東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

渡辺弘之,『東南アジア林産物20の謎』,築地書館、1993.

2006-04-25 22:49:26 | 自然・生態・風土
プロ中のプロ、渡辺弘之さんが一般人向けに書いた林産物の本。
これはいい!

その1
まず、原生林や照葉樹林のような一般人がアクセスしにくいところではなく、街路や市場、都市の公園でみられる樹木を紹介していること。

その2
有用樹の案内であるが、材木やプランテーション産物ばかりでなく、食用のタマリンド、花を観賞するプルメリア、トピアリー(樹木を剪定して動物や幾何学立体にする造園技術)にするコイやタァコ、漆器材料のビルマウルシなど幅広くあつかっている。

その3
東南アジアといっても原生種にこだわらず、マホガニーやアメリカネムノキなど移入種もあつかっている。

その4
チークやフタバガキなど東南アジアの代表的な樹木であり、資源の枯渇が問題になっているものを紹介しているが、専門的な立場から、けっして悲観的にならず、かといって楽観的でもなく、冷静な判断をしていること。

その5
タケ、ラタンのような日常のあらゆることに使うものを紹介し、以外な用途もしらせてくれる。
考えてみると、タケもラタンもないヨーロッパで、プラスチックやステンレスがない時代に、どうやって日常の籠や笊や筌をつくっていたんだろう?
鳥かご、釣竿、パイプ、ほうき、樋(とい)など、タケがないところでどうやっていたんでしょうね?

その6
日本その他世界中に輸出される以外な林産物を紹介していること。これは、ほんとに驚いた。くわしいことは、各自でたしかめてもらいたいが、以下のようなものである。
口紅、座薬、SPレコード、かにかまぼこの着色、印刷インキなどなど、ベビーキャリアから位牌まで。

その7
ただ単におもしろい植物、見てきれいな植物を紹介している。
ホウガンノキとホウガンヒルギ、アルソミトラ、カエンジュとホウオウボクなど。

その8
写真がよい。
建築物や通行人、車といっしょに写していて、大きさとまわりの風景がわかる。市場で売っている実や花や加工品の写真もある。植物図鑑風の写真ではわからない、現場の写真だ。

その9
専門家でも樹木の種をみただけで特定するのはむずかしい、ということがわかった。しろうとは、樹木のなまえを当てようなんて悩むのをやめよう。
ただし、本書では、ラテン語の学名も掲載されているし、まぎらわしい名前、混同されている植物名の話題、仏典の植物名の話題もあります。

高谷好一,『マングローブに生きる』,日本放送出版協会,1988.

2006-04-25 22:40:32 | フィールド・ワーカーたちの物語
いったい「ムラユ」といわれる人々はどこでどんな暮らしをしているのか?
すでに卓越した業績をあげている著者が、地質や農業のことからはなれ、海と森に生きるムラユの世界にのりこんだ記録である。

最初、高谷さんはスマトラのリアウ州、インドラギリ川下流のマンダの村をおとずれる。
サゴ洗い、森林物産採取などの生業を見聞し、呪術師マジョリ翁の話をきく。(さすがの高谷さんも、呪術師の術にあてられる。)

次に河口の村、ブカワンにむかう。
ここは、ムラユの漁村であるが、ほかに漂泊海洋民だったオランラウトが定住し、福建系中国人の漁民も住んでいる。
福建系の動力船をつかった規模のおおきい漁法で、ムラユの漁獲は打撃をうけ、下働きの賃労働や出稼ぎをしている。
オランラウトの人々は、政府の政策によって定住しているものの、一年の大半はよそにでかけ、人口も世帯数もよくわからない。

著者は迷う。
これは、調査地の選定をまちがえたのではないか?
ムラユをもとめてやってきたものの、どこにも伝統的なムラユの生活はない。
いったいぜんたい、ムラユとはなんなのだ?

ブカワン村の長老、アブドル・ガフン氏の話が紹介される。
パレンバンで生まれ、2歳でタンジュンダトゥに移る。
12歳からシンガポールで船員修行、23歳で自分の船をもって独立、ブリギンラジャからシンガポールへエビ輸送(薪で動く日本製の船、氷をつかって生エビを運ぶ)。
1945年から外洋船の副船長になり、ジャカルタ、ティモールを往復。
1948年から日本に屑鉄を売り、セメントを輸入する会社をつくるが失敗。
1950年からオーストラリアに行き、真珠とりのダイバーになる。
1年でやめてシンガポールへ、1957年からスンバワ、1960年、やっとここブカワンでココヤシ栽培をはじめる。1970年から80年までブカワン村の村長。

これが典型的なムラユ世界に生きる人の人生なのだ。
この村で生まれ、この村で死ぬ男はほとんどいない。
次から次と仕事をかえ、事業をはじめてはつぶし、旅の先々で妻をつくってこどもをもうける。

福建漁民の横暴にいかりを感じたを著者は考えなおす。
ムラユの人々にとって漁業はいろんな選択肢のひとつにすぎない。
自分たちより効率的に漁業をやる連中がきたら、それはそれでしょうがない。
ムラユの人々にとって、こうした競合者、闖入者は、さいしょから折込ずみのことなのだ……。

この海域に住むのは、ミナンカバウ人、バンジャール人、ブギス人、中国人、ジャワ人などよそ者の集まりである。
アブドル・ガフン長老のように動きまわる人、気性が荒く海賊のようなブギス人、進取の気性に富むバンジャール人、礼儀しらずで金儲けばかりの中国人、こつこつ地味なしごとを続けるジャワ人。

こんなふうにステレオタイプで捉えることも一応理解を助ける。
しかし、実情はそんな簡単なものではない。
南カリマンタンからやってきたバンジャール人もスク(血筋)がちがうと違う言葉を話している。ココヤシ栽培、稲作、商売人と儲けのやりかたも違う。
南スラウェシからやってきたブギス人といっても、ワジョとブルクンバではぜんぜん言葉も気質も違う。
中国人というのも、すでにインドネシア国籍をもって何代も前から暮らしている人々であり、英語やインドネシア語でコミュニケートする人々である。
では、昔は伝統的なムラユの生活があったのだろうか?

第3章 海とスルタン 

ここで現在のスラットパンジャン、昔のトゥビンティンギ王国の歴史が語られ、さらにトゥビンティンギ王国の権威の前身であるシアク王国の歴史が紹介される。(貴種流離譚のように、トゥビンティンギ王国はシアク王の血筋を継ぐ王子によって開かれたという伝説がある。)
この部分、歴史書にあらわれる、王、海軍長官、王宮、家臣団、といった言葉を理解するのにたいへんに参考になる。

シアク王国の人口は1万から2万であった。
広大な南スマトラを支配した王国といわれているが、実態は、シアク川下流のほんの一部を支配しただけである。
中核区は全体の三分の二以上の人口をもつが、彼ら全部が王が自由にできる臣下ではない。ミナンカバウ人がそれぞれのスク(血筋、母系集団)ごとに自治機能をもち、首領をいだく。
そのほか、山住みの森林物産採取民も住む。
王の直属のしもべは1000人ほどである。

さらに海軍長官(ラクサマナ)は独自の領地をもつが、王の血筋でもないし、中核区の住民とも縁のない、雇われ軍、傭兵である。
ほかに副王、内務大臣、貿易大臣がいる。
王は傭兵をそなえた、合名会社の社長のようなもんである。
さらに東南アジア一般にいえることであるが、王というのが、異人、つまり、アラブやヨーロッパの血をうけついだマレビトなのである。

そして、王宮や港の権威がおよぶのは、川筋の狭い地域だけで、あとはトラやオランブニヤ(森におばけ、残念ながら絶滅危惧種らしい。動物学者による生態研究は行われていない)の住む森である。

第4章では、プランテーション時代の変化。

世界的なゴムの需要から、マレー半島はほとんどゴム・プランテーション化し、全世界のゴム生産の大半が東南アジア産となる。
ブラジル産のゴムがなぜ東南アジアの主産物になったのか?
それは、東南アジアが大人口に隣接し、移民労働を受け入れる条件がそろっていたからである。
その一方、ゴムはアブラヤシやサトウキビと違い、小規模の経営でも可能な(利益がでる)植物である。
南スマトラでも小規模なゴム栽培がひろまった。
もうひとつ、ココヤシの栽培もはじまる。
この二つ、もともとこの南スマトラには自生しない植物である。
導入をはじめたのはムラユやブギス、ここでジャワからの移民がふえる。

第4章、第5章の記述をまとめジャワ島からの移民について。

オランダ時代からジャワ人をスマトラ島に移住させる政策があったが、独立後、トランスミグラシという名のもと、大量の移民がスマトラにながれこむ。スマトラばかりでなく、スラウェシやカリマンタンにも移住して、いろいろな問題が生じている。
政府の机上の計画によって、とても人間の住めないようなところに移住させられるジャワ人がいる。(一方、カリマンタンなどで、焼畑民との間で軋轢が生じる場合もある。)
その一方で、ジャワ人は根気強く働き、果実や野菜を植え、庭をつくり、荒地を耕地に変えていく人々でもある。
うつり気なムラユや気性の荒いブギス、美学のない中国人に比べ、ジャワ人はまったくえらい。
しかし、将来的にもうまくいくかというと、やっかいな問題がひかえている。
農業が専門の著者であるから、海岸近くの湿地を米作地帯にしたサワ・パッサンスルットの解説もわかりやすい。しかし、この新技術が通用する環境はそれほど広くない。
スマトラの地図をみて、この広大な低湿地が全部稲作地帯になるなんて考えたらおおまちがいで、泥炭地帯など、まったく農耕は不可能なのだ。
ココヤシの栽培も、一作目、二作目はよいにしても、はたして三作目め(最初の開拓から40年目ぐらい)に耐えられるか疑問である。
将来のみとおしは明るくない。
トランスミグラシ政策も、60年代の人口緩和政策としての移民は無駄である、という認識がみとめられてきているようで、移民は地域開発のため、人口緩和は産児制限で対応すべきという政策になっているようだ。

というように、よそ者が集まり、この土地でうまれた者が離れ、つねに人々が移動しているムラユ世界も、ここにきて人口過剰な世界、土地が価値を持つ世界に変化しつつあるようだ。
人類にとって最後のフロンティアがヒトでうまってきているのだ。

本書で著者とともにインドラギリ流域やリアウ諸島の旅をした読者はムラユ世界がどういうものか理解できたであろう。
きまぐれで、ギャンブラーの生きかたをするムラユ、海賊のような密輸や非合法な仕事、堂々とした世界観、そうしたものを理解できるはずだ。
一方、乱暴で恐ろしげなブギス、乱雑だけれど世界に通じる生きかたをする華人、しんぼうづよく庭園や菜園をつくるジャワ人も理解できるはずだ。

著者の調査の態度はまことに礼儀ただしく、正直である。
世話になった長老やインフォーマントや通訳の青年の名前もちゃんと書いているし、ちょっとアブナイ呪術師のマジョリ翁にも敬意を表した対応をしている。

もっとも東南アジアらしい東南アジアを描いた傑作である。

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サワ・パッサンスルットについて

いろんなところで解説されているが、本書の記述が背景を含め一番わかりやすい。

潮汐灌漑田と訳される。満潮時に、川の水が逆流するのを利用して田に水をひく。
田といっても、厳密にいうと日本のような水田ではない。畔がないのである。つまり、水をためた水田ではない。焼畑の一種である。
焼畑の一種といっても、山腹の焼畑とちがい、乾燥した林に火をつけたりしない。
湿った地の木を切って、耕地にしたわけであるが、犂も鍬もつかわない。
しかし焼畑のように種植えではなく、苗代をつくって苗を育て、(育った苗をさらに苗代に植え替える二段階の苗つくり)、移植する。つまり田植えをする。
収穫はほづみ。鎌でいっきに刈ってしまうのではなく、完熟した穂だけ刈っていく。これは、いっきに刈ってしまうと、乾燥ができず、その間に雨がふると籾が発芽したりカビがはえたりするからである。
このように、灌漑・田植えをする湿地の焼畑がサワ・パッサンスルットである。

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母系社会について

ムラユといわれる人々、ミナンカバウなど、母系社会である。
本書は男の世界ばかり注目した内容であるが、高谷さん、最後に母系社会のことにもちょっとふれている。
母系ということは、女が土地や財産を相続する社会である。
一見、おんなのほうが得な印象をうけるが、男が出稼ぎ、海賊、行商、移民、そのほか外の世界をほっつき歩いているのに、女が土地を守って、動きがとれない社会なのだ。
しかし、一方、外の世界からやってきたものが、土地の女と所帯を持ち、こどもをつくっていくと、みることもできる。
つまり、この世界でうまれたこどもは、遺伝子的にみると、外の世界からやってきたものがどんどん蓄積されていく世界なのだ。
「中国人」「アラブ人」「ブギス人」という言葉を使うとき、このことに注意しよう。

『旅行人』2006年春号No.151

2006-04-24 11:57:28 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
『旅行人』2006年春号No.151届く。
ボルネオ特集。
執筆者は安間繁樹(やすま・しげき)、上島善之(うえじま・よしゆき)、岩永友宏(いわなが・ともひろ)、今野雅夫、上鶴篤史(かみづる・あつし)、それに前川健一、蔵前編集長。
安間さんの本や渡辺弘之さんの本、入力アップロードの準備していたのに、わたしの書くような内容は全部でているではないか。
入力する気をなくす。

定期購読継続お願いマンガもついてきた。
郵便振込み料金も値上げされ経営がたいへんそうで、みなさん、立ち読みしないで購読しましょう!

石毛直道,『はじまりはトンガ』,平凡社,1988.

2006-04-19 16:27:45 | フィールド・ワーカーたちの物語
鉄の胃袋をもった三代目国立民族博物館館長・石毛直道。その20代からの探険の記録。

副題は「南太平洋フィールドノート」とあるが、1960年のトンガ以外は、東南アジアとメラネシア・パプア・ミクロネシアがまじりあう地域である。
石毛直道さんも昔はこんなところを調査していたのだ。

とにかく意外な話が続出、おもわず読み返してしまう。
調査本体の記録は学術論文で発表しているが、この本におさめられたのは、新聞・雑誌などにのせたエッセーで、一般人むけのおもしろい話がてんこもりである。
石毛さんはほんと一般人におもしろい話を知らせるのがうまい。
最初のトンガ探険のあと、こどもむけ絵本の原稿をつくったそうだ。個人装備のなかに水彩とクレヨンがある。やはり後に大物になる人はちがうんだなあ。
石毛さんは当時考古学を研究する学徒で、そのご民族学へうつったわけだが、こんな才能のある人が考古学なんかにしばられなくて本当によかった。もちろん考古学をつづけたとしても優秀な業績をのこしたであろうが、そうなると食文化の石毛教授は存在しないわけだ。
トンガ行きは韓国籍のセメント運搬貨物船にのってラバウル、エスピリトサント、フィジーなどを経由して行った。
1960年というのは、まだ、日本製品が一番安い時代だったのだ!(そして60年安保の年、李承晩政権が失脚した年である。)
ソニーのデンスケがわざわざNHKから借りるほどの機械だった。

内容は、
1960年のトンガ。
1963年から64年のニューギニア探険予備調査。
1965年の西イリアンパニアイ湖付近エナロリタ(カポーク族)での調査。これは京大西イリアン学術探検隊予備踏査隊の先発として。
そして、ケマブー川上流のウバンギ村での滞在調査(ダニ族とモニ族の両方が住んでいる村)。朝日新聞の本多勝一・藤木高嶺といっしょ。この文は『本多勝一著作集』の解説である。「ニューギニア高地人」についてはそのうち本ブログでもレヴューしよう。
1972年の東カロリン諸島のポナペ、モエン島、ヌクオル島など。
1980年のトロブリアンド島短期滞在。
1976年ハルマヘラ島リマウ村(ガレラ族、オーストロネシア系言語ではなくメラネシア系の言語の民族)での調査。これは著者が隊長で、佐々木高明・吉田集而などが隊員。サゴヤシでんぷん作りの話など。
そのほかサモア諸島とフィジー、ギルバート諸島の珍味パロロ、ヘイエルダールとエリック・ド・ビショップのポリネシア人移住経路を実証するためのいかだの航海、トラック諸島のよばい棒、セピック美術、オセアニアのカヌー、など。

ところで、ポリネシアのシングル・アウトリガー船の図がのっているが、わたしはどうしても、帆の向きをかえるやりかたが理解できない。実物をみないとわからないのか?このタイプの船については、門田修『南の島に行こうよ』にもでてきて、あの本でも帆柱をかえるというのがよくわからなかったが……。

『世界の民族 第11巻 東南アジア大陸部』, 平凡社 ,1979.

2006-04-19 16:09:02 | 多様性 ?
石井米雄 監修,『世界の民族 第11巻 東南アジア大陸部』, 平凡社 ,1979. この巻はアンドルー・タートン編纂、中山邦紀 訳。シリーズ総監修:E.エバンズ=プリチャード 日本語版総監修:梅棹忠夫

ふう、書誌情報を書くだけで一苦労だ。どこからどこまでが書名かわからないうえに、この本、奥付に原書の著者名も訳者名もついていない。だから、OPACで検索しても、石井米雄やアンドルー・タートンでみつからない場合があるので注意。
それから、ウェブ上の書誌情報はめちゃくちゃ。エバンズ=プリチャード、エヴァンズ=プリチャード、はいいけど、プリチャードを先頭にもってきているのもある。
ひどいところは「東南アジヤ」になってた。人力で入力したのか?書名を変えないでくれよ。ウェブ上で恥をさらしているぞ。(←ひとのことはいえない)
だいたいエバンズ=プリチャードも梅棹忠夫も監修だけでぜんぜん中身を書いていない。
中身は複数の著者による合作で、さらに日本版には日本の著者による項目もあり。

本シリーズは全20巻、どこの図書館にもあるし、古本屋で捨て値で売られているシリーズです。
ページをあけると、写真集のような体裁、くらい、汚い、グロテスクな写真がつづく。
そうです、印刷技術のためか、カラーフィルムの品質のせいか、ひじょうに暗い濃い色の写真になっている。そこにうつっているのは、汚い疲れた顔の東南アジア人、みすぼらしい家、汚い水、貧弱な作物……。
1979年でも、こんなもんだったのか?
ようするに、アジアの風物といえばこんなもんだったんです。

一方、文章のほうはどうかというと、最初に東南アジアの言語のやたら詳しい分類があり、分布の地図と系統図がある。
たいていの読者はここいらで読むのをやめるんじゃないだろうか。レポートや宿題のため無理して読むんだろうか。

今回、がまんして読んでみた。
扱う範囲はベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ビルマ、以上の国については国ごとの項目がある。
少数民族としては、アンナン山脈の山地民(プロト・インドシナ人という名称をつかっている。)、ヤオ、ミャオ(Hmonのこと)、モウケンがくわしく解説されており、そのほかパダウン(例の首長族)、ラワ、カレン、シャン、ネグリートについて少々記事あり。
ベトナム戦争後、まだカンボジア内戦などどうなっているのか外部にはわからない時代だ。(だから本書収録の記事がいつごろの調査・見聞をもとに書かれたのかという疑問がわいてくるのだが)

内容はひじょうに専門的、小さい文字でぎっしり書かれている。
百科事典の項目のように、生業・宗教・社会制度・国家との関係、儀式や年中行事が説明されている。
その気になって読めば、つまり、あらかじめなにを調べるかわかっていれば有益な情報もおおいが、ただ読んだだけでは、ぜんぜんアタマにはいらない。
そして、今回はじめてわかったのは、文章と写真がほとんど関係ないってこと。
民族学のシリーズなんだから、もうすこし日常生活がわかる写真を多めにすべきではないか。
さらに写真の説明に場所の記載がないものが多いのだ。撮影年月日は当然なし。被写体の名前もなしで、通りすがりの観光客がうつしたような写真が多いではないか。
写真の多いかさばる本にした意味がない。

1970年代末でも、われわれの東南アジアに関する情報はこんなもんだったのか?(←自分の無知を一般化するな)
う~ん。そうかもなあ。

蜂須賀正氏,『南の探険』,平凡社,2006.

2006-04-15 23:11:36 | 20世紀;日本からの人々
ぜんぜん知らないぞ、こんな人。

巻末の略年譜によれば、戦国大名蜂須賀家十六代、母方の祖父は徳川慶喜、1903年生。1920年から英国留学、ケンブリッジ大学モードリアン・カレッジ入学。BOU(英国鳥学会)会員。この間、エジプト・アイスランドなど旅行。1928年(昭和3年)昭和天皇即位の大礼使典儀官。この年、本書のフィリピン諸島旅行に出発(翌年まで約4ヶ月)。
この後、ベルギー領アフリカ、東アフリカ、北アフリカ旅行、1933年父の死亡により貴族院議員を襲爵。外遊、日本鳥学会の活動、なにか不明の家庭内トラブル、結婚は1939年。1943年に本書の親本出版、しかしこれ以外戦時中なにをやっていたか不明。
戦後はGHQ天然資源局生物科長オースチンの通訳など、(東京三田の屋敷はオーストラリアに売却、オーストラリア大使館になる)、1953年50歳で死去。

ウェブの情報ほとんどなし。大半は日本野鳥の会か生物学史研究会、この本自体の販売・書誌情報だけ。
荒俣宏の『大東亜科学奇譚』にとりあげられているようだ。その線で平凡社からでたのか。ほか青木澄夫『日本人のアフリカ発見』,山川出版社にも記載があるらしい。

内容は、本ブログのテーマのどまんなか。
アメリカ合衆国領のフィリピン、ミンダナオ島南部、アポ山登頂を中心にした、探検・鳥類の観察と標本採集、「土俗学」的見聞、社会事情、統治事情、日本人の移民の社会などなどについて。
旅行・探検がおこなわれてから15年後に出版されたのは、占領政策の資料にするためなのだろうか?

ともかくすごい(当時の事情と著者の探検のやりかた両方)内容で、こんな本が戦前戦中にたくさんあったとは考えられない。やはり、そうとう例外的な記録だろう。

(とりあえずここまで、時間がなくて中断、今日2006/04/15買ったばかりなのだ)

中尾佐助,『栽培植物と農耕の起源』,岩波新書,1966.

2006-04-15 01:05:40 | 名著・話題作 再読
googleで中尾佐助を検索すると、「トトロ」「もののけ姫」がでてくるのかよ!
よし、わたしはぜんぜん別の方面からいくぞ。

本書の第一の意義は、ヒトは炭水化物とたんぱく質と脂肪が必要だってことを明確にしたことだ。
近代の栄養学が不完全で弊害もあることは認めるとして、この三要素が必要なのは確実な事実である。
最近は脂肪のとりすぎがからだに悪いとか、カロリーのとりすぎだとかいわれ、この三要素がかろんじられているが、まず人間のくいものの最重要要素はこの三つである。
こういうと、カルシウムはどうなんだ、ビタミンは、鉄分は、と反論されそうだが、地球中のどの地域でも、この三要素がとれていればほかは、そこそこ満足されるような食物体系になっているのである。
別のいいかたをすれば、もし、三要素が十分でもほかの必須栄養素が欠けている食物体系では、そこの人間はいきのびることができなかった。

そして、ここからが重要だが、世界の文明地域では、この三要素を栽培植物と家畜から摂取するような体系をつくりあげたのだ。だからこそ文明の地といわれるようになったわけだ。
そうしてみると、稲作以前の東南アジア、メラネシア地域はひじょうに不完全である。
栽培植物(サゴヤシ・バナナ・イモ類・パンノキ)からはほとんど炭水化物しか摂取できない。
さらに決定的な違いは、これら東南アジア産の植物が、種子を利用する植物ではない、つまり穀物ではないということだ。
穀物ではない、ということは、調理に時間がかかり、保存がむずかしいということだ。とうてい、大文明を発生させる基盤にはならない。
家畜は犬と鶏ぐらいでたんぱく質と脂肪には不十分である。乳製品の利用がない。ブタの飼育に必要十分な作物・自然条件が欠けている。(あくまで稲作以前、新大陸の作物導入以前のこととして)
そもそも、サゴヤシやバナナでさえ、野生のものを採取している地域もあるから、以前はもっと野生植物に依存していたとおもわれる。

つまりだ、東南アジアは文明の地ではないのだ。
こういうと、なんか東南アジアをみくだしているようだが、そうではない。
そもそも地球上で文明を発生させたのは一ヶ所だけ、中東の肥沃な三日月地帯だけである。世界四大文明なんていうのはウソである。他は三日月地帯の亜流である。
ただ、栽培植物にかんしては、新大陸の農耕が強力なインパクトを旧世界に与えたが、それ以外では、二流である。
おなじ二流なら、亜流よりもまったく違った環境に対応した東南アジアのほうがおもしろいではないか!
ユーラシアの大部分でもサハラ以南でも、農耕と牧畜を主体にした食糧生産が支配的になったなかで、東南アジアだけは採取と漁撈を基盤要素にした文化が続いたのだ。
これは稲作が導入されてからも続くことになる。
もちろんブタを飼うとか牛をいけにえにするといった家畜利用もあったが、日常的におこなわれたのは、さかなとりであり、野生・半野生植物の利用である。
乾燥したサバンナ地帯の影響をしりぞけ、独自の栄養体系をつくりあげたのだ。

そういう意味で、世界四大文明や五大文明のなかまにいれてもらう必要はない。
むしろそんな文明と別の価値を生きてきたこたに東南アジアの意義があるのだ。

中尾佐助は、米、稲作を湿地の雑穀栽培ととらえている。
現在でも、この見方が有効なのかどうか、ちょっと疑問だが、ともかく稲作を含め穀物をつくる農耕はサバンナ経由で伝播したもので、長江流域のどっかで生まれたのが稲作であろう。
かといって、稲作の起源は中国にあり、なんて意見には、わたしは組しませんよ。なぜなら、稲作がうまれたころ、長江流域はチャイニーズの住むところではなかったから。

鶴見良行,『マングローブの沼地で』,1984,朝日新聞社.

2006-04-08 00:04:41 | フィールド・ワーカーたちの物語
1994年、「朝日新書」の1冊として再版。
初出は『朝日ジャーナル』に1983年から84年まで36回連載。
著者がミンダナオ、スルー、サバ、サラワクを旅行したのは、1982年と83年。
『鶴見良行著作集 7 マングローブ』,1999,みすず書房.に関連エッセイとともに収録。

20世紀前半の日本と周辺地域について、次のような発言がでてきて論議をよぶことがある。
「○○は日本の植民地ではなかった。」
「○○で日本はよいこともした。」
「○○の統治で、日本は投資が多かったものの、さほど利益は得なかった。」

以上のことは、字句どおりにとれば正しい。それをわたしはこの『マングローブの沼地で』で知った。
ボルネオ島の北西部三分の一、現在マレーシアとブルネイになっている地域、ここは20世紀前半もグレート・ブリテンの植民地ではなかった。

まず、サバ州、ここは特許北ボルネオ会社という、会社の所有地である。
会社の権限は制限されていて、この所有地の産物を輸出する以外の事業はできない。つまり、他の地域の産物をホンコンやシンガポールに運ぶとか、日本とシンガポールの間の交易をするといった事業は禁じられている。他の王領植民地や企業の利益を保護するためである。
ところがこの北ボルネオで事業を起こそうにも、インフラはない、食料はない、他と競合しない作物もない、技術者はいない、という状態で、とても開発できる産業はない。無駄な道路や鉄道に投資しても赤字がかさむだけ、会社の利益はアヘン、酒、売春宿の専売許可料くらいだったのだ。

一方現在のサラワク州は、ブルネイのサルタンからラージャの称号を授けられたひとりのブリテン人、ジェイムズ・ブルックスのものだった。完全にひとりの所有物である。
そして、明文化された法律もなく、官僚組織もなく、ブルックス個人の裁量で運営される王国だった。
それで北ボルネオのような犯罪者の上前をはねるような国になったかというと、大違いで、ブルックスは、自分はサラワクの住民の保護者、無能で野蛮な住民を保護する王になるのだ、という尊大な野心をもち、驚くことに、自分なりの理想を貫いたのだ。
勝手に保護者気取りになって、海賊を討伐をやらされたりした住民にとっては迷惑このうえないが、一方でこの王様、プランテーションや鉱山開発は住民の伝統を破壊するからといって開発はほとんどしなかった。そのため、この地域は第二次世界大戦後まで、もっとも自然が保護された。
二代目のチャールズ・ブルックス(世襲の王国なのだ!)も、現地のこどもといっしょに育ったような人間で、博物館をつくったり、学術雑誌を刊行した。

こんなわけで、どちらもグレート・ブリテン本国の利益にならなかった。
それどころか、サラワク王国など、個人の領地の保安のため軍隊を派遣するのはおかしいと本国議会で問題になったほどだ。

サバ(北ボルネオ)もサラワクも沿岸のいくつかの都市に白人が住んだだけで、奥地は測量も人口調査もされていない。
流通は華人商人が支配し、焼畑農耕民はそれぞれの首領のもとで暮らし、日本人やアメリカ人の事業家や山師がおしかけ、バジャウ族やタウスグ族など海洋民はかってに漁業や交易をやっていた。

わたしがこのブログの中で、「植民地主義」という言葉は使うけれど「植民地」という言葉はなるべく使わないのは、こんな理由によるものである。
実際、形式的には、「グレート・ブリテンの植民地」であった地域は東南アジアには少ない。そして、ここが重要な点だが、国家というものは、外交関係において、形式を優先するものである。
実質的には住民を支配する植民地であっても、あるときは自治領、あるときは保護領、あるときはアドバイザーのいる連邦州、あるときは租借地、あるときはブリテン島と同じ王・女王の臣民と称する。
そして、外交関係で重要になるのは、この形式なのである。

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というように、本書はフィールド・ワークの産物であるよりも、幅広い資料から紡ぎだした歴史物語のような内容である。
「植民地主義の側からみると……」
「定住民族であるわれわれ日本人は……」
「陸地からの視点ではなく、海からの……」
といった、理屈が多すぎると感じる人もいるだろう。
ご本人は足で調べ自分の目で具体的なものを見る、といいながら、どうも理屈が先にたっているようだが……。

しかし、わたしのような読者にとっても、そして著者の鶴見良行さんにとっても、本書のちょっと肩に力がはいった意気込みは、必要なものだった、と、今読んで思う。
というのは、やはり、いきなりディープな細部を語られて、わたしのような頭でっかちな読者は理解できないのだ。
当時、マングローブという言葉すら、一般的ではなかった時代である。
焼畑耕作についても鶴見さんなりに噛み砕いて説明しているが、こんな説明がやはり必要だったのだ。
今じゃ、マングローブなんて小学校の教科書にも載っている。
焼畑にかんしては、残念ながら、まったく誤解が広がっているようで、自然破壊の元凶のようにいわれている。これはプランテーション関連企業の宣伝に便乗したメディアのせいだと思うが、まさかこんな曲解が宣伝されるようになるとは鶴見さんも予想できなかっただろう。

マギンダナオのクダラート王、マット・サレーの乱、サラワクの蘭芳公司など、独立をめざした武力闘争、反乱といった話題も大きな部分を占めている。
また、モロ民族解放戦線と治安維持部隊の戦闘といった、当時のきな臭い話題もとりあげられている。
こんなきな臭い話題、ホットなトピックを避け、もっと長いスパンの歴史、というより物語りを語りだすのが、この後の作品だと思う。
ともかく、鶴見さんの語り口はわかりやすい。するするとアタマにはいる。
鶴見さんがご自身のことを在野の調査マンといい、専門の学者じゃないとくりかえすのは、ちょっと耳ざわりだが、この学者らしからぬ語り口はやっぱりすごい。

池上永一,『レキオス』,2000.

2006-04-06 23:53:16 | フィクション・ファンタジー
文庫は角川文庫,2005.
むかしはわたしも「おもろそうし」なんぞ読もうとしたこともあったが、琉球関係は字がむずかしくてリズムにのれない。ノロとかユタの話もアタマによくはいらなくて、遠ざけていたなあ。
そんなきまじめなアプローチを笑いとばすような、沖縄・琉球なんでもありのごちゃまぜSF。
腹いっぱいになった。
ウェブでも、すごい数の記事がヒットする人気作。
2005年の新作『シャングリ・ラ』もすごいらしい。(わたしは、てっきりチベットか雲南省を舞台にした小説かと思っていたが、東京の話らしいですね。)今は腹いっぱいで読む気がしない。わたしはこういう大長編を読むとがくっと疲れてしまう。歳だなあ。

クック 太平洋探検 その2

2006-04-06 23:15:54 | 翻訳史料をよむ
トニー・ホルヴィッツ 著, 山本 光伸 訳,『青い地図 キャプテン・クックを追いかけて』,上下,バジリコ,2003.
と、多木浩二の本を参考にする。

英語圏というより英米の人間が書いたクックに関する本はあまり信用しないようがいい。
今でも、クックを単純に太平洋の島々を発見した英雄として描いているやつがいる。一方で、太平洋を植民地化した極悪人と単純にとらえる見方もあるので注意。
ホルヴィッツの本は、そのどちらでもなく、お笑い旅行の部類。

しかし、見るところは見ている。
とくに下巻、クックが船乗り修行をしたホウィットビーの地を訪れるところがいい。
北海に面したさびれた港で、近くに原子力発電所があるような僻地。
クックはここから石炭船の船員として出発したのだった。
それでは、クックの航海の特徴は……

クックの航海は軍事行動である。
軍事行動とは、命令系統があり、下級のものは上官の命令に従わなければならず、さらに、文書で報告義務があるということだ。
ここが、宣教師や冒険商人、博物学者と違う点だ。
クックの船には第1回から3回まで博物学者、植物学者、記録のための画家がのりこむが、クックのほうは、軍命どおりの進路をとるのが任務である。
寄り道や待機は、あくまで食料・水を得、天候にあわせるためである。

クックは測量の天才である。
もともと第1回の航海の船長に任命されたのは、対フランス戦争の間、カナダで従事した測量の腕をかわれてのことである。
水平方向から観測した角度と距離で、島や海岸の形をとらえる天性の能力があったようだ。
そして、これはクックだけでなく、この時代の航海者に共通することだが、景色をみて美しいと思うことがない。
青い珊瑚礁、白いビーチ、緑の熱帯樹、こんなものを美しいとヨーロッパ人が感じるようになるのは、クックの後の時代である。
とにかく、クックにとって、海岸とは、水と薪と野菜を得るためのもの、珊瑚礁は操船にじゃまな障害でしかない。

クックは味オンチである。
記録されているかぎり、ヨーロッパ人で最初にカンガルーを食べたのはクックである。
この人はあらゆる動物を食料としてみる。そして味を気にしない。
ミズナギドリからサメまであらゆる獲物を食う。
フグのような魚をたべて食中毒になったり、体が弱ったときに、同行の博物学者の飼い犬を食ったりする。
それから、この男、寒さや暑さを感じない。
船酔いとは当然無縁。
そして、どうも泳げなかったらしい。
船乗りが泳げないなんて、そんなことがあるか、と疑問におもうだろうが、そしてわたしも想像もしなかったことだが、この時代のヨーロッパの船乗りも軍人も水泳を習うことはなかったらしい。あの北海の海で泳ごうとするのは無理があるし、船乗りの資質としても水泳は必要なかったようなのだ?!

クックの探検の乗組員は、40歳を越したクックと一部の老水夫(といっても40代や30代)を別にすると、ほとんどティーンエイジャーか二十歳そこそこの連中だ。
貧しいイングランドで船員になった連中、(大航海時代よりも船員の国籍や生まれが均一になっていることに注意!コスモポリタンな多国籍集団ではないのだ!)
そして、ホルヴィッツによれば、権威に従い、迷信深く、刹那的で、陽気な連中、そう、現代の英米人よりも、ずっと彼らがが訪れた太平洋の住人と共通する要素が多い人間だったのではないか?

うーむ。ホルヴィッツの本は、しつこいくらいギャグとおちゃらけが続く旅行記であるが、最後の分析は、100%同意できないにしても、鋭い。