか、普遍的な問題なのか、瑣末な業界内部の問題なのか、よくわからん。

マルクス主義歴史学が主流だった戦後の歴史学界における、重要な関心事であったようだ。
上原専禄、石母田正、旗田魏、といった人たちがマルクス主義歴史観を代表する人びとらしい。(無責任なまとめかたで、すいません。各自、確認されたし。)

それで、1962年に問題になったのが、AF問題、東洋文庫の現代中国研究センターにアジア・フォード財団の資金援助を受けるかどうか、という問題である。

今、これを書いているわたしも、何がそんなに問題なのか実感できないが、アメリカの支配下にあり、アメリカの財団の援助を受ける屈辱、自立性を損なうのではないか、というおそれ、危機感、そういったものが表出した事件であるようだ。
これと同時に資金援助をうけたのが、京都大学東南アジア研究センターであって、このことに関しては桜井由躬雄が『緑色の野帖』の中で書いている。

うーむ。そんなに重大なことだったのか。
東南アジア研究センターもマイケル・ジャクソンもフォードがいなければ存在しなかった?

マルクス主義歴史観の側の反対運動を否定するわけではないが、アメリカ合衆国の軍事的支配が永久に続き、経済的依存も永久に続くと思われた時代、(そして、永久に続くという予感はある意味正しかったのだが)アメリカから金をもらってでも研究したい、東南アジアを見たい、という日本人がいたのもたしかなことだ。

桜井由躬雄の言葉をかりるならば、当時マルクス主義歴史観の解釈をめぐって重箱の隅をつついていた歴史学本流に比べ、東南アジア研究センターは月世界のようだった。

マーク・ガリキオ,「アフリカ系アメリカ人の戦争観・アジア観」,2006

2007-03-20 23:16:13 | 20世紀;日本からの人々
伊藤裕子 訳,『岩波講座 アジア・太平洋戦争3 動員・抵抗・翼賛』,2006.所収

わお!こんなこともあるのか!
タイトルからはよくわからないが、USAのブラック・インターナショナリズムからみた、アジア・太平洋戦争である。

ものすごく乱暴に要約にすると……

差別されているのは我々だけではない、と気がついたUSAの黒人たち、日本人がロシア戦に勝利したのを歓迎したが、やがて、日本は彼らの敵になった。
一方、「アンクル・トムの国」と蔑んでいた中国が、アメリカの味方、兵士として参戦したアフリカ系アメリカ人の味方になってしまった。

では、中国人がアフリカ系アメリカ人と共通の基盤を持ち、共通の利害をもっていたかというと、まったくすれちがいであった。

宋美齢(蒋介石夫人)が、国民党政府支援のためにUSAを訪問した際、アフリカ系アメリカ人組織は協力・共闘を呼びかけるが、無視される。
あったりまえだよな。中国人にしろ、日本人にしろ、アフリカ系アメリカ人と協力するとか連帯するなんて、これっぽっちも考えなかっただろう。

USA国内における日系人差別、華人差別、アフリカ系差別があったが、彼ら被差別集団が、それぞれの枠をこえて連携するなんて不可能だったということ。

乱暴な要約なので、各自自分で判断されたし。

鶴見太郎,「「家」はいかにして戦争に対峙するか」,2006

2007-03-20 23:15:36 | 20世紀;日本からの人々
「渋沢敬三とその周辺」という副題のとおり、経済官僚として戦時中の政府の要職にあり、さらに民俗学のパトロンであった渋沢敬三の、家長として、一族のリーダーとしての戦争への抵抗を論じた本。
であるが、まず、渋沢敬三一家のことはおいておく。

柳田國男(やなぎた・くにお)と折口信夫(おりくち・しのぶ)のこと。
ふたりとも、一家の相続人である男子や養子を戦争にとられ、危機的な状態になった。
ほんと?
先祖供養をしてくれる男子がいなくなる、という危機である。
このことは、彼らの提唱した、日本の宗教観を変えるような一大事だった(?!)。

うーむ、ほんとですか。
こんな大学者でも、こんな大学者だからこそ、こんなことに悩むのか?
信じられない。

柳田國男と折口信夫、およびこの時代の民俗学者に関しては、ああ、あんな人たちもいたなあ、という感じ。
わたしの若い時代の思潮としては、最重要人物、必読の思想家であったが、個々のトンデモ理論のおもしろさは別にして、まあ、読みたい人は読めばいいんじゃないの、くらいの位置に落ち着いてしまった。
わたしもいくらかは読んでいるが、あまりに抽象的なことを追いかけたり、瑣末な(しばしば捏造された)事実を列挙しているだけの著作にうんざりして、遠ざけていた。
それに、この二人自身の罪ではないが、なんか、日本の伝統というような文脈で評価されたり、つまみぐいされる人たちである。

同様なことは、渋沢敬三が援助した人たちにも、ある程度あてはまるんではないかな。
あまり、のめりこまないように!