東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

橋本雅一,『世界史の中のマラリア』,藤原書店,1991

2009-08-30 19:38:31 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
タイトルどおり、古代から現代までマラリアにまつわる歴史。

熱帯病のイメージがあるマラリアであるが、フィンランドやアラスカでも流行する。全世界的な伝染病であり、人類は免疫獲得できず(細菌やウイルスではないから)、特効薬開発も難航した。

どこまで史料的に確認できるかどうか疑問だが、アレクサンドル大王、平清盛、ダンテ、クロムウェルなどもマラリアに罹患したと推測される。
近代日本では、北白川能久の台湾での客死が有名ですね。

戦争や開発についてまわる病気であり、アメリカ南北戦争、パナマ運河開発、第一次世界大戦、ロシア革命、などなど大流行し戦闘以上の人的損失をもたらす。第二次世界大戦については、もう枚挙に暇がないほどの凄惨な被害が続出する。

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さて、第二次世界大戦後、決定的な新薬としてクロロキンが開発される。
DDTの開発とともに、マラリア撲滅も夢ではない、と楽観的な予想がされた。

しかし、1957年、タイでクロロキン耐性の熱帯性マラリアが出現。「全能のクロロキン」神話くずれる。DDT耐性をもつ蚊も出現。

アメリカのベトナム介入が始まり、アメリカは人工合成薬ではない、むかしからの対マラリア薬、つまりキニーネを入手しなければならない。
その時点では、キニーネの最大供給元はインドネシアであった。
スカルノはナサコム体制を支柱に中ソに接近し、反米政策をかかげ、キニーネの対米輸出を拒否していた。
そのため、スカルノ体制を崩壊させる手段として、アメリカは1965年9月30日事件を画策し、スカルノを解任させる……?

あまりにも、うますぎる、おもしろすぎる話。確証できる資料はないようだ。
9.30事件、キニーネ輸出解禁、ベトナム本格介入、なんてストーリーがほんとにありうるのか……。小説のネタにはなりそうだが。

神吉敬三・箭内健次 訳,『モルガ フィリピン諸島誌』,岩波書店,1966

2009-08-04 21:28:37 | 翻訳史料をよむ
1594年ごろのお話。(p73-82)
めんどくさい方はとばして後の部分へ行ってください。

ブラス・ルイス某というカスティリャ人がカンボジア王ランガラの元、プノンペンに滞在していた。
そのころ、プノンペンにシャム軍の侵攻があり、ランガラ王はラオス王国へ逃れる。
ブラス・ルイス某らはシャム軍に捕らえられ、水路でシャムに送られることになった。
海上でブラス・ルイスらはシナ人(水夫)と共にシャム人を殺し、船を奪取する。
しかし、エスパニャ人とシナ人が分捕り品をめぐって争いになり、エスパニャ人が勝ち、船と積荷をマニラまで持って来る。

一方そのころ、シャムの王は積荷と船を待っていたが、到着が遅れている。シャム軍がカンボジアから連れて帰った捕虜にディエゴ・ベリョソというポルトガル人がいた。
このディエゴ・ベリョソという男は、カンボジア王の使者としてマニラに来たことがある。エスパニアからの援助を求めるカンボジア王の要請は、マニラ総督から良い返事が得られなかった。
ディエゴ・ベリョソは、今度はシャム王の使者として、船と積荷の消息をたずね、エスパニアと友好関係を結ぶためマニラに向かう。

エスパニア王への贈り物を積み込んだ船で、ディエゴ・ベリョソはシャム人臣下と共に出発するが、嵐に遭い、マラッカに到着する。(方向がぜんぜん違うような気がするが……)
そのマラッカで、使者ディエゴは、シャム王の船がエスパニア人に奪取され、マニラにあるという情報を得る。

シャム王の臣下たちはマニラへ行くのはやめようと言い出すが、ディエゴはシャム人たちを無視し、贈り物の象を含む積荷を確保してマニラへ向かう。
ディエゴはマニラで総督に会見し、同行したシャム人が積荷を売ることも可能になったようだ。

そこで、先にカンボジアから船と積荷を分捕って来たブラス・ルイスと会い、協力して、今度は元カンボジア王ランガラを助け、カンボジアに足場を築こうではないか、という話になる。
ドミニコ会修道士の協力も得、総督も了承し、120人ほどの日本人やインディオ(フィリピン諸島の住民のこと)を含む乗組員を組織する。
総督代理(本書の著者モルガ)や陸軍司令官の反対があったが、強引に押し切り、遠征隊は出発する。

1596年初頭である。

この遠征隊も嵐に遭い、シンガポール海峡あたりまで流されるが、ベリョソとブラス・ルイスの船はともかくプノンペンに到着した。
到着してみると、カンボジアではシャム人が追い出され、官人のひとりのアナカパランという者が王の称号を僭称していた。

彼らエスパニア勢の滞在中にシナ人の船がプノンペンに着いた。エスパニア勢は、シナ人勢が気に食わず、シナ人を殺し、船を分捕る。
いろいろな悶着があり、彼らエスパニア人はシナ人勢に協力的なカンボジア僭称王の暴君アナカパランを殺して立ち去る。
暴君が死んだあと、カンボジア人たちは元の王に従うだろうと考え、ラオス王国にいるはずの元カンボジア王の王子を復権させようと企む。(あくまで、エスパニア人から見た記録ですので、実情はどうかわからない。)

ところが、そこで総指揮官とブラス・ルイスらの間で意見の食い違いが生じる。
総指揮官は分捕り品を取り上げ、マニラへ寄港しようとする。
そこで、いろいろ悶着があり、いったんコーチシナまで行くように総指揮官を説得する。

コーチシナの湾に入り(どこだ?順化フエか?)、総指揮官が別件で交渉中にブラス・ルイスとベリョソはトゥンキンの王(広南グエン朝のグエン・ホアンか?)の息子(フクグエン?)を訪問し、ラオス王国へ向かうため道中の庇護を求める。
道中の庇護ともてなしを得た二人はルアン・プラバンへ着く。
そこでラオス王からもてなしを得る。
目当てのカンボジア王の長子・長女はすでに死亡していたが、別の息子のプラウンカルと彼の継母・祖母・伯母たちが生存していた。
ちょうどそのとき、カンボジアの高官連が、新しい王を迎えにラオスに到着した。(話がうますぎる……)

ブラス・ルイスとベリョソは高官らと共に、プラウンカルや一族の女を連れて、カンボジアへ向かって流れる川を下った。(この川がメコン川なら、途中でコーンの滝があって舟行は不可能なはずだが)

……以下略。

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以上のような話がえんえんと続く。(地名などは現代風に改めた。)
『フィリピン諸島誌』なのに、カンボジアやシャム、ラオスの話ばかり続くと不審に思われるだろうが、当時のエスパニア人の関心地域には、日本やカンボジアが重要な位置を占めていた。フィリピンだから、ミンダナオのモロ勢力とばかりケンカしていたわけではないのだ。

ともかく、フェリペ二世の時代のエスパニア人から見ると、こんな事件があったのだ。

本書が記すフィリピン諸島の情勢の中で、もっとも気がかりな外部勢力は、北の太閤様(豊臣秀吉)、その後は南からの新参者オランダ人に移る。
つまり、日本の幕府とVOC幕府に挟まれた未開の地に裏街道(太平洋航路)からやってきたイスパニア人の記録である。上記の時点では、まだVOCは存在しないし、VOCが誕生したころには太閤様の時代は終わる。

裏街道だからこそ、日本人のプレゼンスが目立つのであり、表街道のほうでは、マレー人、シャム人、ジャワ人のプレゼンスが大きく、ポルトガル人も新規参入プレイヤーの一個である。
同様にカンボジアも裏街道というか弱小勢力であったようだ。だからこそ、エスパニア人やポルトガル人が介入する余地があったわけで、アンナンやシャムになると、アドヴァイザーや廷臣という地位になれても大勢を左右する力はまだない。

アユタヤがビルマの一地方政権であった時代(マハータンマラーチャー王1569-90)、カンボジアは計6回アヨードヤの領域に侵攻する。
しかし、ナレースエンがビルマのくびきを脱した後期アユッタヤー(1593-)になると逆にカンボジアへの侵攻を開始した。

というような各地域の王国・王朝もそれぞれ重要ではあるが、イスパニア唯一の拠点マニラにとって最大の懸念は福建商人の存在である。
福建商人がマニラに滞在するからこそ、明の産物をヌエバ・エスパーニャに運ぶガレオン貿易が可能であるのだが、しばしばマニラ政庁にとってやっかいな問題を起す。

そして、その問題処理に関して頭を悩ませたモルガが著したのが本書『フィリピン諸島誌』である。

記述の内容を全面的に信じるわけにはいかないし、他の史料との照合などわたしの手に余るが、ともかくアジアにやってきたイスパニア人の初期の状況を知るには最適である。
トメ・ピレスほど資料的価値は高くないようだが、時系列のストーリーはおもしろい。
聖職者ではなく行政官が実際に見聞した記録としても例外的である。

菅谷成子,「スペイン領フィリピンの成立」,2001

2009-08-03 22:48:55 | 通史はむずかしい
『岩波講座 東南アジア史 3』収録
1565年ウルダネタによる北太平洋経由の帰路発見。これが画期。

マガリャンイスによる太平洋横断も画期的ではあった。
しかし、マガリャンイス隊は、スペイン王国にも東アジアにも東南アジアにも、ほとんど影響を与えなかった。
住民がハシカや天然痘でバタバタ死んでいくことはなかった。言語も地名も残っている。金鉱も銀山も発見されなかった。珍しい香料も産物もない。食糧の余剰もない。

マガリャンイス後も、ブルネイ王国の影響下にある首長たちがわずかな領域をまとめる程度。付近の海を日本人や華人が通り過ぎるだけ。(香木や金などわずかな取引は、日本人や華人との間でおこなわれていた。)

スペイン人もやってこない。帰り道がないから。西側はポルトガル人の領分である。
それが、レガスピ隊の到着、ウルダネタ隊による帰路航路発見によりフィリピン諸島は、一部ではあるけれど、ヌエバ・エスパーニャつまりメキシコと結ばれる。
ペルー領のポトシでは銀鉱の開発が始まっている。

ここで、福建=マニラ=アカプルコを結ぶ太平洋航路が確立する。
マニラ経由の絹製品を太平洋~大西洋とふたつの大洋を経て運んでも、500%の利潤があったそうだ。これぞ海のシルク・ロードてなもんだ。銀を求める明朝側の要求とも一致する。

マニラは福建商人の都市になる。同時に明朝の管理貿易からはずされていた日本人商人もやってくる。

アメリカ大陸のようなエンコミエンダ制は名目ばかりで、農業開発はほとんどない。マニラは食糧も交易品も日常品も労働力も福建(と一部日本や現地)から調達するという、完全な中継貿易都市になった。
マニラ=アカプルコ間の貿易が許されるのはフィリピン在住スペイン市民だけ。ほかのヨーロッパ人はもちろん、フィリピン諸島外のスペイン人の貿易も禁止された。しかも、マニラに入港できるのはアジア商人だけで、ほかのヨーロッパ商人は締め出された。ほとんど日本の鎖国のような状態は、1834年(!)まで続く。

ヌエバ・エスパーニャからの銀の流入は、明~清の経済と社会、東アジア・東南アジアの歴史に巨大な影響を与えることになる。
しかし、フィリピン諸島の社会は、それほど急激な変化・変容はなかったようである。
たしかに、マニラ周辺の首長の反乱、海賊行為などは頻発したが、ラテン・アメリカのような破壊的な影響はなかった。
むしろ、マニラの交易と都市生活に不可欠である華人とスペイン人の衝突が多い。
カトリックの支配も緩やかな変化であり、悪名高い教会支配といったものが生ずるには、スペイン人の数が少なすぎた。むしろ首長層がカトリック化し、カトリックの儀礼や教義が土着化していったと見てよいだろう。
ミンダナオ~スルー海域のムスリムの抵抗もスペイン人が記録するほど強力ではない。

そうではなく、マニラだけが突出し、地方の農業開発や綿製品工業が停滞したことが19世紀・20世紀になると顕在化する、と見てよいようだ。

こうして、スペイン領フィリピンはマニラだけが交易都市になり、ほかの地方はダト(首長)がプリンシパル(有力者)になってカトリック教会が浸透するという形になる。