東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

赤松啓介,『非常民の民俗文化』,ちくま学芸文庫,2006

2006-08-29 23:50:45 | 基礎知識とバックグラウンド
親本は1986年刊、明石書店。

なんとなく、赤松啓介という人の著作は、近代化以前の日本におけるおおらかな性、夜這いや若衆宿の風習を肯定的に論じたものだろう、と思っていた。
誤解、いや、予断であった。

本書では、柳田國男派民俗学に対する異議・批判が遠慮なく説かれている。
しかし、よく読むと、著者赤松啓介の描く農村も、やはり窮屈で閉鎖的な社会である。(なお、本書全体は、都市の生活も描かれている。兵庫県を中心とした近畿地方の20世紀前半の生活である。したがって、東北や北海道には、ちょっと合致しない面も多いような気がするが、専門的にも常識的にもよくわからないので判断保留。)

夜這いにしても、これは本百姓、中農の間の閉鎖的なグループ交際であるようだ。
あるいは、農村のオナゴ連中の自立的な共同作業にしても、これはやはり、中核的な本百姓のヨメのグループだ。
コドモ集団にしても同様である。
柳田一派の、教育勅語を信奉するような、去勢された農村イメージとは正反対だが、やはり閉鎖的で、おそろしく窮屈な世間なのだ。
こうしてみると、この農村からはみ出た、あるいは追い出された者たちが、東南アジアあるいは満洲に向かった(あるいは、追い出された)、モーメントがわかる。

こまかいことをとりあげて、タイトな農村共同体をみくだすのもなんであるが、一例をあげる。
本書ではじめて知った、本膳のセット、つまり冠婚葬祭用の食器セットである。
これが高価なものであり、豪農は上中下数種類のセットを所有し、一般の農民は貸し借りしていた。水呑や日雇いは、借りることもできない。
わたしは、食器オンチで、伊万里焼が東南アジアに輸出されたとか、青磁が世界商品であったとかという話をきいてもピンとこない男であるが、日本の農村での食器セットも大きな財産であったのだ。
冠婚葬祭のふるまいも、ムラのなかでは最大の出費であり、利権をともなうものだった。

あるいは、著者自身の体験として、猥談がみんな同じようなもので、2,3回聞くともう飽きてくるという話がある。
同じような体験を、文化人類学者の体験で読んだことがある。
おおらかな猥談を楽しむというと、いかにも自由な共同体らしいが、じっさいは、退屈で退屈でたまらない生活じゃあなかろうか。

こうしてみると、戦前・戦中、満洲・東南アジア、あるいはアメリカ大陸に、積極的にとびだした人々、むりやり連れて行かれた人々、なにがなにやらわからず行ってしまった人々にも同情する。
むこうに行った人々がさまざまなインパクトを与えのは、これまた別問題であるが……

伊藤真理 写真・文,『雲南の豚と人々』,JTB,2001

2006-08-28 09:18:43 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
著者は1964年生まれ、USAロードアイランドで生まれ12歳まで育つ。その後日本で学校生活、就職。
1991年に退社して雲南へ旅立ち、以後10年間通う。

典型的な、日本はみだし旅立ちタイプであるが、写真をみればわかるように、見る目をもっている方である。
なぜ雲南にむかったのか、なぜ他の地に行こうとしなかったのか、理由はよくわからないが、ともかく一点集中型で成功した結果が本書でありましょう。

豚は稲作地帯で残飯や人糞をたべてそだつわけだが、最近はヨーロッパ種を囲い飼いし、配合飼料で育てるやりかたもひろまっているそうだ。
ぶらぶら歩き回る、あるいは寝そべっている放し飼いの豚の写真がすばらしい。
豚に集中したことによって、かえって人物も生きている。

雲南といえば少数民族だが、著者はそういうことにこだわらず、多数派になった漢族の生活もよく写している。漢族は著者にとってコミュニケイションしやすいタイプであるようだ。(著者は酒がまったく飲めない。漢民族にかぎらず、雲南の人々は女に酒をすすめないので楽なそうだ。)

甘志遠(かん・しえん)著,蒲豊彦(うら・とよひこ)編,『南海の軍閥 甘志遠』,凱風社,2000

2006-08-25 22:43:06 | コスモポリス
おもしろい!痛快!波乱万丈!
おもしろすぎて、これはホントか!?といいたくなるほど。
わたしは、本書の内容は、こまかい記憶ちがいは別にして、すべてホントのこととして読んだ。

www.gaifu.co.jp/books/2408/mokuji.html

に、目次もまえがきもあとがきも全文載っている。無料!

高島俊男,『中国の大盗賊 完全版』,講談社現代新書,2004
で、中国の盗賊(匪賊、馬賊、海賊)と正規軍は紙一重であり、ある一団が盗賊にもなるし正規軍にもなるし革命軍にもなる、という歴史が述べられている。
その高島俊男さんが描く大盗賊の海賊版が、本書の著者である甘志遠。
本書は日中戦争期の海賊、甘志遠の前半生の自伝。

最初に書いたように、おもしろすぎるが、編者の浦豊彦(うら・とよひこ)さんが、歴史的バックグラウンドと中国側資料・日本側資料を照合し、詳細な注と年表をつけている。
また、本人に日本語でインタヴューをし、また、甘志遠が経歴を中国語で語った録音テープと英文の略歴を参考にしている。
なお、本文は日本語、原稿を整理していた元海軍府武官・北嶋茂雄(きたじま・しげお)氏は1997年死去、浦氏が後を引き継ぐ。

凱風社ホームページのまえがきを読めば、本書の内容がつかめるので、詳しい説明はしないが、重要な点は、本書の著者である甘志遠だけが、匪賊・海賊であったわけではなく、当時の地方軍閥、国民党、共産党、日本軍、さらに御用商社もすべて匪賊として行動していたということだ。
少なくとも、大部分の民衆はそうとらえていたし、本人たちも、匪賊や海賊ということばを使おうが使うまいが、行動原理というか生き方は、盗賊である。
だから、国民国家の軍規とか国家間貿易の法規をまもることを彼らに期待してもムダだし、裏切りや寝返りを非難してもはじまらない。
だまされたやつ(本書で甘志遠自身がだまされた例があげられているが、この例もだまされたほうがマヌケだったという記述として読めないこともない。)が悪いし、先を読めなかったやつが悪い。
うっかり国民党派や日本陸軍派や海軍派に深入りして命をおとした盗賊がいっぱいいるわけだ。
本書の著者は、この自伝を書くまで生きのびたわけだから、当然バランス感覚と将来をみすえる勘がさえている。(まあ、本人の自慢話もまじっているようで、「日本が英米に参戦すれば、中国にとって海外勢力を一掃するチャンスだ」なんてのは、後知恵ではなかろうか?)

軍閥とはどういうやつらかを描くエピソードは本書全体にいっぱいあるが、停戦直前の甘志遠の作戦を例にしよう。

海防軍司令官(日本軍監部公認の海上戦力)として経費を捻出するため、アヘン密売を画策するが、途絶(児玉誉士夫の実弟と組むが、飛行機事故で死亡)。
次に米産地を奪還しようとする。

この攻撃目標が中山県(ちゅうざんけん)第八区・万頃沙(ばんけいさ)を支配する匪賊。
この万頃沙は、珠江デルタの低地で20世紀になって開発されたところだ。
本書によれば、100万畝(ムー)約600平方キロの土地で年10万トンの収穫があった。
この地を支配する匪賊は農民から20~30パーセントの保護費(年貢ともかんがえられるし、脅し取っていたといってもよい)を徴集していた。

地図でみると、広大なデルタのほんの一部であり、しかも反当り収量が多い土地ではない。
それでも10万トンの米産地なのだ。(甘志遠が書いている、年3回の収穫というのは、三期作ができるという意味ではなく、土地の具合で、播種・収穫の時期が異なることだと思う)
10万トンといえば、5人家族10万家族、海防軍が1万トンの収入があるとしても、屈強な男3万人は雇える。

つまりだ、戦国の小さい大名くらいの支配、動員力があるのだ。
開拓地の用心棒、匪賊、軍閥、独立政権、何と呼んでもいいがとにかく、そういうやつらがいたのだ。(念のためにいいますが、ここは「日本軍占領地」です。)

土地に寄生する匪賊対海賊の戦いである。
海賊・甘志遠は、米をマカオ政庁の倉庫に保管し、その米を担保に中国人銀行と合同で自分の(甘志遠の海防軍の)紙幣を発行する計画をたてる。
う~ん、こんなこと可能なのか?
残念ながら海防軍が作戦開始したとき日本降伏の報。

このように、東南アジアの港市やフロンティア社会で、流通・交易を担い、武力ももちいるし、交渉も妥協もするし、住民や手下の保護もするし、より強い勢力の先棒をかつぐこともするのが、「海賊」である。
今書いているわたしの記事でも、ほかの記事でも、「海賊」ということばには、なんらネガティヴなニュアンスはありません。
先日レヴューした『ハッタ回想録』の家族も、運送・商売をし、地域の中核家族という意味では、この「海賊」の要素をもっていたわけである。
両方とも、教養あるインテリでもある。(しかし!どうして彼らは、こう易々と、いくつもの言語をおぼえられるのか?)

そんなわけで、海域ネットワーク社会を生きぬいたひとりの男の生涯として、じつにおもしろい。
大推薦!
台湾に移住してからの人生、あるいは奥様との結婚生活など、もっと知りたいことがたくさんあるが、この記録が残り出版されただけでも、よしとしよう。

*******

あっと、副題「日中戦争化の香港・マカオ」とあるように、香港とマカオという、まったく異なる体制下の戦時状況が描かれている。
ただし、本書の記述をもってしても、中立地マカオのまかふしぎな状況は、よくわからん。
たてまえは中立で自由貿易港であったはずだが、まわりが全部日本占領地もしくは戦闘地帯になっている自由貿易港というのは、いったいどんなものだったのか?
また、ヤクザ、スパイ、逃亡者が集まるマカオ社会とはどんなものだったのか?

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まえがきから、少々引用。

さらに広州と汕頭(スワトウ)のなかほどにある海豊(かいほう)という海沿いの地域では、こんなことがあった。ある日、洋傘をさした婦人が日本軍の陣地にやってきた。そして、「あなた方の仲間がにきて物をもっていくが、非常に迷惑しているのでやめてほしい」と苦情を言う。郷長に頼まれて来たものらしい。たどたどしい日本語だったが、その語るところによれば、彼女は熊本県天草(あまくさ)出身で、日露戦争直後にシンガポールに渡り、華僑と結婚してこの地に住み着いた。名前は「山下おふく」だという。ところが驚いたことに彼女は、ここに駐留中の部隊を正規の日本軍ではなく海賊だと考えていた。部隊の中尉が、今、日本と中国とが戦っているのだと説明しても、山下さんにはそれが分からないらしい。
 これは彼女だけが理解しなかったのではなく、その村の人全部が分かっていなかった可能性が高い。

かっこでくくった振りがなは、本の中でふってあるルビ。
このように、地名・人名には親切にルビがふってある。(ウェブ・サイトにはフリガナなし)
「天草」もよめないのか?という方もおられようが、わたしはこのように、初出の地名すべてにルビをふる編者の方針に大変たすけられた。(さすが北京、南京にはルビなし)
一般に戦時の歴史にかんする書物はふりがなが少なすぎる。
ふりがながないと、辞典・事典をひくにもまずよみを調べなければならないし、まちがいをそのまま覚えていくんではないでしょうか?
地名・人名なんてよめないのがあたりまえなのだから、しっかりルビをふってほしい。

大谷正彦 訳,『ハッタ回想録』,めこん,1993 その3

2006-08-24 00:03:02 | コスモポリス
クイズ
この旗は、どこの国旗でしょう?
(もちろん、国連に加盟しているような国ではありません)
解答は最後に。
以下はトリヴィア

ハッタは独立前に二度日本本土を訪れている。
一度目は伯父の事業交渉につきあって、神戸、大阪に滞在し、東京や京都も見物する。(1933年2月)
このとき、ハッタは、日本経済の発展の要因として、日本の労働者の清潔な環境をあげているのだ。
日本の紡績工場の労働者は一日二回風呂にはいり、衣類も工場用と家庭用を毎日洗濯している!
う~ん、ハッタさん、ミナンカバウ生まれのムスリムとして、ヨーロッパの労働者の不潔な生活はひどいものに見えたでしょうが、日本だって、一日二度も風呂にはいる労働者はめったにいなかったんですよ。

この時、ハッタと伯父が宿泊したのが西宮市の甲子園ホテル、現在、武庫川学園甲子園会館になっているそうです。
参考ホームページは
http://www.iris.dti.ne.jp/~nickey/en_koshi.htm
フランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新の設計。

伯父は日本から自転車と石鹸を買って売りさばく商売を計画する。
新式(どこが新式か不明)の自転車は60ギルダー相当で、ジャカルタで100ギルダーで売れる。
この60ギルダー、100ギルダーというのが、どの程度の価値かというと、

1919年の米不足のとき、1俵(62.5㎏)の米が5ギルダーから60ギルダーまで値上がり。バタヴィアでは配給規制があったので15ギルダー。
1919年当時、ハッタのバタヴィアでの学費は月5ギルダー。
生活費と食費は25ギルダー。
スマトラ青年同盟の印刷所への借金1000ギルダー、ハッタは会計係として、この借金をほぼ1年で返済。
バタヴィアからロッテルダムまでの二等船賃1100ギルダー。

残念ながら、1933年当時の物価や生活費の記述はない。

1945年8月中旬がラマダーンだったのは、みなさんよくしってるよね!
日本軍の将校と昼に面会したハッタに茶菓がだされる。
この時期になっても、ムスリムの戒律に無知だったのか、それとも、日本の軍人さんたち、宗教的戒律は、下々の者どもが守るものであって、指導者層は守る必要ないとおもっていたのか?

クイズの答

西イリアンとかアチェと考えた方は鋭いが、正解ではない。
オランダがレンヴィル協定の前につくった、いわゆる傀儡国家である「東インドネシア国」「パスンダン国」「東ジャワ国」「マドゥラ国」「東スマトラ国」「南スマトラ国」でもない。
南マルク共和国など「東インドネシア国」内の国家でもない。

正解はアルバ

カリブ海の島、オランダ領アンティル(Netherlands Antilles)から分離して自治国になった島。
リンガジャティ協定で、インドネシア共和国は、「東インドネシア」や「ボルネオ」とともに「インドネシア連邦」を形成し、さらにインドネシア連邦は、オランダ連合の一部となる。
そのオランダ連合を形成するのは、インドネシア連邦のほか、オランダ本国と、カリブ海の島スリナムと、小さい島をあわせたオランダ領アンティルである。(ややこしいでしょう!)
その、オランダ領アンティルから抜けた国がアルバ。

インドネシア共和国に約束された自治というのは、現在、このアルバが得た地位のようなものであるわけだ。
いや、わたしは別に小さい島のアルバをばかにしているわけではないよ。(観光を基幹産業とする平和な島であるようで、ウェブ上の情報も多い。防衛その他のためのオランダ本国からの出費は、本国側の赤字であるようだ。)

南マルク共和国の自治にかんして、Association of Humanitarian Lawyers という組織の論文が、
http://www.humanlaw.org/KPmaluku.html
に掲載されている。
ここで、インドネシア独立時のリンガジャティ協定、レンヴィル協定に関する経緯も分析され、南マルクの自治権の根拠がのべられている。
わたしは、現在のインドネシア共和国の国内治安活動を肯定するわけでも賛同するわけでもない。
しかし、各地がみんな東チモールみたいに独立すればいい、というのも無理があるとおもうのだが。

『岩波講座 アジア・太平洋戦争 4 帝国の戦争経験』,岩波書店,2006

2006-08-23 14:55:41 | 20世紀;日本からの人々
編者の杉原達(すぎはら・とおる)さんが以下のように述べている。

ここで気をつけておきたいことは、帝国の残滓や帝国の痕跡ということによって、日本人による日本人のための帝国論になりかねないという陥穽である。近年の歴史研究をめぐる動向を考慮するとき問題にすべきは、帝国の「内部」における歴史認識の欠落や帝国意識の蔓延であるが、その事態を批判的に浮き彫りにするために、帝国の「外部」を利用するのは筋違いというものである。

もってまわった言い方でわかりにくいが、要するに、大日本帝国の領域だった地域に生じた20世紀のさまざまな事件・経験を、大日本帝国側の要因からのみとらえると、裏返しの帝国中心史観になってしまう、ということであろう。

そういう意味で、収録された論文の中で、

早瀬晋三(はやせ・しんぞう),「植民者の戦争経験 海軍「民政」下の西ボルネオ」
は、西ボルネオ、ポンティアナックの北マンドールでおきた虐殺事件を扱うが、日本軍占領以前からのフロンティア社会、多民族社会の西ボルネオを歴史的に(歴史的にというのは、完成した静的社会ではなく、過去から積み重なった流動的な見方で)とらえている。

そのなかで、マンドール虐殺事件も、過去いくどもくりかえされた抗争の一例だと、とらえられないこともない。
しかし、間接的にせよ直接的にせよ、地域の慣習と交易システムを無視した日本人各組織の闖入が、原因になっていることは否定できない。
ただし、関係書類(公文書)が焼却処分され、関係者が戦犯として処刑されているので、真相究明はもはや不可能であるようだ。(現地の新聞でさえ満足に残っていない。)
日本人対現地人、あるいは日本企業対華人企業という対立ばかりではく、日本人のあいだの、海軍・民政部・民間商社、そして戦前からの移住日本人のあいだに対立とトラブルがあった。彼ら日本人がさまざまな民族と対立する。
その結果、マンドール事件の首謀者は、現地土候(ダトゥーのこと?)、郡長(ウェダナ?)、オランダ人と同等の権利を有する(?キリスト教徒ということ?)アンボン人・スンダ人・メナド人・オランダ生まれの中国人、あるいは中国人・バタック人・メナド人・ジャワ人・パダン人・インド系など、と報道されている。

以上、早瀬論文とマンドール事件のことは、おいておく。

本巻収録の論文、一応ざっと全部よんでみたが、短すぎるのと、具体的事実を追いかけるのに精一杯で、どれもものたりない。
四方八方に気を配ったような論文が多いなか、

傳貽(フ・チイ),「台湾原住民族における植民地化と脱植民地化」

が、読んでいて元気がわいてくるような一編だ。
霧社事件、「旧慣打破」、「皇民化」など、原住民の立場から、ばっさばっさと断定していく。
反論も湧いてくるし、著者のいうほど伝統再生が実っているのか疑問な点もあるが、このきっぱりとした筆致がいい。

そのほか、一番若い著者、高媛(こう・えん 1972年生まれ)の満洲観光を扱った「ポストコロニアルな「再会」」もよかった。
別に他の著者の論文が悪いわけではないが、なにせ短すぎる。こんなこともありました、ということがわかるだけ。

******
どうでもいいこと。
ええと、この本は図書館で借りました。
目録でしらべて、新刊書として購入されていることは知っていたが、現物が棚にない。
「へえ、こんな硬い本でも、けっこう利用があるんだなあ……」
と思っていたが、分類番号をチェックすればわかるように、この本は「日本史」に分類されるのですね。
わたしは普通、日本史の棚は見ない。
NDC(日本十進分類法)の細則はよくしらないが(何度も改訂されているし)、やはり、このシリーズは「日本史」に分類されるんでしょうね。

この講座の著者・編集委員のみなさま、読者のみなさま、どう思いますか?

(NDCとは、棚に並べる順序を便宜的に決めるものだから、内容にこだわることはない、という意見があることも、わたしは知っていますが……)

大谷正彦 訳,『ハッタ回想録』,めこん,1993 その2

2006-08-17 22:51:51 | コスモポリス
中盤、スカルノと非協力主義をめぐる論争など、1930年代の闘争経緯ちょっと退屈。(状況を知っている関係者に対し、著者が死ぬ前に言っておきたい事情もあったのだろう。)

タナ・メラへの流刑あたりから再びおもしろくなる。
この流刑がじつにのんびりとした平和な日々で、政治犯の流刑というのはこんなものだったのか!?
流刑地でも実直なハッタは教育活動、執筆を続けている(これでは流刑の意味がないのではないか?)
タナ・メラ~バンダ・ネイラ~スカブミと移送され、日本軍が上陸。ハッタは他の民族主義者とともに釈放される。

この日本軍時代、意外と内容が少ない。
君子危うきに近づかずの精神か、後に日本協力者と揶揄攻撃されたためか、日本側との接触は、最小限のことしか描かれていない。
日本軍の動向、経済混乱についての記述もほとんどなし。
やはりこの部分、何かに遠慮して書いているのか?

さて、1947年オランダは反撃を開始する。
反撃というより、耄碌した女王のいうことをきけない土人の子を懲らしめるという感じか。(←ハッタ氏は、こんな下品な表現をしません。)敗戦国オランダの女王様は人間宣言をしなかったようだ。

この混乱した時期、共和国政府(つまり本書のハッタやスカルノ側)とインドネシア連邦勢力(オランダを中心として連邦制にし、インドネシア共和国もその一部とする、せいぜい自治領程度とする)、そのほか共産主義者がいて、元の植民地官僚派がいるという混乱した状態。
UKの戦後処理部隊がいて、日本軍が武装解除されてたり、されてなかったり、民間人捕虜が解放されていたり、されていなかったり、という状態。(ここいらへんの混乱は本書では書ききれないくらい複雑。)
こうした混乱が一応おさまると、オランダが軍備を整えてやってくるわけだ。(ナチスも、もっと完全に叩いてくれればよかったのに、なにをやっていたのだ!)

この時期、幸か不幸か、イニシアティブを握っていたのはアメリカ合衆国である。
悔しいけれど独立勢力各派でもないし、オランダでもないし、まして日本軍の影響でもないし、世界各地の戦後処理でいそがしいUKでもない。
そしてこの時、インドネシア各地・各層の勢力をまとめ、海外のパワーの協力・支援を工作したのが、本書の著者ハッタなのだ(と、本人の主張ばかり信用するまとめかたになってしまうが、大筋では、こういうことです)。

ハッタのスマトラ遊説(第一次武力衝突の前の1947年5月から)、ネルーとガンジーとの秘密会談は、国内・国外の根回しだった、というわけですね。
この部分と、第二次武力衝突の間のスマトラでの調停、オランダによる拘束、オランダの屈服の部分がおもしろい。
地図がのってないのでわかりずらいが、まあ、わたしの場合はでっかい縮尺のスマトラ地図があるので、ムアラ・シポンギ(西スマトラ州と北スマトラ州の境の村)とかムントク(バンカ島の西海岸近くの村)ぐらいは位置をたしかめられる。
各地をとびまわり、説得し、演説し、歓談する民族主義者がハッタである。
第二次武力衝突では、西スマトラの臨時政府へ共和国政府の権力を委譲して、ジョグジャ陥落という事態まですすんだんですね。

以上の大略を知るため
web草思 - http://web.soshisha.com/ の近藤紀子『オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立』を参考にしました。
草思社のサイトは太っ腹で、こんな文を無料で提供しています。

近藤紀子さんによれば、国連の安全保障理事会にあげられた最初の案件が、このインドネシア共和国とオランダ軍の武力衝突だったそうです。(オランダ側は当然、これは国内問題で、国連の関与外の問題だと主張した。やれやれ……)
しかし、結局、問題を解決したのは、アメリカ合衆国のマーシャル・プラン援助条件であるようだ。
援助を受けているオランダが、これ以上トラブルを増やすな、というアメリカの外交方針である。
戦後の混乱の中で共産勢力がどんどん勢力を延ばしていた時代である。
共産勢力阻止のため、ヨーロッパへの援助があったのだが、蒙昧なオランダの意地のために、太平洋地域での共産圏の拡大になってはいかん、というのが、ヘゲモニーを掌握するアメリカの外交方針となった。
もはや、敗戦国オランダが極東・東南アジアででかい態度をとれる時代ではなくなった、というわけである。

1947年3月25日 リンガジャティ協定調印、ジャカルタのガンビル宮殿にて。
1948年1月17日 レンヴィル協定調印、アメリカ合衆国のレンヴィル号艦上にて。調印したのは、アミール・シャリフディン首相(インドネシア共和国)とR.アブドゥルカディル・ウィジョヨアトモジョ(オランダ代表)。
1949年8月23日から10月29日までハーグで円卓会議
1949年10月29日、インドネシア連邦共和国憲法がシェフェニンゲンで仮調印
1949年12月15日、中央インドネシア国民委員会は総会で円卓会議の成果を承認
1949年12月17日 アムステルダムでインドネシア連邦共和国に対し、オランダ王国の主権委譲儀式。
同日、ガンビル宮殿でオランダ王室高等弁務官ロフィンクから、スルタン・ハメンク・ブオノが代表するインドネシア連邦共和国政府にオランダ王国の主権委譲。

なお、Googleで、リンガジャティのスペルをしらべ検索してみたら、いきなりLinggadjati じゃない?といわれてしまった。
Linggajati と Linggadjati の二種類が流通しているようだ。
ローマ字検索でもそれほどヒットしない(600から700)が、インドネシア史年表は、以下のサイトがよいようだ。(とにかく日本語のサイトは信用するな、偏見はともかく、基本的事実や名称のまちがいが多い。英語のサイトも偏見いっぱいだけれども。)
まったく、こんな基本的な情報も日本語サイトではダメなのかよお。

www.gimonca.com/sejarah/
こまかい年月日とスペルが得られる。

アムステルダムにあるInternational Institute of Social History のサイト
www.iisg.nl/
膨大なサイト、まだよく見てないが使えますよ(大部分英語)。

大谷正彦 訳,『ハッタ回想録』,めこん,1993

2006-08-17 00:04:05 | コスモポリス
インドネシアばかりでなく、東南アジア全体をみわたしても、このハッタという人物ほど、冷静で謹厳な政治家は少ないようだ。
その生涯もあまりおもしろくなさそうで、まして80歳近くになって執筆した(原書1982年,インドネシア語)回想録であるから、こまかい事実は貴重かもしれないが、退屈な記述ばかりではないだろうかと読みはじめたのだが……。

意外とおもしろい。
というより、ロッテルダム留学までの十代が抜群におもしろい。

恵まれた裕福な環境に生まれた人物だ。
西スマトラ、ミナンカバウの中心地ブキティンギで1902年に生まれる。
父親は0歳のとき死亡。
しかし父なし子の悲哀や貧困はまったくない。
ミナンカバウでは母の兄弟姉妹がひとつの屋敷地に住み、母の再婚相手(つまりハッタ少年にとって義父)はパダンで別居している。
母方のオジ・オバ、実の父のオジ、義父、そしてそれぞれの配偶者、祖父、祖母がハッタ少年をあらゆる面で援助する。
実の姉のほか、異父妹が4人生まれる。姉妹もその配偶者もさまざまな面で援助する。

先日このブログで感想を書いたジョージ・オーウェルより1年前に生まれたハッタであるが、オーウェルのような屈辱感、どろどろした思い出は、いっさい書かれていない。(まあ、80歳ちかくで、引退した英雄ですから、あまりネガティブな思い出は省いたんだろうけれど)

美しいブキティンギ、にぎやかな市場、祖父や祖母の事業、やさしいオジ・オバが描かれる。
どんな旅行ガイドよりも鮮やかにブキティンギの様子が伝わってくる。(ええと、ブキティンギはスマトラ旅行の中心地で、アウトドア派にとっても、名所旧跡派にとっても、のんびり貧乏旅行派にとっても、スマトラの中心地である。日本の旅行ガイドではほとんど無視されていますが)

家族の支えの例として、

祖父は5歳のハッタを私立オランダ学校に入れた(国民学校は腕の長さで入学資格があるかどうか判断される)。叔父が勉強をたすける。

同時にイスラム塾でコーランの勉強をする。祖父のメッカ巡礼に同行するはずだったが、母や叔父が幼すぎると反対して、学校の勉強を続ける。

6歳から国民学校へ姉とともに入学。姉が遅れていた算数を教えてくれる(中東やヨーロッパでは、姉(女)が弟に算数を教えるなんて、めったにないことですよ!)。

11歳でパダンの第一オランダ人学校へ入学。(祖父の第二夫人のもとで生活!)

こうして例をあげていくと、教育ばっかりじゃないか、と思ってしまう。じっさい、教育熱心な土地である。
しかし、同時に商人気質の土地であり、ハッタの家族は、とくに商売と事業を各方面に展開している家だった。
祖父の事業は、馬を育て、郵便馬車の請負をする商売である。オジたちも商売をしている。

バタヴィアの商業科のある学校(大学進学資格が得られる、授業はもちろんオランダ語。ハッタはすでにフランス語や英語を習っている。)に入学。
バタヴィアでは、胡椒先物取引でもうけている叔父が世話してくれる。
この叔父が、ハッタにすすめるのがベラミーのユートピア小説『2000年』(邦訳題名『顧みれば』)と社会主義思想の歴史を扱ったH.P.Quackの本。先物取引なんて投機的商売をやっていて、空想的社会主義の書物をすすめるとは!

ハッタ自身の記述も生活費、学業費用、交通費など、こまかい金額が記されている。
パダンでサッカーチームをつくり、会計係をつとめるなんてのは、後の才能を予感させる。
ハッタが特別早熟だったのか、それとも当時の平均なのかしらないが、このころから、給与のいい郵便局員になろうとしたり、卒業後高給の船員職に魅かれたりと、金銭に関する話題が多い。

家族のすすめと協力もあり、ロッテルダムの商科大学に進学することになる。
ところが、前述の叔父が先物取引で失敗、学費の援助ができなくなる。ハッタは奨学金で学業を続けるが、この奨学金は後に利子をつけて返済している。

という具合に、派手さのない、きっちり金勘定をしながらの生活で、それでもヨーロッパ人の生活を身近に経験することになる。
第一次大戦後のドイツ、つまり賠償とインフレに苦しむドイツの生活も見る。
ドイツマルクのインフレで、オランダギルダーを持つハッタは、大量の書物を購入する。
後に日本にも短期間旅行するが、このドイツと日本の実生活をみることができたのも、後の革命家として収穫だったろう。
なんとなれば、ドイツと日本に簡単にやられたのがオランダであるわけだ。
(このほか、観光旅行みたいなものだが、オーストリア、フランス、北欧三国などを旅行している。)

本書には、オランダに対する屈辱感や恨みはまったくない。
その種の話題を避けたのか、もともとコンプレックスがないのか、学業優秀でこまかい悩みがなかったのか、どうだかわからないが、バイリンガルの屈折感や植民地住民の劣等感がまったくない。
オランダに対する闘いも冷静沈着で、やくたたずの過去の遺産は必ず消滅するという自信にあふれた態度である。(まあ、外向きの回顧録であるから、そのぶん差し引いて読まなければならないけれども)

そういう意味で、冷静沈着な政治家であるハッタよりも、派手好きなスカルノや、植民地下にある人間のこころの問題をあつかったプラムディヤ・アナンタ・トゥールや、パンキッシュなコミュニストであるタン・マラカのほうが、思想家として論じられることが多いのであろう。

佐藤卓己,『八月十五日の神話』,ちくま新書,2005

2006-08-12 23:00:49 | 翻訳史料をよむ
べつに時節柄の話題ではない。
本書の内容にもふれたいが、瑣末なことで、気になることがある。

1946年、日本が占領下の中、歴史の国定教科書がつくられた。
国民学校用が『くにのあゆみ』(小学校の名称はまだ国民学校)
中等学校用が『日本の歴史』
師範学校用が『日本歴史』

それで、師範学校用の『日本歴史』の近現代を担当執筆したのが箭内健次という人。
同姓同名でなければ、この箭内健次(1910年生まれ)は、大航海時代叢書第1期,『モルガ フィリピン諸島誌』の翻訳をした人だとおもうのだが。
なぜ、この時代、歴史教科書の近現代を担当したのだ?
箭内健次さんは、近世の外交史が専門なのでは?
そんな人がなぜ近現代(明治以降)を担当したのだ?
さらに、当時箭内健次さんは、36歳、なにか実績があったのか?

ウェブ上には教科書問題など、くさるほど論争・罵倒があるのに、こういう点についての情報はない。

ついでだが、本書の内容にふれる。

「あの戦争」がいつ(何月何日)終わったのか、それはどのように伝えられ、歪めれられ、創造されてきたかをめぐるメディア論。
具体的事実についての簡潔な知識も得られる。
日本の公式・非公式の論、アメリカ合衆国、UK,中国(がまた、共産党、国民党、台湾とわかれているんだな)、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(臨時政府なんてものもあった)ソヴィエト連邦の見解がまとめられている。
また、同じく敗戦国であったドイツ、イタリアとの比較もある。
スイスでの報道、タイ王国の停戦処理、フランスの微妙な立場も紹介されている。

ただ、本書はメディアをめぐる論考であるからこの程度の範囲でまとめているが、上記の国以外を含めたもっともっと複雑な終戦・停戦・敗戦については、とても1冊にまとめられるようなことではない。

川端康雄 編,『オーウェル評論集1 象を撃つ』,平凡社,1995

2006-08-12 00:48:24 | ブリティッシュ
以下の記事で不正確な引用あり
ニュー・スピーキング(new speaking)→ニュー・スピーク(new speak)
ダブル・シンキング(double thinking)→ダブル・シンク(double think)

ちなみに、早川書房からの訳以前に文藝春秋社からの邦訳があることもわかった。

早川書房版の旧約タイトルは算用数字の「1984年」
新訳は「一九八四年」という漢数字である。

うーむ、記憶が減退しているなあ。
(2009年8月6日訂正)

ジョージ・オーウェルのエッセイを4冊に編集した平凡社ライブラリー版の第1集。
自伝的エッセイを集める。

暑い夏の日は、のんびりと有名作でもひもとこう。

なにをかくそう、初めて読むのだ。
といっても、頻繁に引用される有名作「象を撃つ」など、以前から内容をしっていたような気がするし、実際過去によんでいるのかもしれない。記憶あいまいである。

オーウェルがベンガル生まれで、ビルマの警察官の経歴があることを知り、へえ、SF作家てのは植民地に関係ある人物が多いんだなあ、なんてナイーヴに考えていた。実はそうではなく、SF作家にかぎらず、作家や文筆の道にはいる人には植民地関係者が多いのだ。というより、19世紀20世紀前半で、植民地にかかわらなかった有名人、知識人、支配層はほとんど皆無である。

そんな背景を知ったうえで、本書のエッセイを読むと、ビルマ体験は、あんまり重要ではないんだなあ……と感じる。
『1984年』は、植民地支配と被支配をめぐる物語と読めないこともないが、やっぱり植民地的状況を描いた小説とはいえないようだ。
(さらにいえば、現在のミャンマー社会主義政権のような、世界知らずのイナカのおっさんたちのピントがずれた状況とも、ぜんぜんちがう。)

というのは、本書の中には、ビルマ時代モールメン(モーラミャイン)での事件を描いた「象を撃つ」「絞首刑」のほか、ロンドン・パリ放浪時代、スペイン戦争、第二次世界大戦、社会主義政権の腐敗、ファシスト勢力対反ファシストなどの話題、自伝的回想が収録されているが、一番の目玉、力作はプレパラトリー・スクール時代を扱った「あの楽しかりし日々」なのだ。

プレパラトリー・スクールというのは、パブリック・スクール入学前の年齢のこどもがはいる全寮制小学校である。
ここに奨学金給付生として入学したオーウェルは、さまざまな屈辱を体験し、中産階級的価値とジェントルマン的価値を生涯憎むことになる。

この小学校での経験が、ほとんど『1984年』なのだ。
『1984年』に登場する、「ダブル・シンキング(二重思考)」とか「ニュー・スピーキング」というアイディアは、この小学校の校長夫婦(あだ名で記されている)の行為そのものである。
早川書房の世界SF全集でこの作品を知った日本の読者は、この小説をすぐにSFとして理解したが、英語圏では(日本でも一部は)反共小説として読まれていた(ほんとだってば!)。
念のために解説すると、反共小説というのは、共産主義社会の暗部と腐敗を暴露して、ソ連や中国や(特にキューバ)を非人間的な管理社会・監獄社会として描いた三流小説のことです。
現在、コンピュータ技術による監視社会・管理社会を描いた作品として読まれることが多いらしいが、ルーツはイングランドのジェントルマン養成学校だったのだ。

こうして「あの楽しかりし日々」を読むと、ブリテン人による東南アジア・インド・東アジア支配には、こんな背景があったのだなあ、と納得できるものが多々ある。
といっても、やはり謎は謎で、どうにも理解できないこともいっぱいあるのだが。

たとえば、成長期のこどもに満足な食事を与えないこと。
この種の学校は富裕なジェントルマン階級の息子のための学校である。質素な教育をするといっても度をこしている。
健康を害するほうが多かったのは確実である。
なぜ、これほど食事を粗末にし、わざとまずいもの、栄養の少ないものを食わせたのか、謎である。
念のためにいうと、食糧難の時代ではなく、イングランドが世界一繁栄していた時代の話である。
(謎への解答として、イングランド人は、日常の食事でも、栄養や味覚としてとらえず、階級を誇示する威信としてとらえていたのかも……)

それから、性のこと。
性欲を罪悪視するのは一応理解できるが、まだマスターベーションも知らないこどもに、マスターベーションということばを使わずに、その罪を脅迫するのである。
これもふしぎだ。
大部分のこどもに理解できない。
逆効果ではないか?

当時の英語でいわれる、ホモセクショアルというのも、謎である。
いったいどんな具体的行為をしめすのか、よくわからないのだ。
とにかく、具体的行為がなにかよくわからないものを禁止しているわけだ。
(実は、これ、現代のことについてもよくわからないのだが……)

さらに、年少時代から青年時代まで女性と隔離されて教育され、大人になると、パートナーといっしょに社交生活をするというのが、日本人男のわたしにはよくわからない点である。
ブリテン人(中産階級)は一般に公式の席だけ男女同伴で、日常生活では男同士のつきあいが優先されるようなのだが……。
この事実とホモセクショアルの関係もよくわからない。
男同士のつきあいはよいが、ホモは罪悪?

もっとも日本でもごぞんじのように、男同士のつきあいが優先されるし、男女の交際がめんどくさい、という気持ちはある程度一般的でありますが……。

こういう環境で育った、食欲と性欲を否定し、ジェントルマンの威信を保つことに汲々としている男性と、レイディの威信を保つことに汲々としている女性が、やってきたのがインド・東南アジア・東アジアというわけである。

引用をひとつ

しかし子供が、学校がまず第一義的には営利事業なのだなどということを認識するのは無理である。子供は、学校は教育するためにあるのであり、校長は子供のためか、さもなければいばりちらすのが大好きなせいで彼をしごいているのだと信じているのだ。(p177)

ハハハ、子供を○○に、学校を○○にかえてみましょう!

泉田英雄,『海域アジアの華人街(チャイナタウン)』,学芸出版社,2006

2006-08-03 22:56:38 | コスモポリス
著者(いずみだ・ひでお)は、1954年生まれ。青年海外協力隊でマレーシアの工業高校で教職、その後、インドからギリシャまで陸路旅行。
帰国後は「建築探偵」で有名な藤森照信教授に師事。
学生仲間に村松伸、佐藤浩司(現国立民族学博物館)など。
1990年代は加藤剛、深見純生など東南アジア研究者と共同研究。

という人物が興味をもったのは、伝統的住居でもなく宗教建築・現代建築でもない、もっとも東南アジアらしい街の風景、華人街である。

以下、出版社のサイト(www.gakugei-pub.jp)から第2章の目次をコピー

1 自然発生的な漁村・港町──珠江河口の島々
西貢天后古廟
長洲天后廟
その他の居住地の天后廟
2 現地王国の外港──広南阮朝ヴェトナム
ホイアン
フエ
ロンスエン、ミトー
3 内陸都市から交易都市へ──チャオプラヤー川沿い
アユタヤ
バンコク
4 交易指向の都市──マレイ半島沿岸
パタニ
ソンクラー
プーケット
コタバル
マラッカ
ペナン
シンガポール
5 独立した交易居住地──ボルネオ島
クチン
西カリマンタン─ポンティアナック、ムンパワ、スンガイ・プニュ
6 閉鎖的な居住地──ジャワ島
バンテン
スマラン
ラサム 
トゥバン
レンバン
7 消失してしまった華人街──フィリピン諸島
マニラ
サン・フェルナンデスとヴィガン
8 都城外の河岸に拓かれた居住地──福建省沿岸
泉州
福州
台湾─鹿港と澎湖島

というように、華人街のルーツである福建省沿岸まで含め、それぞれの都市の中で華人街の位置を論じる。
特に参考になったのは、ジャワ島。普通、華人街を話題にするとき無視される地域だからである。
マレー半島とボルネオの華人街も、いかにもそれらしくて、楽しい風景であります。

第4章、第5章では、建築物(住居と商店)の構造、近代植民地下の衛生問題、景観整備の話題が論じられる。

いずれも地図・写真・建築図面を多数収録。
東南アジアの都市ってのは、結局チャイナ・タウンなんだ!と納得させる内容だ。
華人的(というより、正確にいえば、福建沿岸や珠江河口の漁村・港町)要素が東南アジアの環境と植民地権力の政策のなかで変型・進化していったようすがわかる。

え~と、一番すごいと思ったのは、福建や広東の町屋にも、便所がないんですね。
それが、東南アジアに移ると、便所(WC)や浴室が必ずといっていいほど設置されているんですよ。