東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

佐々木康之・佐々木澄子 訳,『ペルシア紀行』,岩波書店,1993

2009-10-29 22:34:43 | 翻訳史料をよむ
ジャン・シャルダン著で、原書1811年。底本は、

Jean Chardin, Voyage de Paris a Ispahan, notes et bibliographie de Stephane Yerasimos, 2 vols. La Decouverte 64-65, Paris, Maspero, 1983.
の抄訳。
「17・18世紀大旅行記叢書」 6
解説は、訳者の佐々木康之と羽田正。

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一応通読したので、ランダムにコメント

パリ生まれの宝石商人シャルダンが、宝石類商売のためにでかけた二度目の東方旅行。

1671年から1973の旅の記録。旅はこの後も続き、ムガール帝国のインドやゴルコンダ王国まで足をのばしたようだが、シャルダン自身による記録は残されていない。

サファヴィー朝ペルシアのアッバース二世(1666年死去)より委託された宝石その他の商品を無事イスファハーンまで運び、売却して利益を得るのが目的である。

「17・18世紀大旅行記叢書」のなかでは、もっとも読みやすい作品だろう。とくに本訳では小見出しが付けられ、索引も完備しているので、登場人物も追っかけられるし、事件の前後関係もわかりやすい。

ただし、p172-187 のグルジア王国内のミングレリア大公国・イミレット国・グリエル国の抗争関係はややこしくて飛ばし読みした。ようするに、小さい公国の貴族や王族の抗争にオスマン帝国の勢力がからんだり、グルジア正教会がからむ抗争だったようで、これにシャルダン一行が巻き込まれ旅程が滞った。


読みやすいというのは、

作者シャルダンの目的地と旅行の目的が明白。つまり、無事宝石類をイスファハーンまで運び売りさばくこと。

時系列、行程にそった叙述で、今どこにいるのか、どこへ行こうとしているのかはっきりしている。(他の旅行記では、これが混乱して、どこをどう通っているのか読んでいるうちに混乱してしまう場合が多々ある。)

作者シャルダンの文章がわかりやすい。客観的な描写の中に主観的な心情を吐露し、その場面場面での作者の気持ちがわかる。

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『ペルシア紀行』という表題であるが、

「1 パリからコンスタンティノープルへ」は、出発の経緯と、当時のフランス・オスマン帝国をめぐる国際情勢の解説で、序説といってよい。

「2 コンスタンティノープルからティフリス」「3 ティフリスからタブリーズ」の300ページほどが、現在のグルジア・アルメニア・イラン北部の旅行。
この部分がもっとも旅行記らしい部分で、現在まで戦乱が続くカフカスの風土や風習が描かれ、旅の困難が描かれる。

「4 タブリーズからイスファハーンへ」が、無事イスファハーンへ到着後の商戦。サファヴィー朝の朝貢貿易とでもいえる国王への贈物や謁見、賄賂や値引交渉が詳細に語られる。
シャルダンはいわば独立商人であるが、当地イスファハーンには、イギリス・オランダ・フランスの東インド会社が勢力を伸ばしつつある。その中で、フランスは情報収集力も軍事力もない弱小勢力で、国王側に軽くあしらわれている。

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葡萄酒と豚肉と美男美女の産地であるグルジア王国は、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに挟まれた混乱の地である。
一方、世界の半分の大都市イスファハーン、サファヴィー朝の勢力圏から太守が伺候し、ヨーロッパの東インド会社が陳情・抗議に来訪し、キリスト教各派の教会がある。

対照的に描かれる辺境とメトロポリスが本旅行記の目玉だろう。

21世紀の現在も紛争や内乱の絶えないカフカスは、当時もやはり旅に難儀する地域であったようだ。

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珍しい風俗や産物、歴史的な証言が記されているが、わたしにとって、どうにも謎であるのが、作者シャルダンの商売である宝石である。
いったいぜんたい、この宝石がなぜかくも高額で取引されるのだ?

イスファハーンの壮麗な建築や庭園、豪華な宴会が描かれているが、このへんは読んでいて納得できる。
しかし、宝石というものが、なぜこれほど貴顕連中が欲しがるのか、いまいち納得いかないのだ。

p559-560に、
王室に買い上げられた宝石類は鑑定され、記帳され、宝物庫に保管されると記されている。そして、そこで死蔵されるとシャルダンは書いているのだ。

これって、ヘンな話だと思うのだが。
王室が買い取った宝物は、家臣に下賜されたり売却されて移動する、つまり王室の宝物購入や贈物は、一種の交易だとわたしは理解していたのだが……。

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あと、キャラバン・サライの描写など詳しいので、ハンマームをシャルダン自身が体験した見聞がないかと期待して読んでいったのだが、なし。残念。

倉谷うらら,『フジツボ 魅惑の足まねき』,岩波書店,2009

2009-10-18 20:17:24 | 自然・生態・風土
『ハダカデバネズミ』などのヒットがある「岩波科学ライブラリー」生きものシリーズの一冊。編集者も『ハダカデバネズミ』と同じ方。

これはすごい、と読了してウェブをみたら、一般紙・書評系・学術系で大絶賛ではないか。

これはまず、装丁・イラスト・写真、それにパラパラまんがやペーパークラフトという付録の強烈さに、読者が驚いたためだと思われる。わたしも驚いた。自然科学系の本は、ユーモアがあって読者サービス豊富なものが多いが、ここまでグラフィックと文体がくだけているのは珍しい。
でもわたしが一番最初に驚いたのが、著者「倉谷うらら」という著者名である。本名である。
最後に驚いたのが、著者近影。岩波書店のサイトでも見られる。これほど「美人」という形容がふさわしい人はめったにいません。自然科学系にしては美人とか、著述業にしては美人というのではなく、ほんとにモデル以上の美人である。みんな、この著者近影を見て絶賛しているのでは?と考えるのはうがち過ぎか。

えーと、内容に関しては、読めばいいので簡単に。

進化論、環境問題、グルメ料理、本草画、博物学など話題がぎっしり。
フジツボが岩や生物体、船底に付着するセメント物質が最先端技術として研究されているとのこと。これまでは、いかにフジツボを取り除くか、付着を防ぐかという方面の研究だったが、最近は、生体内(人体)で、免疫反応が起きない強力な接着剤として実用化できないか開発中であるそうだ。あと、筋肉組織が大きいので、筋肉機能研究の試料としても注目されているんだそうだ。

末廣昭,『タイ 中進国の模索』,岩波新書,2009

2009-10-18 20:16:40 | 国家/民族/戦争
とりあえずメモ。

1993年の『タイ 開発と民主主義』に続く岩波新書のタイ事情。
続く、なんていっても、16年前じゃないか、とおっしゃる方もおられようが、こういう形でフォローされる国はタイだけで、著者の末廣昭氏のように信頼できる方がこまめに一般向けの本を書いてくれるのは、じつにありがたいことである。

これが、中華人民共和国や韓国だと、あまりに玉石混交で、何を読んだらいいのかわからない状態。
一方で、フィリピンやマレーシアなんか、どこも扱ってくれないのだ。

つくづく、日本におけるタイの情報は恵まれているな、と思う。
マス・メディアでは紛争や災害しか報道してくれないが、こうしてしっかりした情報・分析が読めるのだ。

アジア通貨危機のあとも、着実に経済発展しているというのが、しっかりわかりました。
セメントとビールの生産高のグラフ、ショッピング・センターとコンビニエンス・ストアにみられる消費行動の変化、感染症・生活習慣病・老人性退行症という病症率の変化、大学生数(社会人大学生の割合が多い)など、的確なデータを示し分析する技はみごと。
少子高齢化と感染症、高学歴化による就職難、地方ボスの支配(もしくは地方自治)と非能率的な官僚組織(もしくは伝統的テクノクラート)……といった、西欧や日本が長い年月で解決してきた、いや長い年月をかけても解決できなかった問題が一挙に噴出している状態であるようだ。


そうか。電子部品部門では、タイ独自の付加価値を創出するのはむずかしい、それよりも、食品・自動車・繊維・観光が他国よりも優位に立てる、という方針があるのだな。

弘末雅士,『東南アジアの港市世界』,岩波書店,2004

2009-10-11 21:30:54 | コスモポリス
ちょっと前に書いた、旅行記に頻出する人喰い伝承に関連して。

本書は、東南アジア海域世界13世紀から20世紀初頭まで、交易拠点としての港市を論じたものであるが、人喰いや女人が島の伝説についてもページを割いて論じている。

要点をまとめると、次のようになる。

ムスリム商人や華人商人が往来していた時代から、東南アジア各地には、人喰いが住むという蛮地の伝承があった。漢文史料やアラビア語史料にいくつも逸話が残されている。
さらに、ヨーロッパ人が渡来すると、彼らの記録にも人喰いや女人が島の話が頻出する。

これを、交易の結節点の港市という観点からみると、以下のように説明できる。

つまり、人喰いの住む瘴癘の地というのは、森林物産や金を産出する地であり、港の王がアクセスする権威・権力を有する地である。
外来商人が近づくことができず、港市の王の権威を通して産物を入手しなければならない。
そこで、未知の内陸への恐れを強調する伝聞が流布する。

逆にいうと、交易のルートであるからこそ、外来商人が求める珍奇な商品を産するからこそ、人喰いや野蛮人の伝聞が誕生する。

女人が島伝説についても同じことが言える。
女だけが住み、偶然漂着した船乗りたちが、精力を吸い取られて死んでしまう、という伝説が各地にある。
これは、現地の水先案内なしには航海できない海域に、奇怪な島と危険が待ち構えているということで、やはり外来の商人のアクセスを拒み、香料や香木の産地へのルートを秘匿したいという状況のもとで生まれる。


一方で、これが本書の大きなテーマであるが、内陸の側でも港市の王に関するさまざまな伝説が生まれる。
内陸の首長や指導者と港市の王に特別の関係があり、血縁を同じくするという伝承である。
内陸部の産物を港市へ送り出す正当な理由があり、また港市の王は、外来の商人が持ち込む悪疫や厄災から内陸を保護する。

つまり、港市の王は、外来商人外来文明と内陸部を仲介する者であり、双方の直接交渉を規制・コントロールし、関係を潤滑にする役割を担う。

いろいろな例が挙げられているが、頭がクラクラするような例がマタラム王家とオランダ人に関する伝承。

p122-123

 中部ジャワの王家のうちでも、ジョクジャカルタのスルタン王家は、強力な兵力を有した上に、中部ジャワの未開墾地の開発が順調に進み、王国は隆盛に向かった。スルタン王家にとってオランダは、海岸部にあって王国の繁栄を支援する存在であることが望ましかった。一八世紀後半から一九世紀初めにかけてスルタン王家が作成した『スラト・サコンダル』によれば、バタヴィアのオランダ人はパジャジャラン王国の正統な後継者であるという(Ricklefs, 1974: 377-402)。それによると、オランダの地のマブキット・アムビン Mabukit Ambin の王は、一二名の美しい妻を有していた。そのうちの一人の妻は、身ごもったのちに、貝を産み落としたという。そのなかより、バロン・スクムルとバロン・カセンデルが生まれた。バロン・カセンデルは、成長するとスペイン王のため数々の軍功をたて、ついに王の跡を継ぎ、次のスペイン王となった。

 スペインはカセンデルの統治下で栄えたが、カセンデルは精神修行の旅に出たくなった。そこで王位を兄のスクムルに譲ろうとしたが、他の兄弟たちの反対を受け、結局父親のマブキット・アムビン王に王位を譲った。王となった父親は、兄弟たちの不和を諫め、一致団結することを説き、この結果オランダ東インド会社 Kumpni が結成されたという。

 カセンデルと他の三人の兄弟は、そこでジャワの地に赴いたという。当時ジャワは、マタラム王スナパティの時代であり、カセンデルら四人は、スナパティに仕え、王国を繁栄に導いた。またスペインにいたスクルムも、ジャワの地に商売のため出かける決心をした。一〇隻の船が商品を積んで、一〇ヵ月かけてジャワの地に到着したという。スクムルは、ジャカルタの支配者に歓迎され、ジャカルタ沖のオンルスト島に滞在することとなった。

 その頃西ジャワのパジャジャラン王国は、イスラームを信奉するジャカルタの支配者にすでに滅ぼされていたという。パジャジャラン王家の王女の一人は、山岳地帯に逃げ、そこで聖者と結婚し、一人の娘をもうけた。この娘はたいへん美しく、ジャカルタの支配者は彼女を娶ろうとしたが、彼女の子宮から発する炎のため、叶わなかった。そこで彼女は、ジャカルタの支配者からスクルムに売り払われた。スクルムは彼女をスペインに連れて帰り、やがて二人の間にジャンクンが生まれた。

 ジャンクンは成長すると、母の出身地がどこかを尋ねた。母親は、出身がパジャジャランであり、ムスリムのジャカルタ王によって滅ぼされたことを打ち明けた。そのためジャンクンは、ジャカルタ王を討つべく、ジャワに出発した。ジャカルタに到着したジャンクンはジャカルタ王と戦いとなった。激戦の末、ジャカルタ王は、ジャンクンにジャカルタを譲らざるをえなかった。ジャカルタ王は、南部の山岳地に退き、そこで元パジャジャランの王女のことを思い出し、悲嘆に暮れたとい。


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以上の話の中の〈ジャンクン〉というのが、オランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在位1619-23,1627-29 )のことである、と伝承は伝える。

むちゃくちゃなようで、マタラム王の権威はオランダ人より強く、オランダは港市の外来商人に過ぎないが、血縁関係があり、ジャワの権威があるという話である。

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以上の状況は、18世紀末ごろまで続くが、19世紀になると、オランダはジャワ全体を植民地化し、スマトラの内陸部まで植民地化をすすめる。

その過程で、一時消滅した人喰い伝説が再び蘇る。

19世紀後半の内陸植民地化とさまざまな抵抗をめぐる論考が説かれるが、長くなりすぎたので、項をあらためる。