一気に読む。
ポストコロニアルやら文学理論の本てのは、実に読みにくいものが多いなか、本書は実に明晰で簡潔でわかりやすい。
第二期の到来を告げるのがルソー『エミール』。
著者・岩尾によれば、ルソーは確信犯的に誤読したのだが、たちまちその誤読が正当な読み方とされ、ロビンソン物語は無数のこども向けの変形を生みだす。
もっとも、ルソーの主張は、あらかじめ無謀でむちゃくちゃであり、誤解されるのも当然とも考えられる。
第三期の冒険物語の時代、19世紀、は数々の傑作が生まれた時代。国民と核家族と自由市場経済を前提とし、個人のサバイバルを描く。
この段階で、元祖「ロビンソン・クルーソー」を合理的経済人とみる解釈が定着したわけだ。
そこで無意識に前提とされたのは、無主の孤島、所有者のいない場所が地球上に存在するという虚構である。これを指摘したのがマルクスとエンゲルスであるそうだ。
なお、『宝島』は、主流ではなく冒険小説をはみだす作品であった、という指摘。すでにパロディとメタ文学の要素を含んでいるのだそうだ。
R・M・ヴァランタイン,『珊瑚島』,1857 重要作。
『蠅の王』の元本として読まれるだけ?
ヴェルヌの諸作がこの時代の重要作であり、さらに変形を生みだすこととなる。
日本語訳タイトル『十五少年漂流記』は、森田思軒『十五少年』を踏襲したものだが、わたしが今までぜんぜん気にしなかった事実が指摘されている。
原題は『二年間の休暇』であり『十五少年』という訳題は日本だけのものである。森田思軒が内容を読んで、登場人物を数えたのである。しかし、これは黒人水夫もひとりに数えた森田思軒のミスである。実際この作品で〈少年〉とみなされるのは、将来〈国民〉となることが期待される若年者であって、黒人水夫は将来とも〈国民〉になる可能性はない。明治日本の西洋文化受容史における特筆すべき誤解である。ほんとは『十四白人少年漂流記』なのに、人種差別抗議の意味をこめて『十五少年』にしたわけ、ではない。
第四期の幕開けを告げる作品が『ピーター・パン』。
そうか!
ポストコロニアルやら文学理論の本てのは、実に読みにくいものが多いなか、本書は実に明晰で簡潔でわかりやすい。
第二期の到来を告げるのがルソー『エミール』。
著者・岩尾によれば、ルソーは確信犯的に誤読したのだが、たちまちその誤読が正当な読み方とされ、ロビンソン物語は無数のこども向けの変形を生みだす。
もっとも、ルソーの主張は、あらかじめ無謀でむちゃくちゃであり、誤解されるのも当然とも考えられる。
第三期の冒険物語の時代、19世紀、は数々の傑作が生まれた時代。国民と核家族と自由市場経済を前提とし、個人のサバイバルを描く。
この段階で、元祖「ロビンソン・クルーソー」を合理的経済人とみる解釈が定着したわけだ。
そこで無意識に前提とされたのは、無主の孤島、所有者のいない場所が地球上に存在するという虚構である。これを指摘したのがマルクスとエンゲルスであるそうだ。
なお、『宝島』は、主流ではなく冒険小説をはみだす作品であった、という指摘。すでにパロディとメタ文学の要素を含んでいるのだそうだ。
R・M・ヴァランタイン,『珊瑚島』,1857 重要作。
『蠅の王』の元本として読まれるだけ?
ヴェルヌの諸作がこの時代の重要作であり、さらに変形を生みだすこととなる。
日本語訳タイトル『十五少年漂流記』は、森田思軒『十五少年』を踏襲したものだが、わたしが今までぜんぜん気にしなかった事実が指摘されている。
原題は『二年間の休暇』であり『十五少年』という訳題は日本だけのものである。森田思軒が内容を読んで、登場人物を数えたのである。しかし、これは黒人水夫もひとりに数えた森田思軒のミスである。実際この作品で〈少年〉とみなされるのは、将来〈国民〉となることが期待される若年者であって、黒人水夫は将来とも〈国民〉になる可能性はない。明治日本の西洋文化受容史における特筆すべき誤解である。ほんとは『十四白人少年漂流記』なのに、人種差別抗議の意味をこめて『十五少年』にしたわけ、ではない。
第四期の幕開けを告げる作品が『ピーター・パン』。
そうか!