東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

冨田昌宏,『お札の博物館』,双葉社,1999

2008-11-13 18:36:09 | 基礎知識とバックグラウンド
前項と同じ著者による、前項と同じような雑学本。
だたし、内容に重複はほとんどない。たとえば……

1979年からアフガニスタンに派遣されたソ連軍兵士が使用した〈VPTチェック〉。

ベトナムに派遣されたタイ軍、韓国軍が米軍施設で使用したクーポンはグアムの米海軍印刷所で印刷された。

グリーンランドは長くデンマークの殖民地であったが(つまり、領土ではない。現在は自治政府)、その時代にグリーンランド発行の紙幣があった。

ボルネオ島のサバでもサラワクでも独自の紙幣が発行されていたが、この紙幣は漢字とアラビア文字が並存した珍しい例(英語が主である)。全世界的に漢字が使用される紙幣は減ってきており、日本と中国、中華民国とシンガポールぐらいになった。

などなど、貨幣単位の十進法化の話、独自の通貨を持たない国家、紙幣製造ビジネス、偽札防止技術、紙幣の肖像画や動物、雑多な話題がてんこもり。

しかし、前著と本書を読んで、やっぱりなにか体系的な本、地域を限定したもの(たとえば旧大英帝国とか旧ソ連とか)が欲しい。
トリビア知識がいっぱいで楽しいのだが。

冨田昌宏,『紙幣の博物誌』,ちくま新書,1996

2008-11-12 20:15:08 | 基礎知識とバックグラウンド
信じてもれないだろうが、つい1か月ほど前まで、USAドルの新札が1996年以来発行されているという事実をしらなかった……!
さらに、香港では三種類の通貨が発行され流通しているということを知らなかった……!

というわけで本書、経済学でいう貨幣ではなく、具体的なお札・紙幣に関する雑学的な本である。

著者は外務省で各国領事館勤務を勤めた方、本書は紙幣に関するあらゆる話題をもりこんだ雑学本。
あらゆる話題、というのは、紙幣の材質、印刷、デザイン、肖像、使用される言語、額面、通貨の単位などなど。

こうしてみると、日本の紙幣はダントツに精巧で重厚なデザインである。
USAドルのスカスカのデザインは例外的であるが、他の世界の紙幣と比べて異様に精巧。香港のオモチャのような札を見た目には美術品のような重厚な感じがする。

日本の紙幣に印刷される肖像は現在、福沢諭吉・樋口一葉・野口英世(それに2000円札は紫式部だったな)というニュートラルな文化人・学者であるが、これも世界中からみると異例である。

世界の大部分では、独立の英雄、元首、伝説上の人物が多いのである。(まあ、以前の聖徳太子というのも伝説上の人物みたいなもんでしょうが、GHQにより許可された、紙幣に印刷できる人物だったんだそうだ。)
ただ、明治以来、元首(天皇)を紙幣に印刷しない、というのも変わった方針であったのだ。現役の元首を札に印刷している国はたくさんある。(死亡したら、紙幣デザインを替えるのであろうか?)

また、紙幣に使用される言語。
インドの紙幣が13個の言語を使用している、という逸話は有名だが、複数言語を使用した紙幣はけっして例外的ではない。
シンガポールも香港も複数の言語を使用している。(マレーシアがマレーシア語のみ!)
漢字を使用する紙幣は、いまや日本・中華人民共和国・中華民国、それに香港とシンガポールのみになった、そうだ。

以上、雑学的な知識いっぱいで楽しいが、ある地域の紙幣についての網羅的あるいは専門的な情報はない。
旧ソ連の各地域の紙幣にいかなりのページが費やされている以外は断片的な記述。
「東南アジアの紙幣」「東アジアの紙幣」というような本が欲しい。

それにしても、切手やコインを収集するマニアは多いのに、紙幣を収集するマニアはいないのか?
紙幣を集めたら、それは趣味ではなく、単なる〈貯金〉になってしまうから?
しかし、本書を読むと、各国の威信をかけて印刷した紙幣は美術品のような価値があるように思える。さらに、本書に書かれているように、インフレで紙幣価値が暴落したら、ほぼタダで入手できる場合があり、そういう紙幣ほど後々希少価値が生まれると思うのだが。(カンボジアの紙幣なんか、お土産として売られているし、日本の軍票もお土産だ。)

そんなわけで、外国に旅行したら、そこの紙幣をじっくり味わいましょう。

中牧弘允,『カレンダーから世界をみる』,白水社,2008

2008-11-11 19:05:33 | 基礎知識とバックグラウンド
前項とちょっと関連して、本書の中にオランダのピザ・レストランが宣伝につくったカレンダーが紹介されている。
それには三種類の祝日が載っている。キリスト教と国家的祝日・ヒンドゥーの祝日・イスラームの祝日である。さすが多民族共存の国。しかし……なぜか12月6日の「セント・ニコラスの日」が載っていない。
「セント・ニコラスの日」というのは、サンタクロースの原型となった祝日で、オランダでも定着しているのだが。まさか、セント・ニコラスが現在のトルコ共和国の生まれで、トルコ人を敬遠するためではないでしょうが……。

という具合にカレンダーに関する雑多な話題をもりこんだ、このテーマの入門に最適な一冊である。

カレンダー関連の本はたくさんあって、アジア関連だけでも本書の読書ガイドでも紹介されている

岡田芳朗,『アジアの暦』,大修館書店,2002
『「こよみ」と「くらし」』,アジア経済研究所,1987

などあるが、最初の一冊として本書が最適でしょう。
グレゴリア暦からはじめて、太陰暦太陽暦、世界各地の宗教と国家の祝日、一年の始まり、七曜や五曜などのサイクル、年号や紀元、干支、二十四季節、などなど豊富。(なお、天文学的な話は最小限だけ)

著者は宗教人類学とブラジル研究を専門とする方で、本書も〈伝統的・正統的〉な祝日や行事ばかりでなく、移民の祝日、近代国家のでっちあげた起源や伝説、多民族社会の行事など、いろいろな視点から紹介している。
有名なバリ島のなんでもかんでも載せたカレンダーも紹介されている。(もっとも、あのバリ暦というのはそうとうややこしいらしく、専門論文をちらっと見たことがあるが、ややこしくてわたしには読解不能だった。)

二十四季節に「梅雨」がない。あれは黄河流域の季節を反映したもの、という指摘もある。
そうだそうだ、暦というのは文明を越えて伝播するものだが、伝えられた土地の気候や慣習とくいちがっている。
暦のサイクルと現実の生活がかみ合わなかったり、強引に合わせる例は、日本ばかりでなく、イスラームのヒジュラ暦やインドの暦を取り入れた東南アジアでもいくらでもある。
そういう文明の伝播を考えるヒントにもなりますよ。

著者は、最近の〈旧暦でスローライフ〉といったブームも鷹揚に認めている。
わたしは、こんなキモチ悪いスローガンは大嫌いなんだが(それに大安とか仏滅とかのインチキも反吐が出る)、カレンダーに関するあらゆる人間模様を観察するヒントとしておすすめ。

『図説 アジア文字入門』,河出書房新社,2005 その2

2008-08-09 20:12:25 | 基礎知識とバックグラウンド
本書は、すべて日本の研究者によって、日本人読者(日本語話者、日本語読解力がある者)を対象にして執筆されている。

これって、すごいことですよ。
たしかに、北アメリカの言語やサハラ以南アフリカの言語の研究では、日本の研究者がかなわない状況もあるようだが、ユーラシアに関しては、じゅうぶん世界に通用する水準である。

研究者も偉いが、読者だってエライもんだ。
これだけの内容が理解できるのは、世界中でも少数ですよ。

本書には、言語学・文献学の基礎も解説されているが、なによりもユーラシア全域の文字の多様性をさまざまな話題から紹介する視線がすばらしい。
ラテン文字社会の人が書いたもの、つまりひらたくいえば欧米の本からの翻訳は、どうもあいつら、わかっていないんじゃないかって気がすることがある。

そりゃ、専門の学者は深く研究しているだろうが、一般人の認識はあきれるほど低いものがある。
彼らは中国の漢字を見ただけでびっくりし、それ以外の細かい差異や多様性がわからない。
母音字が発音どおりではない文字体系、読まない記号がある文字、縦にも横にも書ける文字、〈分ち書き〉がない文章、など理解できない。

筆記用具、書体の違い、書道、活字印刷対石版・木版、コンピュータ用フォントの問題、辞書の配列、五十音図、これらは日本社会で暮らしていれば、基本的にわかることであるが、なかなか理解されないようだ。

******

大文明、広域文化圏の文字以外にも、さまざまな文字が紹介されている。

ご存知のトンパ文字。しかし、巷にあふれるトンパ文字の本の内容は信用できるのかな?カワイイ系の流行ではないか?

これも有名な彝文字(イ文字、ロロ文字)。表音節文字として整理がすすんでいるようです。

小児錦(シャオアールチン)。中国語を表記するためのアラビア文字です。

モルジブのターナ文字、これはアラビア文字から派生した文字だが、一文字一文字分けて書く。だから結構読める。

ブギス文字。一見アラビア文字からの派生のようだが、フィリピンのマンヤン文字やスマトラのバタック文字と同じくインド系。点と波線の組み合わせに見えるほど変化している。

リス語正書法(フレイザー文字)。キリスト教布教のためにラテン文字を基礎に作られた文字。一見コンピュータ・プログラム言語みたいな聖書、読もうと思えば読めるような気がする。

というわけで、看板から食堂のメニューまで、石碑からアラビア書道まで、教科書からバイリンガル辞書まで、珍しい写真がいっぱいで読めなくとも楽しめる。

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所はじめウェブ上にも情報は豊富だが、基礎的な知識と検索語を知るために最適な入門書。

『図説 アジア文字入門』,河出書房新社,2005

2008-08-09 20:07:10 | 基礎知識とバックグラウンド
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 編。

よくもまあ、こどものころ何の苦労もせずに、ひらがらを覚えたもんだ。
たとえば、

〈め〉と〈ぬ〉はまったく無関係である。
〈ち〉と〈さ〉が反対の音であるわけではない。
〈た〉はカタカナの〈ナ〉とひらがなの〈こ〉を組み合わせたものではない。
〈ぱ〉は、読点の後に〈は〉があるのではない。

こんなややこしい文字を覚えたのだ。
五十音というけれど、濁音・半濁音・拗音・長音をいれると、200以上の文字を覚えたことになる。
促音なんて、ふしぎなものも覚えた。(これはかなり意識的に覚えるよな……)
しかも、縦書きは上から、横書きは左からなんて、意識せずに覚えた。(それとも、そうとう悩んで覚えたのだろうか?)

数字はほとんど無意識に覚えた。
1234567890である。
これが、世界中に普及したというのはすごいね。
もちろん漢数字やデーヴァナーガリー数字も健在だしローマ数字もあるが、算数の計算でこのアラビア数字を使うのは全世界共通であるようだ。(どっか、反対している国があるのだろうか?インドではアラビア数字といわず「インド数字の国際的形態」といっているそうだが。)
ちなみに、元祖アラビア語地域でも、数字の位は同じ。文字は横書きで右から左だが、数字は左からである。百は世界共通に〈100〉と表記する。〈001〉で百をあらわす表記はない。

というようなことを愚考したのは、タイ文字を覚えようとした頃。
インド系文字に共通する原理であるが、子音文字の左右上下を母音文字が取り囲む。こんなもん覚えられねえよ。

漢字とラテン文字は2000年以上前の書体でも、しろうとが判読できるものが多い。
それに対し、インド系文字はブラーフミー文字がインド・チベット・東南アジアに伝わる途中で急速に変化した。
天井から垂れ下がったようなデーヴァナーガリー文字も、蔓と髭が生えたようなチベット文字も、知恵の輪のようなビルマ文字も、ミミズが踊っているようなバリ文字も、原初の法則を受け継いでいる。
現在、インドの各州、東南アジアやチベットの公用語に用いられている文字のほかに、ジャワ文字・ブギス文字・サンスクリット語を書くための悉曇(しったん)文字・同じくサンスクリット語のためのランジャナ文字・パーリ語を書くためのタム文字など古典語のための文字もある。

アラビア文字は、対照的に変化しない文字だ。
あの、判読不能の踊る書道を見ると、むちゃくちゃ変化しているように見えるが、あれは書体の違いであるそうだ。
クーファ・ナスフ・スルス・ルクアなどの書体は意外に安定しているようだ。

そしてよく知られているように、アラビア文字には本来母音字がない。
母音字がなくても、アラビア語だと判読できるのだそうだ。

ところが、母音が三つのアラビア語はいいが、それ以外の言語に使用する場合、母音字なしですますわけにはいかない。
それで、ウルドゥー語、ペルシャ語、トルコ語には母音字が加わる。アラビア語も俗世界で使用される場合は、母音字を使う。

というように、ラテン文字は圧倒的に広い無文字社会に広まり、アラビア文字は、ペルシャ語・アラビア語・トルコ語・(それにスワヒリ語)という広域の共通語・文明語に広まり、インド文字は人口稠密な南・東南アジアと人口希薄なチベットに広まった。

ところが、漢字はやっかいだ。
日本列島を含めシナ文明圏の外側に、独自の文字を持つ言語が多いのも、漢字の応用がとてつもなく困難だった、という事情が反映しているのではないか。

かな文字・ハングル文字・チューノム・壮文字・契丹文字・女真文字・西夏文字など、奇妙な文字がいっぱいある。
たとえば、有名な西夏文字など、形は漢字に似ているが、漢字の原理とはまったく異なる文字であるそうだ。

ざっと紹介したが、本書のおもしろさは、以上のような点ばかりではない。

以下次項で

河原俊昭,「多言語国家マレーシアの言語政策」,2007

2008-08-04 21:39:26 | 基礎知識とバックグラウンド
『世界の言語政策 第2集』,くろしお出版,2007.所収。

わたしのブログの別のところで書いたことがあるが、マレーシアでは1971年修正憲法第10条(4)において、言語問題・市民権・マレー人の特権のような民族問題に関して、公の場での議論が禁止された。

つまり、言語問題についても議論そのものが禁止されている。

そして、公文書・公的出版物・国会での質問・動議はマレー語のみとなった。
(しかし、本書によれば法廷では英語からマレー語への転換は進まなかったそうだ。ふーむ。)

国教もイスラムと定め、公文書もマレー語のみ、とカンボジアみたいな規定である。が、事態はまったく反対である。

つまり、マレーシアではマレー人の地位が低く、経済的に弱いので、優遇するという方針であるようだ。(と、はっきり政府が明言しているわけではないが)

では、言語状況をみてみる。

フィリピンのフィリピノ語と比べ、マレー語はリンガフランカとして長い歴史がある。
母語話者以外にも広く普及している。
クメール語のようにクメール語話者=クメール人という了解はない。

というより、マレーシアにおけるマレー語話者は、どうも母語以外の話者が多数存在するらしい。
マレーシアの〈ブミ・プトラ〉政策が、狭義のマレー人ばかりでなく、山地の少数民族も〈土地の人〉と規定しているのはよく知られている。
ムスリムではない半島部山地のセマン、サラワク州のイバンなども〈インド人でも華人でもない〉という括りかたで〈土地の人〉に分類される。

ところが、ムスリムである〈マレー人〉もスマトラ島やジャワ島からの移民が多い。東南アジア各地に点在するブギスやバジャウも住んでいる。
つまり、華人やインド人と同様に移住してきた人々が多いのである。

マレー人と対応する〈インド人〉や〈華人〉が共通の言語と一体感を持つ人々かというと、これが大違いであって、インド人は各言語各カーストごとにまとまっているし、華人も各言語ごとにまとまっている。(他に半島部北部にはタイ人やモン人・ビルマ人が住んでいるし、サバ州にはスルー海域やホロ諸島からの住民も多い)

つまり有力な大言語集団が存在しないのである。

というわけで、やはり英語が共通語になっている。が、マレー語化政策で一時、英語の能力低下がみられたそうだ。
しかし、やはり英語は必要というわけで、他の東南アジア・東アジアと同じく英語教育も推進している。
また、一時期規制していた華語教育も規制緩和されている。

結局、憲法の規定がどうのこうのより、その場その場の状況でなんとかなっているようである。
憲法の規定上はカンボジアのような窮屈なナショナリズムの臭いがするが、実態は英語が強いし、教育も安定しているという状態でしょうか。

藤田剛正,「多民族国家ベトナム、ラオス、カンボジアの言語政策」,2002

2008-08-04 21:33:58 | 基礎知識とバックグラウンド
『世界の言語政策』,くろしお出版,2002所収

ベトナムは簡単にすませよう。
憲法ですべての民族の平等を謳っている。しかし、ベトナム語圧倒的に優位。
憲法に国語条項も公用語の規定もないが(日本や韓国と同じだなあ……)、実質的にベトナム語が政府機関・教育・マスメディアの言語。
話者人口が7000万、てことは、ヨーロッパ内のフランス語やドイツ語に匹敵するんだから強い。

その隣、東に圧倒的に強いベトナム人、北から垂れ下がる漢民族、西から押し寄せる商売人のタイ人に囲まれたラオス。

もうこれだけ強い国に周りを囲まれたら、つつましく黙っている以外ない??

憲法では、しつこく多民族の共生、多民族の国家、多民族の平等を謳っている。
これ以上コマギレになったら、国家が消滅する。
それなのに、言語については、憲法第75条で
〈ラオス語及びラオス文字は、公式に使用される国語及び国字である。〉
と、規定される。

問題はないのか?
国語云々の問題以前に、初等教育・中等教育の不備が問題であるようだ。
そして、主要外国語がフランス語・ロシア語・英語と変遷している。
つまり高等教育のための言語も、最近やっと英語になったという具合である。

うーむ、人口500万はつらいな。

しかし、さらに問題なのはカンボジアである。
1993年憲法であるが、憲法制定の際に国連などの警告もあったようだが、結局次のようになった。

〈カンボジア王国の国是は民族、宗教、国王である〉

おいおい、これは、どっかの国の過去と同じじゃないかい。

〈仏教は、国教とする。〉

あちゃー。
さらに、憲法の条文には〈クメール市民〉という表現が何度も用いられる。
暗にベトナム人・華人を牽制するための表現だろうが、クメール人以外の少数派言語話者を排斥する可能性をもつ。

〈カンボジア王国の公用語および文字は、クメール語及びクメール文字である。〉

うーむ。
しかし、細かい問題以前の現状の問題は、初等教育すら普及していない、ということである。
中学校進学者が14.2%。
つまり、残りの85%以上が小学校段階(6年制)で進級できない状態である。

こういう状態だと、少数民族の権利がどうのこうの言っている場合ではないのでしょう。しかし、将来、問題が噴出するのは確実ではないだろうか?

河原俊昭,『フィリピンの国語政策の歴史』,2002

2008-08-03 21:06:53 | 基礎知識とバックグラウンド
言語的にも弱い国家フィリピン。

1973年憲法第14条第6節で、
〈フィリピンの国語はフィリピノ語である〉
と、規定されている。

しかし、この〈フィリピン語〉というのは、タガログ語の変型であるのは誰も否定できないこと。〈フィリピン語〉という名前をつけ、フィリピンの言語から発展させ……と謳われたものの、現実に共通語になり得ない。
これは、リンガ・フランカとしての成熟が不十分であり、イロカノ語・セブアノ語など有力な言語が存在するためである。
当然、北部の住民も南部の住民もタガログ語モドキは学習したくない。

さらに英語の圧倒的な強さである。
東南アジア・南アジアで実質的に英語が共通語になっている地域はたくさんあるが、フィリピンは公式に英語が公用語になっている。(パキスタンも英語が公用語だっけ。シンガポールもそうだが。)

では、英語が十分に教育や技術の分野で普及しているかというと、そういうわけでもない。

まことに困難な状況に陥っている。

榎木薗鉄也,「インドの言語政策と言語状況」、2007

2008-08-03 21:01:02 | 基礎知識とバックグラウンド
『世界の言語政策 第2集』,くろしお出版,2007.所収
インドも中国と同じく、国の大きさと人口を考えると、言語構成は単純である。

〈憲法第8附則指定言語〉という制度がある。
1968年公示「1968年公用語決議」により、ヒンディー語と他言語の共生を謳った政策である。
この指定言語の地位を得ると、連邦政府の公務員試験をその言語で受けられる、各州の公用語に採用できる。各州の公用語に採用されると、学校教育や公務員試験に使用され、裁判所でも使用される可能性がある。(実態は各州によって異なるが。)

それで、当初の14言語から2006年で22言語まで指定言語が増加している。
現在、指定を獲得する運動がある言語がさらに15あるそうだ。

実際の運用状況をみると、インド人の80%はモノリンガルであって、二言語を使用する人の大部分は、自分の母語と英語であるようだ。
つまり、母語もしくは州の第一公用語以外の他のインドの言語を学習する人はほとんどいない。

指定言語の地位を占めるようなインド内の大言語を学習しなければならないのは、ほんとの少数派言語母語話者である。

というわけで、英語が第一の共通語になる。(なお、州や連邦直轄地で、英語を公用語にしているところもある。)

*****

ええと、わたしも誤解していた
ヒンディー語とヒンドゥスターニー語の関係について。

ヒンドゥスターニー語というのは、独立当初、ガンディーやネルーが公用語にしようとした、ウルドゥー語とほとんど同じ俗っぽいリンガ・フランカである。
ちょうど、俗っぽいマレー語がマレーシア語・インドネシア語として国語に採用されたように、独立当初の指導者は、リンガ・フランカとしてのヒンドゥスターニー語を公用語にしようとした。

ところが、ヒンディー語推進派がインド・パキスタン分離後に優位になり、サンスクリット語を取り入れた由緒正しい(当然人工的な細工であり、伝統の捏造であるようだ。)ヒンディー語が公用語になりそうになった。
しかし、タミル・ナードゥ州の反ヒンドゥー語運動の激化により、公用語化に歯止めがかかる。
そして多言語の共生という政策になった。
と、いうわけ。

で、一方、ヒンドゥー語は映画とともに大衆にひろがり、つまり、ヒンドゥー語母語地域以外にも広まり、期せずして、独立当初のヒンドゥスターニー語のような共通語の性格を持ちつつある、ということ。

しかし、書き言葉、教育や第2次産業の言語として、ヒンディー語もヒンドゥスターニーも未成熟であり、結局は英語か……というのが現状であるようだ。

フフバートル,「現代中国の言語政策」,2007

2008-08-02 19:17:32 | 基礎知識とバックグラウンド
とんで中華人民共和国。
山本忠行・河原俊昭 編,『世界の言語政策 第2集』,くろしお出版,2007.所収。

中国には55の少数民族が暮らし、中国の諸言語は数は57である。というのが中華人民共和国政府の公式見解。
世界の諸言語のほとんどが分布している。

と、いうのはインチキである。
まず、台湾山地だけに存在するマラヤ・ポリネシア語。これを中華人民共和国の言語に数えるのも問題だが、これをひとつの言語とするのも現代の言語学からすれば大間違いである。
台湾内の言語の違いは、マダガスカルからイースター島までのマラヤ・ポリネシア言語の差異よりも大きい、というのが通説である。

インド・イラン諸語とバルト・スラヴ諸語が各一言語あるというのも限られた地域のこと、これだけ広い国土なんだから当然の話。

また、政府が一言語一民族と規定した民族の中で、まるで通じないことばを話している民族がいる。
ミャオ・ヤオ諸語、モン・クメール諸語、ひとつの民族が共通の言語を使用しているわけではない。
反対にタイ諸語など、なまえが違っていても通じる場合が多い、という報告もある。

そしてなによりもかによりも、〈漢語〉と規定された言語があまりにも差異が大きく、とうてい通じない〈方言〉を含んでいるということである。

憲法で〈各民族はみな自らの言語文字を使用し、発展させる自由がある〉と規定されているそうだ。
しかしながら、いわゆる少数民族が漢族に同化していくという問題をさておいても、〈漢語〉の内部の差異を無視した政策が発表されている。
まあ、この、政策と実態がぜんぜんマッチしないというのが中国であるわけだが、アメリカ合衆国の場合とは全く異なる原理・異なる政策から、同じような混乱が生じているような印象も受ける。

文字政策や広東語・上海語などの勢力と北方の普通話(プートンファ)勢力の拮抗など、いろいろ混乱はあるようです。
もっとも、これを人為的にコントロールすることは無駄であるようにみえる。