東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

石井米雄・桜井由躬雄,『東南アジア世界の形成』,講談社,1985

2007-11-17 11:56:46 | 多様性 ?
これはとことん専門的な一般大衆のレベルをこえた一冊。
「ヌガラ」「ムアン」「プラ帝国」「制海路政国家」などの新しい概念を提出し、有史以前から19世紀までを描いたもの。

「〈ビジュアル版〉世界の歴史」シリーズの第12巻。つまり写真や図版をたくさん載せた一般読者向けのシリーズの一冊であるのだが、歯ごたえがありすぎ、消化しきれない分量をもりこんでいる。
ページの三分の一が文章で、残りが写真や図なのだが、文章と図がずれていて、説明の補助になっていない。本文にでてこない人物や建造物がいっぱい載っているのだが、それらが本文とどう関連するのかわからない。索引もなし。
なにしろ、文章が250ページほどの三分の一、新書本にして150ページほどの分量で、これだけ広範囲の内容を説くのはむりでしょう。

日本の東南アジア史研究の、当時の最先端を反映したものの、読者を悩ます結果になった一冊。

桃木至朗,「東南アジア史 誤解と正解」,2006

2007-11-17 00:09:53 | 多様性 ?

第4回全国高等学校歴史教育研究会、2006年8月2日、大阪大学での発表。
www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/2006/momoki_honbun.pdf
質問への回答、「ではどうしたらよいのか?」
www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/2006/momoki_qa.pdf
研究会のサイトの入口は
www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/index.html

あははは、おもしろい。失礼。現場の先生はたいへんでしょう。
高校教科書や大学入試問題の東南アジア史関係のマチガイを分析したもの。
まず、「誤解と正解」のほうだが、これがもう、日中韓の現代外交問題がからんだ論争とは、ぜんぜん別。わたしのブログでも、まちがいは多いだろうが、じぶんのことは棚にあげて笑ってしまう。

1.地理がわかっていない。
入試問題や教科書を書くひとが、山脈や島、河川や都市の位置を知らない。もちろん指摘されればわかるだろうが、のっぺりと赤黄緑青で着色された国別の地図しかあたまにない。だからへんな問題を平気で作る。

2.言語や文字を知らない。
これは、まず現在の国家語になっているベトナム語やタイ語を知らないということ。
それから史料が書かれている漢語やサンスクリット語、パーリ語やアラビア語を知らないこと。読めないのはしょうがないが、文書制作の約束事を知らない。
さらに、一民族一言語、一国家一言語の神話にとりつかれているので、古代の王族や住民を現代の国民のようにとらえていること。

3.宗教を知らない。
これはイスラームの教義がどうの、上座仏教のしくみがどうの、という問題ではない。そうではなく、民衆も王族も外来者も、みーんな信仰にかんしてはちゃらんぽらんで、真剣に信じたり、カノンを守ったりしないということ。この状態が東南アジアはもちろん、他の世界でも常態である。
遅れた国の人は敬虔な信仰心をもっている、という差別のあらわれじゃないか。

以上の基本的な無知の上にのっかっているのが、農業基盤重視、領域国家、単一民族国家、王朝交代史、植民地中心史、ナショナリズム史観である。
これがごちゃごちゃに組み合わされて、重箱のすみをほじくる入試問題が作られている。

一方、東南アジア史学界では70年代に常識になっていることが、やっと教科書に載りはじめた。
高谷好一も石井米雄もアンソニー・リードも「劇場国家」も「まんだら」も教えられず、というより教師も知らず、大学入試問題をつくる側も知らない、という状態がつづいてきた。そうした状況を改善しょうとするのが、この研究会である。

しかし、現場の先生からみると、「こんな新しい研究成果を教室ではとても追っかけられない、時間がない」という声がある。桃木至朗さんは無視。むむ。
東南アジア史研究者からいえば、単線発達史観や単一民族国家史観をくつがえすためにも、東南アジア史を教える意義があるのだろうが。

問題は、生徒にとっても教師にとっても、基本的なことを学ぶ時間すらないのに、重箱のすみをほじくった、おまけに基本事項をまちがえた入試問題が作られ、それに対処しなくてはならないことだろう。さらに、東南アジアなんて、入試の10パーセントにもならないし、最新研究成果を知らなくても、いや、知らないほうが解ける問題ばかりで……。

入試問題以外にもノイズは多い。
桃木至朗さんが強調している「かわいそうな東南アジア」イメージの増幅。戦争や環境問題を扱っても、結局生徒は、かわいそうイメージをもつだけで終わる危険がある。
あるいは、「バーンチェン・ショック」「鄭和の大航海」のようなトンデモ系。(あの『1421』については桃木さんもトンデモと言ってます。)
さらに、ジャワの「強制栽培」の例にみられるように、東南アジア史研究者としては、植民地主義万能ではない、という意味で影響を過大視すべきでない、という文脈で検討しているのに(さらにその後の「倫理政策」も問題だ!)、一周おくれの側からは、搾取を肯定しているのでは、という反論が起きる。そんな問題もある。

うーむ。
しかし、暇にまかせて東南アジア本を読んでいる年寄りからみると、高校生はたいへんだ。高校生としては、世界史なんてたくさんある科目の一部、東南アジア史はさらにその数パーセント、とてもつきあっちゃいられないよなあ。
土地所有制、封建制、産業革命、議会制、国民軍、労働市場の自由化、そんなことをやっと覚えたら、そんなもんじゃないって言われてもなあ。

水島司 編,『アジア読本 マレーシア』,河出書房新社,1993

2007-07-28 07:32:38 | 多様性 ?
えっと、この『アジア読本 暮らしがわかる』シリーズのレビューは最初だっけ。
なかなかイントロとしてとっつきやすい本がなかった時、アジア各国別に、政治・経済よりも、衣食住・宗教・民族・慣習・教育・ポップカルチャーを中心にまとめてくれたのが、このシリーズです。

4冊ずつ1期分、全4期計16冊発行の第1期。
タイ・フィリピン・インドネシアとともに、ASEAN結成当初の国を紹介。

他の巻は(韓国は単独著者による)、多数の著者がそれぞれ専門分野を分担した構成になっているが、本巻は、編者・水島司ができるだけ一人で執筆するという体裁になっている。(それでも少数の助っ人が参加)

編著者の水島司さんは、インド史研究者としてスタートした方、中央公論社『世界の歴史』シリーズ『ムガール帝国から大英インド』で、南インド史を担当した人です。
その南インド専門家が、歴史的知識はあるものの、ほとんど知らない地域であるマレーシアを総合的に紹介したもの。
専門家が自分の専門をまとめるよりも、はじめてマレーシアについて書く、という新鮮さが、いい結果となった著作。

内容は要約不能。各自購入するか図書館で見よ。

*****

本書ばかりではないが、本書でも、マレーシアのブミプトラ政策についての矛盾がさりげなく述べられている。

マレーシアの「マレー人」は土地の子、本来の住民であり、華人・インド人の経済的優位に対抗するために、政策として優遇する、というのが「ブミプトラ政策」。
詳しい経緯は、前項『ラーマンとマハティール』にこれ以上はないほど適切に叙述されている。
しかし、「マレー人」ってのは、どう定義されるのだ。

『ラーマンとマハティール』にも初代ラーマン首相の母はビルマ人でバンコク出身、第4代首相マハティールの父はインドのケララ州からの移民の家系、ということがはっきり書いてある。これらの事実は秘密でもなんでもない。
「マレー人」は、マレー生まれのマレー語を話すムスリムである、という規定があるが、実は、マレー半島にもボルネオにも、ムスリムでもないしマレー語が母語ではない先住民がたくさんいるのだ。
さらに、スルタンがマレー人を精神的に保護・支配するという暗黙の前提があるが、スルタンというのが、移民のアラブ系だったり、現在インドネシアの各地からの子孫である場合がある。(だいたい、母親のほうは、シャム人だったりユーラシアンだったりするのだ。そういえば日本人でスルタンの妻になった人もいたはず。)

というように、矛盾がいっぱいなのだが、本書はその矛盾の中で、それぞれの宗教や慣習を守り(あるいは復活したり、創造したり)、消費生活を楽しみ、都市生活に不満ながらも順応するマレーシア人が描かれている。

シリーズの他の巻も同様だが、まず最初に目を通してみるべき1冊。
参考文献もしつこくなく適切。

萩原宜之,『ラーマンとマハティール』,岩波書店,1996

2007-07-28 07:32:20 | 多様性 ?
萩原宜之,『ラーマンとマハティール』,岩波書店,1996

著者(はぎわら・よしゆき)、シリーズ「現代アジアの肖像 14」

二人の首相を中心にマレーシア現代史を通観した一冊。
アジア通貨危機前に出版されたことが、逆によい結果になっている、と思う。
大きな事件があると、まるで、それ以前の経済・政治がそれに向かっているかのような叙述になってしまうきらいがあるが、本書は経済成長を謳歌するマレーシアの記述で終わっている。
これが、独立前後からのマレーシア史として読みやすい。

独立といえば、今年2007年8月31日はマレーシア独立50周年。
ウェブはお祭り騒ぎの情報であふれています。
しかし、どこから50周年かというと……(以下の段落はとばして読んでも可)

大英帝国の海峡植民地・マレー連邦州・マレー非連邦州の三種類の支配形態があったマレー半島、そこが日本軍の軍政になったのが1942年2月15日から。(ややこしいことに、日本軍政時代に、ぺルリス・ケダ・クランタン・トレンガヌの4州はタイに割譲。)日本の敗戦により、イギリスの軍政になる。その後、イギリス植民地省は、シンガポールを分離し、ほかの州をまとめたマラヤ連合案をつくり、政府案とする。この案に反対するUNMOは、マラヤ連合案に代わる、マラヤ連邦案を提出。半島内の各民族、政党、スルタンの利害が絡まる中で1948年2月1日マラヤ連邦発足。ナショナリストや政党が対立・協調する中で、マラヤ連邦は独立の道をさぐる。そして1957年8月31日、英連邦国家の一員としてマラヤ連邦独立。ここから数えて今月31日が50周年というわけだが、この段階でのマラヤ連邦というのはシンガポールも含め、ボルネオのサバ・サラワクは含まれていない。1961年、初代ラーマン首相はマラヤ連邦・シンガポール自治領・ボルネオ(サバ)・サラワク・ブルネイを統合したマレーシア連邦構想を発表する。この案に対し、サバ・サラワクの住民間の反対と賛成、近隣のフィリピン・インドネシアの抗議、半島部のさまざまな民族・勢力の賛同と反対があった。結局ブルネイは離脱。国連の調査団も受け入れた(うーむ、リットン調査団みたいなものか、東チモール調査団みたいなものか)。1963年9月16日、マレーシア連邦成立。しかし、まだまだ問題は続く。シンガポールでの反マレー・反UNMOの運動が高まり、結局シンガポールは分離独立。1965年8月9日シンガポール分離。この時期は、インドネシアやフィリピンとも国交断絶の時期。やっと現在の国境が定まったのものの、国内の動揺・不安定は続き、1969年「5月13日人種対立事件」。この事件をきっかけにラーマン引退。

というのが本書の第6章まで。
たいへんな時代だったのだ。
ベトナム戦争、文化大革命、というものすごい事件に目をくらませられるが、1960年代までの東南アジアの国々、みんな大揺れに揺れていた。
まさかこんな国々が、ヨーロッパ並の工業生産や国民所得になるなど、想像できなかった。
いや、東南アジアばかりじゃなく、日本と韓国や台湾だって、このころ、ものすごい混乱、治安出動、労働災害と公害、猟奇犯罪と組織的汚職だったんだから。

政治史を中心とした歴史は、このシリーズ全体をみても、混乱と対立、あやうい均衡の上に成立しているように見えてしまう。

なんといっても驚いたのは、マレーシアでは、「市民権、マレー人の特権、他の民族の合法的地位、国語、スルタンの地位についての一切の言論を禁止する」ことが憲法で(憲法でですよ!)禁じられているってこと。

↑文章まちがい。〈禁じられている〉ではなく〈規定されている〉

くれぐれもマレーシア旅行中、「ちぇ、英語の表示にしてくれよ」なんて言わないように。憲法を犯す言動であります。

とはいうものの、豊かな暮らしになれば、みんな穏やかになるもの。一見すると、各民族は調和しているし、漢字の看板もタミール語の看板もあるし、スルタンが国王になろうがなるまいが(順番で国王になるんだ!立憲君主制で連邦制)誰も気にしていないようにも見える。

そんな豊かな工業化社会にしたのが、マハティール第四代首相だ。

『イスラム世界の人びと 2 農民』,東洋経済新報社,1984

2007-01-20 10:56:28 | 多様性 ?
全5巻の編者は以下

1 総論 神岡弘二・中野暁雄・日野舜也・三木亘
2 農民 佐藤次高(さとう・つぎたか)・冨岡倍雄(とみおか・ますお)
3 牧畜民 永田雄三・松原正毅
4 海上民 家島彦一・渡辺金一
5 都市民 三木亘・山形孝夫

1967年からの東京外国語大学アジア・アフリカ言語研究所での「アジア・アフリカにおけるイスラム化と近代化に関する調査研究」プロジェクトを土台とするシリーズ。
1977からの宮本常一の参加により日本との比較の視座もとりいれる。(宮本氏は本シリーズ刊行前に死去)

という研究の来歴とともに、当時のイスラームをめぐる世界情勢の歴史的背景文化的基盤を知る、知らせるためにも、このした形のシリーズで出版されたものであろう。
本巻収録の著者は、(カッコ内は調査地)

冨岡倍雄(シリア、ダマスカス周辺のグータの森)
後藤晃(イラン、ザーグロス山地南部のマルヴダシュト地方、1972年)
佐藤次高(エジプトのファイユーム地方、スィンヌーリス村)
永田雄三(トルコ、中部アナトリア)
村井吉敬(スンダ地方)
日野舜也(北カメルーン、バングブーム村)
中野暁雄(モロッコ、アンティ・アトラス山中の村)

こまかいことはおいといて、まず、基本的なこと。

宗教に関係なく、地球上のどんな地域でも、大多数を占めるのは農民である。
本ブログでたまにとりあげる狩猟採取民は、ごくごく例外的な少数の人々である。
牧畜民も分布領域は広いが、それはつまり面積あたりの人口が少ないということで、農民に比べずっと数は少ないし、農民・都市民と交易をしないと生活がたたない。
海上民も、漁民であれ、船乗や商人であれ、都市がないと成立しない。
そして、都市は膨大な数の農民の余剰の上に成立するものである。

ところが、イスラームという宗教、社会生活原理は、都市からはじまった。(という、基本的な認識を広めるために、イスラーム研究者は口を酸っぱくして説いていたわけであるが)
これは、初期のキリスト教でも仏教でも同じ事情らしい。
商人が動き、奴隷が取引され、多言語・多民族の生活する場である都市が繁栄するようになって、新しい宗教・原理・規律が必要とされたわけである。

ところが圧倒的多数の農民(および、領主とか地主のような農村を基盤とした権力)にも宗教は広まる。
農民・農村・地主・領主を無視して、商人・運輸業者・盗賊・奴隷・都市の住民だけを対象とした宗教でありつづけることはムリであるようだ。

ともかく、新しい宗教は農民にもひろまる。
そんなわけで、今や大多数のムスリムは農民である。

本書は、以上のような経緯をへて、農村・農民の宗教としてのイスラームを、フィールド・ワーカーが紹介したもの。
当然ながら、イスラーム云々以前に、農民・農村が、多様である。

新谷忠彦 編,『黄金の四角地帯』,慶友社,1998

2006-12-15 10:15:31 | 多様性 ?
『黄金の四角地帯,―シャン文化圏の歴史・言語・民族 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所歴史・民俗叢書 Ⅱ』という長ったらしいサブ・タイトルがついている。

副題のしめすとおり、アジア・アフリカ研究所の共同研究の成果をまとめたものであり、中国雲南省・ラオス・タイ・ミャンマー4カ国にまたがる(ベトナムのタイバック地方、インドのアッサム州の一部にも分布)シャン文化圏についての研究である。

この地域は20世紀をつうじて、外側からの旅行・調査が困難なところであった。ところが、1990年代にはいり、国境が開かれ、学者の調査が解禁され、道路やインフラが整備され、開発・交易の場として注目されることになる。
このまま一挙に国境を自由に往来できる状況になるか、と思われたが、その後のミャンマーの政治事情により、ミャンマー方面の往来は不便になった。
それでも1970年代80年代に比べれば、商品の流れも外国人の往来もずっと自由であり、本書は、そんな時代を反映した中間報告のようなものである。

この「シャン文化圏」を規定するのは、第一に言語である。
新谷忠彦,「第1章 言語からみたシャン文化圏の民族とその分布」で概略がしめされている。

ざっとみて、さほど複雑ではない。
54ほどに分類されている言語名をみると、頭がいたくなるほど複雑であるようだが、実際はそれほどでもない。
まず、先住と考えられるモン・クメール諸語があり、その上にメコン水系でタイ諸語がかぶさり、サルウィン水系でカレン諸語がかぶさり、標高の高いところにチベット・ビルマ諸語が分布している。
言語学者を悩ませているのは、系統の問題、どっちが元からあるか、どっちがどっちの影響を受けたか、という問題であるようだ。
インド・ヨーロッパ語族の系統がすっきりしているため、他の世界の言語の系統もすっきり解けると考えられた時期もあるが、この山地東南アジアにしても(東アジアと同様に)、系統の問題はすっきり解決できるものではなさそうである。

専門の言語学者を悩ませる問題がある一方、ふつうの人を悩ませるのは、やはりさまざまは声調、複雑な借用語である、とおもう。
言語学的に近縁だからといって、必ずしも覚えやすいとは限らない。
この地域の言語は、近接する文明圏である漢語圏とインド圏から膨大な語彙を借用している。また、クメール語やシャム語など国家を形成した強い言語の影響もある。
そんなわけで、この地域の言語を学ぶのは容易なことではない。

さらに、タイ諸語研究者の宇佐美洋(うさみ・よう)さんの指摘するところによると、言語学者が注目する音韻や文法よりも、一般の住民は文字やイントネーション、ポーズなどに注目する。
それによって、他のグループが自分たちに近いか遠いかの判断は、言語学者のイメージとは異なることになる。

上田広美・岡田知子 編著,『カンボジアを知るための60章』,明石書店,2006

2006-12-11 22:14:33 | 多様性 ?
最終の第60章で、力強い発言が送られる。
読むことが一番たいせつ
ははああ!もっともであります。
百聞は一見に如かず、なんてウソである。ことばが通じなくとも心がふれあえるなんてウソである。
もしも外国を知りたい理解したいと思うなら、まず言語コミュニケイション、むこうから発せられる言語文化を読むことである。
ヨーロッパや中国ならば、この態度は当然であった。
当然、相手がカンボジアでも、当然ではないか!

とはいうものの、日本にいて、カンボジア語なんて学ぼうとする、学ぼうとした人たちはすごい。
教科書も辞書もなく、書物も新聞もポップ・ソングのカセットも入手できない状況で、きわめて限られた地域でしか通じない言語を学ぼうとした人たちは偉い。
本書は、そんな研究者たちによる、基礎的カンボジア案内である。

最初に言語、文字、民話、文学についての項目があり、その後、宗教・衣食住・歴史・社会・芸能芸術、という構成である。

日本のマンガに描かれたカンボジアにかんする短いコラムあり。(岡田知子 執筆)

このなかで、山上たつひこ『光る風』が、カンボジア派兵をテーマにした作品だという指摘あり。
えー!そうだったのか?!
わたし『光る風』そうとう細部まで記憶があるのだが、あの中で日本の自衛隊(という名称は変わっていたかな?)が戦闘にむかうのがカンボジアなんてまったく記憶に残っていない。
いやあ、わたしの記憶はあてにならないものだ。

さらに、映像作品に描かれたカンボジアという一章があるが(同じく岡田知子執筆)、テレビドラマ『怪傑ハリマオ』がカンボジアでロケをしているそうだ。
『怪傑ハリマオ』が国産テレビドラマ最初の海外ロケ作品であるのは知っていたが、カンボジアまで行ったとは!
わたしは、この番組を見ていて、(ただし、東京と同時期の放送だったのか不明、当時秋田では民法1局しかなかったから、後の再放送だったとも考えられる。確認するのはめんどくさい。)主題歌(三橋美智也)だって歌えるんだが、ドラマの中でアンコール・ワットやアンコール・トムが映されたなんて、まったく記憶にない。(記憶にないのではなく、その回を見ていない、という可能性もある。)
『怪傑ハリマオ』といえば、香港やマレーをめぐる話だという固定観念があったが、この固定観念も、直接ドラマからのインプットではなく、後の情報によるインプットなんだなあ……。

坪内良博 編,『講座東南アジア学3 東南アジアの社会』,弘文堂,1990

2006-09-18 23:58:47 | 多様性 ?
未完成記事であるがアップロード
下書きを書いたことさえ忘れそうなので、いちおう、書いたところまでアップする。以下、未完成です。

坪内良博 編,『講座東南アジア学3 東南アジアの社会』,弘文堂,1990.
坪内良博 著,第1部 伝統社会の構造
北原 淳 著,「開拓社会の成立」
口羽益生 著,「対人社会のダイナミズム」

以上を参考にして、東南アジア社会研究の概観をまとめる。
といっても、ようはこの講座を読んでもらえればわかることだから、わたし自身のための要約である。

「タイ国 ひとつのルースな構造をもつ社会体系」という論文風エッセイが1950年に発表された。
書いたのは、エンブリーというUSAの人類学者で、戦前日本にも滞在したことがある人物である。
そのなかで、エンブリーは日本の村落と比較し、タイの村落社会は、個人の行動のかなりの変異が許される、"ルースな"社会と規定した。
このエッセイは日本の学者の一部にかなりのショックをあたえたらしい。

というのは、それまで日本社会を外国と比較する場合、ブリテン島かフランス、ドイツ、それに漢民族くらいしか日本と比較するものがなかったからである。
今でこそ、日本とタイを比較するのはあたりまえだが、この当時、日本の村落とタイの村落を比較しようという発想がなかったのである。
さらに、個人主義的な自由、集団への帰属意識がうすいこと、共同体的親族集団がない、村にたいする忠誠心がない、同一化がない、という対人関係は、"個人主義的な"ヨーロッパ社会の特質で、アジアとは無縁だと考えられていた。
というより、タイトな家族、村の掟というのは、おくれたアジアの人間関係で、一刻もはやく棄ててしまいたい、と考えられるものだった。

21世紀になってみれば、日本村落社会のタイトな人間関係は、工業化や産業化がすすんでも消えるものではなく、また、けっこうみんな、タイトで同一化の圧力が大きい、忠誠心があつい社会が好きなんだってことが、あきらかになってきた。
それでは、50年以上前の、エンブリーの規定は正しかったのか?
タイの村落はほんとうにルースな社会だったのか?

日本の学者たちが、タイにでかけて調査できるようになると、やはり、ルースな社会という見方に同意した。
そして、さらに、その構造、基盤が模索された。
また、タイ人社会ばかりでなく、マレー人社会もルースで個人的行動が許される度合が大きい社会であり、ジャワも、マレーやタイはほどではないが、ルースな社会であるようだ、ということがわかってきた。

そのなかで日本の学者、水野浩一は、「屋敷地共住集団」という概念を提出した。

矢野暢編,『東南アジア学への招待』上下,日本放送出版協会、1983

2006-06-13 00:24:04 | 多様性 ?
1975年放送のNHK教育テレビ『市民大学講座』4回分の座談会をもとにしたのが矢野暢(やの・とおる)編,『東南アジア学への招待』,日本放送出版協会, 1977.
それを大幅に改訂して上下2冊にしたもの。

最初の構想としては、当時の東南アジアにおける反日運動に対し、直接的な対処ではなく、まず、東南アジアのことを理解しようではないか、という発想でつくられた番組のようだ。
番組でテーマとしたのは、
自然と農耕、王朝と民族、社会と慣習、近代化への道。
以上の内容は上巻に収められている。

おもしろいのは下巻のほう。
当時の東南アジア観、関心の方向がわかる。
「東南アジアへの視座」石井米雄、岩田慶治、梅棹忠夫、と矢野暢の座談会。
地味な意見を述べる石井米雄や岩田慶治にたいし、梅棹忠夫がすきかってなことをしゃべりまくる。
「私は愛する東南アジアのために、こんな比較をもち出すのはいやなんですけど、たとえばタンザニアにおけるダル・エス・サラーム、ケニアにおけるナイロビとか、そんなもんやろか。そこまでぼくは、東南アジアを落としたくないんや(笑)」
これは、バンコクだけが巨大化し、地方とまったく共通の基盤、価値がないメトロポリスができていくことへの憂慮なのだが、(アフリカのファンは怒るだろうが)よくわかる。

「インドネシアの多元性にぼくはむしろ期待している。
「それからもう一つ、フィリピンだってまだいけるかもしれん。フィリピンはつまり、ミニ帝国になったことがない。(中略)インドネシア,マレーシア,フィリピン シンガポールはちょっとちがうけど この三つは可能性があるんだ。そういう経験をもっとらん。これは同時にいまの政府当局者にとってはいやなことかもしれないけれども、解体の可能性がある。同時にそれはある意味で、現代封建制を形成する可能性がある。」

これはつまり、中部タイやビルマ平原、ソンコイ・デルタ(北部ベトナム)、ジャワのような強い国家ではない、独立した地方権力が生きのびることへの淡い期待である。
また、インドやシナのような人口の多い、ぎしぎしした社会ではなく、風通しのよい、分散型の社会への期待でもある。
しかし、やはり、むずかしいですね。

「まだいける」とか「そこまで落としたくない」というのは、東南アジアらしさを残したままで、ある程度の政治的統合と安定した社会を残すということなのだが……。
この当時は、ベトナム戦争が終結した直後で、まだカンボジアの内乱が外の世界にとどいていない時代である。
そんななかで、なんとか戦争や飢餓を避け、一極集中の都市ばかりでなく東南アジア全体が安定した世界をみんな望んでいたのだが。

本書の中で、現在からみて意外なのは、環境汚染や森林の枯渇がぜんぜん問題になっていないことだ。
また、タイやマレーシアがこれほど経済発展するとは誰も予想していなかったようなのだ。観光やリゾート開発も問題にされていない。
また、ベトナム戦争の終結とともにアメリカの東南アジア研究が下火になった時期である。アメリカ流の戦争のための研究ではなく、おれたち日本人の独自の視点があるはずだ、と模索していた時代である。(であるから、全体として、研究方法がどうの、学術用語がどうの、研究者の視点がどうの、というテレビ座談会らしからぬかたい話題も多い。)

追記
このあと、土屋健治らを含む座談会も収録。ナショナリズム、近代化の問題を語りあう。複雑すぎるので、今は省略。

『世界の民族 第11巻 東南アジア大陸部』, 平凡社 ,1979.

2006-04-19 16:09:02 | 多様性 ?
石井米雄 監修,『世界の民族 第11巻 東南アジア大陸部』, 平凡社 ,1979. この巻はアンドルー・タートン編纂、中山邦紀 訳。シリーズ総監修:E.エバンズ=プリチャード 日本語版総監修:梅棹忠夫

ふう、書誌情報を書くだけで一苦労だ。どこからどこまでが書名かわからないうえに、この本、奥付に原書の著者名も訳者名もついていない。だから、OPACで検索しても、石井米雄やアンドルー・タートンでみつからない場合があるので注意。
それから、ウェブ上の書誌情報はめちゃくちゃ。エバンズ=プリチャード、エヴァンズ=プリチャード、はいいけど、プリチャードを先頭にもってきているのもある。
ひどいところは「東南アジヤ」になってた。人力で入力したのか?書名を変えないでくれよ。ウェブ上で恥をさらしているぞ。(←ひとのことはいえない)
だいたいエバンズ=プリチャードも梅棹忠夫も監修だけでぜんぜん中身を書いていない。
中身は複数の著者による合作で、さらに日本版には日本の著者による項目もあり。

本シリーズは全20巻、どこの図書館にもあるし、古本屋で捨て値で売られているシリーズです。
ページをあけると、写真集のような体裁、くらい、汚い、グロテスクな写真がつづく。
そうです、印刷技術のためか、カラーフィルムの品質のせいか、ひじょうに暗い濃い色の写真になっている。そこにうつっているのは、汚い疲れた顔の東南アジア人、みすぼらしい家、汚い水、貧弱な作物……。
1979年でも、こんなもんだったのか?
ようするに、アジアの風物といえばこんなもんだったんです。

一方、文章のほうはどうかというと、最初に東南アジアの言語のやたら詳しい分類があり、分布の地図と系統図がある。
たいていの読者はここいらで読むのをやめるんじゃないだろうか。レポートや宿題のため無理して読むんだろうか。

今回、がまんして読んでみた。
扱う範囲はベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ビルマ、以上の国については国ごとの項目がある。
少数民族としては、アンナン山脈の山地民(プロト・インドシナ人という名称をつかっている。)、ヤオ、ミャオ(Hmonのこと)、モウケンがくわしく解説されており、そのほかパダウン(例の首長族)、ラワ、カレン、シャン、ネグリートについて少々記事あり。
ベトナム戦争後、まだカンボジア内戦などどうなっているのか外部にはわからない時代だ。(だから本書収録の記事がいつごろの調査・見聞をもとに書かれたのかという疑問がわいてくるのだが)

内容はひじょうに専門的、小さい文字でぎっしり書かれている。
百科事典の項目のように、生業・宗教・社会制度・国家との関係、儀式や年中行事が説明されている。
その気になって読めば、つまり、あらかじめなにを調べるかわかっていれば有益な情報もおおいが、ただ読んだだけでは、ぜんぜんアタマにはいらない。
そして、今回はじめてわかったのは、文章と写真がほとんど関係ないってこと。
民族学のシリーズなんだから、もうすこし日常生活がわかる写真を多めにすべきではないか。
さらに写真の説明に場所の記載がないものが多いのだ。撮影年月日は当然なし。被写体の名前もなしで、通りすがりの観光客がうつしたような写真が多いではないか。
写真の多いかさばる本にした意味がない。

1970年代末でも、われわれの東南アジアに関する情報はこんなもんだったのか?(←自分の無知を一般化するな)
う~ん。そうかもなあ。