東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

中村とうよう 死去

2011-07-22 17:27:39 | その他;雑文やメモ

自殺だそうだ。うーん。ショックといえばショックだが、とうようさんらしいと言えば言えなくもないな。あの人は、完全に宗教を否定していた理性の人だから、天国にも地獄にもいかず、ニルヴァーナにも至らず、もちろん冥土で迷うこともなく、たんなる物質として自然界に還元されるであろう。

 

とうようさんについては、影響を受けた人がそれこそ万単位でいるだろうが、インターネット上には、あんまりきちんと反映されてないみたいだ。活字や(そういえば、ミュージック・マガジンは、かなり遅れてオフセットに移行した雑誌だった)雑誌やラジオという、20世紀特有のメディアに慣れ親しんだ老人層が影響を受けた人物なんだろうね。わたしもそのひとりであるが。

そして、とうようさんが紹介し、アジり、ひろめたポピュラー・ミュージックも、20世紀特有のメディアにのった文化だったのだ。

とうようさんが、自嘲気味に、あるいは悲観的に、あるいは挑発的に書いた、〈ポピュラー・ミュージックは21世紀に滅びる〉という予言も、10年、20年前は「そりゃ、とうようさん、あんたが好きな音楽がなくなるだけでしょ?」と思ったりもしたが、ジャンルや形式に関係なく、〈ポピュラー・ミュージック〉という枠組み自体が滅びるような気がする。

われわれ、とうようさんより20歳ぐらい下の世代の幸運は、中村とうようという知性を日本に持ったこと。不幸は、中村ようとうに匹敵する音楽を語る知性が、中村ようとう以外いなかったことだ。

中村とうようがほんとうに好きだった音楽は、知的な想像力を必要とする音楽でもなく、中産階級の消費財ではない。文化人類学的な知的好奇心を刺激する音楽でもない。

そうではなく、港町の半失業者や、プランテーションの半失業者や、あやしげな商売女やピンプや麻薬中毒の低学歴失業者が、ありあまるほど暇で欲求不満の日常に聞く娯楽音楽だった。

しかし、その魅力を、日本に住む若者に伝えるには、知的な語り、歴史的バックグラウンドを語る必要があったのだと思う。

そこに、彼・中村とうようのいらだちがあったと思う。

音楽はブテッィクで買ってくるようなもんじゃないんだ!スノッブな半可通のものじゃないんだ!と叫んでも、若いもんたち(つまりわれわれの世代)は、やはり知的好奇心を刺激するもの、あさはかなファッションにもひかれるのである。

そして、日本の音楽ジャーナリズムの中で、孤高の存在であり続けた。もうひとりやふたり、中村とうようクラスの論者がいればよかったけれど。知性を持った人たちは、大衆音楽を聞くような暇はないのだろうね。

***

あらゆる方面で論争をした人であるが、じっさいは温厚であるという話もある。じっさいに見たことがないので、ほんとうのところはわからないが、湯川れい子さんや亀渕昭信さんのような、音楽の趣味ではあんまり接点なないような人でも、現実生活では、けっこうつきあっていたようである。ジャズファンの間で悪名高いスイングジャーナル元編集長の岩浪洋三氏などとも会えば話ぐらいするあいだがらだったようだ。

数々の論争やケンカの中で、わたしが記憶しているものに次のようなことがある。

ちょうどサルサがニュー・ミュージック・マガジンでプッシュされていたころの話だ。

イラストレイターの河村要助さんや『ザ・ブルース』周辺の人たちが、ニューヨーク・ラテンの世界を描いたドキュメンタリー映画『アウア・ラテン・シング』をさかんに評価した。この映画こそ、アメリカ合衆国に暮らすラテン系の生活を活写したものだ、というふうに持ち上げた。

それに対し中村とうようは、以下のように、へそ曲がりな論評をした。

アメリアに住むカリブ海やラテン文化圏からの移民の生活感情、リアルな心情なんてものは、おれは、レコードを聴いただけでわかった。

音楽の力こそが、彼らの生活・心情・アメリカ合衆国に住む現実を如実に表現しているではないか。

映像の力に頼る必要はない。おれが音楽評論という仕事をしているのも、音楽こそが民衆の感情・生活感覚をいちばん確かに伝えるものだからだ。『アウア・ラテン・シング』を見て、ラテン・ピープルの実態がわかったなんていうのは、音楽から何を聴いていたんだ?

というような調子だったと思う。記憶さだかでないが。

こういう具合に、なんにでもいちゃもんつけていたけれど、やはり正しかったのだよね。

いや、それにしても、何でもおれが一番最初だったんだ!というような、ある種パンクな意地を張る人だったねえ。そこが好きだったんだけど。

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北中正和さんあたりが、伝記を書いてほしいね。中村とうようと敵対もせず、腰巾着でもなく、ちゃんとした文章を書ける人は、北中さんぐらいしかいないだろうな。

出版社は平凡社だな。