東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

中村とうよう 死去

2011-07-22 17:27:39 | その他;雑文やメモ

自殺だそうだ。うーん。ショックといえばショックだが、とうようさんらしいと言えば言えなくもないな。あの人は、完全に宗教を否定していた理性の人だから、天国にも地獄にもいかず、ニルヴァーナにも至らず、もちろん冥土で迷うこともなく、たんなる物質として自然界に還元されるであろう。

 

とうようさんについては、影響を受けた人がそれこそ万単位でいるだろうが、インターネット上には、あんまりきちんと反映されてないみたいだ。活字や(そういえば、ミュージック・マガジンは、かなり遅れてオフセットに移行した雑誌だった)雑誌やラジオという、20世紀特有のメディアに慣れ親しんだ老人層が影響を受けた人物なんだろうね。わたしもそのひとりであるが。

そして、とうようさんが紹介し、アジり、ひろめたポピュラー・ミュージックも、20世紀特有のメディアにのった文化だったのだ。

とうようさんが、自嘲気味に、あるいは悲観的に、あるいは挑発的に書いた、〈ポピュラー・ミュージックは21世紀に滅びる〉という予言も、10年、20年前は「そりゃ、とうようさん、あんたが好きな音楽がなくなるだけでしょ?」と思ったりもしたが、ジャンルや形式に関係なく、〈ポピュラー・ミュージック〉という枠組み自体が滅びるような気がする。

われわれ、とうようさんより20歳ぐらい下の世代の幸運は、中村とうようという知性を日本に持ったこと。不幸は、中村ようとうに匹敵する音楽を語る知性が、中村ようとう以外いなかったことだ。

中村とうようがほんとうに好きだった音楽は、知的な想像力を必要とする音楽でもなく、中産階級の消費財ではない。文化人類学的な知的好奇心を刺激する音楽でもない。

そうではなく、港町の半失業者や、プランテーションの半失業者や、あやしげな商売女やピンプや麻薬中毒の低学歴失業者が、ありあまるほど暇で欲求不満の日常に聞く娯楽音楽だった。

しかし、その魅力を、日本に住む若者に伝えるには、知的な語り、歴史的バックグラウンドを語る必要があったのだと思う。

そこに、彼・中村とうようのいらだちがあったと思う。

音楽はブテッィクで買ってくるようなもんじゃないんだ!スノッブな半可通のものじゃないんだ!と叫んでも、若いもんたち(つまりわれわれの世代)は、やはり知的好奇心を刺激するもの、あさはかなファッションにもひかれるのである。

そして、日本の音楽ジャーナリズムの中で、孤高の存在であり続けた。もうひとりやふたり、中村とうようクラスの論者がいればよかったけれど。知性を持った人たちは、大衆音楽を聞くような暇はないのだろうね。

***

あらゆる方面で論争をした人であるが、じっさいは温厚であるという話もある。じっさいに見たことがないので、ほんとうのところはわからないが、湯川れい子さんや亀渕昭信さんのような、音楽の趣味ではあんまり接点なないような人でも、現実生活では、けっこうつきあっていたようである。ジャズファンの間で悪名高いスイングジャーナル元編集長の岩浪洋三氏などとも会えば話ぐらいするあいだがらだったようだ。

数々の論争やケンカの中で、わたしが記憶しているものに次のようなことがある。

ちょうどサルサがニュー・ミュージック・マガジンでプッシュされていたころの話だ。

イラストレイターの河村要助さんや『ザ・ブルース』周辺の人たちが、ニューヨーク・ラテンの世界を描いたドキュメンタリー映画『アウア・ラテン・シング』をさかんに評価した。この映画こそ、アメリカ合衆国に暮らすラテン系の生活を活写したものだ、というふうに持ち上げた。

それに対し中村とうようは、以下のように、へそ曲がりな論評をした。

アメリアに住むカリブ海やラテン文化圏からの移民の生活感情、リアルな心情なんてものは、おれは、レコードを聴いただけでわかった。

音楽の力こそが、彼らの生活・心情・アメリカ合衆国に住む現実を如実に表現しているではないか。

映像の力に頼る必要はない。おれが音楽評論という仕事をしているのも、音楽こそが民衆の感情・生活感覚をいちばん確かに伝えるものだからだ。『アウア・ラテン・シング』を見て、ラテン・ピープルの実態がわかったなんていうのは、音楽から何を聴いていたんだ?

というような調子だったと思う。記憶さだかでないが。

こういう具合に、なんにでもいちゃもんつけていたけれど、やはり正しかったのだよね。

いや、それにしても、何でもおれが一番最初だったんだ!というような、ある種パンクな意地を張る人だったねえ。そこが好きだったんだけど。

***

北中正和さんあたりが、伝記を書いてほしいね。中村とうようと敵対もせず、腰巾着でもなく、ちゃんとした文章を書ける人は、北中さんぐらいしかいないだろうな。

出版社は平凡社だな。





山口誠,『ニッポンの海外旅行』,ちくま新書,2010

2010-08-28 00:17:30 | その他;雑文やメモ
うーん……。
帯にあるように、〈若者の海外旅行離れ〉の分析。1964年の海外旅行自由化から現在の不況時代までの変遷を旅行のタイプとガイドブックから分析する。

しかし、まず、若者=大学生という前提が無理じゃないのだろうか。
次に、20代の海外旅行が減っているのが事実だとして、どんなタイプの旅行であれ、自分の金と暇を使って行く旅行がほんとうに減っているのだろうか。

つまり、著者のいう〈買い・食い〉旅行であれ、〈貧乏旅行〉であれ、〈自分探しの旅〉であれ、はたまたずっと以前からの添乗員付き団体旅行であれ、旅行者(著書は消費者と呼ぶかもしれないが)の主体的な選択の旅行がそれほど減っているのだろうか。

20代の若者の旅行(正確に言えば海外渡航)が減っているのは、会社の研修旅行・慰安旅行など強制的な旅行が占める部分が多いのではないか。
あるいは、以前なら出張する上司のカバン持ちとして行くとか、婆さんの海外旅行に付き添うとか、得意先の招待旅行にお前替わりに行ってくれ、というようなタイプの旅行が不況で減ったせいではないか。

どんなタイプであれ、著者のいうところのバックパッカーや個人長期旅行はもともと出かける人数は全体の1%やそこらだろう。1%が0.5%になっても全体の減少には関係ないと思う。

それから、海外旅行のタイプの変遷として、『地球の歩き方』『オデッセイ』『旅行人』『ABroad』『個人旅行』『わがまま歩き』『るるぶ』などのガイドブックを材料にするのは妥当だろうか。
著者は『るるぶ』などの買物・グルメ情報ばかりのガイドが売れ、歴史や文化を紹介するガイドブックが消滅しようとしているように述べている。
しかし、昔からガイドブックは、買物・ホテル・レストラン案内が大部分であったはずだが。

『何でも見てやろう』『印度放浪』『深夜特急』、あるいは蔵前仁一や下川裕治・前川健一などに影響された旅行者がもし参考にするとすれば、旅行ガイドブックではないと思う。

たとえば、平凡社の「コロナブックス」、新潮社の「とんぼの本」シリーズなど旅行ガイドとして使える本はいっぱい出版されているでしょう。
河出書房新社の『アジア読本』、明石書店の『○○を知るための○章』シリーズ、中央公論新社の『世界の歴史』、なんでもありである。司馬遼太郎や塩野七生なんかも旅行ガイドとして読まれているんではないんでしょうか。

まるで、過去のバックパッカーは『地球の歩き方』だけ見て旅行していたみたいだ。
いや、みたいだ、じゃなくてほんとに『地球の歩き方』だけしか見てなかったのではないか、と同じ著者の
山口 さやか, 山口 誠,『地球の歩き方の歩き方』,新潮社,2009
を読んでいて感じた。

本書と『地球の歩き方の歩き方』で基本的な情報を知ったのだが、『歩き方』はもともと大学生向けパック旅行のための無料案内書から出発したのだそうだ。パック旅行じゃない個人自由旅行だと言われそうだが、事実上の団体旅行ではないか。別にそれが悪いというわけじゃない。ただ、そういう背景があると今頃やっと知っておどろいている。

『歩き方』を批判するわけではないが、あれこそ決まったコースを行くだけのパック旅行ではないんでしょうか。新潮社『地球の歩き方の歩き方』を読むと、創刊メンバーはつわもの揃いで、なかなか商売人でもあるようで、そういうベンチャービジネスの成功談として一読の価値はあった。
しかし、それと『るるぶ』や『ABroad』を対比して論じても説得力ないと思うんですが。

あと、たとえば『Popeye』から『ハナコ』までのファッションやライフスタイル誌、『山と渓谷』から『BE-PAL』までのアウトドア関係、『丸』から『ムー』までのオタク系(いっしょにして御免)、音楽や映画・マンガ、そういったメディアのほうが海外旅行のプラス要因として大きいわけで、ガイドブックだけ比較しても意味ないんじゃないかなあ。

そういえば、筑摩書房からも『週末から』というレジャー雑誌がでていたっけ。

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書評や本の感想からズレるが、いわゆる〈若者の海外旅行離れ〉の理由は、相対的な貧困が一番の原因だとわたしは考える。

相対的というのは、旅行をするための金がないほど貧乏だと言う意味ではない。20歳ぐらいの年齢を考えると、バブルの時代も不況の時代もたいして違いはないんじゃないか。
現在の20歳前後の若い連中が相対的に貧困なのは、携帯・パソコン・衣類・化粧品・コンビニ消費など、使った気がしないのに消えていく金が多く、それ以外のものに消費がまわらないのが原因ではないか。

さらに、海外旅行に限っていえば、旅行そのものの費用ではなく、旅行に行きたくなるための情報や知識を得る金がない。だから、めんどくさい海外よりも温泉にでも行ったほうがいい、という消費行動になるのでは。

それから、インターネットの影響としては、海外へのネガティブな感情があふれていて、旅行しようという気分を冷やすものがいっぱいある。
悪名高い某サイト(2ちゃんねるではありません)を覗くと、海外女一人旅など不道徳・破廉恥・国辱的なものだときめつけるような投稿が山のようにある。

中国人は反日的、インド人は詐欺師、東南アジアは不潔、白人は人種差別主義者、イスラム教徒はテロリスト、などなど海外旅行を危険・不衛生で貞操の危機と思っている人が大勢いるようだ。

さらに、20歳前後の若者の場合、親や家族の反対がすごいようだ。
だから、〈ボランティア〉だの〈短期留学〉だのと理由をつけて、団体旅行に参加する以外ないのが今の若者なのである。ははは、ざまあみろ。

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以下、本書の内容からさらに離れるが、

今後日本人の海外旅行は2泊3泊の短期旅行を除くと、どんどん減るだろうな。

むかしむかし、添乗員付き団体旅行で行った大正生まれの爺さん婆さんたちは、一人で着替えができない、枕が変わると眠れない、ナイフとフォークが使えない、洋式トイレが使えないなど、基本的な生活習慣がダメな人が多かったわけだ。

今後、日本の便利で窮屈な生活に順応した世代は、ヨーロッパだろうとアジアだろうと、不便な生活に耐えられないのではないか。
ウォッシュレットもない不潔なホテル、コンビニ食しか知らない舌にあわない気持ち悪い食事、乗物酔いに悩まされる移動、化粧品やサプリ食品やお気に入りの小物でいっぱいになったスーツケースを転がすことも難儀、という海外旅行はとても大金を出して行く気にならないだろう。

地球の歩き方どころか空港内(長いぞ)も歩けない人は海外旅行ができないということになるだろう。

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さらに身辺雑記になるけれど、旅行ができない状態で円高のニュースをみると、ひじょうに悔しい!この前海外に行ったときは、1USドル108円だった。とほほのレートである。

せめて海外へ行った気分になるため朝晩に水シャワーを浴びている。

大野信一 石井米雄 死去!!

2010-02-28 22:09:20 | その他;雑文やメモ
今月はずっとウツ状態で小説ばかり読んでいて、新聞もテレビも見ていない。
このブログもずっと書いていなかったが、本日、なんと、神田神保町のアジア文庫の店主・大野信一さんが死去されたことを知る。

さらに、わたしのブログで何度も言及している石井米雄氏の死去も知る。

別に入院していたわけでもなく、海外に行っていたわけでもないのに、こんな大ニュースを知るのに、これほど遅れるとは。もっとも、インターネット上にもあんまり情報はないな。出版社のめこんのサイトに載っているから間違いないだろうなあ。

そういえば、翻訳家の浅倉久志も死去。こちらはけっこうウェブ上でお悔やみが多いな。

うーん。はやく暖かくなって、気分が晴れますように。

鶴見俊輔,『アメノウズメ伝』,平凡社,1991

2009-12-14 22:21:32 | その他;雑文やメモ
著者の体験と記憶をいもづる式に書きつらねたエッセーである。
フェミニズムやジェンダーという言葉を鶴見俊輔は使わないが、その方面の話題である。上野千鶴子も著者本人から内容を聞くまで読んでなかったそうだ。(←正直者!せんせい、こんなおもしろい本あるんですけど、よくわかんないところがあるんですう~などと言ってくれる教え子はいないのか。)

献辞は著者の妻・横山貞子。

といっても、学者が知らなくても恥じることはない、著者のたんなる思い出話ともいえる。読者は鶴見俊輔の引き出しから取り出される世間話と博覧強記をただただ楽しめばよいのである。

『古事記』の神話から始まり、ストリッパーの一条さゆり、前項でも出てきた天照皇大神宮教の北村サヨ、ラナルド・マクドナルドなど、著者好みの人物が次から次へと出てくる。(索引完備)

鶴見俊輔としてはめずらしい(それとも、過去に触れていて、わたしが知らないだけか?)瀬戸内晴美、田辺聖子、落合恵子などにも言及。

最初に書いたように、イモヅル式、アフォリズム調の語り口であるので、厳密に著者が何をいいたいのか、などという読み方をしてもおもしろくないだろう。
たとえば、ガンジー関するところなど著者がガンジーをどう捉えているのか、よくわからん。(p133)

ガンジーはやきもちやきで、自分の監督下にある少年少女に性的純潔を要求し、少年少女が水浴びにゆくにもひとりでついていって監視したことを、自分で書いている。ガンジーの心の底には、自分の性的欲望に対してくわえられる暴力行為があり、その暴力性の反動として、自分の子どもや妻や(自分の監視下にある)少年少女に対してくわえられる道徳的禁圧という形での暴力性があらわれる(E.H.エリクソン『ガンジーの真実』)。こうしたちがいにもかかわらず、裸身をさらして、見知らぬ相手に対するという態度において、ガンジーはアメノウズメに似ている。その政治的有効性という面だけにかぎれば、両者ともに、ある性格の相手に対する場合にだけ、その態度は、のぞましい結果をひきだすものと言える。

……よくわからない。このあと、オーウェルのガンジー観も紹介されているが。

『鶴見良行著作集 4 収奪の構図』,みすず書房,1999

2008-12-31 14:45:49 | その他;雑文やメモ
どっかにあったはずだ、と頭の片すみにひっかかっていたが、ここにあった。

p341~342
>たとえば、バナナの箱詰め作業場で働いている若い女子労働者たちは、日給三〇〇円にも満たない賃金だが、よくコーラのたぐいを買って飲むし、足の爪にはペディキュアを施している。かれらの生産するバナナも、つきつめていえば外国大企業のものだし、ペディキュアの紅もコーラも利益は海外へ流れるに違いない。
>あんまりではないか。
>しかし、これはかれらが今日陥っている経済の不可避的な結果でもある。
>農民や労働者が爪に火をともすように倹約したとして、そのわずかな余剰を、生活向上のため、どこに投じたらいい、というのか。
>生産力を向上させ収入を増やすという常識的な路線は完全に閉ざされてしまっている。サリサリ・ストアが流行るのはそのためだ。生産手段と労働がまったく分断されてしまっているために、民衆は手っとり早い消費に向かわざるを得ない


鶴見良行,『アジアを知るために』,筑摩書房,1981の一節である。

この『アジアを知るために』、鶴見良行ファンとしては、いや、わたしはファンと名乗る資格はないが、忘れてしまいたい内容を含む。
中華人民共和国の自力更生路線を支持し、〈農業は大寨に学び、工業は大慶に学ぶ〉というスローガンをまともに評価している。
いやはや、困ったことだ。しかし、こんな時代もあったことを忘れないようにしよう。わたしとて、経済合理性よりも人民の主体性と平等を求める、という理想に共感する。

そして現在、日本の暮らしは中国の工業生産物なしでは成り立たない構造になっている。
毒餃子騒動の時、わたしは呆れましたね。中国からの食品を拒否するなんて、できるわけないでしょうが。自分で米と野菜とダイズとニワトリを育てている人は別だが、そんなことができる人は、生産資本も労働力も備わっている人、なにより健康で若くなければできない。

中国の社会主義に対する憧れは、対岸の火事、じゃなくて、海の向こうの理想郷だから、なんとでも幻想を持てたが、現実の中国が日本の経済と生活に組み込まれるようになると、嫌悪と差別感がわきおこるわけだ。

さて、最初に引用した文にもどろう。

これはまさに現在の貧しい日本の状況とそっくり、やっと日本もアジアの仲間だ、うれしいな。
コンビニエンス・ストアというものを知ったとき、わたしは、こりゃサリサリ・ストアみたいなもんだろうと思った。都会で一週間七日、一日十六時間ぐらい働くサラリーマンには必要かもしれないが、イナカではこんなもの成り立たないだろう、と思っていた。
ところが、あれよあれよという間にそこらじゅうにコンビニができて、貧乏人がこんな無駄で高いものを買うのか?と思ったもんだ。

しかし、貧乏人だからこそコンビニに依存しなければならないのである。
鶴見良行がやっていたように、魚屋でサカナを買い、八百屋で野菜を買い、出刃包丁で調理するなんてことは、鶴見良行が豊かでスキルがあり文化資本が充分備わっていて都市に住んでいるからである。
反対に生活向上が望めないものは、小銭を浪費し、ますます貧乏になっていく。

アメリカ合衆国で低所得者向けの住宅ローンが破綻して、世界中不景気になったそうだが(ほんとうか?)、その住宅というのは、コンビニの冷凍食品をチンするだけのシステム・キッチンが装備されていて、サンマも焼けないし、野菜炒めもできない構造になっているんでしょ?たぶん。
車でスーパーマーケットに行って調理済食品を買う以外ないような住宅地が造成されたのだろう。

つまりだ、貧乏人から小銭を巻き上げる構造ができていて、貧乏人はその構造にしばられて抜け出せない。
その先進国の貧乏人の消費材である車を組み立てる保税加工区、コーラの缶のアルミをつくるアサハン・ダム(本書によれば、アルミサッシを作っているということだが)が、なぜ儲かるのか?言葉をかえれば、これほど無駄で効率が悪そうにみえる事業がなぜ可能なのか、その構図を解き明かしたのが、この巻に同時収録された

『アジアはなぜ貧しいのか』,朝日新聞社,1982

日本をアジアに含めれば、当然含まれるわけだが、現在の日本の貧しさが理解できるだろう。
同時に、アジアには、つまり日本にも、富裕な階層は存在する。またアジアには、つまり日本にも、富裕な階層とは別の意味で、豊かな民衆も生きている、ということが理解できるだろう。
100年に一度の異常な事態などと、アホなことを抜かしている輩がいるが、こういう連中は、1929年の大恐慌もニューディールも知らんのだろうか?1945年当時のドイツや日本の事情を知らんのだろうか?

熱い解説を書いているのが宮内泰介。
その中で、内堀基光の書評が引用されている。(『週刊読書人』1996年2月23日号、鶴見良行没後の書評)

内堀基光は、鶴見良行が持っていた語りかける相手である読者、若者に対する信頼感に違和感をもつ、と書いている。つまりだ、鶴見良行は良質で知的な若者たちをあまりに信頼しすぎているんじゃないか、ってことだ。
宮内泰介は、扇動された若者(本人はそれほど良質でも知的でもない、と言っているが、充分知的ですよね。)にとっては、鶴見のアジテーションは魅力的で大きな影響を与えたと捉えている。

うーん。どっちの言い分も正しいように思えるが、知的でない若者には、さっぱり影響を与えなかったことは確かだろう。
日本の若者も、フィリピンのプランテーションの低賃金労働者のようになる構造が進展した、ということだ。
これで、日本の労働者もめでたくアジアの仲間と連帯できるか、というと、まったく反対に嫌悪と中傷をぶつけるようになるのか……とほほ。

『旅行人』No.159 創刊20周年記念号

2008-12-16 19:49:51 | その他;雑文やメモ
この雑誌にはほんとうに世話になった。(なった、と過去形で書いたが、現在も定期購読しておりますので)
だいたい、このわたしのブログで紹介している本も大半は『旅行人』を通じて知ったもので、二番煎じの内容であります。

本号では創刊20周年ということで、有限会社旅行人の設立、「旅行人ノート」シリーズの発行、年10回発行から季刊になり、とうとう年2回の発行になるまでの経緯が編集長兼社長の蔵前さんの思い出として述べられている。

わたしがこの雑誌に魅かれたのは、バックパッカー流の旅行を扱っている、というのではない、それよりも雑誌の作り方ではないか、と自分で分析している。
この雑誌は、『本の雑誌』のような、しろうとっぽい手触りと同時にプロ的な雑誌作り、『シティ・ロード』のような自分たちが関心を持っていることを自分たち流に伝えようという意気込み、『ミュージック・マガジン』のような第三世界を見る(聴く)という世界観、『ぱふ』や『だっくす』のようなサブカルチャー的雰囲気(その後の言葉でいえばオタクか)、そんな編集方針がわたしの好みとマッチしたんだと、今思っている。

もっとも、蔵前編集長はどんどん専門的執筆者も起用していて、『季刊民族学』や『月刊たくさんのふしぎ』や『しにか』のような方向もあるし、現代書館か明石書店かという傾向もあるし、オカルト系やトンデモ系の話題もある。べ平連と海外青年協力隊と『リボン』が雑居している状態。こういう全方向的なところが『旅行人』の強さだろう。

今号の回想や分析の中で、前川健一さんと田中真知さんの、インターネットが変える旅行形態の話が気になった。
前川さんの、〈日本人はアメリカ化している〉という指摘。これは、旅行経験の少ないわたしでさえ感じていたことだ。アメリカ人は団体でばかり行動していて、外国語が不得意で、現地の文化に馴染まず、自分の狭い世界にしか興味がない。今や日本人もめでたくアメリカ化して、内に引きこもっている、と前川さんは皮肉っている。

また、田中真知さんは、あらゆる情報がウェブで入手できる現在、旅行も不確定要素をゼロに近づけ、効率よく予定どおりのスケデュールを消化する形態になりつつある、といういやな予想をしている。

うーむ。みなさん、こんな時期こそ未知の世界に旅立とうではないか!若いもんはほっとけ。中年・老年諸君、むかしに比べれば、はるかに旅行しやすくなった。失業と老親介護を乗り越えて、旅に出よう……、、(いまいち、説得力がないか……)

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ところで、ついでに話題にするような話ではないが、蔵前編集長が参考にしたという『本の雑誌』であるが、最新号2009年1年号で、経営が危機に瀕しているという事実が、編集者と発行人によって知らされている。

えー!?意外だ!!
『本の雑誌』は、宮田珠己や高野秀行といった強力執筆人をスカウトし、鏡明や青山南といった巨匠クラスのレギュラーがいて、さらに柳生毅一郎や穂村弘という他誌がうらやむ人材を持っているんじゃないか?(この号の三角窓口(投稿欄)では読者として、渡辺武信が投稿している!なんと贅沢な!!)

信じられない。これほど豪華な雑誌なら、年収1000万クラスの人がみんな購読しているだろうし、そのクラスの人は不景気の影響もないだろうから、安泰なんじゃないかと思っていたのだが……

もちろん実態は、大多数の読者は50代40台のつつましい人であって、インターネットやなんかの影響で、雑誌を購入する小遣いが減っているんだろうな。

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このブログのタイトルどおり、わたしは東南アジア方面に魅かれた、というより、忙しい家族関係や仕事の上で、東南アジア以外に行ける場所がないという、現実的な拘束があった、ある、のである。

一度、西アフリカ旅行をシュミレーションしてみたことがある。
しかし、あまりにハードルが高い。
もしもの時の医療、日本に緊急に帰らねばならなくなったときの帰路、連絡方法、現金や両替の問題など、うんざりするような問題がある。
重大なトラブルがないとしても、航空運賃、予防接種、ビザなどめんどうで金がかかる準備がいる。
さらに、フランス語を覚えて、単調な食事に耐えて、蚊帳を背負って、などと考えると、うんざりして諦めた。
何も知らないうちに旅立てば、意外とすんなり行けたかもしれないが。
死ぬ前に一度、というのも、実際に病気で死ぬ場面になったら旅行どころじゃない、ってことも解ってしまったしなあ……。

映画『コドモのコドモ』ロケ

2007-09-28 21:20:40 | その他;雑文やメモ
わたし的に最近の最大びっくりニュース!!
参考ウェブ・ページは、

www.hokuu.co.jp/2007koramu/0816eigayuuti.html

ぜんぜん知らなかった。このブログ内で断片的に書いてあるように、わたしは秋田県内に住んでいるが、いままでまったく知らなかった。
なんと、わたしが卒業した小学校ですよ。今年(2007年)3月で廃校になったのだ。
廃校になったのは知ってたが、まさか、こんなことになっているとは!

映画のスタッフをみると、最高のメンバーではないか。おお、生まれ故郷で撮影された映画がカンヌ映画祭グランプリなんてことになったりして……。(まあ、映画のできは、過去の作品から予想できないから、愚作ということもありうるけど……)
地元では、住民の非営利団体「能代フィルムコミッション」という組織が全面的に協力しているとのこと。
これは、よかった。町おこしで、有名カメラマンに写真をとってもらうプランを決めたものの、議員がヌード写真ということを知らず、プランを発表後に撤回、なんてハズカシイ醜態をさらした自治体もありますからね。
『コドモのコドモ』は、制作会社側から事前に、住民団体や市の観光課にくわしい説得があったようだ。こういう話には、かならず反対するやつがあらわれるもんだが、ハジをさらす結果にならなくて、よかったよかった。(もっとも、議員なんかは、映画はもちろんマンガもしらない連中だろうから、内容を説明されても、スタッフ・キャストを知らされても、なんのイメージもわかないだろう。「日本アカデミー賞とれますか?」なんて、マヌケなことを思ってるかもね。)

ロケの中心となる小学校は、いわゆるドーナツ化現象による人口減少で廃校になった。つまり、山の中の分校みたいなところじゃないよ。
わたしのブログの記事でかいたこともあるが、サマリンダのような工業都市で、豪勢な材木屋がいっぱいあったんだぞう。
川の上流の資源を集め、安い賃金で加工して儲ける、典型的な近代工業都市だった。
(イザベラ・バードが溺れそうになったのが、この川の中流だ。どのへんか正確な位置は不明だが。ちなみに、バードはこの町には滞在せずに、別の道を通って上流へむかったようだ。)
その中心地にある、職工や店屋のこどもが通うのが、廃校になった小学校である。

ああ、もちろん、撮影に使われる校舎は、わたしがかよった時代の校舎ではないよ。今残っている校舎の前の前の木造校舎がわたしたちの時代。
薪ストーブの上に暖飯器をのせる時代でしたからね。
校舎どころか、グラウンドや校庭の位置がまったくかわってしまったから、わたしのかよっていた時代のおもかげはまったくない。

さてさて、全国的にはほとんど話題になっていないニュースだが、(ウェブ上の記事もまだ、新聞社の記事とか主演女優のファンサイトくらいしかないね。)暗い話題ばかりだった小さい町では、ビッグニュースであったようだ。
暗い話題というのは、例の「連続小学生殺人事件」(公判開始、被告の母親側は殺意を否定しているので、殺人事件扱いになるかどうか、成り行きは不明)とか、大手ショッピングセンター進出による、商店街の崩壊などの話題。
ほんと、高齢社会、労働人口の減少、こどもの減少を象徴するような話題ばかり。
こんなところで、こどもを生む、というテーマの映画の撮影に最適とは、なんという皮肉。

映画のできに関しては、マンガのほうがあまりにもみごとなので、あっちをしのぐ内容が可能かどうか不安だ。
まあ、一応成功して、能代フィルムコミッションが、「連続小学生殺人事件」を題材にした映画のロケも受けいれる下地ができたらおもしろいですね。アホな議員やPTAに負けるなよー。