東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

井上章一,『伊勢神宮 魅惑の日本建築』,講談社,2009

2010-01-19 21:30:35 | フィクション・ファンタジー
著者の本領を発揮した力作で書き下ろし。じっくり読んだ。じっくり読みすぎて、終わりのほうになったら最初のほうを忘れるくらいであったのだが……(『ライラの冒険』と平行して読んだし)

『伊勢神宮 魅惑の日本建築』というタイトルはウソである。井上章一さんが「魅惑の日本建築」などを語るわけがない。いつもどおりの学会の馴れ合いあばきであり、学説の虚構が生まれる過程を追及したもの。

こまかい話は省いて、最後の部分、考古学と建築学の共犯的な遺跡復元について。

本書を読む以前から、わたしは、ちゃーんと疑問を持っていたことがある。信じてくれ。
疑問を感じていたものの、きっと、なにか確固とした史料か専門的な裏づけがあって、学会や学術誌で発表されているんだろう……と思っていた。調べるのがめんどくさいし、日本の考古学の本はあんまり読む気もないし……。

わたしの疑問はなにかというと、弥生時代の遺跡で発掘された建造物遺構をもとに、その時代の建物が復元される事業、というかイヴェントがたくさんあるでしょう。その復元であるが、なぜ、壁や床や屋根があることがわかるのか?
柱のようなものが立っていたことは、その掘立の跡から推測できるかもしれない。しかし、屋根や床や壁のある建物であることや、ましてやその形や構造がどうしてわかるのか?

結論からいうと……(p471)

根拠なし!

なんだ、そうだったのか。はやく言ってくれよ。

本書はそれをはやく言わずに、18世紀から江戸時代末期、明治、20世紀前半、中期、後半と時代を追って、じっくりじっくり、しつこく検証していく。
著者独特のしつこい繰り返しを嫌う読者もいるだろうが、わたしはファンなのでこの文体が好きである。

本書の最後は、大阪府の和泉市・泉大津市にまたがる池上曾根遺跡(いけがみそねいせき)の復元について。

建築史の宮本長二郎(みやもと・ながじろう)、浅川滋男(あさかわ・しげお)が異なった復元案を立てる。
宮本長二郎は、伊勢神宮の社殿をおもわせる神明造(しんめいづくり)をヒントにした復元案。
一方、宮本案が工法上の難点があること、宮本が奈良文化財研究所から移転したことにより、後輩格の浅川が新しい案を出す。
浅川案は、インドネシアやオセアニアの住居建築をヒントに南方的な復元プランとした。
それに対し、奈良文化財研究所の金関恕(かなせき・ひろし)がイチャモンともいえるような異論を出したことなど、細かい経緯も述べられている。(ちっとも雲南風じゃないのに、浅川案を雲南の民家風などと言って……。オセアニアも雲南も南方とひとくくりするのかいな!?)

さらに、どんでん返しの話もあるのだが(笑った!)未読の方のために書かない。

ようするに、考古学者は遺跡復元を建築家の領分として責任のがれをする。そうしておきながら、建築家の自由な創作をいつのまにか、既成の事実にすりかえてしまう。

一方で、建築家は考古学や民族学の成果を参考にするものの、つまみぐい的な応用であって、学問的に根拠があるものではない。

本書は、伊勢神宮の神明造がどう捉えられてきたか、建築史学や民族学がどう論じてきたかを通観したものである。その中で、著者がかなり強い筆致で非難するのが建築学会のなれあいである。
しかし、わたしはむしろ考古学の方面のなれあいというか、事実無視というか、そっちのほうが気になる。

*********

どこの学問世界にも派閥や閉鎖的な要素がある。それはある程度しょうがない。しかし、日本国内の考古学はちょっとおかしいと思わざるをえないことが多すぎるのではないか。
この日本考古学トンデモの理由は、本書では論じられていないが、容易に見当がつく。ようするに、国や地方自治体のカネが大きく動くからだ。
地味に文献を跋渉したりフィールドを歩くよりも、穴を掘ってなんか宝物に当たれば、メディアも騒ぐし予算もつくのだ。さらに、テーマパークや学習館を建てるプランは、関連企業が大喜びするだろう。

こうした考古学学界・業界の暴走に対し、まじめな学者は、君子危うきに近よらず、のスタンスだと思う。
それゆえ、本書の著者・井上章一さんの蛮勇(?)には敬意を表すものである。

建築史家のなかでは例外的に、岡田精司(おかだ・せいじ)という方が、弥生の神殿説に異議をとなえているそうだ。

「神殿」論者たちは、これだけ大きなものは、「神殿」以外に考えられないと公言し、また若い研究者のうちからも同様の声があがっている。しかし、万葉にも記紀にも、明確に社殿(本殿)と思われる記述はない。だから、律令国家の神祇制がととのう以前に神社の社殿はありえない。

このように冷静に論じている。

**********

なお、本書全体の構成では、最終部分の遺跡復元の前に、第4章第5章で、戦前・戦後の海外調査と日本古代建築論の関係が論じられる。
つまり、本書の三分の一ほどは、東南アジアやオセアニアの民族調査と神社建築論の関係である。なので、鳥居龍蔵など海外、おっと「海外」ではあるが必ずしも「外国」ではないな、その海外調査などに興味がある方にはおすすめ。

あと、本書の中で論じられる人物のなかで鳥越憲三郎という人物がいるが、この人、まじめな学会からは完全に無視されているようですが、やはりトンデモ系なんでしょうか。あるいは、沖縄や「おもろそうし」関係の研究に、なにかヤバイところがあったのだろうか?自分で調べればよいのだが、どうも、よくわからん。

井上章一,『キリスト教と日本人』,講談社現代新書,2001

2009-12-27 22:31:58 | フィクション・ファンタジー
伊東忠太の法隆寺エンタシス説、などなど明治期の脱亜論のブームの中で生まれた、日本にもむかしむかしからヨーロッパ的なものがあったんだ、キリスト教だって伝わっていたんだ、という論議をおもしろくおかしく分析したもの。

というより、トンデモ系まで含めて、江戸時代からの「きりしたんは邪教」から「憧れのヨーロッパ文明」という流れを追ったもの。マジメなキリスト教研究が目をそむけていた低俗な迷信から日猷同祖論まで俎上にのせる。

空海がネストリウス派キリスト教に接触していた←フィクションとして楽しむにはよいが、確定できる史料はない。
厩戸王子伝説は、キリスト生誕伝説の伝播
大塩平八郎はキリシタンだった!
キリスト教は仏教を改竄したものだ!
宗門檀那請合之掟←偽書であることが学問的に確定している
平田篤胤の本教外篇←キリスト教のパクリというのが定説。
佐伯好郎の広隆寺=キリスト教会説(太秦論)←ほとんど笑い話として楽しまれているが、根強い本気派も残存している。

というような話題。

前項の久米邦武「神道は祭天の古俗」にも江戸時代の巷説が残っているとみる。つまり、キリスト教は仏教の分派であるとか、仏教の訛である、といった江戸時代の風説に通じる要素がある、と捉える。(久米邦武自身はのちに、自説の飛躍を反省している。)

高野山の大秦景教流行中国碑レプリカ
この話は知らなかった。
こういう怪しげな話題になると、ウェブ上にいっぱい情報がありますね。

あとがきの「おわりに」にも笑った。
ソニー・ロリンズの「セント・トーマス」を聴きつつ……とあるが、そういえば、あれも南蛮渡来だ……

岩尾龍太郎,『ロビンソン変形譚小史』,みすず書房,2000

2009-11-19 23:38:06 | フィクション・ファンタジー
一気に読む。
ポストコロニアルやら文学理論の本てのは、実に読みにくいものが多いなか、本書は実に明晰で簡潔でわかりやすい。

第二期の到来を告げるのがルソー『エミール』。
著者・岩尾によれば、ルソーは確信犯的に誤読したのだが、たちまちその誤読が正当な読み方とされ、ロビンソン物語は無数のこども向けの変形を生みだす。
もっとも、ルソーの主張は、あらかじめ無謀でむちゃくちゃであり、誤解されるのも当然とも考えられる。

第三期の冒険物語の時代、19世紀、は数々の傑作が生まれた時代。国民と核家族と自由市場経済を前提とし、個人のサバイバルを描く。
この段階で、元祖「ロビンソン・クルーソー」を合理的経済人とみる解釈が定着したわけだ。
そこで無意識に前提とされたのは、無主の孤島、所有者のいない場所が地球上に存在するという虚構である。これを指摘したのがマルクスとエンゲルスであるそうだ。
なお、『宝島』は、主流ではなく冒険小説をはみだす作品であった、という指摘。すでにパロディとメタ文学の要素を含んでいるのだそうだ。

R・M・ヴァランタイン,『珊瑚島』,1857 重要作。
『蠅の王』の元本として読まれるだけ?

ヴェルヌの諸作がこの時代の重要作であり、さらに変形を生みだすこととなる。
日本語訳タイトル『十五少年漂流記』は、森田思軒『十五少年』を踏襲したものだが、わたしが今までぜんぜん気にしなかった事実が指摘されている。
原題は『二年間の休暇』であり『十五少年』という訳題は日本だけのものである。森田思軒が内容を読んで、登場人物を数えたのである。しかし、これは黒人水夫もひとりに数えた森田思軒のミスである。実際この作品で〈少年〉とみなされるのは、将来〈国民〉となることが期待される若年者であって、黒人水夫は将来とも〈国民〉になる可能性はない。明治日本の西洋文化受容史における特筆すべき誤解である。ほんとは『十四白人少年漂流記』なのに、人種差別抗議の意味をこめて『十五少年』にしたわけ、ではない。

第四期の幕開けを告げる作品が『ピーター・パン』。
そうか!

リン・L・メリル,『博物学のロマンス』,国文社,2004

2009-03-14 20:55:53 | フィクション・ファンタジー
大橋洋一・照屋由佳・原田祐貨 訳
原書 Lynn L. Merril, "The Romance of Victorian Natural History", 1989

参考文献にあげられている
リン・バーバー,高山宏 訳,『博物学の黄金時代』,1995,国書刊行会
D.E.アレン, 阿部治 訳,『ナチュラリストの誕生』,1990,平凡社

以上の2冊も内容・翻訳がすばらしいが、本書も内容・翻訳ともにすばらしい。
値段も上記の本同様に高いが。

内容もいいが、索引と文献リストもいい。
すべて原綴り、発行年が明記されている。ちょっと前まで、こんな文献表は専門家でないかぎり意味がなかったが、ここにきて、Google Book Search のおかげで、ほとんどの19世紀文献が読めて、見られるようになった。つまり、テキストも画像もタダで手にはいる。その気になれば印刷もできる。

なんという世の中だ。
ちなみに、本書のタイトルの由来となった
Philip Henry Gosse " Romance of Natural History "
をNACSIS Webcat で検索すると日本全国の大学・研究所で所蔵が確認されるのは2か所だけである。
悪名高い "Omphalos" にしても、リプリント版が5か所のみ。
進化論論争の本に必ずでてくる『オンパロス』(英語読みで「アムファラス」と表記される場合もあり)が日本全国で五つか。
もちろん、翻訳なんかない。

悪名高いと書いたが、このフィリップ・ゴスという人物は博物学の分野の著作が多数あり、影響も絶大な人物であった。それが、トンデモ進化論を書いたため、後の世ではほとんど無視されてしまったわけ。

本書は、19世紀の文学・美術の流れの中に、博物学を正当に位置づけようとしたもの。
経済史、植民地経営の面でも博物学は重要なテーマであるが、本書は文学・美術や大衆文化方面に話題をしぼる。

と、硬いことをいうまでもなく、ばつぐんにおもしろい。リン・バーバーや荒俣宏の本と同じくらいおもしろい。

*****

Google Book Search に関してはちょっと見当ちがいの反応があるのではないか。
著作権うんぬんに関しては、現在執筆中の著者に関してはあまり影響はないでしょう。あったとしても、著者にとってプラスの要素も多いだろう。

本当に恐ろしいのは、上記のような英語圏の文献が大量に世界中で読めるようになったこと。
これこそ、知の不均衡である。
そして、このわたしのように、さっそく喜んで使うバカがいるのである。
しかし、このわたしのような態度こそ、規制できなしコントロールできないものなのでしょう。

これに対抗するには、日本であれ中国であれ、ちゃんと過去のテキストをウェブにあげればいいのだ。しかし経費が膨大で政府も民間企業もやってくれない。(現在、スニップ・ヴューができるのは、もともと電子化データがある最近のものだけ。)

*****

関連する話として、
佐藤卓己,「メディア史の可能性」,『図書』2009年3月号所収
がある。
これは、岩波書店が刊行中の『占領期雑誌資料大系』にかんしてのエッセーだが、そのなかで、佐藤卓己は、日本の図書館・資料館には、プランゲ文庫に所蔵されているような資料が決定的に不足していると述べている。
覆刻・復刊された左翼系機関紙に比べ、右翼団体や新宗教関連の雑誌の所蔵先を確認することは難しい、と述べている。つまり、所蔵されていないってことだ。
日本で発行された文献がこのありさまなのである。

どうするニッポン?
海外で日本を研究する者が、日本ではなくアメリカ合衆国に行くようになったらどうするのだ。
日本政府も日本文献をどんどん電子化しないと、鎖国状態になるぞ。


池内了,『疑似科学入門』,岩波新書,2008

2009-03-14 20:34:46 | フィクション・ファンタジー
このテーマの本はかなり読んでいるが、疑似科学を撲滅するという目的から読めば、本書も完全に無力である。
だいたい、疑似科学にひっかかる人は岩波新書なんて読まない。
本書を手にとる人の大部分は、自分は大丈夫、しかし他人が疑似科学を信じたり広めたりするのは不愉快、という立場だろう。

しかし、本書の中で著者も吐露しているように、いくら軽蔑しても批判しても、疑似科学を悪用した商売や犯罪はなくなるものではない。われわれは、疑似科学と共存していかなくてはならない。これが人間社会で生きることだ。

そもそも、擬似科学を使って他人を騙すことは悪いことなのか。また、騙されることは愚かなことなのか。
このへん、それこそ本物の科学の立場で論じてもらいたいのだが、人間の行動(本能とか進化という言葉を使いたいが、それを使うとそれこそ疑似科学になってしまう。)に本質的に付随するものではないか?

本書の中で、インターネットの普及により疑似科学が広まるとする分析がある。
ブログも批判されている。この部分、「検証しないで一方的に断じることができ、他人を意識せずに自己陶酔に浸ることもできる」(p104)という指摘は、まったくそのとおりであって、耳が痛い。
ただ、印刷メディアでも放送でもなんでもそうだが、新しいメディアの普及はいっそう迷信や独断をひろめるものではないでしょうか。インターネットだけが、疑似科学や迷信を広めているわけではない。

と、いうより、マスメディアや通信技術が発達すればするほど、トンデモもオカルトも興隆するのではないでしょうか。

前項、インディアスにおける新大陸のインディオとヨーロッパ人の遭遇をみると、妄想やオカルトを拡大したのが、文字をもち、印刷や通信の技術があるヨーロッパ
側である。
その妄想・オカルトから後の自然科学も生まれたのであって、上澄みである科学だけをすくいとって、その土台である、一攫千金を夢見る物欲、他人を指導したがる征服欲、オカルトから自分探しまでの精神世界、などなどをなくすことは不可能であると思う。

末広鉄腸,『南洋の大波瀾』,1891(明治24年)

2009-02-20 19:03:56 | フィクション・ファンタジー
まずテキストは『明治文学全集 6 明治政治小説(二)』,筑摩書房,から
奥付に編者名はないが、柳田泉の解説と編集。

底本は明治24年初版。総ルビの一部を省く。
それから書名だが、国会図書館の近代デジタルライブラリーでは『南洋之大波瀾』となっているが、画像データで表紙をみると、〈之〉ではなく、漢字の〈乃〉をくずした〈の〉である。

よって、本書明治文学全集での表記が正しいだろう。
ああ、めんどくさい!

ちなみに近代デジタルライブラリーの画像なんて、とても読めたもんじゃない。こういうものを、しっかりと電子データにおこして全文検索可能にするのが、グローバリゼーションに対抗するってことではないのでしょうか。
さらにちなみに、筑摩書房の明治文学全集は、記念碑的な全巻索引が完成している。人力でやったのだろう。

*****

やっとなかみにはいる。
以下、ストーリーをばらすが、ばらして文句がくるような内容でないでしょう。

文章は読みやすい。とくにルビがいっぱいなので、漢字が苦手な読者としてありがたい。
それで、シロウトの勘でいうと、この種の小説がこの時代で可能になったのも、講談や読本の下地があったからではないのか。
会話の文体など明治維新からの20年そこそこで発明できるものではなく、やはり江戸時代からの蓄積のうえになりたっているのだろう。
さらに挿絵もちゃんと日本的伝統のうえに改良されたもので、今見ても不自然ではない。

途中まで読んでいって、どうもへんだなと思い解題を読む。
最初から読んで、これは当時つまり明治20年代のフィリピン、マニラ中心であるが、そこに移住した日本人を中心にした話だとおもっていた。前提知識がなければ、だれだってそう思うだろう。
ところが、登場人物の名は日本風であるが、すべてフィリピン人およびイスパニア人である。主要登場人物に日本人はなし。

ホセ・リサールをモデルにしたフィリピン独立闘争がテーマである。

つまり、中心人物の多加山、阿清などすべてフィリピン生まれのフィリピン人である。
しかし、情景描写、人物描写、すべて和風であって、とても海外を舞台にした話とは思えない。
度量衡も貨幣単位も日本のもの、太守・飛脚船・下男・番頭などが登場し、いつの時代の話だとツッコミたくなる。
こんな小説がゆるされた時代なんですね。まあ、現代の小説であっても、海外を舞台にした話でにたようなものがいっぱいあるだろうが。

ストーリーはスペインからの独立を計画する主人公らが、最後に独立を達成するという話。
スペイン政府と旧教(カトリックのこと)が完全に悪役であり、なぜかイギリス人は協力的である。
最後に独立するのだが、中心人物、多加山・阿清が日本人の子孫であり、日本の保護領となってめでたしめでたしとなる。
この日本人の子孫であったという事情が、作者にとって異常に重要なことであり、系図だの先祖の宝刀についてまじめに考察される。
そして、その結果、まったく当然のように日本にシンパシーを抱き、フィリピンを日本の領土にすることを天皇に上奏し、議会の承認を得る。

あれれ、と思うが、この点が政治小説の政治小説たるところだろう。

フィリピンに領土的野心を抱く勢力としてドイツとイギリスが考慮されているが、アメリカはまったく眼中にない。そして当時の認識ではむりもないだろうが、華人系住民のことはまったく考えられていない。

こんな小説である。

対外政策、海外進出にかんすることは別にしても、現代の読者にとって、ストーリーがあまりにもご都合主義である。とうていありえない偶然が三回も四回もあって、話の進行はほとんど偶然に左右されているのだから。

『明治文学全集 6 明治政治小説集(二)』,筑摩書房,1967

2009-02-20 19:00:06 | フィクション・ファンタジー
以下、柳田泉の解説にそって、政治小説とはなにかを解説する。すでに政治小説について知っている方は退屈であろうが、しばしがまんしてくれ。

まず、明治10年代、自由民権運動、国会開設要求の主張をひろめる小説として出発する。
この民権運動というのは、てっとりばやくいうと、薩摩・長州政権に対する旧幕府側や東北列藩のまきかえしである。賊軍側、あるいは庶民のうらみと不満を代弁したものだ。

さて、明治20年代、国会が開設されても、事態はまったくかわらない。あいかわらず政府と政党がけんかしているばかり。日本は欧米資本の市場となり、不平等条約は改正されず、列強の猛威のなか国の存亡はいかに、という状態がつづく。

この時期になり政治小説とくくられる小説は、欧米列強への反撃、反植民地主義、日本の独立、海外雄飛などを論ずる小説となる。

さらに明治30年代、19世紀の末から日露戦争にかけて、題材や主張が多様になる。
柳田泉が紹介するところによれば、政治家の腐敗や政界のスキャンダルをえがいた暴露小説、後のプロレタリア文学につづく社会主義小説、女性参政権や社会進出を描く女権小説も政治小説の流れに位置するそうだ。

いまから見ると、どうしてこんなバラバラなものが政治小説と一括されるのかふしぎだが、社会の矛盾をあばき、未来への提言をし、欧米列強への反撃をアジる、など当時の政治主張をごった煮的にもりこんだものが政治小説なのである。

さて、実際のテーマ、ストーリーをみると、こんなものがある。
東洋奇人『世界列國之行末』 明治20年

世界は七つの強国に分断され、その最強のものはアメリカとロシア。
ロシアは中国を併せ、上海から日本攻撃の指揮をとる。
日本は陸上・海上とも破れ、アメリカに助けを乞う。
アメリカは革命党を裏からあやつり、ロシアに内乱を起させる。
その結果ヨーロッパ全土が同盟し、アメリカと日本を助ける。

この例など、まだまだおとなしい話でまとまっている部類なのだそうだ。

架空戦記、ユートピア小説、海外立志伝、南洋冒険小説などの原型が誕生した。
さらに、村井弦斎の家庭小説に代表される社会改良小説、山田長政を主人公にした歴史小説、〈ジンギスカンは源義経だった〉系の擬似歴史トンデモ系、沈没したと思われた帝国海軍戦艦が実は世界平和をまもるため……、という『沈黙の艦隊』の原型みたいなもの、みんなこの時期に登場している。

そして、中国や朝鮮と連帯しようというアジア主義、逆に中国などを征服しようという北進論、共産主義やアナーキズム、ユートピア論、人道主義、対ロシア防衛論、南洋開拓論、などなどさまざまな思潮とむすびついて多様化する。

えーとつまり、
横田順彌『日本SFこてん古典』や小熊英二『単一民族神話の起源』に書いてあるようなハチャメチャ系がこの時代にどっと出てきたわけだ。

その代表が本巻収録の末広鉄腸であり、東海散士である。
以下、末広鉄腸の『南洋の大波瀾』を紹介。

井上章一,『日本に古代はあったのか』,角川書店,2008

2009-02-16 21:28:46 | フィクション・ファンタジー
まったくわかりやすい、おもしろい文章を書く著者だ。
p70,71 より

マルクス主義史学の歴史家に、お国自慢の意識があったとは、思いにくい。日本にも、昔は奴隷がいたんだぞ。少々定義はあいまいだけどな、人民はその大半が奴隷だったんだ。どうだ、すごいだろう。まいったか。日本にも古代はあったんだからな、見くびるなよ。と、そう彼らが考えていたわけではないだろう。

日本も罪ぶかい国でした。一見、本格的な奴隷はなさそうですが、じつはいたんです。たとえば、班田農民というかっこうで、なりをひそめていました。すみません、日本にもあのいまわしい古代をへてきていたんですよ。

これは、日本にも西洋のような奴隷制があったかどうかという、戦後歴史学界のもんちゃくを軽くいなした部分であるが、ちょっと前まではまじめに論じられていたのだ。

なぜ奴隷制、農奴制がこれほど大きな問題になったかというと、マルクス主義では労働力の調達のちがいが時代をわける画期となっており、だから奴隷制と農奴制の区別は古代と中世を区別する指標して重要である、というわけである。

だから日本での論議は、地中海地域の奴隷を北方ヨーロッパの農奴制と比べ(この段階で、比較が可能かという疑問があるのだが)、さらにそれを東方の島国日本の状況にあてはめようとする。(さらに、近代の南北アメリカでの奴隷制をいっしょくたに論じるめちゃくちゃな話もあったが、さすがにまともな歴史家にはそんな混乱はない。)

このテーマに関しては、決着がついているだろう。
オリーブやブドウやコムギをつくる地中海の農法と、オオムギやソバを植えてブタを飼う北方の農法を比べてもしょうがない。さらに、乾季がない日本列島の農耕にあてはめても意味ない。
さらに、班田というのは、商品作物であるコメをつくるプランテーションですよね?
あれは、労働力が不足している時代にムリヤリ労働力を集中させて商品作物を作るという発想から生まれたものですよね?(違うのか??)
プランテーションと小規模焼畑農耕が混在する地域で、プランテーションだけ見ても全体は描けない。

本書の大テーマである時代区分論、つまり、古代と中世の境目はどこか、中世と近世の境目はどこか、という問題も、現在ではもう、論じるのは意味ないから止めようという趨勢になっていると思いますが、どうなんですか。

もちろん、著者の企図としては、歴史学者の仲間うちでけで了解していてズルイじゃないか。教科書にはまだ、日本の古代なんて分け方になっているのに。一般人には教えないのか、という抗議がある。
そういうシロウトの素朴な疑問をしっかりと追及して、わかりやすい文章で論じたという意味で、著者の熱意に感服する。

*****

いちばんおもしろく、わたしの関心にはまったのは、ゲルマン民族のローマ帝国への侵入を、東国の武士の畿内への侵入になぞらえてとらえた歴史観。
本書によれば、これは京都大学の史学科にはじまる。

初代国史科教授であった原勝郎『日本中世史』(1906、現在、平凡社東洋文庫,1969で読める)である。

ゲルマニアを東国にたとえ、軟弱な文明に毒されていない素朴で質実な勢力ととらえる。
一方、京都をローマにたとえ、爛熟して活力のない女々しい世界ととらえる。

こういった、ゲルマン=東国、ローマ=京都、というつなぎかたがおかしい以前に、地中海からゲルマニアに広がる西洋を日本列島の一部に縮小してあてはめてしまうのがヘンなのである。

国史科が、広大なユーラシア西部の動きをせまい日本列島におしこめた一方、東洋史科では、ユーラシア西部の動きを東ユーラシア全体と共通する社会の変動としてとらえた。
内藤湖南にはじまる発想であり、宮崎市定にひきつがれる。ならば、そのユーラシア全体の時代区分を日本にも適用するのが本筋であろう。
だから、卑弥呼の時代にはすでに中世である。というのが本書を貫く主張である。

著者は原勝郎は南部藩出身の東北人であり、京の都に劣等感をもつ関東史観をひろめた研究者ととらえる。
ここが本書のおもしろいところだが、著者は研究者の出身地、出身校から関東派をあぶりだして、アンチ京都派ととらえる。
うーむ。
しかし!井上さん、内藤湖南も南部藩出身ですけど。現在では秋田県になっている十和田(鹿角市になってしまった)の出身だが、南部藩士の息子ですよ。

でも、こういうところも含め、著者の下世話な分析は好きですよ。

平泉澄と石母田正に共通する京都蔑視をあばいたところなど、最高におもしろい。

*****

一点、ひっかかることろ。

本書は全体として、史書や研究書、一般向け啓蒙書を扱っている。
しかし、ひとりだけ、著者が直接問いかけた人物がいる。
梅棹忠夫だ。

『文明の生態史観』によれば、封建制度(フューダリズム)は日本とヨーロッパのみに存在した特殊な歴史過程である。そして、梅棹は武士の台頭によって、日本に封建制が生まれたととらえた。(そうだっけ?詳しい中身忘れた)
その点について、著者・井上は直接梅棹忠夫にたずねる。

――京都には、いわゆる封建領主がいなかったと、お考えですが。
「そう考えています。京都は町人の街だった。封建制のしくみは、京都におよんでいない。」
――梅棹先生は、封建制が日本の近代化につながったとお考えですよね。そうすると、京都は日本の近代化と関係がなかったことになってしまいますが。
「基本的には、無関係です。京都は日本の近代になど、すこしも貢献しなかった。近代化からは浮きあがっていた街だと言ってもいいでしょう」

これを、著者・井上は、梅棹が京都を否定的にとらえている発言だとしている。

ええ?!

その場の口調や雰囲気はわからないが、文字どおりにみれば、京都を否定するどころか、ほこりをもって肯定しているのではないですか??

梅棹にとって近代化とは、進歩や啓蒙ではなく、ひとつの文化(文明といってもよいが、梅棹は西ヨーロッパやアメリカを文明とは言わないだろう)のタイプにすぎないのでは。
その近代化なんぞにかかわらなかった京都こそは、独自の別のタイプの文化(これは、確実に普遍的文明ではない、狭い地域の文化だ)をもっているのだ、と言いたかったのでは。

武田雅哉, 『楊貴妃になりたかった男たち 』,講談社,2007

2009-01-08 22:20:02 | フィクション・ファンタジー
つぎつぎと、あっと驚く視点の本を発表する武田雅哉。
本書は漢民族の異性装を扱ったものだが、内容は詳しく紹介するまでもないでしょう。読む人はすでに読んでいるでしょうし。

〈オンナのような格好をする男や奇妙な外国のマネをする女が増えるのは、世の乱れる前兆〉というものの言い方は、大昔からあったのだ、と納得。

さらに、男=女、という区別が、士大夫=庶民・の区別、漢=胡の区別、と複雑にからみあって意識されていた、ということ。

服飾に関しては、少なくとも書籍に発表されるようなレベルでは、まったく読むに耐えないような低水準のものが多くて、食文化や建築に比べると、格段につまらない。
これは服飾に関する本を書いている著者たちが、文化人類学や経済学を知らず、農耕・牧畜などの生業に無関心で、宗教や統治に無知で、近々数十年のスパンでしか想像力が働かないからだ。なぜ、衣服に関する著作がおもしろくないのか、ということ自体が文化人類学やカルチャル・スタディーズのテーマになりそうなもんだ。

本書がある種の突破口になりますように!

*****
本書の内容に関係するが、本書に書かれていない、長年の疑問がある。
それは何かというと、漢民族はむかしむかしから、男女別々の服装をしていたのか?という疑問だ。
メラネシアやポリネシアでさえ男女の身につけるものには、その社会の中で明瞭な差異があったのだから、漢民族の衣服・装飾に男女別があるのは当然と想像される。
しかし、実際にどの程度の差があったのか、よくわからん。

闇の子供たち,2008,日本映画

2008-12-10 19:42:54 | フィクション・ファンタジー
おそろしくつまらない、臭い演技をみせつけられる映画じゃないかと予想し、怖いもの見たさで見たが、それほどひどい映画ではない。安心して見てください。
とくにタイでのロケ・シーンがちゃんとタイで撮影されているし(あたりまえか?)、俳優もタイ語をしゃべっているし、室内シーンのプロダクション・デザインや路上のシーンもまっとうである。これが、アメリカ映画だったら、タイ人に英語をしゃべらせるだろう。それを避けただけでもみごと。(ただ、新聞記者ってタイ語しゃべるのかな?)
全体的に、これ、どこの国?というような変テコなシーンはないと思います(タイ通の方はどう思ったかな?)

というわけで、基本的なところはクリアしているので、登場人物の臭い過去のトラウマやラスト近くの銃撃シーン(いくらなんでも、こんなことが……)など無視すれば、普通に見られる。

で、前項、前々項に続くが、日本人というのは、タイのダークな面、危ない面をことさら覗き見したいらしく、そういう覗き趣味、怖いもの見たさを満足させるという意味では、この映画もまっとうな観光映画。『エマニエル夫人』や『ザ・ビーチ』の延長線にある。
高級リゾートやビーチと並んで、ボランティアや少数民族も観光の目玉である。金さえ出せば、ボランティア活動でも映画撮影でも幼児買春でもなんでもOK、寛容な国なのだ。

10年か15年くらい前からだろうか、バンコクの買春・麻薬・犯罪をことさら強調する旅行記や滞在記が増えたが、一冊や二冊なら、はは、おもしろい、と思うが、こんなのばっかり目にすると飽きる。
しかも、タイなんか行ったことがない人が本気にしているんだから困る。

一方、ボランティア活動と称するツアーもしっかり定着したようで、以前だったら民族衣装を着てダンスを踊っていたかわりに、貧しいスラムの住民を演じて観光客を喜ばせるアトラクションもあるようだ。

まあ、なんでもありがタイ旅行。今年の正月はキャンセルが出て、まだツアーに空きがあるようですから、いかがですか。もっとも、世界中で同じようなことを考えているバカンス客がいっぱいいて、ボランティア・ツアーに行ったら、同じような外国人ボランティアばかりってな事態もありそうですが。