東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

小泉潤二 編訳,ギアツ,『解釈人類学と反=反相対主義』,みすず書房,2002

2009-03-31 22:36:48 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項の小田実の著作にもあるように、1960年代のUSAでは政府やナントカ財団が補助金をだして、やっきになって東南アジア・東アジアの研究者を育成していた。当然ながら、ひも付き研究に縛られ、糞論文を量産しているだけの研究者もいたわけだ。
同じく小田実の本にある例。普通の人間が教師としてふるまい、生徒の能率をあげさせる、という実験をイェール大学でやった。実は人間が(戦場で大義名分があれば)どれだけ残酷になれるかという実験なのだが、そんな心理学の実験に援助金がでていたわけである。

一方で、小田実の友人のような反体制派の学者も、ワイフがパートで稼いでる間に亭主が博士論文制作をして、MDだのPh.Dを得るというパターンがあったそうだ。電話帳のような本をひたすら大量に読んで、論文をでかすのである。

政府や軍部やナントカ財団の欲しい結果というのは、ぶっちゃけて言えば次のようなことである。

あの残忍で不合理な日本人でさえ、われわれが教えてやった民主主義を覚えて、立派に経済成長をなしとげているではないか。
それなのに、ベトナム人はなぜ、あのような無駄な抵抗をするのだ。やつらは、どういう背景があって、あのように無意味で不合理な戦争を続けるのだ?
あるいは、インドネシア人は、なぜああも、非能率で非合理な社会を持つにいたったのか。どうすれば、あんな迷信じみた遅れた社会を改良できるのだ。

誰か教えてくれよ。若いやつらを研究者に育てあげろ。
マニュアルどおり調査すれば、結果がどんどん生まれる体制を作れ。

というわけで、哲学と文学をいなかの大学で学んだクリフォード・ギアツも、マーガレット・ミードにほとんど命令されて人類学の道にすすんだそうだ。

しかし、ギアツという人物は、ミードやベイトソンのようなアメリカ人類学界の主流にはならなかった。そして、東南アジア研究の分野でも主流からはずれていた。
第2章に本人が書いているところによれば、アメリカではコーネル大学だけが突出していて、ほかのミシガン大学やウィスコンシン大学には、対抗できるプログラムがない状況であるそうだ。

*****

難解なことで有名なクリフォード・ギアツであるそうだが、本書は、編訳者・小泉潤二の解説にも助けられ、原文が講演記録であるということもあり、まあ、理解できないこともない。

少なくとも、農業インボリューションをめぐる論争に関してはわかった。
ギアツは自分の論文はの批判にはほとんど応えない人であるそうだが、農業インボリューション論争についてはめずらしく反論を書いた。
つまりだ、

論争参加者のほとんどは、ギアツの論文を以下のように捉えた。
ジャワ島は地球上まれにみる人口稠密な農村である。耕地が細分化され、資本主義の発達に必要とされる農村内での資本蓄積が生じなかった。そのため、市場経済にテイク・オフできない。どこまでも貧しさを微調整するだけの、内向きの発達(インボリューション、本書の訳語では〈内旋〉とする)が進行した。
これは、近代的な市場経済へすすむ障害である。
いや、ジャワ島でも農村の資本蓄積はすすんだ。階級分化もあった。
これは19世紀に起こった、オランダの政策が悪い。いや、それ以前からだ。

以上のような論争に対し、ギアツの異議申し立ては、次のようなものだ。

しろうとの読者からみてわかりにくいのが、ギアツの、つまり本書の中の〈脱経済主義〉という用語。
経済主義というのは、経済を大きな文化というか、社会全体のいとなみの外側に置く分析方法である。つまり、社会全体、文化全体を規定する変数として、経済というものがある。
ギアツが反論するのは、そのように経済を文化全体、社会から切り離した要素として説明してはダメだということ。「経済行為」とみられるもの、研究者が分析するものも、文化全体の中で他から分離できないものである、ということ。

つまり、ジャワが近代的市場経済に(日本のように)テイク・オフできない、しないことの説明として、経済行為だけを切り離して、変数として、要素として、分析しても意味ない、とギアツはいいたいわけだ。

もっとつっこんだ論議として、マックス・ウェーバーやカール・ポランニーらの理論の影響を受けているようだが、詳しくはわからん。ここでストップ。

*****

『ヌガラ ━ 十九世紀バリの劇場国家』はさらに問題が複雑。おちらは、経済を外在化する方法への批判ではなく、文化を外在化する方法を批判しているようだ。

ギアツの問題提起まではわかる。
国家が行う儀礼については、(編訳者、小泉のサマリーによって)、以下のような分析、理由付けがある。

1.「大野獣敵国家観」においては、儀礼とは民衆に暴力装置を誇示し、威嚇するためにある。まあ、軍隊のパレードのようなもの。

2. その反対に「大欺瞞的国家観」、国家は民衆を搾取する政治イデオロギー装置であると捉える視点。その国家観では、儀礼は支配者による民衆の搾取を隠蔽するための装置として捉えられる。

3.ポピュリズム的国家観では、儀式は民衆の意思の崇高さを賛美する道具となる。

4.政府とは、あらかじめ決められた合法的なゲームの規則によって、限界効用的利益を追求するものと捉える国家観(多元的国家観)においては、儀礼はゲームの規則を既定であるかのように見せかける役割をおう。

以上、4つの国家観のどれもが文化を外在化して捉えている。しかし、ギアツの主張するところによれば、このような見方ではヌガラ国家(=バリの国家)のもっとも興味深いところをわれわれの視野の外に逃すことになってしまう。

では、どういう見方をすればいいのかは『ヌガラ バリの劇場国家』を読まなくてはわからないだろうが、本稿でだいたいの方向はわかった。

小田実,『義務としての旅』,岩波新書,1967

2009-03-31 22:36:32 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
初出は『世界』1966年4月から翌67年3月号まで。6回分の記事に加筆。
1965年9月からアメリカ合衆国、ソ連、ヨーロッパ、インドをまわった記録。というよりベトナム反戦運動をめぐる話である。

小田実はミシガン大学図書館で、21年前のニューヨーク・タイムズのマイクロフィルムを見る。隣では女子学生がクロサワの映画についてマイクロフィルムを見てレポートの準備をしているようだった。
21年前の記事には、OSAKAの空襲記事が載っていた。その記事で小田実は初めて、自分が防空壕に逃げ込んだり、真っ暗な炎と煙の中で右往左往した空襲のアメリカ側の記事を読む。

「日本帝国の中心地は、今や一つ一つ、焼夷弾、爆弾によって破壊されて行く。人口稠密で燃えやすい工業都市は ━ OSAKAはそのなかで最大の都市だ ━、わが超空の要塞が工場と労働者住宅にむけて何千トン、何万トンと投下しつつあるジェリー状ガソリン(これは現在ベトナムで使われているナパーム爆弾の原型である ━ 筆者注)の完璧な目標である。」

しかし、それ以上におどろくべきは、新聞自体の量である。平日で32ページ、日曜には『ブック・レビュー』と『サンデー・タイムズ』の付録がつく。
「おれの国では…… そのころ、新聞はタブロイド版一枚だった。」
彼は図書館でマイクロ・フィルム閲覧の便宜をはかってくれたアメリカ人学者に言う。しかし、その学者には小田実の言いたいことが伝わっていないようだ。

で、その学者というのが、ミシガン大学のマーシャル・サーリンズ(「サリンズ」と表記)なのだ!

サーリンズはベトナム反戦運動の創始者のひとり。「ティーチ・イン」ってものを開始したメンバーのひとりであったそうだ。
そのサーリンズにしても、8月15日の記憶はない。8月11日付ニューヨーク・タイムズに、日本が降伏受諾したという記事がある。それでは8月14日におれが逃げまわった空襲はなんだったんだ。
……というのが、小田実の基本姿勢、当時のキザなことばを使えば原点である。

*****

1967年発売の本書を中学2年のわたしが知っていたわけがない。理由はきわめて単純で岩波新書を置いてある書店なんてなかったから。
もちろん小田実の名もしらなかったし、〈まこと〉という読み方を知ったのはさらに後。
当然、マーシャル・サーリンズなんて知るよしもない。

本書もその後に読んだことがあるのかないのか記憶がない。あったとしても、すでにベトナム戦争は話題になっていない頃だろう。

インターネット上のプチウヨの間では、小田実というのはボケた左翼の遺物のように扱われているが、わたしの年代では、ちょっと違うのだな。
まず、左翼とか知識人とかという偉い感じがしなかった。若い連中の間でも、この小田実というヤツは、威勢のいいことばかりいうヤツ、同じようなことばかり繰り返して言うヤツ、という印象。理論的な左翼や運動家ではなく、こんなバカがひとりやふたりいなきゃ世間の目は覚めぬ、というようなムードの人物であった。
べ平連運動は、緻密な理論家から実務に長けた運動家、爆弾作ってテロに走ったこともある、というタイプまでいろいろな経歴の人物の集まりであったようだが、小田実は、おっちょこちょいの宣伝塔という役割。アジテーション係だ。

とはいうものの、現在読みかえしてわかるのは、エネルギッシュに飛びまわり、じつに熱のはいった読み手を魅了する文章をものにし(ワープロのない時代によくまあ、こんな流れるようなシャベクリ文を書けたものだ)、おもしろい話を書く人だってこと。

たとえば、(p90-95)

ジュネーブでの世界平和評議会(1966年)でのこと。
中ソ対立のまっただなか。
キューバの代表が自分たちの数少ない味方であるソ連を弁護し、中国を激烈に非難する。会場はキューバ代表の演説に沸き、拍手の渦。
あれでは中国はますます硬化する、いや、中国こそは……とさかんに議論をよぶ。

しかし、小田実がここで読者に訴えるのは、中ソ対立のことではない。
キューバ代表の後、プエリト・リコ代表が、アメリカ帝国主義の悪業を真正面から受けている状況を語るが……誰も関心がない。
みんな、ソ連・中国・キューバというホットな話題には盛り上がるが、プエルト・リコなんか知らない。

なんて不公平な関心の持たれかただ。
モザンビークとポルトガルのことも、ギリシャのことも、誰も知らない、知らないふりをする。
やはり、アメリカ合衆国なのだ。世界中が関心を持つのは。

今から思うと、小田実ばかりではないのだが、彼らべ平連周辺の書き手はアメリカ合衆国の多様性、最悪の部分と最良の部分を伝えてくれたのではないか、ということ。
本書にも、キング牧師やマルコムX、公民権運動、ビートニクス、第二次世界大戦中のことなど、アメリカ合衆国を理解するキーポイントがちりばめられている。
つまり、われわれの世代がアメリカを知ったのは、ベトナム戦争を通じてであったのだ。
結果的に、アメリカ合衆国のことは矛盾する要素や混乱も含めて知ることができた。

そして、当然ながら、ベトナムのことはまったく知りませんでした。

リン・L・メリル,『博物学のロマンス』,国文社,2004

2009-03-14 20:55:53 | フィクション・ファンタジー
大橋洋一・照屋由佳・原田祐貨 訳
原書 Lynn L. Merril, "The Romance of Victorian Natural History", 1989

参考文献にあげられている
リン・バーバー,高山宏 訳,『博物学の黄金時代』,1995,国書刊行会
D.E.アレン, 阿部治 訳,『ナチュラリストの誕生』,1990,平凡社

以上の2冊も内容・翻訳がすばらしいが、本書も内容・翻訳ともにすばらしい。
値段も上記の本同様に高いが。

内容もいいが、索引と文献リストもいい。
すべて原綴り、発行年が明記されている。ちょっと前まで、こんな文献表は専門家でないかぎり意味がなかったが、ここにきて、Google Book Search のおかげで、ほとんどの19世紀文献が読めて、見られるようになった。つまり、テキストも画像もタダで手にはいる。その気になれば印刷もできる。

なんという世の中だ。
ちなみに、本書のタイトルの由来となった
Philip Henry Gosse " Romance of Natural History "
をNACSIS Webcat で検索すると日本全国の大学・研究所で所蔵が確認されるのは2か所だけである。
悪名高い "Omphalos" にしても、リプリント版が5か所のみ。
進化論論争の本に必ずでてくる『オンパロス』(英語読みで「アムファラス」と表記される場合もあり)が日本全国で五つか。
もちろん、翻訳なんかない。

悪名高いと書いたが、このフィリップ・ゴスという人物は博物学の分野の著作が多数あり、影響も絶大な人物であった。それが、トンデモ進化論を書いたため、後の世ではほとんど無視されてしまったわけ。

本書は、19世紀の文学・美術の流れの中に、博物学を正当に位置づけようとしたもの。
経済史、植民地経営の面でも博物学は重要なテーマであるが、本書は文学・美術や大衆文化方面に話題をしぼる。

と、硬いことをいうまでもなく、ばつぐんにおもしろい。リン・バーバーや荒俣宏の本と同じくらいおもしろい。

*****

Google Book Search に関してはちょっと見当ちがいの反応があるのではないか。
著作権うんぬんに関しては、現在執筆中の著者に関してはあまり影響はないでしょう。あったとしても、著者にとってプラスの要素も多いだろう。

本当に恐ろしいのは、上記のような英語圏の文献が大量に世界中で読めるようになったこと。
これこそ、知の不均衡である。
そして、このわたしのように、さっそく喜んで使うバカがいるのである。
しかし、このわたしのような態度こそ、規制できなしコントロールできないものなのでしょう。

これに対抗するには、日本であれ中国であれ、ちゃんと過去のテキストをウェブにあげればいいのだ。しかし経費が膨大で政府も民間企業もやってくれない。(現在、スニップ・ヴューができるのは、もともと電子化データがある最近のものだけ。)

*****

関連する話として、
佐藤卓己,「メディア史の可能性」,『図書』2009年3月号所収
がある。
これは、岩波書店が刊行中の『占領期雑誌資料大系』にかんしてのエッセーだが、そのなかで、佐藤卓己は、日本の図書館・資料館には、プランゲ文庫に所蔵されているような資料が決定的に不足していると述べている。
覆刻・復刊された左翼系機関紙に比べ、右翼団体や新宗教関連の雑誌の所蔵先を確認することは難しい、と述べている。つまり、所蔵されていないってことだ。
日本で発行された文献がこのありさまなのである。

どうするニッポン?
海外で日本を研究する者が、日本ではなくアメリカ合衆国に行くようになったらどうするのだ。
日本政府も日本文献をどんどん電子化しないと、鎖国状態になるぞ。


池内了,『疑似科学入門』,岩波新書,2008

2009-03-14 20:34:46 | フィクション・ファンタジー
このテーマの本はかなり読んでいるが、疑似科学を撲滅するという目的から読めば、本書も完全に無力である。
だいたい、疑似科学にひっかかる人は岩波新書なんて読まない。
本書を手にとる人の大部分は、自分は大丈夫、しかし他人が疑似科学を信じたり広めたりするのは不愉快、という立場だろう。

しかし、本書の中で著者も吐露しているように、いくら軽蔑しても批判しても、疑似科学を悪用した商売や犯罪はなくなるものではない。われわれは、疑似科学と共存していかなくてはならない。これが人間社会で生きることだ。

そもそも、擬似科学を使って他人を騙すことは悪いことなのか。また、騙されることは愚かなことなのか。
このへん、それこそ本物の科学の立場で論じてもらいたいのだが、人間の行動(本能とか進化という言葉を使いたいが、それを使うとそれこそ疑似科学になってしまう。)に本質的に付随するものではないか?

本書の中で、インターネットの普及により疑似科学が広まるとする分析がある。
ブログも批判されている。この部分、「検証しないで一方的に断じることができ、他人を意識せずに自己陶酔に浸ることもできる」(p104)という指摘は、まったくそのとおりであって、耳が痛い。
ただ、印刷メディアでも放送でもなんでもそうだが、新しいメディアの普及はいっそう迷信や独断をひろめるものではないでしょうか。インターネットだけが、疑似科学や迷信を広めているわけではない。

と、いうより、マスメディアや通信技術が発達すればするほど、トンデモもオカルトも興隆するのではないでしょうか。

前項、インディアスにおける新大陸のインディオとヨーロッパ人の遭遇をみると、妄想やオカルトを拡大したのが、文字をもち、印刷や通信の技術があるヨーロッパ
側である。
その妄想・オカルトから後の自然科学も生まれたのであって、上澄みである科学だけをすくいとって、その土台である、一攫千金を夢見る物欲、他人を指導したがる征服欲、オカルトから自分探しまでの精神世界、などなどをなくすことは不可能であると思う。

長南実 訳,『ラス・カサス インディアス史 1』,岩波書店,1981

2009-03-07 20:07:52 | 翻訳史料をよむ
増田義郎 注・解説、「大航海時代叢書 第二期 21
近く(2009年3月)文庫になるようなので、読んでいないがコメント
最初に引用

その原則とはすなわち、われわれ自身が他の人たちからしてもらいたいと望むとおりのことを、われわれは彼ら未信者たちに対してなすべきであり、またわれわれはいかなる所へ入って行くにせよ、まず最初にこちらから示すべき態度は、言葉と行為による平和であらねばならぬ、ということなのである。この点については、相手がインディオであろうと異教徒であろうと、ギリシア人であろうと異邦人であろうと、なんらの差別もあってはならない。なぜならば、ただ御一人の主だけが人間全体の主であられ、人間全体のために区別なく死に給うたのだからである。

おお、まともなこと言ってるじゃないか。しかし……

この文章が出てくるのが、本書・大航海時代叢書版で183ページ。たいていの読者は、ここまで辿りつくまでに、へたばっている。
その前まで延々と、フラヴィウス・ヨセフスから始まって、アリストテレスだのプトレマイオスだの、ローマのアウグスティヌスだのキケロだの、アヴィケンナ(イブン・シーナー)だのを引用して、インディアスを、つまりスペイン人たちが新たに到着した地について、過去の哲人たちがどう考察しているか、人間が住んでいるか、人間が住めるか、などという話題を続ける。

現代人にはとうていはかりがたい世界観が示され、著者ラス・カサスの博識が誇示される。
この後、本巻の主題であるコロン(コロンブス)のインディアス到達の過程が記されるわけだが、最初の壁にぶつかって、後の叙述までついていけない。
だいたい、この第1巻だけで680ページ。注は最小限なので、ほとんど本文と思ってよい。翻訳では、最初の予定の全4巻が最終的に全5巻となる。よくまあ、こんな長いものを書けたもんである。

この最初の150ページほどの部分が、当時のスペイン人、キリスト教徒の世界観の代表であろうし、山本義隆『十六世紀文化革命』などの視点から歴史を見たい方には、格好の材料である。(と、思う、読んでないので自信がないが)

大航海時代叢書のほかの巻を開いてみた方はごぞんじだろうが、この種のながったらしい叙述、創世記から始まったり、ギリシアの時代から始まるのは、ある種のハッタリだと思ってよい。
特に本書はラス・カサスが論陣をはって、敵を説き伏せる目的があるのだから、ハッタリも大きくなくてはならない。

最初に引用したように、インディオも人間であり、保護しなくてはならない、という強烈な使命感にささえられており、コロンの航海の記録もその傍証として描かれるわけである。
しかし長い。この巻だけで、コロンの航海の説明に終わっている。

ラス・カサスの執筆は1526年から25年間もかけたそうだ。その間、インディアスの破壊はすすみ、インディオはほぼ無抵抗で倒れていく。

しかし、大航海時代叢書全体からみると、ここに描かれるように、弱く、善良で、自然の中で平和に暮らし、スペイン人征服者になすすべもなく死んでいくインディオ、というのは、ここアメリカ大陸だけであった。
目をインド洋・アジア方面に向けると、とうてい善良で無垢のインディオとはいいがたい、こずるい商人だの、暴虐なスルタンだの、融通のきかない官僚だの、理屈をこねるボーズだの、凶暴な海賊だのがあふれていて、とても悠長に論じてはいられなかった。

彼らヨーロッパのキリスト教徒が遭遇したのは、西ではバタバタと死んでいく無垢のインディオであり、東では逆に、無知蒙昧なキリスト教徒には想像もできない多様な文化と高度の生産力と強力な武力を持ったアジアの人間であった。

本書インディアス史は、ヨーロッパ人の思考の転換を見るには最適かもしれないが、地球全体がこのラス・カサスの考えるほど、ヨーロッパ人の思うようにはならなかった、ということに留意すべし。
つまり、暴虐な征服者になすすべもなく殺されていっただけではないし、また、その反対に慈悲深い布教者に保護されるだけの弱者でもなかった。と、いうこと。

あと、これは、日本人読者にはあまりいないと思うが、本書を読んで、スペイン人は残虐で無慈悲で無計画であったが、スペイン人に対抗したオランダ人やブリテン人は、合理的で道義的で、奴隷制も廃止したんだぞー、という読み方をする人がいるらしい。
まさか日本人でこんなふうにかんちがいする人はいないと思うが、英語圏ではけっこう多いらしいので注意。

染田秀藤 訳,ラス・カサス 『インディオは人間か』,岩波書店,1995

2009-03-07 20:00:53 | 翻訳史料をよむ
いろいろな意味でやっかいな本。まず、訳者のあとがきから、

これまで本アンソロジーを読み進んでこられた方なら、クロニカと総称されるインディアス関係の記録文書の多くが、「読者を楽しませ、満足させるために、話すに値すること、記憶されるべきこと、書き残す価値があること」を選りすぐってテキスト化されたものであるのを知っておられるはずである。しかし、ラス・カサス自らが『文明史』冒頭に付した「梗概」に見るように、彼の目的は決して、「読者を楽しませ、満足させる」ことではなく、神を畏れぬ一部の人たちの謂れなき誹謗・中傷に晒されたインディアスの住民、つまりインディオたちの「尊厳と名誉」を守ることだった。したがって、『文明史』は、ペドロ・マルティルの『十巻の書』、オビエードの『インディアスの博物誌ならびに征服史』、シエサ・デ・レオンの『ペルー誌』やアコスタの『新大陸自然文化史』などと異なり、当時の旧世界を覆っていたインディオやその文明に対する無知蒙昧な認識に挑戦する「論争の書」として構想されたのである。

と訳者・染田秀藤は述べる。

ふーん。
ラス・カサスという人物は、カトリック・キリスト教世界(以下めんどくさいから、ヨーロッパとする)の認識を覆した人物、インディオも人間である、と宣言し、論争し、証明しようとした人物である。
こんにちの比較民族学の先駆者、解放の神学派の元祖、とも称えられる。

一方で、単なる誇大妄想、キ印、とも評価され、激しく罵倒されてもいる、そうだ。

批判・罵倒されるのは、スペイン政府そのほかヨーロッパからの征服者・聖職者を非難した、という当時の理由ばかりではない。
アフリカ人を新大陸に奴隷として移入するきっかけを作ったという批判もあるが、今はこの点にこだわらない。
以上の理由もあるだろうが、もっと本質的な理由もあるようだ。

まず、本質的な理由とはいえないが、文章が退屈で、もったいぶっているし、繰りかえしが多く、読むのがつらい。
事実、本書の底本になっている『インディアス文明史』は、ほとんど読まれていない書物であるそうで、20世紀にはいって何度か再評価があったものの、少数の研究者のあいだで評価されているようだ。

ページを開いてみると、理由がわかる。

彼、ラス・カサスの論理は以下のようなものだ。

インディオはけっして野蛮でもないし、理性のない動物でもない。
なぜなら、彼らの慣習や儀式は、古代ギリシャ・ローマ・ユダヤにもあったもので、理性のある人間であるのはヨーロッパ人とかわらない。
だから、彼らインディオも立派なクリスチャンになるはずだ。

大雑把にまとめると、こんな具合である。

そして、ラス・カサスが論議の根拠とするのは、アリストテレス、トマス・アクィナスなど古代・中世の哲人・神学者、古代ユダヤやローマの歴史である。
インディオの習俗や儀礼が一見、野蛮で残酷におもえようとも、それは古代ローマやギリシャ、あるいはユダヤの儀礼に比べ、無知や残虐性によるものではない。

と言われても、うれしくないよな。

たしかに、インディオも人間であると宣言した点は画期的であったかもしれないが、同時に後々まで尾を引く錯誤や差別の出発点にもなった、としか読めない。

もちろんラス・カサスは歴史的に重要な人物であり、著作は重要な書物である。現在の視点、現在の常識で判断しても意味ない。現在の常識で判断してはいけないのは当然だ。
そのラス・カサスと同じく、450年もたってみれば、ラス・カサスの論敵であった征服者やクロニスタも同様に歴史的資料として価値があるのではないか。
また征服者やクロニスタと同様に、ラス・カサスにも妄想一直線の気性があるのではないか。

はっきりいって、本書に書かれている内容は、現在なら、妄想と錯誤、狭い視野と貧しい知識の産物、偏見と差別の温床と読まれてもしょうがないのではないか。
だから、影響の大きさを無視するべきではないが、良いとか悪いとか判断するのはむだだろう。

しかし!

どうも、この〈アンソロジー 新世界の挑戦〉の編集者であり企画者である石原保徳は、ラス・カサスの主張と背景を忠実に追うことをめざしているようだ。

このアンソロジーは、ラス・カサスの主著『インディアス史』の抄訳を2冊、本書『インディオは人間か』は『インディアス文明史』の抄訳、計3冊のラス・カサスの間に、彼の論敵ある戦士、クロニスタ(歴史家)、ウマニスタ(哲学者)の論を7冊配置したもの。←まちがい、10冊+ラス・カサス3冊で、計13冊
たしかに、ラス・カサスを中心とする論争の背景を知るには適切ではある。
適切ではあるが、編者のリードどおりの読解を読者におしつける、はなはだ狭い読書を要求するアンソロジーになってしまったのではないか。

石原保徳氏は、「大航海時代叢書」の編集者であり、ラス・カサス論の著作もあり、さらに、最近は「シリーズ 世界周航記」全9巻の企画も担当している。
たいへんありがたい。
なんせこちらは、これらのシリーズで訳出されているものは、翻訳がないとまったく読めないのだから。

しかし、わからんのは、すでに増田義郎訳があるのに原田範行の新訳、フォルスターはドイツ語からの訳があるのに英語版からの新訳を出すなど、ただでさえ読者・購入者が限られているのに、ましておなじ岩波書店から出しているのに、なんでダブってシリーズに含めるのか、意図がいまひとつわからない。

ひょっとして、ほかの翻訳者と仲が悪いのか?

*****

本シリーズも長南実、清水憲男、そして本書の染田秀藤など、優秀な方々が長期間かけて訳した労作なのに、読者に狭い読み方を強いているように思われるのだが。

ちなみに個人的な思い出として、清水憲男先生はラジオのスペイン語講座を聞いていて知っていたが、陽気なセニョリータを相手していた清水先生が、こんな重厚なものを訳す方だとは、ぜんぜん知らなかった。失礼。

*****

書き忘れたが、底本はエドムンド・オゴルマンが編集し、メキシコで1967年に発行された2巻本。