東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

ウォーレス,『マレー諸島』,その3

2006-03-28 01:06:56 | 自然・生態・風土
ウォーレスの旅行記には、人種にかんする考えが頻繁に登場する。

マレー人やメラネシア人(ウォーレスはパプア人といっているが、この「パプア人」という語は現在では、ニューギニア高地にすむ人々をすめす)の生活を偏見なく観察し、オランダ人・ブギス人・チャイニーズ・ポルトガル系の子孫・ジャワやバリの人々の活動も偏見なくみていたウォーレスであるが、一方、人種という概念を固く信じ、各人種の間に明瞭な差があることを実証しようとする。

遺伝学が成立していない時代であり、考古学による人類の移動もまだわかっていない時代であったから、白人と白人以外の差は当然であり、さらに白人以外の人種にも明確な差があると考えられていた。
悪名高い人種差別が「科学的」に実証されようとしていたのが、この時代なのだ。

ここでちょっと本書の記述からはなれ、人種について軽くレクチャーする。

最初に新大陸やインド、東アジアを見たヨーロッパ人たちには、まだ、人種差別の概念はない。
彼らにとって重要なのは、キリスト教徒であるかイスラム教徒であるか、それともどっとでもない野蛮人であるかだった。
それが時代を経るにしたがって、まず、インディオの差別、アフリカ人の差別が生じてくる。
この場合のインディオというのは、新大陸に住む人々のことであるが、さらに、東アジアやインドに住む(もともとのインディアンだ)人々にも適用される。フィリピン諸島の人々や日本列島の人々もインディオである。
最初、キリスト教徒かイスラム教徒か野蛮人かでわけられていたのが、肌の色や容姿で分けられるようになる。
さらに南北アメリカ・アフリカ・アジアへと見聞を広めるにしたがい、どんどん「人種」の数がふえていった。
19世紀になると、ただ単に野蛮人だ未開人だと差別するのではなく、それぞれの人種において能力や感情が先天的に異なるものと考えられ、それを科学的に実証しようという試みがはじまったわけだ。

悪名高い頭蓋骨の寸法を測ってアタマの大きさを比べ、アタマが大きいのが進歩した人種だというのが、ウォーレスの時代の流行である。
『マレー諸島』巻末にも、マレー人の頭蓋骨計測データがおおまじめで記載されている。
どうして、ウォーレスのように、偏見なくいろんな地域の人々とつきあえる人が、こんなとんでもないことに興味をもつのかと、ふしぎに思う読者もいるだろう。
しかし、こうした矛盾こそ、この『マレー諸島』を読むおもしろさだ。

ウォーレスは昆虫採集人といて、チョウや甲虫の美しさに感動し、それぞれの種の形態を見る目をもっている。
その一方で、昆虫や鳥、そして動物の分布に、なにか法則があるのではないかと、考える。
その結果かんがえだされたのが、ウォーレス線であるが、世界を区分したい、法則をみつけたい、というのは、当時の博物学者の共通の願望だったのだろう。
その結果、「博物学」という古い形態はなくなり、「科学」になるわけであるが、ウォーレスとダーウィンはちょうどその境目の人たちであったわけだ。

ウォーレスは、太平洋に沈んだ大陸(ムー大陸説の元祖)や南アメリカ・オーストラリア・アフリカをむすぶ陸橋(レムリア大陸説の元祖)にも興味を示していた。
今から考えるとばかみたいだが、大陸移動説も同様にばかみたいと思われていたのだ。
さらに、進化論もダーウィンやウォーレス以前にいろんな説がでていたのだが、それらも今日の目からみるとトンデモ理論が多い。
そうした中で、なぜか人種理論は執拗に提唱され、支持されてきた。
これは、つまり、科学をリードしたイングランドや北米、西ヨーロッパにおいて、人種を区別したいという執拗な要求があったためだろう。

現在では、コーカソイド(白人)、モンゴロイド(黄色人)、ネグロイド(黒人)という区別さえ形質的に(DNAからみて)意味ないもの、有意な差がないものとされている。
ちょっと前まで、遠くはなれた遺伝形質だと思われていたニューギニア高地の人々(パプア人)とマレーや東アジアの人々も、それほど遠く離れていないようだ。
また、アフリカ人といっしょくたにされていた黒人も、かなり遺伝的にばらつきがあることが知られている。

とはいうものの、文化的、歴史的な文脈では、コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドという言い方は便利だし、わたしも使います。
チャイニーズ、インド人、ヨーロッパ人、アラブ人という言い方も便利だから使います。
やっぱり、ある程度大雑把ないいかたが必要なんだなあ。

なお、アメリカ合衆国の人口調査における、ヨーロッパ系・アフリカ系・アジア系・アメリカンネイティヴ・パシフィック アイランダーズという区分は独特なものである。
American Census Bureau のサイトに膨大だデータがあって探しにくいが、

www.census.gov/Press-Release/www/2001/raceqandas.html

が簡単な(それでも長い)アンサー集。
調査質問票の原文もadobeファイルで読めるはずだ。

ありゃりゃ、『マレー諸島』の話がおもいっきり脱線してしまった。

山下惣一,『タマネギ畑で涙して』,農文協,1990.

2006-03-27 23:12:46 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
著者は佐賀県で稲作とミカン、野菜栽培を営む。
本書は著者が参加したNGOプログラムでのタイ農村の見聞記。
著者が認めているように、超特急のかけあし旅行である。みのがした点、まちがっている点も多いだろう。

訪れた村は、東北タイではサイナワン村。ウドンターニー県バヤオー村。スク・ソングーン村。
チェンマイ近郊のチュームバン・センブン村とフェイゲオ村。
ちょこっとアユタヤ近辺の田。さいごにラヨーンの豪農。

ふつうこんなかけあし旅行で、むこうのNGOがアレンジした旅行の記録なんてもんはつまらんもんだが、本書はちょっと違う。
著者はしっかり簿記をやって、自分の経営を記録している人で、いく先々で売上高、粗利、純益をたずね、借金の利子をたずねる。
タイの百姓に同情しながらも、経営方針や無謀な借金にかんしては冷静な判断をする。
(そういえば、米の生産高の数字にかんしても、モミ(籾)か玄米か精米かなんてことを書いているのは、はじめて読んだ。経済学者も籾か精米かは知っているのだが、読者に注意を喚起しないんだよな。)

キャッサバ、サトウキビ、タマネギ、ステビア(タイで作られているってことをはじめて知った、この情報だけでもありがたい)など商品作物の現場で、どれくらい純益があるものかをたずねあるく。
村の共有地が土地開発業者に丸ごと買われる、なんて信じがたい話もきく。(著者も信じがたいといっている。しかし事実であるようだ。ただし、こういうことは、いくら長期滞在して調査しても確かめられる性質のものではない。土地取引をめぐる殺人もある、らしい。)

タイ通貨危機の前、土地投機に沸いていた時代のタイのすがたを切り取った旅行記である。だから現在の姿がどうであるのかは、これまたよくわからん。(調べればわかるのだが、めんどくさいなあ)

本書の存在はずいぶん前から知っていたが、読んだのはつい最近。
なぜならば、本書の副題が「タイ農村ふれあい紀行」となっているからだ。
わたしは「ふれあい」とか「やさしさ」といった言葉をみると、自動的にインプットを拒絶するように条件づけられているので、本書の中身もずっと見ないでいた。タイトルで判断してはいけないが、やっぱりこういうタイトルはやめてほしい。

口蔵幸雄,『吹矢と精霊』,東京大学出版会,1996.

2006-03-27 00:00:35 | フィールド・ワーカーたちの物語
伊谷純一郎・大塚柳太郎 編,熱帯林の世界 4

マレーシア、トレンガヌ州、トレンガヌ川上流、クアラブランからさらに奥の保留地に暮らすスマッ・ブリの人々と1年間過ごした著者の記録。

それではこのスマッ・ブリという人たちはどういう人たちかというと……
オラン・アスリという言葉があるが、これはマレーシア政府の公式の民族呼称で、先住民を意味する。
ところが、政府によってオラン・アスリと呼ばれる人々は、均一の民族ではないし、先住民でもない場合がある。
ムラユ・アスリというプロト・マレー系の人々は、マレー人と形質的にほぼ同じ。
一方、セマン、セノイと区分されるグループは、プロト・マレー系より古くからマレー半島に住んでいたとみられる民族で、狩猟採集を生業とするセマンと焼畑農耕を生業とするセノイに分けられる。(彼らもほんとうのところ、先住民かどうかわからない。焼畑も狩猟採集も移動する生活様式だから、厳密に先住かどうかわからないが、少なくとも、この点に関しては、USAのような政治的問題はないようだ。)

著者が滞在し、生活をともにしたグループは、狩猟採集を生業とする、形質的には「ネグリート」と分類されるグループである。
ネグリートというのは、アフリカ大陸住む黒人とは、形質的(いまはやりのことばをつかえばDNAの変異において)にはずっと離れたグループである。
東南アジアにマレー系やプロト・マレー系が移住する以前から住んでいたと考えられている。
狩猟採集を生業とする、といっても、カロリーの全部を狩猟採集によってまかなっているわけではない。(そうしようと思えば可能なようだが)
ラタンの採集による現金収入と賃労働で、米や砂糖や缶詰を買っている。
定住を促進する政府の援助食糧もある。
政府の定住政策で、イモや陸稲の栽培も試みられているが、彼らは、植えたあと、ほっぽりだしていて、もし実っていたらラッキーぐらいにしか思っていない。
食物の狩猟採集に関しては、動物は野生のものだが、植物はマレー人が放棄した村から野生化した栽培植物を採集することも多い。

つまり、まったく農耕民と無縁に暮らすわけではなく、交易と賃労働を通じてマレー人とつきあっている。
ただし、こういうグループは著者が滞在した1978~1979年時点で、ひじょうに少数である。

それでは彼らの生活は……

まず、ものすごく身体能力が高い人たちだ。
山刀以外の道具をほとんどもたず、森の木や籐からあらゆる道具を作る。
調理は鉄の鍋をつかうが、住居も手作り、持ち運べるもの以外は所有していない。
頻繁に移動をする。
移動をするのは狩猟や採集のためでもあるが、その必要がないときでも移動する。

以外なことに、村全体がそろって猟にいく、ということはない。
経済の単位は核家族。
子供は養うが、老親をやしなうことはない。
離婚は頻繁。再婚も頻繁。

猟で得た動物は村全体に分配されるが、これを見て、村全体でたんぱく質が平等に分配されている、と考えてはいけない。
分配されるのは、男たちがとった大きい動物であり、それ以外に魚・小動物は自由に食われている。カロリーのおおきな部分はイモや果実であり、栽培したサツマイモもかなりの比重を占める。
それに、商品であるロタンは個別の収入であり、それを売ってえた米や缶詰は、各家族のものである。

おもしろいことに、このグループにも「ごはん」(マム)と「おかず」(アイ)、「おやつ」という区分があるのだ。
アイ(おかず)はマム(ごはん)を食うためにある。アイだけたべてはいけない。また、アイが少なく、マムだけたべるのは、しょぼい食事と考えられている。
マムとアイがしっかりと規定された食事であるのに対し、各自がかってにくうのが「おやつ」で、いろんなものをかってに食う。
さらにおもしろいのは、こどもがかってに食う食物があることで、ネズミ、コウモリ、サワガニ、小鳥、カワエビなどはこどもたちだけたべる。これらの食物は、正式の食事を調理する火で焼いてはいけない。こどもたちは、カマドの火から別に火をおこしてネズミや小鳥を焼いてたべる。楽しそうですね。

著者はタフな人で、ロタン採集、吹矢猟、ヤマイモ堀、仮小屋つくり、なんでもやる。吹矢はとくにむずかしいらしい。著者は一年間の滞在中、一度も獲物に命中させることはできなかったという。
肝炎らしき病気も村の中でなんとかきりぬける。

こんなハードな生活をいとなむスマッ・ブリの人たちであるが、彼らは、対人関係のストレスに弱い人たちなんだなあ、というのがしみじみわかる。
彼らはマレー人仲買商人に交渉することができない。幸い、政府の保護政策もあり、むちゃくちゃな低賃金や買いたたきはないのだが。
さらに、彼らは、グループ内でも、もめごとを処理するのに、話し合いやケンカをするより、別行動をとることを好む。
さらにさらに、夫婦関係においても、もめごとがおきるとすぐ離婚してしまうようだ。
彼らが頻繁に移動するのは、採集や狩猟に必要という理由ばかりではない。
彼らは、一ヶ所に定住して、ストレスがたまるのがいやなのだ。

ああ、こういうところよくわかるなあ……。
ただし、わたしの身体能力では、スマッ・ブリの人々の生活を続けることはもちろんのこと、著者のようなフィールド・ワーカーとしても暮らすことも不可能なのだが。
本書に描かれたような生活が可能なのは、ごくごく限られたところである。
たいていの狩猟採集民は、彼らの暮らす森から追い出され、仲買商人にだまされ、企業や政府のやとった武装警備員に追い出され、低賃金労働者になるか、飢えて死んでいくことが多い。

本書の記録は1970年代後半まで残っていた奇跡的な生活様式である。

村瀬 敬子, 『冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年』,論創社,2005.

2006-03-25 22:43:03 | 基礎知識とバックグラウンド
本書は奇跡的に高水準。
東南アジアへの興味から、農林水産業、衣食住の本をチェックするようになった。

ところが、これらの分野、わたしはもともと暗いし、頭が痛くなりそうな低水準の本があふれている。
1.まず、著者の文章がめちゃくちゃ。学者流のかたくるしい文体もとっつきにくいが、オヤジギャグをまぶせば親しみやすいとかんちがいしている著者もいて困る。
2.著者がまったく書物と無縁の人もこまる。誰でも知っているようなことを、さも自分がはじめて書くような本があるんですね。
3.気をつけないと、ひも付きの出版である場合がある。著者が所属する組織にしばられるのはある程度しょうがないとしても、本全体がある種の法人の宣伝である場合がある。

こういうワイルドな連中が棲息する分野として、家政学はトップクラスである。
原則として、けちをつけるだけの本は、わたしのブログでは扱わないが、以上のような理由で、なかなか水準以上の本には当たりません。

本書は簡潔ながら、あらゆる方位に留意した、冷蔵庫からみた近代史のようなかんじである。

江戸時代の将軍家への氷献上、明治の文明開化、カキゴオリ・ブッカキの登場、西洋風の食物として導入された精肉・牛乳の保存、ビール・サイダーなどのつめたい飲み物、上流家庭の高級財としての氷冷蔵庫、魚・果物の輸送と保存、衛生思想、輸入学問としての家政学のなかでの食品衛生、軍隊・紡績工場の食料確保のための冷凍、電気冷蔵庫、ガス冷蔵庫(というものがあったのだ)、電気の普及による地方都市への製氷・冷蔵庫の普及、戦時統制による冷蔵庫の製造中止、戦後の占領軍のための製氷・冷蔵庫・冷房、経済成長による一般家庭への普及、戦後の家族イデオロギー、輸入食品のための冷凍技術とコールド・チェーン、家庭向け冷凍食品、学校・工場などの給食、調理済み冷凍食品、ファミレスとコンビニ、家庭団欒イデオロギーの崩壊、海外からの半調理食品……。

参考文献も適切で、冷蔵庫にかんする歴史が概観できる。
上のまとめたことからわかるように、東南アジアと共通する点(文明開化、アメリカ軍の影響)、東南アジアからの食品輸入の前提としての冷凍技術など、留意すべきトピックがたくさん。

ウェブ上をみると、明治期キリスト教にかんするページで本書の紹介あり。
そうか、冷蔵庫・製氷の開発者はキリスト教徒であった。

四手井綱英,『日本の森林』,中公新書,1974.

2006-03-24 22:17:49 | 基礎知識とバックグラウンド
1911年生の著者は京都大学卒業後、秋田営林局に就職する。
戦時応召をはさんで、1952年まで秋田の営林局で暮らしていたことになるようだ。

著者は現在熱帯雨林やマングローブの研究をしている学者たちにとって、先生の先生、はるか昔の偉い先生という立場の人であろう。
そんな人物が秋田で造林、防災の技術者として勤務していたのだ。

本書は1974年の刊行であるが、たぶんそれほど売れなかったと思う。
1999年に復刻版発行(もとの新書と同じスタイル、復刻版といえるのか?)
収録された文が書かれたのは、おおむね1950年代後期から60年代前半。

内容は……
ようするに、元の森林をつぶして、単一の造成林にするな、ということである。

著者が在職中にこの動きが進行したようで、その結果、ナラ林も照葉樹林もきえていった。スギやヒノキの原生林もきえた。

以上、要約おわり。
あらためて読む必要ありません。

森林学研究者は、スギの斉一林を森とはいわない。スギ・プランテーションという。
別に奇をてらったいいかたではない。
自然の植生を伐採し、均一な商品作物だけ植えることを、プランテーションというのだ。
秋田の森林はプランテーション化されたのである。
それでも、その作物が商品価値を持つものなら、まだいい。
スギは、ほとんど商品価値のない作物なのだ。
多少のスギ製品もある。
経木とかハリマサ。
しらない?
経木ってのは、スギの木をうすくはがした包装材のこと。昔は菓子やみやげ物を包むのに使われていたが、発泡スチロールの普及で、超高級品以外には使われなくなった。
ハリマサってのは、熱帯産木材(ラワン、フィリピン語)にスギを薄く削いだものをはりつけもの。
表面だけスギの木目をみせた化粧板である。つまり、スギは輸入熱帯林なしには、商品化できない役立たずである。
よく知ってるだろう。
わたしの育ったところでは常識だったんだよ。サマリンダみたいな町で育ったもんでね。
その上流が現在世界遺産になってる白神山地だった。
ここは、いうなればアポ・カヤンみたいなとこか。
上流の地域で木を切って、下流に流し加工するわけだが、白神山地はアクセスが困難で、木が切られないまま、人件費が高い時代になり、そのまま残ったわけだ。

こんなところに京都の大学をでて赴任した著者は、ちょうど今熱帯雨林やモンスーン林に行く日本の研究者みたいなもんだったのかなあ?
のんびりした秋田できままに山歩きをたのしんだんだろうか?
それとも現地のひととのギャップに悩んだのだろうか?

ともかく、著者が1950年代から提言したことは、ムダになった。
どこもかしこもスギのプランテーションだ。
建築材として役立たないばかりでなく、炭にも薪にも不適切だし、山菜もキノコもとれない。(しってた?)
観光用にするにしても、あの暑苦しいスギ・プランテーションはトレッキングしても退屈だし、昆虫採集するにも虫もいないのだ。(しってた?)

このような山にしてしまったのが、われわれ日本人だ。
こんなわれわれの言葉を東南アジアの人々は聞き入れるだろうか?
木を切らないで森を残してください!
森がなくなる時が東南アジアが消える時です!

説得力ないなあ……

2007/03/25追加

以上、かなり乱雑に書いたので、以下、訂正を。

高橋 敬一,『昆虫にとってコンビニとは何か?』,朝日新聞社,2006
によれば、スギ・プランテーションにも昆虫はちゃんといる。
いるどころか、人間社会に重大な影響をあたえているそうだ。

井上栄,『感染症』,中公新書,2006
によれば、スギは桶の材料として欠くことができない資源であって、スギがあることによって、江戸時代の糞尿リサイクルが可能になったのだそうだ。
(ということは、桶のほかの用途、水桶や醸造用としても貴重だったのか。)
ともかく、江戸時代のエコ・サイクルをほかの地域、ほかの気候と比べても無意味なのだ。

松本脩作, 大岩川嫩,『第三世界の姓名』,明石書店、1994.

2006-03-24 00:15:33 | 基礎知識とバックグラウンド
執筆メンバーはアジア経済研究所のスタッフ。
出版社は人権や差別問題を得意とする明石書店。
そして、書名が『第三世界の姓名』となれば、みなさん敬遠してしまうんじゃあないでしょうか?

ところが、内容は、あらゆるなまえの話題をもりこんだ、軽い本です。
爆笑のトリビア知識もいっぱいで、なまえに関する愉快な話題なんて巷に流布する情報はこの本をネタにしてるんじゃないかってほど。

現地で研究する学者と資料を整理する司書が執筆しているので、現場の問題に即した事実がわかります。
ちょうどこの本が刊行されたとき、夫婦別姓の問題がメディアでとりあげられていたが、この本を読めば、「外国では……」なんて気軽に口にできなくなるであろう。
それほど世界の姓と名は多様なのだ。
まず、姓というか家のなまえというか、そういうものが、いろいろある。
宗教によって異なる場合、国家の制度で異なる場合、そして、実際の生活でどう使われているかが、それぞれ違い、制度と現実はズレている。

そして、東南アジアに興味をもつものにとってたすかるのは、東南アジア地域のなまえが一番スペースも情報量も多いことだ。

各国家の事情が簡単に紹介されているし、華人系のまなえ、アラブ系のなまえ、インド系のなまえが解説されている。
それから、ポルトガル系とスペイン系のなまえが解説されているのが役にたつ。
ラテン系の冠詞がつく長ったらしい姓がどういう構造をもつのかやっとわかった(すぐ忘れたけど)
それに、ペルーの元大統領の本名が、なぜアルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリなんて珍妙ななまえなのか理由がわかった。

アフリカ系のなまえについては項目が少なく、おまけ程度。

リード,商業の時代の東南アジア,その3

2006-03-23 23:22:00 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
リードは、東南アジアは当時、もっとも識字率の高い地域だったという、意外な見解をしめす。(ただし、日本はここ1000年くらい、ずっと世界中で識字率トップをほこっている、きわめて例外的な地域である。リード先生も日本のことは忘れていない。)

ではその識字率とはどんなものだったか?
文字はアラビア文字でも漢字でもなく、インド系の文字を改変した独自の文字体系である。
文字は、ジャワ、マレー地域ばかりでなく、フィリピン諸島も持っていた。
そして、宗教的教育機関や官僚養成組織で教えられるものではなく、こどもの遊びのなかで、あるいは年長の兄弟姉妹から、あるいは母親から伝えられるものだった。
このような文字は、ラヴ・フィーリングを歌った詩歌・手紙を書くために使われた!

ほんとかよ?
源氏物語の世界だ。
源氏物語は貴族の間のおはなしだが、この東南アジアの例は一般民衆の話であるようだ。

識字率は一般に、公的機関より、兄弟姉妹間、あそびなかまの間で効果的に伝えられる、という説は正しいようだ。
女子の識字率の高さが次の世代に伝えるれる、という説は正しいようだ。
また、公的機関や宗教機関による識字教育は、男子に限定されることが多く、全体の識字率をあげるのに障害になる。(もしくは、全体の識字率を上げないで、限定された層にだけ識字能力を独占させる。)
植民地時代(20世紀のはじめごろ)の識字率調査は、不十分であり、ローマ字など、政府の使用する文字による学校教育を調査したにすぎない。
歴史的にみて、ヨーロッパやイスラム世界より、商業の時代の東南アジアは識字率が高かった。

ふ~む。説得力ある。
東南アジアの人々にとっては力強い励ましだろう。
事実、東南アジアは、世界的にみて、現在も識字率は高い(北の超先進国をのぞいて)。
しかし。
ラヴ・レターを書くための識字力というのは、たしかにすばらしい。

しかし、それが、世界をみる視点、自己と異なる者を理解する視点を提供できるか?
ひらたくいえば、ヨーロッパ勢力とタメをはれるか?

日本は明治以来、ヨーロッパ勢力に対抗するため、学校教育をすすめ、新しい語彙をつくりだし、西洋の文物を理解できる文章体系をつくりだした。
それとともに失ったものもあるようだ。
もはや、われわれは、母語でラヴ・ソングはうたえない。
識字率を高めるために、国語を統一し、異性にたいするあこがれとか、スケベな気持を表現するのが、すんごくむずかしくなったぜえ、ベイビイ!

もっとも、リード先生はそんなことばかりでなく、女性が交易に占める役割がおおきかったことも、識字率を高める要素としている。
日本人に識字率の高さ、ビルマ人の識字率の高さも同様な理由ではないだろうか?


リード,商業の時代の東南アジア その2

2006-03-22 17:56:31 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
スパイスについて。
ヨーロッパ人がスパイスをもとめて遠く東インド、つまり東南アジア、現在のインドネシアまでやってきた理由について、いまだに以下のように考えている人がいるようだ。

ヨーロッパでは冬季、家畜を飼えないので、秋に大量に家畜を屠る。
その肉を保存するためスパイスが必要だった。
そんなふうに学校で習った人はいませんか?

ちょっと考えてみればわかるように、スパイスはものすごく高価な商品であった。
一般の民衆が冬のあいだ食う肉に使えるような代物ではない。
スパイスをもとめた貴族・金持ちなら、冬の間も新鮮な肉を食えたはずである。
家畜の全部殺してしまうわけではないのだから、金持ちが食う分くらいは残っている。
一方、一般民衆が肉を保存するには塩を使えばいいわけで、いくらスパイスを使っても腐った肉は食えない。

スパイスはもっぱら、マジカルな効果をもつ、高価な異国の産物として、珍重されたのである。
味がいいとか、消毒効果があるというのは、後からつけた屁理屈である。
このように、実用的意味はないが、金持ちが贅沢な暮らしをみせびらかすために使用されるモノを、むずかしい言葉で「威信財」という。

そんなもののために、危険をおかして航海するのか?と疑問をもつ人もいるだろうが、遠距離交易というのは、そんなものを扱うのである。
生活必需品を何万キロも遠いところから運んだりはしない。

綿布について

一方、東南アジア、とりわけ香料や香木を産するインドネシア東部の人々がもとめたのはインド産の綿布である。
これも、実は「威信財」なのだ。
商業の時代どころか19世紀ごろまで、この地域の人々はほぼハダカで暮らしていた。
別に例外的ではないよ。われわれ日本列島の住民も19世紀あたりまでほぼハダカで暮らしていたのだ。
ほんとだってば。広重の東海道五十三次の版画なんかみても、みんなハダカで生活してますよ。
明治初期に日本に来たヨーロッパ人も日本人はほぼハダカで暮らしていたと書いている。
キモノなんか着ていたのは、遊女と武士くらいだよ。

同様に、東南アジアの人々もラージャや富裕な商人が衣服をつけていたようだ。
それが、じょじょに一般民衆にひろがっていくのである。
当時の東南アジアの王や貴人が、ポルトガル風のチュニックやジャケットを珍妙に着こなしているのを当時の旅行者がおもしろおかしく描写している。
イスラームやキリスト教が人々にハダカは野蛮で猥褻だという観念をうえつける。

このように、それまで必要でなかったモノを、それを持たない人々が欲求するようにすることが、市場開拓というものなのだ。
(うーむ、パソコンなんて、そんなもんだよな)

こうして、東南アジアに外から輸入される商品として、綿布が最重要品目になる。
東南アジアでも、綿の栽培、綿布の織物はあったが、綿は顕著な乾季を必要とする植物だから、東南アジア域内の生産は限られていた。
綿布を織る技術もやはりインドにはかなわないうえ、やはり、みんな舶来品を欲しがるのである。

東南アジア域内で流通する米・塩・その他の食料は、遠距離貿易で運ぶことはできない。
木材は豊富だが、これも遠距離で運べるものではない。
そうなると、東南アジアから外へ売るものはあるが、外から東南アジアへ売るものとしては綿布、それに絹ぐらいしかない。
そういうわけで、インド綿布、チャイナ絹布は、取引相手が誰であろうと(アラビア人であろうと、ヨーロッパ人であろうと)、東南アジアにもちこむ商品となる。

ここで重要な経済の潤滑剤となるのが、貴金属である。
この商業の時代は、ペルー銀と日本銀の生産が頂点に達した時期なのである。
二つの方向からくる銀は結局、明朝の中に吸収されたようだが、ダイレクトに中国大陸に向かったわけではなく、さまざま交換をへて、明朝の経済を活性化する貨幣となったようだ。
こうしてみると、ヨーロッパ人(メキシコやペルーをへてやって来たスペイン人をのぞいて)には、手持ちの商品がないのだ。
熱帯の産物である香料・香木・珍奇な産物はほしいが、繊維製品はなく、冶金技術も低く、陶業もない。

同様に技術水準が低かった日本は、銀の大産地という、特権的な地位を占めていたのだ。
日本は、スパイスや香木はさほど輸入せず、もっぱら、ファッション・グッズを輸入していたようで、チャイニーズ・シルクやインディアン・コットンとともに、鹿皮や鮫皮を輸入している。
鹿皮や鮫皮は男性用ファッション・グッズです。(くれぐれも実用品と思わないように!)

そこで、ヨーロッパ人がもっぱらこの地域(南アジアから東アジアにかけて)でやったのは、中継貿易、つまり、東南アジアの産物を日本に運ぶとか、インドの産物を東南アジアに運ぶ、というやりかたである。
海千山千の連中のなかで、ほそぼそと活動していたのが新参のヨーロッパ人であるが、やがてこの経験が、新しい支配技術に結びつくのである。

以上おおまかに、商業の時代の様相をのべたが、この時代まだ、茶・砂糖・コーヒーというその後の重要産物は登場していない。
(砂糖はすでに日本に、貴重な薬品として輸入されていたのだが)

東南アジア大陸部山地でうまれたチャ、マレー半島もしくはニューギニア低地あたりを起源とするサトウキビ、アラビア生まれのコーヒー、そして湿った温帯で育つケシが、世界を動かすのは次の時代である。

アンソニー・リード,商業の時代の東南アジア その1

2006-03-22 00:19:26 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
読んだのは、
Anthony Reid, Southeast Asia in the Age of Commerce 1450-1680: The Lands Below the Winds, Yale Univ Pr,Reprint 1990.

80年代の東南アジア史で最大のヒット(桜井由躬雄のことば)、もはや古典的名著の地位をしめる、アンソニー・リードの著作、全2冊。

これまでの東南アジア史観を180度ひっくりかえし、この時代、1450年から1600年代中期までを、世界中で一番交易がさかえ、都市文化が興隆したのが東南アジアだった!ととらえた1冊。

歴史学の手法、つまり文献から過去をとらえる方法のほか、生態学・民族学・考古学・人口論・農業・疫学・建築などあらゆる方法をとりこんでいる。
また、歴史研究プロパーでは原資料を読むのが基本だが、著者は(英語が母語、東南アジアの文献で読めるのはマレー語だけ)あらゆる翻訳を利用し、年代記・旅行記・外交文書・伝説・法律書・宗教書・政府や商館の公文書を紹介する。

われらが石井米雄先生が英訳した琉球王国の史料『歴代宝案』も第2冊で引用されているぞ。
マレー語やタイ語、ビルマ語の年代記や碑文、王宮の記録、ポルトガル・スペイン・オランダ・フランス・イングランドなどヨーロッパ人の記録、アラビア語・漢文からヨーロッパ語に訳した文献から次から次へと、あっとおどろく話を披露する。

それでは、第1巻で描かれる東南アジアとは……。

生水を飲み、水浴をする野蛮な習慣は、豊かな水資源にめぐまれた土地の習慣として描かれる。
米と魚と果実を主体とした食事は、バランスとれた健康的食事と評価される。
また、ベーテル・チュウイング(シリ、パーン、きんま)やヤシ酒、砂糖、肉食なども、ゆたかな日常文化としてとらえられる。
粗末な木と竹の住居は、衛生的で建替えの容易な消費財とみる。
大酒飲みとみられた飲酒や宴会は、ひとびとの交流の場であった。
こどもを大事に育て、男児と女児を区別しない価値は肯定的にみられる。
野蛮な風習とみられた刺青や身体変形はおしゃれと美容としてとらえられる。
みだらな性とみられた離婚の多さは、女性の主体性の結果とされる。
不安定な主従関係と権力基盤は、平等で相互報酬的人間関係として評価される。
ネガティヴにとらえられたギャンブルや遊戯は、高度な文化とらえなおされる。
闘鶏のようなギャンブルばかりでなく、凧揚げ、タックロー(蹴鞠のようなもの)、象試合、ボートレース、ダンス、楽器、うたあそび、影絵芝居など、すべて独自の文化として評価される。

人口動態、疫病、身体障害、乳児死亡率などのデータからみても、東南アジアは安定的な衛生的な地域だったとみる。

また、環境に適応した農耕や漁労はもちろんのこと、金属精錬、金属加工、武器製作、航海術においても、けっしてインド・ヨーロッパ・チャイナに劣るものではなかった。(ただし!綿織物、絹織物にかんしては、インドとチャイナの製品にたちうちできなかった、この点は第2冊で述べられる)

こうしたゆたかな自然環境、物質文化にささえられ、隣接する大人口地域(つまりインドとチャイナ)が生産しない珍奇な産物が自生することにより、ユーラシア全土から商人をひきつけたのが東南アジアであった。
それを可能にしたのがコスモポリタン都市、宗教的寛容、商人の自治、後背地の提供する食料……ということが第2冊のテーマになる。

すごいでしょ。
ヨーロッパ以前に商業化と都市化を達成したのが東南アジアである!

著者はオーストラリア国立大学教授、この著書のあとカリフォルニア大学に引っこ抜かれたようです。
専門家には、東南アジアの主従関係・奴隷・隷属と支配関係を論じた論文がすでに有名だったようだが、本書でより広い読者をえたようである。
大学生むけに、こ~んなにいろんな史料があるんだぞお、と教育する(脅かす?)教科書的な要素もあるが、とにかく、次から次へおもしろい話をとりだすリード先生の講談をきいているような本である。
内容自体は大学生向けというより、中学生でも理解できる内容である。

こんな見方が可能になったのも、ヨーロッパの発達史観、つまり、古代社会から封建制社会、そして絶対君主制からブルジョワの時代、そして産業革命をへて現代の民主主義・市場経済の時代へ進むという歴史観がぐらついてきたからじゃないでしょうか?

著者はフランスのアナール学派、ブローデルの影響を明らかににしているが、最初に引用されるのが熱帯雨林の生態論であるのが象徴しているように、環境問題、人口問題、女性問題が影響しているとおもわれる。
また、健康・エンターテインメント・ダンス・音楽のみかたが変化したのも、本書の主張をうけいれる条件をつくったとおもうが、どうでしょうか?

著者がイントロで書いているように、ヨーロッパの学者はこの時期を停滞した暗黒の時代としてとらえ(この本では、有名なフランスの学者、ジョルジュ・セデスはまったく引用されていない、時代がちがうから引用する必要ないんだろうけど)、東南アジアを文明化したのはヨーロッパ人だと吹聴していた。

一方、東南アジアの歴史家たちは、現在の悲惨な状態をヨーロッパ人のせいにし、東南アジアの過去を肯定的にみる態度と方法論をうしなっていた。
それに対し、著者は、東南アジアにはこ~んなに豊かな文化・制度・人間関係があったのだよ、とよびかけているのだ。

日本の研究者を含め、みんなびっくりし、くやしがったであろう業績である。

坪内良博,『マレー農村の20年』,その2

2006-03-20 23:06:00 | フィールド・ワーカーたちの物語
その1で要約した調査をみて、ほんとにこんな調査が可能なのかふしぎにおもう人がいたら、その疑問はただしい。

本書のような農村調査は、ごくかぎられた地域のごくかぎられた時代にのみ可能な奇跡のような調査だ。

著者のような調査研究者が日本の農村にやってきたと想像してみるといい。
結婚や離婚のような質問に正直に答えるとはおもえない。
収入についての調査はもっと困難だ。
年貢や税金をのがれるため隠し田をもっているなんて、現在の農村では考えられないけれど、大地主と小作の関係であったなら、小作料や労働供与が正直に申告されるだろうか?
あるいは、村全体が政府に禁じられている生業をしている場合、いくら外国人の研究者にでも正直にしゃべるわけにはいかないだろう。
さらに、東南アジアでは、ゲリラに対する税金、軍隊に対する賄賂、盗賊にたいする用心棒代(これらは区別がつかない場合が多い)をとられる村もある。こうした経費がおおっぴらにできるわけはない。
非合法の商売による収入(たとえば、日本だったら呪術による医療行為は非合法)、人にいえない職業をしている家族からの仕送りも申告できないだろう。

こうしてみると、研究者が自由に調査できた地域はかぎられる。
中華人民共和国やインドで収入調査はできないのだ。
この開拓村はそうした意味で、ひじょうにあけっぴろげで、住民の間の格差が少なく、税金も少なく、宗教関係機関への支出も公開できるものだった。
タイやマレーシアに研究対象が集中したのも、こんな開放的な人間関係に起因するのではないだろうか。

相互監視し、ねたみとやっかみが蔓延する日本の農村からみると、実にのびのびしているようにみえる。
また、水資源の管理をめぐるムラの掟はないし、村人どうしの水争いもない。
男系長子相続ではなく、男女平等相続を基本にした個人財産を基盤とした、核家族制度は日本人が"欧米風"としてうらやんだ制度である。(実際は欧米風とは異なる点がおおい。欧米も一様ではない。)

開放的でルースな個人主義の農村は、人口が少ない開拓社会だからこそ成立した、というのが研究者の共通した理解だ。

そして、現金収入の方法がない村では、出稼ぎと臨時雇用が現金収入の道となる。
常時雇用賃金労働者にたいする憧れも農民の間に浸透する。こどもを教師にすることが農民の夢になる。そして90年代、それを可能にした村人もいる。
教師以外の常時賃金労働者は医療関係労働者、軍隊勤務者などで、90年代になると、この種の賃金労働者が夫婦別居になって、孫が祖父母を暮らすといった家族形態が出現している。
もはや、このガロック集落も近くの町に勤める給与所得者の住宅が建つようになる。それだけ、インフラや道路が整備されたのだ。

読み慣れない純学術書をざっと読んだわたしの感想をのべる。

まず、農民といっても、自由にうごきまわる人々である。
一生土地にしばられ、自給自足とう農民イメージは、どの時代、どの地域でも幻想にすぎないのだが、マレーの開拓社会では特に動きまわる要素がおおきい。
そして、出稼ぎ・離婚・夫婦別居・祖父母と孫の同居・出戻り娘との同居といった一見ネガティヴにとらえられがちな家族形態も、そんなに異常なことではない。
むしろ、近代化が無理して抑圧したきたもので、このような家族形態も昔からあったものなのだ。

収入が多様で、季節ごとにかわり、景気や市場の動向で変化していくのも、都市にかぎったことではなく、むしろ農村の特徴なのだ。
農民は安定した賃金収入を望むけれども、それは官僚・軍隊のような組織に勤務することになる。
そして、住宅地という、以前想像もできなかった形態が生じることになる。
そんなわけで、いろいろ参考になりました。

なお、このような開拓地の農村というパターンはマレー半島ばかりでなく、タイでもボルネオやスマトラでもみられるパターンである。
それぞれ宗教や生業の違いはあるが、小人口の開拓村ということでは共通するものがあるそうだ。