東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

『鶴見良行著作集 4 収奪の構図』,みすず書房,1999

2008-12-31 14:45:49 | その他;雑文やメモ
どっかにあったはずだ、と頭の片すみにひっかかっていたが、ここにあった。

p341~342
>たとえば、バナナの箱詰め作業場で働いている若い女子労働者たちは、日給三〇〇円にも満たない賃金だが、よくコーラのたぐいを買って飲むし、足の爪にはペディキュアを施している。かれらの生産するバナナも、つきつめていえば外国大企業のものだし、ペディキュアの紅もコーラも利益は海外へ流れるに違いない。
>あんまりではないか。
>しかし、これはかれらが今日陥っている経済の不可避的な結果でもある。
>農民や労働者が爪に火をともすように倹約したとして、そのわずかな余剰を、生活向上のため、どこに投じたらいい、というのか。
>生産力を向上させ収入を増やすという常識的な路線は完全に閉ざされてしまっている。サリサリ・ストアが流行るのはそのためだ。生産手段と労働がまったく分断されてしまっているために、民衆は手っとり早い消費に向かわざるを得ない


鶴見良行,『アジアを知るために』,筑摩書房,1981の一節である。

この『アジアを知るために』、鶴見良行ファンとしては、いや、わたしはファンと名乗る資格はないが、忘れてしまいたい内容を含む。
中華人民共和国の自力更生路線を支持し、〈農業は大寨に学び、工業は大慶に学ぶ〉というスローガンをまともに評価している。
いやはや、困ったことだ。しかし、こんな時代もあったことを忘れないようにしよう。わたしとて、経済合理性よりも人民の主体性と平等を求める、という理想に共感する。

そして現在、日本の暮らしは中国の工業生産物なしでは成り立たない構造になっている。
毒餃子騒動の時、わたしは呆れましたね。中国からの食品を拒否するなんて、できるわけないでしょうが。自分で米と野菜とダイズとニワトリを育てている人は別だが、そんなことができる人は、生産資本も労働力も備わっている人、なにより健康で若くなければできない。

中国の社会主義に対する憧れは、対岸の火事、じゃなくて、海の向こうの理想郷だから、なんとでも幻想を持てたが、現実の中国が日本の経済と生活に組み込まれるようになると、嫌悪と差別感がわきおこるわけだ。

さて、最初に引用した文にもどろう。

これはまさに現在の貧しい日本の状況とそっくり、やっと日本もアジアの仲間だ、うれしいな。
コンビニエンス・ストアというものを知ったとき、わたしは、こりゃサリサリ・ストアみたいなもんだろうと思った。都会で一週間七日、一日十六時間ぐらい働くサラリーマンには必要かもしれないが、イナカではこんなもの成り立たないだろう、と思っていた。
ところが、あれよあれよという間にそこらじゅうにコンビニができて、貧乏人がこんな無駄で高いものを買うのか?と思ったもんだ。

しかし、貧乏人だからこそコンビニに依存しなければならないのである。
鶴見良行がやっていたように、魚屋でサカナを買い、八百屋で野菜を買い、出刃包丁で調理するなんてことは、鶴見良行が豊かでスキルがあり文化資本が充分備わっていて都市に住んでいるからである。
反対に生活向上が望めないものは、小銭を浪費し、ますます貧乏になっていく。

アメリカ合衆国で低所得者向けの住宅ローンが破綻して、世界中不景気になったそうだが(ほんとうか?)、その住宅というのは、コンビニの冷凍食品をチンするだけのシステム・キッチンが装備されていて、サンマも焼けないし、野菜炒めもできない構造になっているんでしょ?たぶん。
車でスーパーマーケットに行って調理済食品を買う以外ないような住宅地が造成されたのだろう。

つまりだ、貧乏人から小銭を巻き上げる構造ができていて、貧乏人はその構造にしばられて抜け出せない。
その先進国の貧乏人の消費材である車を組み立てる保税加工区、コーラの缶のアルミをつくるアサハン・ダム(本書によれば、アルミサッシを作っているということだが)が、なぜ儲かるのか?言葉をかえれば、これほど無駄で効率が悪そうにみえる事業がなぜ可能なのか、その構図を解き明かしたのが、この巻に同時収録された

『アジアはなぜ貧しいのか』,朝日新聞社,1982

日本をアジアに含めれば、当然含まれるわけだが、現在の日本の貧しさが理解できるだろう。
同時に、アジアには、つまり日本にも、富裕な階層は存在する。またアジアには、つまり日本にも、富裕な階層とは別の意味で、豊かな民衆も生きている、ということが理解できるだろう。
100年に一度の異常な事態などと、アホなことを抜かしている輩がいるが、こういう連中は、1929年の大恐慌もニューディールも知らんのだろうか?1945年当時のドイツや日本の事情を知らんのだろうか?

熱い解説を書いているのが宮内泰介。
その中で、内堀基光の書評が引用されている。(『週刊読書人』1996年2月23日号、鶴見良行没後の書評)

内堀基光は、鶴見良行が持っていた語りかける相手である読者、若者に対する信頼感に違和感をもつ、と書いている。つまりだ、鶴見良行は良質で知的な若者たちをあまりに信頼しすぎているんじゃないか、ってことだ。
宮内泰介は、扇動された若者(本人はそれほど良質でも知的でもない、と言っているが、充分知的ですよね。)にとっては、鶴見のアジテーションは魅力的で大きな影響を与えたと捉えている。

うーん。どっちの言い分も正しいように思えるが、知的でない若者には、さっぱり影響を与えなかったことは確かだろう。
日本の若者も、フィリピンのプランテーションの低賃金労働者のようになる構造が進展した、ということだ。
これで、日本の労働者もめでたくアジアの仲間と連帯できるか、というと、まったく反対に嫌悪と中傷をぶつけるようになるのか……とほほ。

杉山正明,『モンゴル帝国と長いその後』,講談社,2008

2008-12-30 18:52:55 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
あいかわらずの杉山節がさえる。
もう、この方にあっては、ブローデルの地中海は、ちまちました空間だし、漢族の正史はコンプレックスとルサンチマンのかたまりだし、ロシアはモンゴルによって文明化した未開の僻地。
マルコ・ポーロもイブン・バットゥータも形無し。
本書では、フレグ・ウルスはイスラーム王朝か?という点まですすむ。
当然ながら、ユーラシア東南沿岸や日本列島、あるいはデカン高原やベンガル・デルタなんぞは、周縁のちまちました辺境である。

この著者の本をはじめて読んだ時は、異端の説も大胆に書きなぐる少壮の学者という印象であったが、そんな傍系の学者ではない。学界の重鎮、高校教科書も執筆するし、岩波講座世界歴史の監修者であるし、本シリーズ「興亡の世界史」の編集委員でもある。
もはや、すすむところ敵なしのモンゴル軍のような勢いである。

年寄り世代の読者にとっては、まったく土地勘のない地域を多言語固有名詞を並べて縦横に描きまくるので、はなはだ理解しにくいかもしれない。
わたしも、何度も同じような内容を書く著者の本を読みつづけて、やっとなんとか頭にはいるようになった。

若い読者にとっては反対にかえってわかりやすいかも。
モンゴル帝国のその後の世界の構図を理解するには、最適の視点である。地名・人名も最初から〈現地音主義〉で覚えたら問題ないでしょうし。

以下、わたしのかってな感想、駄文。

著者はスケールの大きな空間というが、このユーラシアの草原地帯というのは、のっぺりしてイメージがつかみにくい。山も川もなく、どこからどこまでが、フレグ・ウルスやらチャガタイ・ウルスやら。
こうしてみると、モンゴル帝国が進入できなかった地域、阻まれた地域というのは、その後の人口稠密な地域、農業生産力が高く水と樹木が豊富な地域、細菌や寄生虫がうじゃうじゃしている地域、ごちゃごちゃ人が溢れ窮屈な礼節や身分差別がある地域ではないか。

こうした湿った地域、ごみごみした地域から見ると、モンゴルの草原というのは、さぞかし清涼で爽快な地域だろうな、と想像できる。
しかし、その後の世界に影響を与えるさまざまなもの、農産物加工品も学芸も工業技術も汚いごみごみした地域から生まれた。
こう言うと、モンゴル帝国ファンからは文句が出るだろうが、モンゴル帝国の支配できなかった地域こそは、次代の主役となる地域であった、といえないだろうか。

*****

鄭和の航海に関しては、著者の評価に賛成する。
つまり後世に残る史料があまりにも乏しく、航海を再構成できない。
数万の軍勢による航海など不可能である。

あのですね、2万も3万もの軍勢が、パレンバンやマラッカにやって来たら、飲み水がないのですよ。
ポリタンクで水を持って行くわけにはいかないのだから。

吉田よし子,『マメな豆の話』,平凡社新書,2000

2008-12-29 20:04:35 | 自然・生態・風土
香辛料や野菜、くだものの本もあり、知っている人は知っているでしょうが、前項に関連してとりあげる。(ニューギニアは、タンパク源としての豆を欠落した地域なんですね。)
人類の大部分は、少なくとも50年前までは、必要なタンパク質を豆類から摂取している。その豆食の多様性を知る本。
内容が濃く、多肢にわたるので、こまかい内容にはふれないが、本書は東南アジアを見るための重要なヒントとスキルを与えてくれる。

まず、第一に、日本は圧倒的に東アジアのシナ文化圏の影響力にある。だから、豆食もダイズが圧倒的に多い。ダイズ一種に偏りすぎともいえる。本書で世界の多様性を知るべし。

それから、いまどき納豆を日本固有のものだと思っている人はいないだろうが、ダイズ加工品についても日本にないものがいっぱいある。日本はダイズ加工食品に特化しているため、ついつい日本こそ一番のダイズ食文化圏と思いがちだが、それは狭い見方である。日本は油脂を使わない調理に特化したため、特有の発達もあるが、それ以上に多様な豆食文化が世界にある。

統計資料と現実の差の見方。
ダイズの統計は、豆類としてではなく、油脂作物として扱われている、という例が示すように、統計資料と現実の食生活を比べて判断する必要がる、ということ。
栄養調査、栄養成分表などもおもしろい読み物であるが、現実の食生活とどう関連しているか、読み込みのスキルが必要である。(厚生省発表の栄養成分表に関しては、わたしも言いたいことがいっぱいあるが、今、くわしく論じる暇がない。)

さらに、中尾佐助の〈納豆の大三角形(トライアングル)〉説のように、間違った理論もあるということ。くわしい説明は本書を読んでくれ。別に中尾佐助にケチをつけるわけではないが、何十年も前の理論を後生大事に抱え込まないように。
それから、中尾説と同列に扱うのはちょっとおかしいが、有名な朝日百科『世界の食べもの』全140冊のフランス関係項目にエンドウマメ料理がまったく記述されていない、という指摘がある。FAOの統計では、フランスは世界一のエンドウ産国であるにもかかわらず、である。こういう具合に料理や食物の本には、無意識の欠落があるってこと。

と硬い文句を並べたが、内容は著者自身の見聞と研究をもとに、おもしろい話がいっぱい。

東アジア・東南アジアのダイズ圏
南アジアの豆食
新大陸産の豆
野菜と果実としての豆

という章分けになっている。
東南アジアを旅行しようとする人におすすめ。トロピカル・フルーツやシー・フードに比べ耳目をひきにくいが、本書で紹介されたマメと豆料理には必ずいくつか遭遇するはずだ。
遭遇しても、まったく気づかずに通りすぎてしまったり、知らずに食べてしまっちゃ惜しいじゃないか。

著者は1966年からフィリピンの国際稲作研究所(IRRI)に勤務し、その後、全世界を歩いている。
全世界を扱った書物というのは、しばしば東南アジアが抜けているが(と、他の記事でも書いたっけ)、本書は東南アジアの事例が豊富で、東アジア・南アジア・新大陸の産物と文化が混合しているってことがよーくわかる。
栄養学、植物学、作物栽培の観点からの記述も豊富である。

西丸震哉,『さらば文明人 ニューギニア食人種紀行』,講談社,1969

2008-12-28 19:19:59 | フィールド・ワーカーたちの物語
文庫は角川文庫,1982
『41歳寿命説』,情報センター,1990なんて本を出し、本書も食人種なんて放送禁止用語満載、トンデモ系に扱われるような人。

わたしは、この人好きだったな。
今でも41歳寿命説は基本的に正しいと思っている。41歳平均寿命というのは、まったくハズれたが、動物として生きる能力をうしない、医療制度とエネルギー高消費にがんじがらめになって生かされているだけの現代人では、寿命をまっとうしているとはいえないだろう。

本書の内容も好きだ。

まじめな調査記録ではなく、著者の行程と見聞に加え、すきかってな感想と自省をまぜこぜに書きなぐったものだが、おもしろい!
だいたい何の目的でどこの経費で行ったのかきちんと書いていないのだが、ニューギニア山地の住民の栄養状態調査が主目的であったようだ。まさか全部自費ではないだろう。
旅行期間が1968年から1年ほど、著者44歳から45歳の話である。
目的地は独立前のパプア・ニューギニアのニューギニア島高地。ここでヨーロッパ人や外来文明と接触していない食人種を探すのが目的というか著者の希望である。

ここで、用語の問題。

著者は食人種という言葉をなんのためらいもなく使っている。たんに、食生活、食文化を表すものとして、食人種という言葉を使っているようだ。
さらに、首狩と食人は別である、という認識もある。
儀礼や部族間闘争や復讐ではなく、たんに食物として人を食べるという部族がいるらしいのである。この点、本書の中で正確に述べられているわけではない。
ともかく、著者は、食人の習慣が残っている地域を探す。

桁ハズレの人物である。まず足慣らしのため、ポートモレスビーからブナまでの山脈越えを単独でやる。日本軍が横断し多数の餓死者を出したところである。ここを、通訳もポーターもなしで、当然徒歩で横断。これは研究目的ではなく、単に気候と地形に慣れるための準備である。

ほんとの目的地は大パプア高原地帯。4000メートル前後の山があり、ところどころに滑走路と役所の施設がある。そこいらで、地図の空白地域から、文明と未接触の食人種をみつけようというわけである。
旅行の中でヨーロッパ人のミッション、政府関係者、医療関係者、それに多くの住民と遭う。そこで著者が筆のおもむくままに観察したことがらを書くのであるが、痛快。放送禁止用語なんてまるで頓着せず、好きなことを書いている。
ヨーロッパ人に反発しつつも、ついつい自分もヨーロッパ人と同じような感情を持ち、同じような目で現地人をみてしまいがちなことなど、何度も書いている。現代日本(といっても40年前だが)への憤懣も書きまくる。

ハイライトは、ビアミ族の調査。
カリウス山脈南麓、一日18時間も雨が降る湿地帯で、ブタもイヌも持たない(伝播していない)部族。サツマイモとサゴヤシが主な栄養源。

排便とセックスをどうやっているか?という謎?が解明?されているのだが、著者が実見したわけではない。あくまで、行動と臭いから判断したものだが、著者の推理は歩きながらやる、というものである。少なくとも、排便に関しては間違いないだろう。

あと、しばしば誤って引用される、人肉は化学調味料(味の素)の味がする、という話。これは、西丸震哉自身が調査して本書に書いてある。それによれば、被験者が「人肉の味がする」と言ったのは、味を表現する単語が少ないため、そして家畜や野生哺乳類の味を知らないからである。だから、過去に食べた中でもっとも近い味を伝えただけである。なにも味をつけない試験紙を舐めて「かぼちゃの味」だと答えるのも同じことである、そうだ。

*****

純学術的なことはほとんどないが、気になることは、サツマイモとタバコについて。
これは、この地域の住民がヨーロッパ人と接触する以前から伝播していた。(ほぼ確実)
商品あるいは作物の伝播はあったのだ。
それにもかかわらず、鉄器など他の文化はまったく伝わっていない。
著者は文化人類学者ではないので、儀礼についての記述は大雑把だが、儀礼・娯楽が乏しいという著者の判断は正しいようだ。認めざるを得ない。

著者は、四分割音を採譜できるほど音楽の素養があるのだが、その歌にしても、やはり乏しいという判断は否定できないように思う。つまり、娯楽も食文化も、ひじょうに単調な生活なのである。

この単調な生活が、数千年前から続いている、という判断が正しいかどうか、現在では評価が分かれるところではないだろうか。食生活の面でも、この栄養的に貧しい状態は、ひょっとして数百年前、あるいは数十年前に生じたことかもしれない。

*****

関係ないが、いや著者の性格や考えに深く関係しているかもしれないが、この西丸震哉の奥さんてのはすごい若くみえる美少女タイプなんですよ。(実際に若いのか?)
別の本で、夫婦そろい、他の客といっしょにレストランで食事した話題があった。他の客は、おいしいおいしいと言っていたが、自分は普段食べているものに比べ、さしてうまいと思わなかった、というエピソードがあった。
なんかすごい奥様なんですね。
この紀行の最後1か月半、奥さんもニューギニアに来ていっしょに住んだそうだ。

河野純徳 訳,『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』その2

2008-12-26 19:29:32 | 翻訳史料をよむ
前半のハイライトは1548年1月20日コーチン発信の5通。現在のケーララ州コチから、リスボン帰港の船に合わせて、まとめて発送したもの。

なーんと、ザビエルはモロタイ島にまで行っているんだ。大東亜共栄圏を股に架けて大活躍だ。

大東亜共栄圏とザビエルの足跡が重なるのは偶然ではない。ザビエルは、海洋アジアの交易圏に乗っかり、大文明の影響が薄い地域に布教したから、必然的に大日本帝国の権益が関係する地域と重なるのである。
ムガル帝国や明朝など大文明が相手では、ポルトガル勢は勝負にならないのである。

コーチン発の5通のうち書簡第59が日本人アンジロウと遭遇する経緯を記している。そのため、この部分だけ有名だとおもうが、前後の記述に注目してくれ。

モロタイ島は、
〈ほとんどいつも地震があります〉
〈きっと、聖ミカエルが偉大な能力によって、その地方で神の奉仕を妨げていた悪魔たちを罰して、地獄に閉じこもるように命じたのでしょう。〉

マラッカからのベンガル湾の航海では、
〈三日三晩の大暴風雨で、たいへん危険な目に遭いました。海上でこんなに大きな暴風に遭ったのはまったく初めてでした。〉
〈危険のさなかにあって、私はすべての天使、九つの天使隊から始めて、太祖たち、預言者たち、使徒たち、福音史家たち、殉教者たち、証聖者たち、栄光のおとめたちと天国にいるすべての聖人たちに自分を委ね奉りました。〉

いやあ、たいへんだった。地震も台風のないところからやって来て、えらい体験だったろう。

キリスト教のアジアへの布教は、軍事的手段をもちい、経済的利潤を追求するものであった。と、いうのは世界史の構造から見ると正しい。
ただし、当事者であるザビエルら布教者を、今日の企業家や軍人や植民地統治者のような人間だとみなすのは、単純すぎる見方だろう。
あるときは危険を顧みない冒険者、あるときは世界市場商品を扱う商人、あるときは国王や提督と交渉する外交官、あるときは資金集めに奔走する企業家、あるときは迷信に凝り固まったキリストの使徒である。
なんでもやる万能人なのだ。

ただし、残念ながら、少なくともザビエルに関するかぎり、自然や産物を見る目はない。イエズス会は当時のヨーロッパで、いや、世界全体からみても最高水準の天文学や数学の知識があったのだが、動植物や農耕や漁撈の知識は貧弱である。残念。

書簡62はポルトガル王ジョアン三世にあてた嘆願書。

イエズス会に協力している軍人や行政官の功績を伝えている。

ディエゴ・ペレイラは(ちなみに、この人物はザビエルの友人で生涯を通じ関係が深い。)たくさんアチェ人を殺しました。この功績に充分恩恵を与えてください。

ジョアン・ロドリゲス・カリヴァリョは、船が中国で沈みたいへん貧しくなってしまっています。どうか彼に恩恵を。
この人物は、訳注によれば、〈1548年インド総督より三年間の俸給を受けてペグー王国に船長として赴任したが、そこでビルマの横暴な君主にひどく取り扱われ、その後中国でさらにひどい目に遭って戻って来た〉のだそうだ。訳注もすごいな。

また、ベンガラ、ペグー、コロマンデル、その他インドで死んだ人たちの相続についての嘆願がある。この中で言っていることはどういうことかというと、イエズス会パトロンの財産の保護である。

インディアス在住の政府関係者や軍人というのは、ようするに横領で儲ける人間たちである。
横領で蓄積した財産は、本人が死んだとたんに、まわりの連中が告発したり借金証文をでっちあげて奪いとろうとする。これは、カリブ海・新大陸の事情を知っている人は知っているだろうが、貯めた金を守るオーソリティーが必要なのだ。そこで生前に、死後の財産を守るために遺言でイエズス会に遺贈するのだが、その遺言を国王が保障して欲しいという、要求である。

この例に見られるように、ザビエルたち宣教師の当面の敵、悩みの種は、意外というか当然というかポルトガル人なのだ。
アチェー人を殺したり、ベンガルやペグーで殺されたりという話に注目すると、戦闘行為ばかりしていたように見えるが、意外に平和な面もある。

テルナテのスルタンとは仲良しで、息子を改宗させる話まである。(ただし、実現しなかった、と注にあり。)
また、スペイン勢力とも良好な関係で、ポルトガル・スペイン両方の兵士に説教している。スペイン側神父とも良好。

というわけで、二日おくれましたが、
ハッピー・バースデイ!預言者イーサー!

(なお、念の為、当時はクリスマスを祝う習慣はない。ポルトガル勢とスペイン勢が地球を半周して出会う東南アジアでは、日付と曜日が一日ズレていたはずだが、ミサの日はどうやって決めたのだろう?)

山田篤美,『黄金郷伝説』,中公新書,2008

2008-12-21 17:48:14 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
書名読み〈えるどらどでんせつ〉、副題「スペインとイギリスの探検帝国主義」

この著者(やまだ・あつみ)はどういう人物なのだ??
初めて読む著者であるが、ムガール美術の専門家である。女性である。
それが夫の赴任地であるベネズエラにいっしょに住み、ベネズエラの歴史に興味を持つ。そして、十年もたたないうちに、本書を書きあげるほどの研究をした、ということになる。
夫の赴任地について行くだけでも、近頃の女性としては珍しいのに、それまでの業績を中断し、新しい分野にいどむとは、なんという人なのだ?

内容はすばらしい。新書の見本だ。ひとつのトピックをつきつめ、周辺の要素もからめ、素人にわかりやすく説く。

室町幕府十代将軍足利義稙(よしたね、と読むそうだ)が統治するジパングをめざしたコロンブス(コロンと書きたいが、本書の表記に従う。ちなみに本書の固有名詞のカタカナ表記は適切で読みやすい。)、そのコロンブスがテラ・フィルメ、島ではなく大陸、に到着したのは第3回航海、現在のベネズエラ、パリア半島である。

以後、この地は、大物が跋扈する。
アメリゴ・ヴェスプッチ、アギーレ、ハクルート、ウォルター・ローリー、ダニエル・デフォー、シモン・ボリバル、アレキサンダー・フンボルト、ディズレーリ内閣、ソールズベリー、コナン・ドイル、まあここいらへんは知っている。

以上のような大物をベネズエラ、カロニ川流域、ロライマ山、バリマ川源流域、グアヤナ楯状地、という地域を中心に並べかえると、本書が成立する。
もちろん、大物の陰に隠れた人物も多数いたわけで(わたしが知らなかっただけですが)、

ヒメネス・デ・ケサーダ
アントニオ・デ・ベリオ
ロバート・H・ションバーク
チャールズ・バーリントン・ブラウン
グスマン・ブランコ大統領

といった人物にページが割かれる。
ガルシア=マルケスの小説も当然採りあげられるし、エリック・ウィリアムズも進化論もラン(蘭の花)・ハンターも登場する。
イギリスによるトランスヴァール地域の領有、アフガニスタン~ヒマラヤ地帯の測量と地図製作、パピヨン(アンリ・シャリエールの自伝を元にした映画)、観光地サルト・アンヘルなどなどが盛り込まれる。

英領ギアナの成立が、ナポレオン三世の後のシンガポール成立と同時代、つまりオランダから剥奪したもの。あるいは、イギリスの測量・探検が『地図が作ったタイ』(←未読です、無責任な引用ですまん)と同時代。東南アジアの事情と重なるものがあるので、参考にどうぞ。

わたしの好みにぴったり合った内容である。
とにかく著者の語り口、さまざまな事件のミックス、視野の広さがすばらしい。

ただひとつ文句をつけると、帯の文句。「探検はロマンではなく侵略の道具だった」なんて、あったりまえでしょう。まさか、いまさら、こんなあったりまえのことを書いただけの本ではないか、と手にとるのを一瞬躊躇したよ。たしかに本文中にもこの文句は出てくるが、そんなナイーブな内容ではありませんので、みなさま手にとってみてください。

大村次郷 写真・文,「アジアの台所たんけん」,2002

2008-12-20 20:05:36 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
『月刊たくさんのふしぎ』,2002年12月号(第213号)所収

ええと、決して批判や皮肉ではなく、単純な疑問なんですが、この大村次郷(おおむら・つぐさと)という写真家はどういう方なんですか。異常な量の仕事をして、関係する書籍が無数にあるのだが。一人の人間がやっているのでしょうか?
NHKシルクロード・シリーズのスティル・フォトグラファーであるし、その他、トルコから朝鮮半島まで、東シナ海からインド洋、地中海まで、あらゆる遺跡、あらゆる宗教建築を撮影している。
遺跡・宗教建築のような動かないものを撮っているだけなら、まあ他にもいるが、この方は、生きている人間も撮っている。

本書は、
トルコ・クルシェヒール県チャウルカン村のユフカ作り
スリランカ北部マタレのイデワッパ作り
カルカッタ郊外ドムジュール村の台所
ビエンチャン郊外でのソム・パー作り
チョルラプクト・ナムウォン郡(現在は市)でのみそ、しょうゆ作
ルソン島北部イフガオ州での稲の収穫

を紹介。
いずれも片手間でできる取材ではないと思う。遺跡や風景の写真だけでなく、接写もいい(プロのカメラマンならあたりまえか)。
燃料やカマド、マナイタやウス類、調理のときの姿勢がちゃんと写っているんですよ。
文化人類学者の写真なら当然だが、風景や観光写真では無視されている場合が多い。

たぶん、この雑誌のための取材ではなく、他の取材のときに撮りためたものを集めたものらしい。
なかなかいい内容ですよ。

河野純徳,『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』全4冊,平凡社東洋文庫,1994

2008-12-18 19:29:04 | 翻訳史料をよむ
今時珍しい、完全に内部の人間による翻訳。今時といっても、この翻訳は1985年のもので、
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』全一冊,平凡社,1985
を底本に4分冊に収めたもの。
訳者の河野純徳(こうの・よしのり)という人物は1921年生まれでイエズス会司祭(そう、まだイエズス会というものは存在するんですよ)、ばりばりのイエズス会側の人間である。
もちろん20世紀後半であるから、この訳者はしっかりとした文献学・言語学の知識があり、正確な翻訳をめざしている。あたりまえだが。現在キリスト教の外側から、つまりクリスチャンでない者がキリスト教関係書を研究するのが普通の時代にあって、最後の世代だろう。つまり、クリスチャンだけの内部からのキリスト教文献の研究の世代の最後という意味で。

底本は、1944-45年に刊行された決定版といえる
シュールハンマー&ヴィッキ編『聖フランシスコ・ザビエル書簡・文書』第一、第二巻。
ふーん、すごいな。こんな時代にこんな浮世離れした研究が完成されるとは。そして、この底本が完成される前は、もしザビエルの書簡を研究しようと思えば、文書館や図書館を訪ねて写本や原本を見なければならなかった、ということだ。(ラテン語その他の翻訳出版はあった、詳しいことは本書解説を読んでくれ。)
そして、めでたく1985年、外国語訳完全版としては最初に日本語訳が完成。
これで、日本語を読める人は、ザビエルの書簡を完全に読めるようになった、というわけだ。

それで、読む読まないはともかく、図書館かどこかでこの全四冊を見てもらいたい。

目次を見ればわかるように、全137通の真正と判断された書簡が年月日順に並んでいる。そして、手紙を書いた所、つまり発信地が明記されている。
これを見てわたしは、おーっと驚いた。
え?驚かない?

リスボン出航以前のヨーロッパが第1章であるが、それ以外はインド西海岸(マラバール)、マレー半島、マルク諸島、華南沿岸、そして九州、つまり日本は極一部なんである。
フランシスコ・ザビエルといえば、日本への布教ばかり強調されるが、そして本書の訳業が完成したのも、そういった日本側の関心からであろうが、ザビエルの生涯と布教は、インドでありマレー海域であり南シナ海であり東シナ海であったのだ。

そして、書簡の言語はごく少々のラテン語を除いてスペイン語(イスパニア語)とポルトガル語である。
つまりフランス語でもイタリア語(というのが当時確立していなかっただろうが)でもない。当然、フランシスコの母語であるバスク語ではない。
なお、フランシスコの両親は純粋なバスク人で、幼児からバスク語に親しんだと、解説にあり。この点は疑いの余地がないだろう。

1541年4月7日リスボン出航、最初の書簡はモザンビークから1542年1月1日、9ヶ月近く経っている。ここから第2章が始まる。
(以下、時間がないので中断)

『旅行人』No.159 創刊20周年記念号

2008-12-16 19:49:51 | その他;雑文やメモ
この雑誌にはほんとうに世話になった。(なった、と過去形で書いたが、現在も定期購読しておりますので)
だいたい、このわたしのブログで紹介している本も大半は『旅行人』を通じて知ったもので、二番煎じの内容であります。

本号では創刊20周年ということで、有限会社旅行人の設立、「旅行人ノート」シリーズの発行、年10回発行から季刊になり、とうとう年2回の発行になるまでの経緯が編集長兼社長の蔵前さんの思い出として述べられている。

わたしがこの雑誌に魅かれたのは、バックパッカー流の旅行を扱っている、というのではない、それよりも雑誌の作り方ではないか、と自分で分析している。
この雑誌は、『本の雑誌』のような、しろうとっぽい手触りと同時にプロ的な雑誌作り、『シティ・ロード』のような自分たちが関心を持っていることを自分たち流に伝えようという意気込み、『ミュージック・マガジン』のような第三世界を見る(聴く)という世界観、『ぱふ』や『だっくす』のようなサブカルチャー的雰囲気(その後の言葉でいえばオタクか)、そんな編集方針がわたしの好みとマッチしたんだと、今思っている。

もっとも、蔵前編集長はどんどん専門的執筆者も起用していて、『季刊民族学』や『月刊たくさんのふしぎ』や『しにか』のような方向もあるし、現代書館か明石書店かという傾向もあるし、オカルト系やトンデモ系の話題もある。べ平連と海外青年協力隊と『リボン』が雑居している状態。こういう全方向的なところが『旅行人』の強さだろう。

今号の回想や分析の中で、前川健一さんと田中真知さんの、インターネットが変える旅行形態の話が気になった。
前川さんの、〈日本人はアメリカ化している〉という指摘。これは、旅行経験の少ないわたしでさえ感じていたことだ。アメリカ人は団体でばかり行動していて、外国語が不得意で、現地の文化に馴染まず、自分の狭い世界にしか興味がない。今や日本人もめでたくアメリカ化して、内に引きこもっている、と前川さんは皮肉っている。

また、田中真知さんは、あらゆる情報がウェブで入手できる現在、旅行も不確定要素をゼロに近づけ、効率よく予定どおりのスケデュールを消化する形態になりつつある、といういやな予想をしている。

うーむ。みなさん、こんな時期こそ未知の世界に旅立とうではないか!若いもんはほっとけ。中年・老年諸君、むかしに比べれば、はるかに旅行しやすくなった。失業と老親介護を乗り越えて、旅に出よう……、、(いまいち、説得力がないか……)

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ところで、ついでに話題にするような話ではないが、蔵前編集長が参考にしたという『本の雑誌』であるが、最新号2009年1年号で、経営が危機に瀕しているという事実が、編集者と発行人によって知らされている。

えー!?意外だ!!
『本の雑誌』は、宮田珠己や高野秀行といった強力執筆人をスカウトし、鏡明や青山南といった巨匠クラスのレギュラーがいて、さらに柳生毅一郎や穂村弘という他誌がうらやむ人材を持っているんじゃないか?(この号の三角窓口(投稿欄)では読者として、渡辺武信が投稿している!なんと贅沢な!!)

信じられない。これほど豪華な雑誌なら、年収1000万クラスの人がみんな購読しているだろうし、そのクラスの人は不景気の影響もないだろうから、安泰なんじゃないかと思っていたのだが……

もちろん実態は、大多数の読者は50代40台のつつましい人であって、インターネットやなんかの影響で、雑誌を購入する小遣いが減っているんだろうな。

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このブログのタイトルどおり、わたしは東南アジア方面に魅かれた、というより、忙しい家族関係や仕事の上で、東南アジア以外に行ける場所がないという、現実的な拘束があった、ある、のである。

一度、西アフリカ旅行をシュミレーションしてみたことがある。
しかし、あまりにハードルが高い。
もしもの時の医療、日本に緊急に帰らねばならなくなったときの帰路、連絡方法、現金や両替の問題など、うんざりするような問題がある。
重大なトラブルがないとしても、航空運賃、予防接種、ビザなどめんどうで金がかかる準備がいる。
さらに、フランス語を覚えて、単調な食事に耐えて、蚊帳を背負って、などと考えると、うんざりして諦めた。
何も知らないうちに旅立てば、意外とすんなり行けたかもしれないが。
死ぬ前に一度、というのも、実際に病気で死ぬ場面になったら旅行どころじゃない、ってことも解ってしまったしなあ……。

岩田慶治,『東南アジアのこころ』,アジア経済研究所,1969

2008-12-16 19:02:36 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項に続き、これも著者のタイとラオスでのフィールド・ワークを紹介したもの。
調査地域がすごいんですよ。
北ラオス・ルアンナムター、ヴァンヴィアン(ヴァンヴィエン、バンビエン、ワンウィエンと表記される。)の近くのパ・タン村で、今、バックパッカーの巣窟と化した地域のすぐ近くなのだ。
そこで50年くらい前に滞在調査し、その後1968年に再訪した時の話が最初に語らえる。
なんと、この時は政府とパテト・ラオ派の抗争の真最中で、アメリカ軍も駐留していたのである。
ルアン・ナムター方面に行く方、ぜひとも一読を!

そして、本書の残り三分の二は、東北タイのドン・レーク(ダンレック)山脈北側とナム・ムーン(ムン川)にはさまれた地域、スリン県のプルアン村周辺の記録である。

前項『日本文化のふるさと――東南アジアの民族を訪ねて』よりも、日常生活、現在の収入や将来のこと、現実の問題などが扱われる。つまり、来世がどうの精霊がどうのという話は少ないので、その方面が苦手な者でも読める。

当然、著者の見方の中で、現在の研究水準からみておかしい部分もあると思う。たとえば、わたしが気になったのは、村人へ将来設計のことを質問するやりかた。これは、どうも純粋学問的にみると、誘導尋問のようなもので、危ないのではないだろうか。ただし、この部分も過去の記録としてはおもしろい。
民族とは何かとか、ラオ人とクメール人の過去の移動・移住、ラオ人とクメール人の違いといった話題も、分析が荒っぽいように思える。

以上、批判がましいことも書いたが、本書が書かれてから40年、調査時期からみれば50年近くが経過しているので、こういう時代もあったのか、と驚く貴重な記録である。
前項と同じく、
岩田慶治著作集第1巻『日本文化の源流 比較民族学の試み』,1995,講談社
に収録。